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名古屋地方裁判所 昭和52年(ワ)297号 判決

《目次》

当事者の表示

主文

事実

第一章 当事者の申立

一 請求の趣旨

二 請求の趣旨に対する答弁(被告ら全員)

第二章 当事者の主張

一 原告らの請求原因

1(当事者)

2(原告患児らの大腿四頭筋拘縮症罹患と原告患児らの症状)

3(原告患児らの大腿四頭筋拘縮症罹患の原因)

4(被告らの責任)

A 被告奥田

(一)(予見可能性)

(二)(結果回避義務)

(三)(義務違反)

B 被告グレラン

(一)(注意義務)

(1)(製造販売開始時における注意義務)

(2)(製造販売後の注意義務)

(二)(予見可能性)

(三)(義務違反)

C 被告武田

(一)(注意義務及び予見可能性)

(二)(販売者責任の根拠)

(三)(義務違反)

D 被告国

(一)(安全性確保義務)

(二)(1)(製造許可時における注意義務)

(2)(製造許可後における注意義務)

(3)(医療に関する指示義務)

(三)(予見可能性等)

(四)(1)(製造許可に関する義務違反)

(2)(製造許可後における義務違反)

(3)(医療に関する指示義務違反)

(五)(責任の根拠)

5(共同不法行為)

6(損害)

7(結語)

当事者個人表

二 請求原因に対する被告らの認否

A 被告奥田

B 被告グレラン

C 被告武田

D 被告国

三 被告らの主張

A 被告奥田

1(予見可能性)

2(グレラン注の用法の妥当性)

3(グレラン注の一回量の妥当性)

B 被告グレラン

1(グレラン注の効能等)

2(グレラン注の組織障害性の程度)

3(含有成分の害作用)

4(因果関係と一般的予見可能性)

5(被告奥田のグレラン注使用の異常性と被告グレランの予見可能性)

C 被告武田

1(大腿四頭筋拘縮症の発症の機序及び原因等)

2(予見可能性)

3(被告奥田の診療行為と本症発症の因果関係)

4(筋肉注射剤の筋組織障害性とその警告義務)

5(グレラン注の欠陥性について)

6(医薬品の安全性確保と販売者の責任)

7(原告らの損害論について)

D 被告国

1(医薬品の特質)

2(注射剤とその使用方法)

3(筋肉注射剤の局所障害性と大腿四頭筋拘縮症発症との一般的因果関係)

4(グレラン注と原告患児らの本症罹患との間の個別的因果関係)

5(因果関係の予見可能性)

6(薬事法の製造承認・許可)

7(グレラン注の製造許可)

8(製造承認・許可後の安全対策)

9(添付文書の記載等と国の責任)

10(注射剤使用の一般的原則を著しく逸脱した使用)

11(医師法二四条の二の指示)

四 被告らの主張に対する原告らの反論

第三章 証拠関係《省略》

理由

〔凡例〕

第一章 当事者

第二章 当事者間に争いのない事実

第三章 大腿四頭筋拘縮症の概念及び研究史

一 総説

1(定義)

2(名称)

二 大腿四頭筋拘縮症の病態

1(大腿の筋の構造)

2(類型)

(一)(臨症例)

(二)(診断基準上の病型)

三 大腿四頭筋拘縮症の症状

1(臨床所見)

2(診断)

四 大腿四頭筋拘縮症の報告と研究の歴史

五 研究史の小括

第四章 一般的因果関係

一 総説

二 方法

三 検討(総論)

1(大腿四頭筋部の障害の実態)

(一)(症例・手術所見)

(二)(症例・光顕による病理組織学的所見)

(三)(症例・電顕による病理組織学的所見)

(四)(平林紀夫の所見)

(五)(障害実態についてのまとめ)

2(瘢痕形成に関する一般的検討)

(一)(檜澤一夫の見解)

(二)(石橋貞彦の見解)

(三)(平林紀夫の見解)

(4)(各種成書の記載)

(五)(瘢痕形成についてのまとめ)

3(注射による瘢痕形成の可能性)

(一)(諸研究者の見解)

(二)(文献等)

(三)(注射による瘢痕形成の可能性についてのまとめ)

4(動物実験についての検討)

(一)(動物実験)

(二)(動物実験に対する評価)

(三)(動物実験結果についてのまとめ)

5(本症発症機転についての説明の可能性)

(一)(諸研究者の見解)

(二)(投与後の注射液の帰趨)

(三)(検討)

(四)(説明可能性についてのまとめ)

6(消極的因果関係の検討)

(一)(消極的条件関係)

(二)(他原因についての検討)

(三)(消極的因果関係についてのまとめ)

四 検討(各論)

1(原因となる注射の特定)

(一)(母親等の記憶の信頼性)

(二)(特定の可能性)

(三)(注射特定についてのまとめ)

2(原因となる注射の内容の特定)

(一)(注射針刺入による影響の程度)

(二)(注射剤の種類による影響の程度)

(三)(注射回数または頻度による影響の程度)

(四)(注射量による影響の程度)

(五)(注射内容特定についてのまとめ)

3(体質論等について)

(一)(体質発生要因説)

(二)(ケロイド体質)

(三)(増悪要因論)

五 昭和四九年以降の研究調査等

1(厚生省研究班)

2(日本医師会等)

3(日本小児科学会)

4(日本薬学会等)

5(日本整形外科学会)

6(その他の集団検診等)

六 小括

第五章 原告患児らの症状・注射状況等

一 原告毅

二 原告めぐみ

三 原告武司

四 原告裕一

五 原告隆仁

六 原告守孝

七 原告和樹

八 原告博之

九 原告広志

一〇 原告寿孝

一一 原告正文

第六章 具体的因果関係

一 総説

二 グレラン注との具体的因果関係

1(原因注射となり得る可能性の検討)

(一)(グレラン注の成分)

(二)(グレラン注の組織障害性等)

(三)(レスミンの組織障害性等)

(四)(拘縮発生可能性の比較)

(五)(原因注射となり得る可能性についてのまとめ)

2(府川実験について)

(一)(実験方法の妥当性)

(二)(実験結果の妥当性)

(三)(府川実験についてのまとめ)

3(原因注射剤の特定)

(一)(注射本数からの検討)

(二)(レスミンによる影響の程度)

(三)(久永直見の見解)

4(被右奥田の頻回大量注射について)

5(発症率の問題)

三 小括

第七章 被告らの責任

一 総説

二 責任判断の基準時

1(基準時設定の根拠)

2(各患児についての基準時)

三 注射及びグレラン注について

1(注射の有用性についての一般的検討)

(一)(注射療法の有用性)

(二)(注射剤の通有性としての組織障害性)

2(グレラン注について)

(一)(グレラン注の製造・販売の経緯)

(二)(グレラン注の製造許可)

(三)(グレラン注の有用性)

(1)(一般的検討)

(2)(グレラン注の用途)

(3)(グレラン注の成分の理論上の薬効)

(4)(グレラン注及びその成分の副作用)

(5)(グレラン注の筋肉注射剤型の必要性)

(6)(グレラン注の有用性についてのまとめ)

(四)(グレラン注の欠陥性)

四 被告奥田の責任

1(予見の有無)

2(予見可能性)

(一)(通常の情報経路による予見可能性)

(二)(被告奥田の個人的情報経路による予見可能性)

(1)(大学研究室等への問合せ)

(2)(所属医師会等への問合せ)

(3)(図書館等での資料の調査)

(三)(病理学等の基礎知識からの予見可能性)

(四)(調査義務の履行による予見可能性)

3(結果回避可能性)

4(義務違反)

5(被告奥田の責任についてのまとめ)

五 被告グレラン、同武田及び同国の責任総論

1(被告奥田の診療行為の妥当性)

2(注射剤の組織障害性と支配領域の問題)

3(アミノピリン、ウレタンの副作用の問題)

六 製薬会社の責任総論

1(製薬会社・販売会社の責任)

2(添付文書の記載事項)

七 被告グレランの責任

1(被告グレランの地位)

2(被告グレランの一般的注意義務)

(一)(製造開始に際しての注意義務)

(二)(製造開始後の注意義務)

3(予見可能性)

(一)(予見の対象)

(二)(研究能力)

(三)(収集可能な情報)

(四)(一般的病理学的知見からの予見)

(五)(調査研究義務の履行による予見可能性)

4(結果回避可能性)

(一)(結果回避の方法)

(二)(回避措置をとるべき要急性)

(三)(指示・警告をすべき時期)

5(義務違反)

(一)(調査研究義務)

(二)(指示・警告義務)

6(被告グレランの責任についてのまとめ)

八 被告武田の責任

1(総説)

(一)(被告武田の地位)

(二)(被告武田によるグレラン注の販売)

(三)(グレラン注と被告武田に対する信頼)

2(被告武田の一般的注意義務)

(一)(注意義務の内容)

(二)(注意義務の程度)

3(予見可能性)

(一)(文献に接触する可能性)

(二)(一般的な病理学的知見からの推論)

(1)(新谷茂らの報告)

(2)(荒蒔義知らの報告)

(3)(美間博之らの報告)

(4)(新谷茂らの報告)

(5)(青木勝夫らの報告)

(6)(外国文献)

(三)(販売促進要員からの情報)

(四)(調査研究義務の履行による予見可能性)

4(結果回避可能性)

(一)(結果回避の方法)

(二)(結果回避措置をとるべき要急性)

5(義務違反)

(一)(調査研究義務)

(二)(指示・警告義務)

6(被告武田の責任についてのまとめ)

九 被告国の責任

1 総説

(一)(無過失責任の主張について)

(二)(過失の推定の主張について)

2(薬事法上の責任)

(一)(安全性確保義務)

(1)(薬事法の性格及び薬事行政の変遷)

(2)(厚生大臣の行為義務の基礎)

(3)(薬事法上の行為義務)

(4)(条理上の安全性確保義務)

(二)(安全性確保義務の具体的内容)

(三)(製造許可等に際しての注意義務)

(四)(製造許可後の一般的調査並びに見直し規制義務)

(1)(大臣官房統計調査部からの情報)

(2)(薬務局における情報収集)

(3)(医療同好会等からの情報)

(4)(副作用情報システム等からの情報)

(5)(国立病院等からの情報)

(6)(以上のほかの情報提供機関からの情報)

(7)(一般的病理学的知見からの予見)

(五)(薬事法上の責任についてのまとめ)

3(医師法上の責任)

(一)(指示義務の有無)

(二)(指示権行使の要件)

(三)(医師法上の責任についてのまとめ)

4(被告国の責任についてのまとめ)

一〇 共同不法行為

1(レスミンによる影響と責任の範囲の問題)

2(被告奥田、同グレラン、同武田の各責任の関係)

第八章 損害

一 総説

1(本症による被害)

2(制裁的慰謝料の主張について)

3(原告両親らの損害について)

二 具体的損害

1(身体的損害)

2(精神的損害)

三 損害に対する評価

1(参酌すべき事項)

(一)(治癒改善の可能性について)

(二)(ADL障害)

(三)(手術経験)

2(金銭的評価)

四 弁護士費用

五 遅延損害金

六 小括

第九章 結論

注射状況表

(別冊)

文献表Ⅰ〈省略〉

文献表Ⅱ〈省略〉

原告

猪飼毅

右法定代理人親権者父兼原告

猪飼忠男

同親権者母兼原告

猪飼靖子

原告

荻本めぐみ

右法定代理人親権者父兼原告

荻本耕造

同親権者母兼原告

荻本孝子

原告

奥村武司

右法定代理人親権者父兼原告

奥村勝秋

同親権者母兼原告

奥村祐子

原告

北岡裕一

右法定代理人親権者父兼原告

北岡常雄

同親権者母兼原告

北岡里子

原告

内木隆仁

右法定代理人親権者父兼原告

内木時雄

同親権者母兼原告

内木洋子

原告

中村守孝

右法定代理人親権者父兼原告

中村幸雄

同親権者母兼原告

中村玲子

原告

西澤和樹

右法定代理人親権者父兼原告

西澤和夫

同親権者母兼原告

西澤紘子

原告

濱口博之

右法定代理人親権者父兼原告

濱口之

同親権者母兼原告

濱口倭文子

原告

濵嶋広志

右法定代理人親権者父兼原告

濵嶋茂善

同親権者母兼原告

濵嶋成子

原告

福島寿孝

右法定代理人親権者父兼原告

福島耕吉

同親権者母兼原告

福島峯子

原告

諸岡正文

右法定代理人親権者父兼原告

諸岡義雄

同親権者母兼原告

諸岡秋子

原告ら訴訟代理人

稲垣清

加藤良夫

佐藤典子

高山光雄

田中清隆

野田弘明

福島啓氏

水野敏明

水野幹男

被告

右代表者法務大臣

嶋崎均

右指定代理人

林道春

外一二名

被告

武田薬品工業株式会社

右代表者

倉林育四郎

右訴訟代理人

色川幸太郎

横山茂晴

川合孝郎

中島和雄

石井通洋

被告

グレラン製薬株式会社

右代表者

柳沢昭

右訴訟代理人

龍前弘夫

被告

奥田赳

右訴訟代理人

後藤昭樹

太田博之

立岡亘

主文

一  被告奥田赳、同グレラン製薬株式会社及び同武田薬品工業株式会社は、各自、

1  原告猪飼毅及び同濱口博之に対し、各金五五〇万円並びに内金五〇〇万円に対する昭和五九年九月一四日から及び内金五〇万円に対する被告奥田赳については昭和五二年二月二〇日から、同グレラン製薬株式会社、同武田薬品工業株式会社については同年二月二二日から各支払済みに至るまで年五分の割合による金員

2  原告荻本めぐみ及び同西澤和樹に対し、各金六六〇万円並びに内金六〇〇万円に対する昭和五九年九月一四日から及び内金六〇万円に対する被告奥田赳については昭和五二年二月二〇日から、同グレラン製薬株式会社、同武田薬品工業株式会社については同年二月二二日から各支払済みに至るまで年五分の割合による金員

3  原告奥村武司に対し、金七七〇万円並びに内金七〇〇万円に対する昭和五九年九月一四日から及び内金七〇万円に対する被告奥田赳については昭和五二年二月二〇日から、同グレラン製薬株式会社は、同武田薬品工業株式会社については同年二月二二日から各支払済みに至るまで年五分の割合による金員

を支払え。

二  被告グレラン製薬株式会社及び同武田薬品工業株式会社は、各自、

1  原告内木隆仁及び同諸岡正文に対し、各金五五〇万円並びに内金五〇〇万円に対する昭和五九年九月一四日から及び内金五〇万円に対する昭和五二年二月二二日から各支払済みに至るまで年五分の割合による金員

2  原告濵嶋広志及び同福島寿孝に対し、各金六六〇万円並びに内金六〇〇万円に対する昭和五九年九月一四日から及び内金六〇万円に対する昭和五二年二月二二日から各支払済みに至るまで年五分の割合による金員

3  原告北岡裕一に対し、金七七〇万円並びに内金七〇〇万円に対する昭和五九年九月一四日から及び内金七〇万円に対する昭和五二年二月二二日から各支払済みに至るまで年五分の割合による金員

を支払え。

三  原告猪飼毅、同荻本めぐみ、同奥村武司、同西澤和樹及び同濱口博之の被告奥田赳、同武田薬品工業株式会社及び同グレラン製薬株式会社に対するその余の請求、原告北岡裕一、同内木隆仁、同濵嶋広志、同福島寿孝及び同諸岡正文の被告武田薬品工業株式会社及び同グレラン製薬株式会社に対するその余の請求並びに被告奥田赳に対する各請求、原告猪飼毅、同荻本めぐみ、同奥村武司、同北岡裕一、同内木隆仁、同西澤和樹、同濱口博之、同濵嶋広志、同福島寿孝及び同諸岡正文の被告国に対する各請求をいずれも棄却する。

四  原告猪飼忠男、同猪飼靖子、同荻本耕造、同荻本孝子、同奥村勝秋、同奥村祐子、同北岡常雄、同北岡里子、同内木時雄、同内木洋子、同中村守孝、同中村幸雄、同中村玲子、同西澤和夫、同西澤紘子、同濱口之、同濱口倭文子、同濵嶋茂善、同濵嶋成子、同福島耕吉、同福島峯子、同諸岡義雄及び同諸岡秋子の被告国、同武田薬品工業株式会社、同グレラン製薬株式会社及び同奥田赳に対する各請求をいずれも棄却する。

五  訴訟費用中、原告猪飼毅、同荻本めぐみ、同奥村武司、同西澤和樹及び同濱口博之と被告奥田赳との間に生じた分並びに原告猪飼毅、同荻本めぐみ、同奥村武司、同北岡裕一、同内木隆仁、同西澤和樹、同濱口博之、同濵嶋広志、同福島寿孝及び同諸岡正文と被告武田薬品工業株式会社及び同グレラン製薬株式会社との間に生した分は、いずれもこれを四分し、その三を右原告らの負担、その余を右被告らの負担(但し、被告武田薬品工業株式会社と同グレラン製薬株式会社との間では、連帯負担)とし、原告北岡裕一、同内木隆仁、同濵嶋広志、同福島寿孝及び同諸岡正文と被告奥田赳との間で生じた分、原告猪飼毅、同荻本めぐみ、同奥村武司、同北岡裕一、同内木隆仁、同西澤和樹、同濱口博之、同濵嶋広志、同福島寿孝及び同諸岡正文と被告国との間に生じた分並びに原告猪飼忠男、同猪飼靖子、同荻本耕造、同荻本孝子、同奥村勝秋、同奥村祐子、同北岡常雄、同北岡里子、同内木時雄、同内木洋子、同中村守孝、同中村幸雄、同中村玲子、同西澤和夫、同西澤紘子、同濱口之、同濱口倭文子、同濵嶋茂善、同濵嶋成子、同福島耕吉、同福島峯子、同諸岡義雄及び同諸岡秋子と被告国、同武田薬品工業株式会社、同グレラン製薬株式会社及び同奥田赳との間に生じた分は、いずれも右原告らの負担とする。

六  主文第一、二項は、元金及び遅延損害金とも、認容額の三分の二を限度として仮りに執行することができる。

〈編注〉

認容総額 六三八〇万円

最高    七七〇万円

最低    五五〇万円

被告別負担額

武田薬品 六三八〇万円

グレラン 六三八〇万円

奥田医師 三一九〇万円

事実

第一章  当事者の申立

一請求の趣旨

1  被告らは、各自、原告猪飼毅、同荻本めぐみ、同奥村武司、同北岡裕一、同内木隆仁、同中村守孝、同西澤和樹、同濱口博之、同濵嶋広志、同福島寿孝及び同諸岡正文に対し各金三、三〇〇万円、同猪飼忠男、同猪飼靖子、同荻本耕造、同荻本孝子、同奥村勝秋、同奥村祐子、同北岡常雄、同北岡里子、同内木時雄、同内木洋子、同中村幸雄、同中村玲子、同西澤和夫、同西澤紘子、同濱口之、同濱口倭文子、同濵嶋茂善、同濵嶋成子、同福島耕吉、同福島峯子、同諸岡義雄及び同諸岡秋子に対し、各金一六五万円並びに右各金員に対する本件訴状送達の日の翌日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの連帯負担とする。

3  仮執行宣言

二請求の趣旨に対する答弁(被告ら全員)

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

3  担保を条件とする仮執行免脱宣言(但し被告国のみ。)

第二章  当事者の主張

一原告らの請求原因

1  (当事者)

(一)(1) 原告猪飼毅(昭和四四年一二月三〇日生・以下、原告毅という。)、同荻本めぐみ(昭和四四年八月五日生・以下、原告めぐみという。)、同奥村武司(昭和四五年六月三〇日生・以下、原告武司という。)、同北岡裕一(昭和四三年一二月一〇日生・以下、原告裕一という。)、同内木隆仁(昭和四三年一一月二六日生・以下、原告隆仁という。)、同中村守孝(昭和四一年二月二二日生・以下、原告守孝という。)、同西澤和樹(昭和四二年九月一八日生・以下、原告和樹という。)、同濱口博之(昭和四五年四月一四日生・以下、原告博之という。)、同濵嶋広志(昭和四三年八月六日生・以下、原告広志という。)、同福島寿孝(昭和四四年四月二八日生・以下、原告寿孝という。)及び同諸岡正文(昭和四三年一二月二日生・以下、原告正文という。)は、いずれも大腿四頭筋拘縮症に罹患している者である(以下、総称するときは、原告患児らという。)。

(2) 原告猪飼忠男及び同猪飼靖子は同毅の、同荻本耕造及び同荻本孝子は同めぐみの、同奥村勝秋及び同奥村祐子は同武司の、同北岡常雄及び同北岡里子は同裕一の、同内木時雄及び同内木洋子は同隆仁の、同中村幸雄及び同中村玲子は同守孝の、同西澤和夫及び同西澤紘子は同和樹の、同濱口之及び濱口倭文子は同博之の、同濵嶋茂善及び同濵嶋成子は同広志の、同福島耕吉及び同福島峯子は同寿孝の並びに同諸岡義雄及び同諸岡秋子は同正文の各両親である(以下、総称するときは、原告両親らという。)。

(二) 被右奥田赳(以下、被告奥田という。)は、肩書地において奥田小児科・内科医院(以下、奥田医院という。)を開設し、診療行為に従事している医師である。

(三) 被告グレラン製薬株式会社(以下、被告グレランという。)及び同武田薬品工業株式会社(以下、被告武田という。)は、いずれも医薬品の製造販売を目的とする会社であり、被告グレランはグレラン注射液及びグレラン注の品名で注射剤を製造し、被告武田はこれを一括購入のうえ販売してきた。

(四) 被告国は、厚生大臣をして医療・薬事行政を担当させているものであり、厚生大臣は左記のとおり五回にわたり被告グレラン申請の公定書非収載医薬品であるグレラン注射液並びにグレラン注の製造を許可した(但し、表一、二のいずれかと表五は組成分変更による製造許可事項の一部変更である。)。

2  (原告患児らの大腿四頭筋拘縮症罹患と原告患児らの症状)

申請年月日

製造許可年月日

品目

主成分

その他の成分

昭二五・三・四

昭二五・三・一三

グレラン注射液

ピラビタール二〇〇mg

アミノピリン一〇〇mg

ウレタン(量不明)

昭二五・四・一二

昭二五・七・二七

同右

同右

同右

昭二五・六・一五

昭二五・七・二五

同右

同右

同右

昭三三・一二・一七

昭三四・三・二〇

同右

同右

ウレタン二五〇mg

昭三四・九・二六

昭三五・二・一五

グレラン注

同右

ウレタン一五〇mg

サリチルサンアミドO酢酸

ナトリウム三〇〇mg

オキシメタンスルフォン酸

ナトリウム一〇mg

原告患児らは、請求原因末尾に添付の当事者個人表受診年月日欄記載の各年月日に、同表病状欄記載の疾病について、それぞれ被告奥田の診察を受け、同表注射歴欄記載のとおり、同被告から鎮痛解熱用注射剤であるグレラン注を左大腿前面に筋肉注射され、その後、いずれも左大腿が大腿四頭筋拘縮症(以下、適宜本症と略称することがある。)に罹患した。なお、原告患児らの病状の経過等は次のとおりである。

(一) 原告毅

(1) 昭和四八年三月ころ、原告猪飼靖子が毅の走る姿を後から見て不審に思い、同年八月、名古屋市立大学附属病院整形外科で診断を受けさせたところ、大腿四頭筋拘縮症に罹患していることが判明した。毅は、念のため、名古屋大学附属病院でも診察を受けたが、やはり大腿四頭筋拘縮症という診断であつた。そこで、同年一〇月二日、毅は、名古屋大学附属病院で起始部切離の手術を受けた。

(2) 昭和四九年七月、毅は、自主検診医師団(以下、自主検診団という。)の検診を受けた。その際の尻上り角度は九〇度であつたが、その後徐々に悪化し、昭和五六年八月一二日の時点では、尻上り角度五〇度、起立姿勢には異常があり、腰椎前彎が増強し、出尻になり、正座の際にも出尻になり、歩行かけ足とも左足の外分回しがあつた。

(二) 原告めぐみ

(1) 原告荻本孝子は、めぐみが三歳のころ、同人の歩き方ががに股様に見えるので被告奥田に相談したところ、「癖じやないか。」と言われたが、昭和四八年に山梨県における本症集団発生の新聞記事を読み、めぐみの症状が大腿四頭筋拘縮症の症状であることを知つた。そこで、めぐみは、昭和四九年六月二五日、名古屋市立大学附属病院整形外科で診察を受けたが病名は教えられず、その後国立名古屋病院で診察を受けた結果、大腿四頭筋拘縮症罹患の診断を受けた。

(2) めぐみは、昭和四九年七月、自主検診団の診察を受けたが、その際の尻上り角度は四五度であつた。その後、尻上り角度は徐々に悪化し、昭和五六年八月一二日の時点では、尻上り角度三〇度、股関節最大屈曲時の膝関節屈曲制限一五〇度、起立姿勢に異常があり腰椎前彎が増強し出尻、しやがみこみは前傾姿勢となり、正座は膝がそろわず、歩行・かけ足では左足外振出の異常があつた。

(三) 原告武司

(1) 原告奥村祐子は、昭和四八年四月、同奥村勝秋の姉から武司の歩く格好がおかしいとの指摘を受け、病院での受診を勧められたことから、同年四月、近所の江崎整形外科で診察を受けさせたところ「足にも癖があるから気にしなくていい。」と言われたが、不審に思い、同年九月、はちや整形外科で武司に受診させたところ、注射の打ち過ぎによるものであるとの診断を受け、手術を勧められた。そして、翌日、名古屋大学附属病院で受診したところ、同所でも早目に手術を受けるように勧められた。そこで、武司は、同年一〇月一六日、はちや整形外科において直筋筋腹切離の手術を受けた。

(2) 武司は、昭和四九年七月、自主検診団の診察を受けたが、その際の尻上り角度は六五度であつた。その後、尻上り角度は徐々に悪化し、昭和五六年八月一二日の時点では、尻上り角度三五度、起立姿勢には異常があり、腰椎前彎が増強し出尻、しやがみこみでは前傾姿勢で尻がつかないという異常があり、正座では出尻、歩行・かけ足とも左下肢外振出の異常があつた。

(四) 原告裕一

(1) 裕一は、生後六か月の検診で足が硬く曲らないことを指摘され、その後の、一歳一か月ころから歩き出したが左足を円を描くようにする異常があつたことから、原告北岡里子は、すぐに名古屋市立大学附属病院整形外科で裕一を受診させたところ、大腿部の筋肉が硬くなつていたことから、マッサージを指示された。そこで、裕一は、同病院で約半年、その後、米田整形外科で約一年間マッサージを受ける等の治療を受けたが効果があがらなかつた。そして、昭和四七年四月、名古屋市立大学附属病院から再度受診するよう連絡があつたため、裕一は、同所で診察を受けたところ、早期手術を勧められ、昭和四七年五月、同所で起始部切離の手術を受けた。

(2) 裕一は、手術後も症状の改善がはかばかしくなく、手術部位にはケロイド状の手術痕ができた。そして、昭和五六年の時点では、手術部位にへこみ、手術痕(長さ7.5cm)があり、膝蓋骨高位0.5cm、尻上り角度三〇度、起立姿勢では腰椎前彎が増強し、出尻、しやがみこみは不能、正座時には出尻、歩行・走行時には左下肢外分回しの異常があつた。

(五) 原告隆仁

(1) 隆仁は、昭和四五年四月ころ(生後一年三か月ころ)、歩く際に左足を少し遅れがちに引きずるような状態であつた。そこで、原告内木洋子は、被告奥田に対してその旨を訴えたが心配ないと言われた。しかし、念のため、同年九月二六日、名古屋市立大学附属病院で隆仁に診察を受けさせたところ、注射が原因とは言えないと言われた。ところが、その後、昭和四六年七月八日、聖霊病院で、隆仁は、大腿四頭筋拘縮症と診断され、昭和四七年四月ころ、名古屋市立大学附属病院で注射が原因である旨を告げられるとともに手術を勧められたが、手術は見合わせ、ハリ治療等を受けた。そして、その後、昭和五六年七月一六日、協立病院で、隆仁は、直筋筋腹部切離の手術を受けた。

(2) 隆仁は、手術直前において、左大腿前面にへこみがあり、膝蓋骨高位一cm、尻上り角度二五度、股関節最大屈曲時の膝関節屈曲制限一三〇度で、起立姿勢に異常があり、腰椎前彎が増強し、出尻になり、しやがみ込み、正座不能という異常があつたが、手術後においても、歩行・走行異常、知覚異常がある。

(六) 原告守孝

(1) 守孝は、一歳三か月ころ、転び易かつたため、原告中村玲子は、その旨を被告奥田に訴えたが、異常はないと言われた。また、守孝は、三歳または四歳ころ、夜になるとよく足の痛みを訴えたため、原告中村玲子は、外科医で守孝の診察を受けたが、レントゲン撮影によつても異常はないと言われた。ところが、原告中村玲子は、週刊誌の山梨県における大腿四頭筋拘縮症大量発生の記事を読んで守孝に尻上り現象があることを知り、ショックを受けた。そして、守孝は、昭和四九年七月、自主検診団の診察を受けたが、正座不能の異常があり、その後、尻上り角度は悪化し、昭和五三年八月一日に右足の、昭和五四年七月三日に左足の各直筋筋腹部切離の手術を受けた。

(2) 守孝は、昭和五六年八月一二日の時点で、股関節最大屈曲時の膝関節屈曲制限一五五度、股関節伸展時の膝関節屈曲制限一四五度、尻上り角度九〇度、起立姿勢で腰椎前彎増強、出尻、正座時に尻が浮くという異常があつた。

(七) 原告和樹

(1) 和樹は、昭和四五年または昭和四六年ころ、左足を引きずつていることを祖母に指摘され、昭和四八年ころからは足のだるさを訴えていた。原告西澤紘子らは、昭和四九年六月二一日、原告内木らによるカルテの証拠保全の新聞記事を読んで和樹が大腿四頭筋拘縮症に罹患していることを初めて知つた。その後、和樹は、昭和四九年七月二二日、国立名古屋病院で両大腿四頭筋短縮症と診断を受け、手術を勧められたが、これを見合わせ約四年間にわたつて近所の針灸院に通院して治療を受けたものの効果が上らず、昭和五八年七月二六日、協立病院で手術を受けた。

(2) 和樹は、昭和五六年八月一二日の時点で、尻上り角度二五度、膝蓋骨高位1.5cm、起立位姿勢では腰椎前彎増強、出尻、しマがマみこみでは前傾、正座時は出尻、歩行・走行時外回しの異常が、昭和五八年四月二日の時点では、左足の尻上り角度一五度の異常があつた。

(八) 原告博之

(1) 博之が歩き始めた一か月後の昭和四六年七月ころ、原告濱口倭文子は、博之の左足の異常を発見し、その旨を被告奥田に訴えたが、心配はないと言われていたところ、昭和四九年六月二〇日、原告内木らの証拠保全の新聞記事を読み、あわてて江崎整形外科で博之の診察を受けたところ、注射による大腿四頭筋拘縮症と診断された。そして、博之は、昭和四九年七月、自主検診団の診察を受け、その後、江崎整形外科、名古屋大学附属病院、協立病院等でマッサージ等の治療を続けたが、背骨の彎曲がひどくなつたため、昭和五六年七月一四日、協立病院において、直筋筋腹部切離の手術を受けた。

(2) 博之は、手術直前の昭和五六年七月一一日の時点で、尻上り角度三五度、膝蓋骨高位約一cm、起立姿勢では、腰椎前彎増強、出尻、正座時は膝がそろわない、歩行・走行時は左下肢外振出の異常があつた。

(九) 原告広志

(1) 広志は、昭和四四年一一月(生後一年三か月)ころ、左足を引きずるようにして歩行することから、原告濵嶋成子は、これに異常を感じ、また、保育園の保母からも同様の指摘を受け、その後、症状が顕著となつたため、昭和保健所で広志に診察を受けさせたが異常はないと言われた。広志が三歳のころには、左足の外分回しが目立つようになつたため、原告濵嶋成子は、肢体不自由児の巡回相談に赴き、また、近医で引ママ志に診察を受けさせたがこれまた異常がないと言われた。ところが、昭和四九年四月二一日、原告濵嶋成子は、山梨県における大腿四頭筋拘縮症集団発生の新聞記事を読んで広志も同症に罹患しているのではないかと疑い、昭和四九年五月一日、国立名古屋病院で広志の診察を受けたところ、大腿四頭筋短縮症と診断された。そして、広志は、昭和四九年一〇月二九日、名古屋大学附属病院で起始部切離の手術を受けた。

(2) 広志は、手術前の尻上り角度が一〇度と重症であつたが、昭和五一年一一月六日の時点では、尻上り角度三五度、歩行・走行とも外分回しの異常があり、昭和五六年八月一二日の時点では、症状が悪化し、尻上り角度三〇度、起立姿勢では腰椎前彎増強、しやがみこみでは前傾、正座時出尻、歩行・走行時は左下肢外振出の異常があり、昭和五八年四月二日の時点では尻上り角度二五度と悪化した。

(一〇) 原告寿孝

(1) 寿孝は、昭和四七年四月二七日以前から、転び易く、足が痛いと訴えていたが、原告福島峯子は特にこれに気を止めていなかつたところ、同日、寿孝が正座できないことを発見し、高橋外科で寿孝に診察を受けさせたが、異常なしと診断された。しかし、原告福島峯子は、心配になり、昭和四七年八月ころ、名古屋市立大学附属病院で寿孝の診察を受けたところ、注射が原因であると告げられた。そこで、寿孝は、鈴木整体研究所に通院する等してマッサージ等の治療を受けてきたが、原告福島峯子は、昭和四九年四月ころ、山梨県における本症の集団発生を聞いて、寿孝もこれに罹患していると考え、その夏自主検診団の診察を受けたところ、大腿四頭筋拘縮症と診断された。そして、寿孝は、昭和四九年一一月八日、名古屋大学附属病院で手術を受けたが、その後も症状は悪化し、同五九年七月再び手術を受けた。

(2) 寿孝は、昭和五六年八月一二日の時点で、尻上り角度二五度、股関節最大屈曲時の膝関節屈曲制限一三〇度、膝蓋骨高位約一cm、起立姿勢では腰椎前彎増強、出尻、しやがみこみ及び正座は不能、歩行・走行とも左下肢外分回しの異常があつた。

(二) 原告正文

(1) 正文は、昭和四六年八月(二歳九か月)ころ、歩行時に左足を外に回し、転び易く、階段を横歩きに昇降する異常があり、原告諸岡秋子は三歳児検診の際に正文の足の異常を訴えたが、癖ではないかと言われた。ところが、原告諸岡義雄は、昭和四七年八月、正文の足が尻に付かないことに気付き、近医に紹介されて、昭和四八年六月五日、三重大学附属塩浜病院整形外科で正文の診察を受けたところ、大腿四頭筋短縮症と診断された。そして、正文は、昭和四八年七月二五日、起始部切離の手術を受けた。

しかし、その後も症状が悪化したため、正文は、昭和五七年七月二二日、北九州市立小倉病院において、直筋筋腹部切離の再手術を受けた。

(2) 正文は、昭和五七年七月九日の時点では、尻上り角度二五度、股関節最大屈曲時の膝関節の屈曲制限一四〇度、膝蓋骨高位0.5cm、正座時は膝がそろわない、歩行・走行とも左下肢外分回しの異常があつた。

3  (原告患児らの大腿四頭筋拘縮症罹患の原因)

(一) 大腿四頭筋拘縮症は、乳幼時期の筋肉注射により、大腿四頭筋の組織に壊死・炎症を生じ、これが不可逆的な線維性の瘢痕組織に変性し、伸展性を欠く索状物となつて筋の伸展性、弾力性を阻害する結果、大腿の成長につれて索状物となつた筋が相対的に短縮した状態となり、跛行、外旋、歩容異常、正座不能等の機能障害を生ずるに至る疾患であるが、その発症についての一般的因果関係は次のとおりである。

筋肉は、運動機能を直接司る筋線維と血管、神経及びこれらを支持・結合する結合織によつて成立しているが、炎症が起きると、その修復過程において結合織内に異物を分解・吸収する肉芽組織が発生・増殖し、この肉芽組織の線維芽細胞が成長してやがて弾力性を有しない膠質ないしは硝子質の線維となり(線維化)、最終的には瘢痕化して収縮する。また、筋肉注射剤が筋肉組織内の神経や血管に触れた場合には、神経や血管にも同様に壊死・炎症を生じ、これらの支配する筋組織に壊死変性を生じさせ、更に前記肉芽組織由来の線維化・瘢痕化によつて筋線維や血管・神経が束縛を受け、二次的に壊死変性することもある。炎症が軽度であるか極めて局所的なものに止まる場合には、筋の線維化・瘢痕化に至らないで消失したり、線維化・瘢痕化しても機能障害にまで至らないこともある。しかし、筋肉注射の筋組織障害性が強度で筋に激しい炎症を起したり、薬液が容易に流動するという大腿四頭筋の解剖学的構造と相まつて筋に広範な炎症を起したりした場合、または度重なる筋肉注射によつて線維化・瘢痕化が集積した場合には、直筋全体にわたる線維化・瘢痕化を生じて機能障害を起す結果となる。

(二) 大腿四頭筋拘縮症は、筋肉注射剤の有する筋組織障害性を主因として発症するものであり、比較的小本数でも発症ないし重症化した例もある。本症の要因としては、注射回数、注射頻度、注射量、注射部位等も考えられるが、これらは、いずれもそれらの要因が揃わなければ絶対に発症しないという意味における不可欠の要因ではなく、従つて、筋肉注射剤の組織障害性が疫学の病因論における主因(必要条件)であり、その他の要因は、副因ないし誘因(十分条件)である。このことは、次の文献、疫学調査、動物実験等からも明らかである。

(1) 文献等

本症に関しては、昭和二五年森崎直木、伊藤四郎の報告が「日本整形外科学会雑誌」に掲載されて以来膨大な数の文献が集積されてきた。そして、その殆んどが筋肉注射がその原因であると推定または断定している。ことに、昭和二七年の日本整形外科学会において青木虎吉、景山孝正が本症の三例について報告するとともに、武田栄が「トリアノン、ピラビタール、バクノンが硬結を作りやすい」と追加発表している。また、昭和三三年には、標準的な教科書である「日本外科全書」中で、森崎が本症について具体的に報告しており、続いて同三七年には、小児科の分野でも広く利用されていた「小児の微症状」に本症が筋肉注射によつて生じた炎症性の瘢痕様変性である旨の報告が掲載されている。更に、昭和四一年に開催された国立病院、国立療養所総合医学会において小児科・整形外科その他の医師が共同で「注射によると思われる大腿四頭筋短縮症の一七例について」との報告をし、翌四二年には雑誌「医療」にその報告が掲載されている。

他方、臨床現場以外でも既に昭和二一年以降筋肉注射の筋組織障害性に着目した研究報告がなされてきた。アメリカでは昭和二一年のロマンスキーの研究や同三〇年のハーガンの論文があり、昭和三七年には武田研究所の研究員美間博之らが「非イオン性界面活性剤水性注射液の局所作用」と題して、注射薬の局所障害性に関する研究論文を発表し、その後赤石英らは「薬剤に関する医療事故について」とのテーマで、各種筋肉注射剤の溶血性(筋組織障害性)の比較対照試験結果を発表し、非生理的な注射薬剤が多い実情を厳しく指摘している。

(2) 集団検診等による疫学調査

昭和四八年以降全国各地で本症の集団発生が明らかになるにつれて、各地方自治体が医師会等の協力を得て行なう公的集団検診と患児の親が連絡をとり合つて自主的に行なう私的集団検診が実施された。

これらの疫学調査により次の点が明らかとなつた。

(イ) 患児らのすべてについて乳幼児期に大腿部への筋肉注射の既往歴があること

(ロ) 昭和三五、六年から同四〇年ころ以降に出生した十代前半以下の子供に発症例が多いこと

(ハ) 使用薬剤としては抗生物質と解熱剤が多いこと

(ニ) 注射回数が多いと発生率が高く、重症となり易いが、僅かな本数でも発症した例があること

(ホ) 筋肉注射による筋拘縮症は大腿筋のみでなく、三角筋、臀筋にも発症していること

(ヘ) 原因疾患としてはいわゆる風邪症候群が多いこと

(3) 動物実験

坂本桂造の幼若白色家兎を用いた実験報告(昭和四六年)、宮田雄祐、林敬次らの幼若家兎を用いた実験報告(昭和五三年)、佐野精司らの幼若カニクイザルを用いた実験(昭和五二年)、西島雄一郎の白色家兎を用いた実験報告によると、結論的に筋肉注射の組織障害性が本症発症の不可欠の要因となつていること、組織障害性の強い筋肉注射剤が筋肉の炎症を惹起し、炎症の修復機序をたどりつつ、瘢痕化すること、動物実験のレベルでは種差によつて炎症の修復機序の異ることが裏付けられた。

(4) 関係諸機関の見解

厚生省筋拘縮症研究班発生予防部会は、岩見沢医師会による同市の三角筋短縮症に罹患した小学児童についての症学調査をもとに昭和五二年五月研究報告を発表した。この調査には不備な点も目立つが、スルピリン系の薬剤と抗生物質の混注及びそれぞれの単独注に分けて考察したうえ、筋拘縮症の原因として筋注がある程度の関係があると結論づけている。日本小児科学会は社会問題化した本症に対応するため、「注射に関する提言Ⅰ、Ⅱ」並びにそれらについての解説を昭和五一年から同五三年にかけて発表したが、この中で筋拘縮症と筋肉注射の関係を明確に認めたうえで、筋肉注射の濫用を厳しく戒めている。また日本医師会の大腿四頭筋問題検討委員会は、昭和四九年九月三日、本症に関し答申を発表し、その中で、筋肉の瘢痕、線維化の原因として、基本的に化学物質による筋の炎症をあげたうえ、その他の原因として注射剤の浸透性、濃度、PH等をあげている。

(5) 筋肉注射の多用と本症発症の比例関係

本症は、昭和三五年以降急激に増加しているが、この傾向は丁度国民皆保険制が実施された時期と一致しており、技術料の評価が低く、薬剤の利ざやで収入をあげざるをえない健康保険制度、医療制度の欠陥によつて生み出されたものであることが明らかである。筋肉注射は内服薬に比して、簡便なわりに利ざやが大きく、現に大阪と沖縄の本症患者の年令分布をみると、ピークの時期にずれがあり、大阪では昭和三五、六年ころ以降急増し、沖縄では本土復帰後に国民皆保険になつたためそれ以降急増している。

昭和四八年秋ころ山梨県における大量発生を機に、本症が社会問題化し、筋肉注射の危険が広く知られるようになり、日本小児科学会その他の諸団体の啓蒙活動もあつて、一般臨床医が筋肉注射の適応を吟味し、筋肉注射の濫用を抑制することになつた結果、同時期以後は本症及び他の筋拘縮症の発生が激減した。

(三) グレラン注は、次のとおりの害作用を有する注射剤であり、この害作用により大腿四頭筋拘縮症が発症する。

(1) グレラン注の主成分は、ピラビタール、アミノピリン、ウレタンその他であり、アンプル二cc中、ピラビタール0.2g、アミノピリン0.1g、ウレタンは昭和三五年二月以前は0.25g、以後は0.15gである。アミノピリンには顆粒球減少症をもたらすという重大な副作用があり、ピラビタールについては筋に硬結を作り易いとの指摘がなされており、ウレタンは高度の局所作用が長時間持続するという特性を有し、等浸透圧溶液でも一〇〇%の溶血性を示し、更に発癌性も有するものであり、主成分自体が重大な害作用を有している。

(2) グレラン注は、注射時の疼痛が著しいが、注射局所の疼痛は、組織障害との関係で重大な警告である。

(3) グレラン注は、溶血性の強い薬剤であり、このことは、すでに昭和二八年に森忠男によつて指摘されていたものである。溶血性の強い薬剤は強い組織障害性を有するのであるが、このことは赤石英らの研究により明らかであり、同人の実験によつても、グレラン注の組織障害性は他剤に比べても極めて強いとされている。

(4) 注射液の浸透圧比は、注射の疼痛の要因であり、溶血性にも関係している。そして、浸透圧比は、およそ0.5から7あるいは八位の範囲が望ましいとされているのであるが、グレラン注の浸透圧比は、約一〇であり、注射剤として望ましい範囲を超えた高張となつている。なお、PHは5.0ないし6.5である。

(5) グレラン注は、注射による神経麻痺を起すことが多いが、この神経麻痺の発症と大腿四頭筋拘縮症の発症は、そのメカニズムにおいて、いずれも注射の害作用すなわち局所作用、組織障害性の問題として統一的または連続的に理解されるべきである。

(四) グレラン注は以上の害作用を有するものであるが、原告患児らはこれを被告奥田から左大腿部前面に筋肉注射され、その結果、前記のとおり左大腿四頭筋拘縮症に罹患したものである。このことは次の点からすると一層明らかである。即ち、被告奥田は原告患児らに対する筋肉注射を原則的に大腿部に行ない、注射薬液については、左足にグレラン注・レスミンを、右足にペニシリン、パラキシンと打分けていた。左足に注射されたグレラン注とレスミンを対比すると、総本数においても圧倒的にグレラン注の本数が多いが、ただ注射本数を左足と右足とで対比すると、統計学的にみて右足に多く打たれている。ところが、本症(特に直筋型)の特質である尻上り現象の発現率、障害度を示す尻上り角度については、統計学的にみて左足に発現率が高く左足が重症化している。

4  (被告らの責任)

A 被告奥田

(一) (予見可能性)

(1) 筋肉組織内で炎症が起きた場合には発赤、熱感、腫脹、疼痛等の症状を呈することは病理学上の基礎的知識であり、また、炎症を起した部位が組織障害を起すこと、すなわち線維化・瘢痕化する場合があることも病理学上の常識であつて、いずれも通常の医師の当然に知るところである。

ところで、筋肉注射によつて注射部位の筋肉に硬結、陥凹等の異常を生じ得ることは、日常的に経験することであり公知の事実であるが、病理学は、医学教育の中で極めて重要な比重を占めており、かつ、炎症論は、病理学の中の重要な部分を占めるテーマであるから、およそ医師資格を有する者は、医学教育の過程で、右陥凹等の異常が生体の異物に対する反応としての炎症の結果生ずる筋肉組織障害現象の一つであることについて、医学的な説明・教育を受けているのであつて、これによつて、炎症の結果として筋肉組織障害が生じ得ること、炎症ないし筋肉組織障害の有無・程度とその原因たる異物の非性理の程度、異物による刺激の頻度、期間、筋肉の抵抗力の強弱との間には密接な相関関係があること、炎症の結果として生ずる筋肉組織障害のうちには回復不可能のものがあることについての医学的知識を当然に得ているのである。

従つて、医師である被告奥田も、炎症の結果としての筋肉組織障害の発生機序について、十分な認識を持ち、またはこれを持つことができた。

(2) 大腿四頭筋のうち、大腿直筋の役割は膝関節の伸展作用と股関節の屈曲作用を行なうことであり、三広筋の役割はいずれも膝関節の伸展作用を行なうことであるが、筋肉がこのような役割を果すことができるのは、筋肉が伸びたり縮んだりすることができるという性質を有しているからである。従つて、筋肉組織が障害され、筋の伸び縮みが障害されると、その障害の程度によつては膝関節の伸展作用及び股関節の屈曲作用を障害することがあるということは当然に考えられることであり、その因果のメカニズムは単純である。とすれば、被告奥田は、大腿四頭筋の筋肉組織に線維化・瘢痕化がある範囲にわたつて生じたときは、大腿四頭筋に連なる股関節及び膝関節の機能に障害が発生する可能性も予見することができた。

(3) 被告奥田は、現実に注射による障害を予見していたし、少なくとも十分予見可能であつた。

原告患児らに限つても、一様に注射局所の発赤、腫れ、しこりが見られ、中にはしこりのため注射針が入り難かつたり、注射針が注射筒からはずれてしまつたりといつた状況すらあつたのであるが、被告奥田は、注射をする際に、このような局所の状態を当然見ており、かつ、当然気付いていたはずである。また、原告両親らは、後記(6)のとおり原告患児らの注射局所の異常を被告奥田に告げ、注射を繰り返すことや同じ部位に再度注射をすることへの不安、懸念を被告奥田に訴えていた。更に、原告患児らの多くは、被告奥田から診療を受けている間の昭和四四年ころに、すでに左足に異常が現れ始めており、原告両親らは、そのことも被告奥田に訴えていた。

そして、注射の打ち方を含む被告奥田の診療方法は、昭和二六年一月から昭和三〇年一二月までの間にほぼ固つたというのであるから、被告奥田は、昭和四四年以前においても同様の経験を当然に有していたものと推察して然るべきである。

(4) グレラン注を筋肉注射した場合に激しい疼痛を伴うことは広く認識されていたところであるが、被告奥田は、グレラン注を注射した左足の注射部位について腫脹等の訴えが多いことを認識しており、かつ、注射液の浸潤による神経組織または血管組織の破壊のあることを認識していたのであるから、グレラン注による組織障害の発生を認識していた。

(5) 被告奥田は、小児専門医であるから、乳幼児の筋肉が成人のそれに比して未発達であり、異物に対する抵抗力が弱く、著しい成長過程にあるという特殊性を認識していた。

(6) 被告奥田が原告中村玲子から原告守孝が転び易いとの訴えを受けたのは昭和四二年五月ころ、原告北岡里子から原告裕一が六か月検診の際に股関節の開き難さを指摘された旨を告げられたのは昭和四四年八月ころ、原告内木洋子から原告隆仁が足を引きずる旨の訴えを受けたのは昭和四五年一〇月七日、原告西澤紘子から原告和樹の歩容異常の訴えを受けたのは昭和四五年である。

従つて、被告奥田は、遅くとも昭和四四年または四五年には、原告患児らの左足の機能障害を現実に認識していた。

(7) 被告奥田は、患者の左右の足にそれぞれ決められた注射剤を打ち分けるという特異な医療行為をしていた者であるがゆえに、注射した薬剤との関係で、大腿四頭筋拘縮症または同症と密接に関連する足の機能障害を容易に予見することのできる立場にあつた。

(8) 被告奥田は、注射を多用している医師であるから、注射局所及びその周辺の状態への観察を十分に尽すべきであるとともに、更に一歩進んで、注射による局所障害・機能障害についての文献調査等情報収集を行ない、場合によつては整形外科医に照会する等して、注射の安全性を確認すべき注意義務がある。そして、被告奥田は永年名古屋市立大学医局員(助手)として在籍し、かつ、同大学医学会に所属していたのであるから、文献探索の方法は充分承知していたはずであるし、大学図書館等を利用することも容易にできる立場であつた。

以上のことからすると、被告奥田は、原告患児らに対するグレラン注の注射に先立ち、注射による大腿四頭筋拘縮症の発生を予見していたし、または自ら調査照会等をすることによつて予見することができたものである。

(二) (結果回避義務)

(1) 一般に医師、殊に小児科臨床医は、自己の注射行為によつて、患児の注射部位及びその周辺に何らかの障害を発生させることのないよう注意し、これを回避する義務がある。

(2) 治療上投薬が必要な場合に、内服を優先し、可能な限り注射を避けるべきことは、医療の基本原則である。このことは、現実に多くの開業医に注射の多用傾向があり、製薬会社がそれを助長し、かつ、それによつて利潤を上げ、国もそれを黙認してきたという事実をもつてしても不変である。

そもそも、薬剤は、その効用の反面、何らかの害作用を伴うのが通常であるから、医師は、薬剤の効用のみに着目して安易にこれを使用すべきではなく、その害作用についても留意して投与の必要性の有無を十分吟味するとともに、可能な限り安全な投与方法を選択すべきである。そして、注射は、人体の通常の生理的吸収過程を経ずに直接当該部位に薬液を注入する点において極めて非生理的であり、それだけに危険性も高いものであるから、医師は、薬剤投与が不可欠な場合でも、可能な限り内服薬によるべきであつて、注射による投与は、患者の症状が重篤であるか、または急激な変化が予想され、速効性が要求される場合、患者に嘔吐等の症状があつて内服薬によることができない場合、薬剤の性質上経口投与が不可能ないし著しく困難な場合に限られるべきである。

特に解熱剤の投与に関しては、発熱があつてもこれを全て下げなければならないわけではなく、むしろ、極端な発熱を除いてはこれを無暗みに下げてはならないというのが医療の本来のあり方なのであり、しかも、解熱剤を内服薬ではなく、注射により投与しなければならないような事態は、極く稀である。

従つて、被告奥田は、小児科臨床の基本にのつとり、内服を優先し、可能な限り注射を避け、注射による被害を避けるべき注意義務、注射がやむを得ないとされる場合であつても、なお患児の局所の状態との関係でその回数・頻度を抑制すべき注意義務がある。

(三) (義務違反)

(1) 被告奥田は、解熱剤グレラン注の多用を診療方針としていた。そして、原告患児らが被告奥田からグレラン注の投与を受けたのは、いずれもその幼児期においてであり、その際の疾病は、前記個人表病状欄に記載のとおり、その大部分が比較的軽度の風邪症候群であり、また、体温も同表体温欄に記載のとおり平熱に近い場合が多かつた。更に、原告患児の中には、グレラン注の筋肉注射を受けた結果、注射部位に激しい疼痛を訴え、または著しい腫脹を生じた者が多数おり、硬結のため大腿部に注射針が刺さらなくなつた者もある。

(2) 従つて、原告患児らに対してはグレラン注を筋肉注射することを避けなければならないのにも拘らず、被告奥田は、前記各注意義務を怠り、内服薬優先の原則に従わず、注射局所の異常等を観察せず、文献調査等も行なわないまま、原告患児らに対して漫然と不必要なグレラン注を打ち続け、これを濫用した結果、原告患児らを大腿四頭筋拘縮症に罹患させたのであるから、これにより生じた損害について民法七〇九条の損害賠償責任を負うべきである。

B 被告グレラン

(一) (注意義務)

医薬品は本質的に危険性を内在させている物質であるところ、製薬会社は、医薬品から生ずる危険な有害作用を防止するために最もふさわしい立場にあるのに対し、医薬品の服用者は医薬品の安全性について、自ら吟味する知識も無ければ、副作用の有無についての究明手段も全く持つていない。一般大衆が自己の購入した医薬品の安全を検証することは、全く不可能であるばかりか、専門家とされている医師についても、その安全性有効性を厳密にチェックすることは事実上困難である。その一方、製薬会社は身体に危険な有害作用を及ぼすことのある医薬品の製造販売によつて莫大な利益を得ていることは周知の事実である。このように、危険な医薬品の製造販売により利潤を得ている者は、その反面として厳格な責任を甘受すべきことは理の当然である。

(1) (製造販売開始時における注意義務)

被告グレランは、グレラン注を製造販売しようとするときは、当該医薬品の安全性に関し、その時点における医学薬学等関係諸科学の世界最高水準に従つて、内外の文献、学会報告その他症例報告等を調査し、薬理試験、動物実験、臨床試験等を尽して人体の臓器等に対する害作用ばかりでなく注射部位の筋肉・皮下組織等に対する害作用(催炎性、組織障害性)についても十分にその安全性を確認しなければならず、当該注射剤の能書に明記された適応症、使用量、使用方法等にそつて本件のような乳幼児の大腿部にある程度連用された場合でも当該筋肉組織の成長に悪影響を与えることのないように最善の注意を尽すべきである。

そして、こうした安全性確保のための調査研究を尽した結果、当該注射剤の安全性について少しでも疑問がある場合には、その製造販売を中止しなければならず、ただ、ある程度の害作用、危惧性があつても、当該医薬品が剤型のうえで注射投与しか困難である場合や、害作用、危惧性を超えてある疾病に対する著しい効能があり、その製造販売が必要な場合には、能書の記載等により、その適応性、使用方法等を限定し、害作用、危惧の内容を告知して、被害を最少にとどめるための諸施策を講じたうえで製造販売をすべきものである。能書の記載について具体的に言えば、次の事項を記載すべきである。

① 大腿部への筋肉注射により、本症が発生することがあること。

② 乳幼児の大腿部への筋肉注射はその危険性が高いこと。

③ 症状との適応を厳格にし、他の投与方法が可能かつ適当な場合はそれによるべきこと。

④ 筋肉注射が必要である場合にも同一部位への連用、頻回使用は危険であること。

(2) (製造販売後の注意義務)

被告グレランは、グレラン注の製造販売後においても、その医薬品としての本質的な危険性から、引続きその安全性を確認し続ける義務があり、そのため、動物実験、文献等の調査研究及び副作用モニター等を活用した追跡調査等を継続的に行なわなければならない。また、これにより副作用の存在につき疑惑を生じたときは、その時点までに蓄積された臨床上の安全性に関する諸報告との比較較量によつて得られる当該副作用の疑惑の程度に応じて、更に調査研究をすすめ、できるだけ早期に当該医薬品の副作用の有無及び程度を確認すべきことである。

そして、人体に対する害作用が発見された場合には、直ちにその程度に応じ、当該医薬品の製造、販売または使用の中止、回収、能書の記載内容の改訂等による医師への告知連絡により被害回避のための適切な措置を講ずるべき注意義務がある。

(二) (予見可能性)

(1) 予見可能性の範囲については、副作用の発現による具体的な障害そのものが予見の対象であるとする見解は著しく妥当を欠く。近年における合成化学製品の展開は日進月歩であり、もし新たに開発された医薬品に起因する障害そのものが予見の対象であるとすれば、かかる場合、予見可能性の立証は困難というよりはむしろ不可能に近く、かかる結果が正義・衡平の観念に反することは明らかである。そして、医薬品の副作用による障害の発現については、本来的に未知の要素が介在することを免れず、しかも、医薬品の製造業者には副作用の発現の予見に必要な専門家を含む人的物的設備が存するのに対し、医薬品の消費者の側には副作用の有無についての究明手段が全く存在しないのであつて、かかる両者の関係を対比すれば、障害の結果そのものを予見の対象とし、これを副作用障害の被害者に立証させることは殆んど不可能を強いるものである。

結局、予見可能性の範囲は、とるべき措置との関係で定められ、当該結果回避のためにとるべき措置を可能ならしめる程度に危険の予見が可能であれば足りるというべく、この予見可能性の内容は、ある状況下での単なる疑念がそれに応じた文献調査等の予見義務を尽すことによつて、次第にあるいは大きな疑いにも拡大発展していくべき性質のものである。

本件において、本症は、筋肉注射の筋組織障害性が注射量、注射回数、注射間隔、注射期間、注入箇所、患者の個体差等と複雑に関連して発症するものであるが、右筋組織障害性が右の諸因子とどのように関連し、どのような機序を経て発症に至るのかまでを予見の対象に組入れることは相当でなく、製薬会社の責任の実質的根拠、製薬会社の責任の性格、注意義務の内容に照らし、被告グレランが

(イ) 乳幼児の大腿部に筋肉注射がなされると、本症に見られるがごとき何らかの機能障害を発生する危険があること

(ロ) 右何らかの機能障害発生には筋肉注射剤の組織障害性が要因になつていること

(ハ) グレラン注が筋組織障害性を帯有し、これが乳幼児の大腿部に筋注されることがあり得ること

を予見し得ることを要し、かつ、これをもつて足りるものと解すべきである。右の程度の予見があれば、相応の結果防止策を被告グレランに求めても困難を強いるものではない。

(2)(イ) 筋肉注射には痛みの強いものとさほどではないものとがあること、人の筋肉への注射により注射局所に炎症が生ずること、注射薬液は人の血清と等張であることが望ましいとされていること、人の筋肉注射(薬液による炎症)により瘢痕としての硬結、陥凹ができること、人の硬結、陥凹等の瘢痕は永続的に残存するものであり得ること、右硬結等の瘢痕には注射薬液の種類によつて起き易いものとそうでないものとがあること、筋肉注射により神経麻痺が起きること、右神経麻痺は注射薬液によつて起き易いものとそうでないものとがあること、創傷の治癒の過程で筋肉が瘢痕性に収縮し機能障害を発生し得ること、瘢痕性拘縮という医学用語があること、以上の各事実については、いずれも医療関係者の誰もが古くから知つていた事実であり、当然、被告グレラン(とりわけ注射剤の製剤化研究等に関係する研究者ら)も承知していたことである。

そして、被告グレランは、右各事実の認識を基礎として、永続的に人の筋肉内に残存する瘢痕(硬結、陥凹)は筋肉が本来有する伸び縮みの弾力性すなわち筋肉の本来的機能が部分的にせよ失なわれた現象であること、ある筋肉に対し広範囲に頻回に注射がなされれば当該筋肉に対する部分的障害である硬結、陥凹もまた広範に生ずること、その場合にその筋肉としての役目が果たせなくなる可能性があること、以上の各事実を極めて容易に認識することができる。

(ロ) 被告グレランは、グレラン注が乳幼児の大腿部に筋注されることもあり得ること(グレラン注の能書には乳幼児を除外する趣旨の記載がない)、グレラン注が解熱剤としても使用され、従つて連用されることもあり得ること(感冒が適応症として能書に記載されており、解熱と明記した能書もある)、グレラン注の浸透圧比が一〇を越えて極めて高張となつており、溶血性並びに組織障害性があること(浸透圧比等の物理学試験をしていることは疑う余地がない)、以上の各事実を知つていた。

(ハ) 被告グレランは、自ら開発、改良した注射剤を大学の研究者に提供し、臨床試験データを収集していた。例えば、岡越男らの報告には、従前ありがちな硬結が改良された注射剤ではできないため乳幼児に対しても使用できる旨の記載がある。これは、極めて重要であり、グレラン注についても疼痛が強いこと、硬結ができる等の指摘が臨床医からなされていたことが十分推察される。

(3) 大腿四頭筋拘縮症に関する文献は極めて多い。いずれも重要なものばかりであるが、前記「外科全書」「小児の微症状」のほか、次のものには容易に気付くはずである。

① 伊藤四郎他「大腿四頭筋短縮症の三例」(日本整形外科学会雑誌)

昭和二七年の症例報告であり、同時になされた武田栄の追加報告の中で、「大腿部の注射に注意を要する」「ピラビタール、バグノンなどの薬剤が筋硬結をつくりやすい」旨述べられている。つまり、この追加報告は「グレラン注射液」と同意義で使用されていたピラビタールが本症の原因となりやすい事実を明示しているのである。

② 立岩邦彦外「大腿四頭筋短縮症の三〇例について」(日本整形外科学会雑誌)

昭和三七年の報告である。本報告で注目すべきことの第一は、先ず三〇例という数の多さであり、第二はその原因につき「新生児期及び乳児期に、大腿前面に頻回の注射を受けたことが原因と推測される」と述べている点である。

③ 笠井実人他「注射による大腿直筋短縮症」(第一九回、東北整形災害外科学会における報告)

昭和三七年七月一五日の報告である。同報告は、標題において大腿四頭筋短縮症が「注射による」ものであることを明らかにしているばかりでなく「両側に注射を受けながら、一側にしか症状の現われない例もあることから、薬液の種類、量も関係するし、また薬液の吸収がおそいために筋線維が変性に陥ることも考えられる」と述べ、本症の発症には薬液の性状や量が影響している事を明らかにしているだけでなく、筋線維の変性といった本症のメカニズムにまで洞察が加えられている。

④ ガン「大腿四頭筋短縮症」

昭和三五年の論文である。冒頭に「この論文の目的は大腿四頭筋短縮症の病因の中の重要な要因が大腿への筋肉注射施行であることを示唆し、さらに大腿四頭筋短縮症が特に膝蓋骨の再発生脱臼をおこし得る、というように考えを進めることである」旨の記載がある。本症についての詳細な分析が行われているが、本論文の中で注目すべきは、日本の三木(東大教授)が「繰り返し射たれる注射が重要な因子である可能性を示唆した」との記載があることである。

(三) (義務違反)

(1) 被告グレランは、前記注意義務をいずれも怠り、グレラン注が筋肉組織障害性が強く筋肉注射として全く不適格であるばかりでなく、含有成分であるアミノピリンには顆粒球減少症を起すという副作用があり、ウレタンには発癌性があつて、注射剤として全く有用性のないものであるのにも拘らず、昭和二五年四月から昭和五〇年七月ころまでの間、グレラン注の安全性を十分に確認しないままこれを大量に製造して被告武田に対する一括販売を続け、その間、グレラン注について何らの点検もしなかつた。

(2) また、被告グレランは、グレラン注が特に効能の著しい注射剤というわけではなく、同剤のみが特効を有する疾病もなく、剤型の上から注射剤でならない必然性もないのに、グレラン注の能書において、筋肉注射の害作用について全く告知せず、逆に、適応症として肩こり、リウマチ、頭痛、感冒、咽喉炎、歯痛等殆んどあらゆる痛みに対する解熱、鎮痛、鎮静効果があるとして幅広い適応症を明記し、医師に対し積極的にグレラン注の使用を勧奨してきた。

(3) 被告グレランは遅くとも昭和四一年四月末ころ迄に、前記各義務を尽しておれば、原告患児らの本症罹患を未然に防止できたにも拘らず、右義務違反を継続した結果、被告奥田をしてグレラン注を原告患児らの左大腿部に注射させ、原告患児らを本症に罹患させたのであるから、これにより生じた損害につき民法七〇九条の損害賠償責任がある。

C 被告武田

(一) (注意義務及び予見可能性)

(1) 被告武田は、被告グレランからグレラン注を一括購入してこれを販売してきたが、その販売時及び販売後における注意義務の内容は基本的には被告グレランの場合とかわらない。被告武田としては、グレラン注を一括購入のうえ、市場に出そうとする以上、被告グレランに対してグレラン注の筋肉組織障害性の有無、程度を含めたその安全性の確認が十分に行なわれているか否かを問合わせるとともに、グレラン注の開発、製造に関する全資料を提供させ、自ら資料を検討してその安全性を確認すべき注意義務がある。

そして、被告武田は、被告グレランから提出された資料に不足があれば、再度の調査研究を指示すべきであり、安全性について疑問があれば、自ら世界最高水準の薬理試験、動物実験、臨床試験を尽し、また文献、症例等を調査する等して安全性を確認したうえで販売すべき注意義務がある。

また、被告武田は、グレラン注の販売を開始した後においても、被告グレランをしてその安全性についての追試験、害作用情報の収集を行なわせ、自らも知り得た情報を随時被告グレランに通知する等の他、自らも、組織障害性について直接調査確認する等の手段を講じてその安全性を確保すべき注意義務があり、更に、右のような安全性確認の過程でグレラン注の安全性について不安のあることが判明し、それを払拭することができない場合には、その時点から不安の内容を能書等で警告し、場合によつてはグレラン注の販売を中止、回収する等の措置をとるべき注意義務がある。

(2) 被告武田の予見可能性の点は、被告グレランのそれと同旨である。加えて、被告武田は、我が国最大級の製薬会社として、人的及び物的に優れた研究施設を備えており、医学、薬学等の分野における最新の情報に接することのできる立場にあるうえ、現に昭和三七年ころから、被告武田の研究員らによつて注射剤の溶解剤として用いられる界面活性剤等の筋肉障害性について兎の大腿部外側広筋内の注射による障害度の病理組織学的な観察結果をまとめ、その論文を発表しているのであるから、遅くともそのころには、グレラン注による大腿四頭筋拘縮症の発生を予見していたものであり、少なくとも予見できたはずである。なお、被告武田の研究員による注射の局所作用に関する主な研究報告は、次のとおりであり、昭和二八年から昭和三八年にかけて行われた動物実験を含むこれら研究を通じて、ポリオキシエチレン系界面活性剤や新抗生物質クロモマイシンA3などの局所作用に関するデーターを入手していた他、注射剤の筋肉組織障害判定の手法の基礎を確立していた。

① 美間博之他「非イオン性界面活性剤水溶性注射液の局所作用」この研究により溶解剤、安定剤として注射薬に用いられているポリオキシエチレン系界面活性剤(ウレタンも界面活性剤である)が溶血性や局所刺激作用を有すること、しかも局所作用の強弱は筋線維細胞膜の破壊の度合によるとか、局所作用が強いものは溶血性も強いということのメカニズムが解明された。

② 荒蒔義知他「新抗生物質クロモマイシンA3の薬理学的研究」この研究により、クロモマイシンA3の筋注(特に連投)による局所部位の変化状況を観察し、「局所作用はかなり強く、筋肉に壊死、化膿を起す。したがつて静脈内あるいは動脈内投与がすすめられる」との結論を得ている。

③ 新谷茂他「クロモマイシンA3の局所障害に関する研究」この研究もクロモマイシンA3の局所障害に関するものであるが、荒蒔らの右研究をさらに突込んだものであり、ハンソンの研究によるテトラサイクリン、オキシテトラサイクリンおよびクロラムフェニコールの局所障害との比較においてクロモマイシンA3の局所障害のメカニズムを明らかにしたものである。

(3) 右の各事情からすると、被告武田は被告奥田が原告患児らにグレラン注を筋肉注射しはじめた時期よりはるか以前から、筋肉注射による本症発症の予見可能性を有していた。

(二) (販売者責任の根拠)

(1) 被告武田は、被告グレランの筆頭大株主であり、被告グレランの製造するすべての医薬品についてブランドを付与し、また、被告グレランは、被告武田から医薬品の原材料を仕入れており、従つて、被告武田は、被告グレランに対して支配的一体性を有し、両者の関係は密接である。

(2) 被告武田は、被告グレランからグレラン注を一括購入し、いわゆる発売元として、その販売力、宣伝力を最大限に活用してグレラン注を独占的に販売し、かつ販売促進活動を行ない、これによりグレラン注の危険を大量にまきちらした。このような被告武田の立場は、消費者との関係では、輸入販売業者と同様の意味において、「供給源」として評価され、製造業者である被告グレランの立場と同視することができる。

(3) グレラン注の容器、能書には、「販売武田薬品工業株式会社」との表示があり、被告武田が右能書等の作成者であることは明らかである。従つて、被告武田は、グレラン注の品質を十分知悉していたはずであり、この点、一般の販売者とは著しく異なる。

また、右能書には、グレラン注の成分、用法、用量、使用上の注意等が記載されているのであるが、このことは、被告武田がグレラン注の品質を保証したことにほかならず、グレラン注を購入する臨床医家も、被告武田がグレラン注の有効性・安全性を調査・点検したうえで販売しているものと信頼を寄せるのである。

(4) 医薬品においては、その変質や異物の混入を防ぐため、容器被包が特に重要視される。即ち、容器被包を含めてはじめて医薬品という商品が完成するのであるが、被告武田は、被告グレランと共同作成した添付文書を、グレラン注の製造工程の早終段階において、グレラン注のアンプルに接して添付し、梱包することにより、グレラン注の商品としての完成過程にもかかわりをもつていた。

(5) 製造物責任研究会(我妻栄ら)が昭和五〇年八月にまとめた製造物責任法要綱試案二条二項は、製造物に商標その他の標章または商号その他自己を表示する名称を付してこれを流通させる者に対して製造者と同一の責任を負わせることとし、合衆国の不法行為法リステイトメント(第二次)四〇二条A、Bは、売主(卸売業者を含む。)に対して不法行為上の厳格責任を規定し、欧州評議会(CE)の人身被害及び死亡に関する製造物責任のヨーロッパ条約案三条二項は、事業として出荷することを目的として生産物を輸入した者及びその生産物に自己の責任であるかのように自己の氏名、商標またはその他の特徴を明示することによりそれを提供したものも本条約の目的に従い生産者とみなされ、その資格で責任を負わなくてはならないと規定している。

(6) 従つて、被告武田は、グレラン注の販売者であつても、前記の各注意義務を負うべきである。

(三) (義務違反)

(1) 被告武田は、右注意義務をいずれも怠り、グレラン注が組織障害性の強い薬剤で筋拘縮症を起す危険があり、グレラン注に含まれるアミノピリンには顆粒球減少症を起す危険があつて、有用性のない欠陥商品であるのにも拘らず、グレラン注の危険性について実験、研究等をせず、能書にグレラン注の害作用についての適切な指示等を記載しないまま、安易にこれを被告グレランから一括購入のうえ、被告奥田を含む臨床医家に対する販売を継続し、この間これら医師及び被告グレランに対して何らの指示、警告等を与えず、グレラン注を放置して回収しなかつた義務違反がある。

(2) 被告武田が遅くとも昭和四一年末ころ迄に前記各義務を尽しておれば、グレラン注が大量に医療の現場に流出することなく、原告患児らが本症に罹患することもなかつたにも拘らず、被告武田は、この義務違反を継続したことにより、被告奥田をしてグレラン注を原告患児らの左大腿部に注射させ、原告患児らを本症に罹患させたのであるから、これにより生じた損害につき民法七〇九条の損害賠償責任がある。

D 被告国

(一) (安全性確保義務)

原告患児らの大腿四頭筋拘縮症罹患は、厚生大臣が薬事行政上の医薬品に対する安全性確保義務を懈怠したことにより惹起されたものであるが、厚生大臣は、次の理由で薬事行政上の安全性確保義務を負担するものである。

(1) 憲法上の要請

憲法は、国民に健康で文化的な最低限度の生活を保障し、被告国に対し、個人の幸福追求の権利を最大限に尊重するとともに、国民生活のあらゆる分野で積極的に公衆衛生の向上及び増進に努めるべき責務を課し、これをうけて被告国は国民の健康な生活を営む権利を保障し、国民全体の健康の維持増進を図るため、国民の保健・薬事に関する事務を一体的に遂行する責任を負う行政機関として厚生省を設置し、厚生大臣をして医療薬事行政を担当させているところである。

(2) 世界的要請

憲法の思想並びに要請は我が国独自のものではなく、普遍的なものであることは世界人権宣言やWHO憲章からも明らかである。なかでもWHO憲章は厚生大臣の安全性確保義務を検討するに際し充分に考慮すべきもので、同憲章はその前文で、各国政府は自国民の健康に関して責任を有し、この責任は充分な保健的及び社会的措置を執ることによつてのみ果すことができる旨宣言をしている。

(3) 旧・現薬事法の性格

新憲法の制定に伴ない昭和二三年七月二九日旧薬事法(法律第一九七号)が成立し、さらに、昭和三五年八月一〇日現行薬事法(法律第一四五号)に改正されたが、この旧・現行法の各規定及びこの間右各法律のもとで行なわれた行政指導を通して考えると、旧・現行薬事法はいずれも単なる取締法規ではなく、有害な医薬品による薬害を防止し、国民の生命健康を積極的に確保することを厚生大臣の義務としているといわねばならない。即ち、旧薬事法成立後は、厚生大臣は国民一人一人の生命・健康を薬害から守り遂げるため、薬事行政上医薬品の安全性確保について、各種の義務を国民各自に対して負つているのである。

これに基づき厚生省は、これまでに(イ)昭和二四年八月四日薬発第一三七二号薬務局長通知により、公定書外医薬品許可にあたつて薬事審議会で審査をする場合には、その品目の内容につき調査研究をするため製品の見本、製品に関する文献の写、製品に関する実験例の資料提出を義務づけた。(ロ)昭和二五年薬務局製薬課内に新しい学術調査班を設置し、内外の新医薬品、新製剤等に関する情報並びに文献を調査整理し、時機に応じたより適切な行政をすすめることとなつた。(ハ)昭和三七年五月の新医薬品特別部会において、新医薬品製造許可申請書添付資料の基準が承認され、その後この基準が現行薬事法下でも審査方法の内規として用いられるようになつた。(ニ)昭和三七年九月「医薬品等製造承認特別審査について」と題する薬発第四九三号が各都道府県知事宛に出され、翌三八年四月三日には薬発第一六七号が出されたが、これは、サリドマイド製剤と奇形児出産との関連から、今後の新医薬品の承認審査にあたつては胎児への影響も併せて考慮することとし、このため原則としてすべての新医薬品については申請者から従来の基礎実験に加えて当該医薬品の胎児に及ぼす影響に関する動物試験成績の提出を求めることとなつた。(ホ)昭和四二年九月一三日薬発第六四五号、同四六年六月二九日薬発第五九一号一部改訂の「医薬品の製造承認等に関する基本方針について」と題する薬務局長通知により、医薬品の製造承認申請者に対し提出資料の範囲を拡大し、また当該医薬品による副作用の情報を収集報告させることとした。(ヘ)昭和四一年度より医薬品モニター制度を発足させ、臨床機関に対し未知の副作用や既知の副作用であつても重篤なもの等を薬務局長宛に報告させることとした等の各措置をとつてきたのである。

そして、これらの安全性確保義務は、帰するところ、厚生大臣が国民各自の守護者となつて薬害を未然に防止すべく、安全性に問題のある医薬品をたとえ一人といえども国民に接触させないため、そのような医薬品を市場に出させず、存在させないように医薬品が市場に出廻るそれぞれの段階で一貫してその安全性を確保し遂げる義務である。従つて、これにより守られる国民の生命健康は法的利益であり、単なる反射的利益ではない。

(二)(1) (製造許可時における注意義務)

昭和二五年ないし昭和三五年当時、公定書非収載医薬品の製造には旧薬事法(昭和二三年法律第一九七号)二六条三項の許可が必要であつたが、厚生大臣は、右許可に際し、次の注意義務を負つていた。

(イ) 世界最高の水準に従い、内外の文献、学会報告その他の症例報告を調査したうえで当該医薬品の安全性の基準を用意するとともに、製造許可の申請者に対しては、類似医薬品、成分、剤型に関する内外の文献等を十分調査検討させて提出させ、薬理試験、動物実験等による毒性試験、臨床試験を十分実施させてその資料を提出させ、これらを検討して右安全性の基準に合致しているかどうかを調査し、必要に応じて被告国自らが安全性についての動物実験をしたうえで、厚生大臣は、当該医薬品が人体に害作用を及ぼさないことを確認して初めてその製造の許可を与えるべきであり、その安全性に少しでも疑問がある場合には、これを許可すべきでない。このことを筋肉注射剤に限つていえば、申請薬品が同剤としての適応を備えているかどうかの観点からその局所障害性を動物実験により調査すべきものである。ちなみに、アメリカにおいては遅くとも、昭和三〇年には筋肉注射剤の審査に際しては動物実験によつてこれを調査していたのである。

(ロ) また、例外的に、当該医薬品に害作用があつても、他に同種の薬品が存在せず、または従来の同種薬品と比較して害作用よりも効能が著しいために、あえてその製造を許可する場合には、厚生大臣は、その許可に条件をつけ、製薬会社に対し、薬品の害作用を最小限にするような措置、すなわち、薬品の容器、被包、添付文書への害作用、症例及び害作用回避措置の具体的かつ明確な記載をさせるべきである。

(ハ) そして、グレラン注については、非生理性が極めて高く、先に主張の組織障害性の研究や後記神経麻痺の事例も報告されており、厚生大臣としては大腿四頭筋拘縮症の発生を予見することができたのであるから、許可をするにしても、グレラン注を成人に限定して許可すべく、そうでない以上不許可とすべきであつた。百歩譲つて、あえて成人に限定しないで許可する場合は、添付文書等に本症発症の危険があること並びにその害作用を避けるための措置を記載させるなどの使用上の指示警告をするべき義務を課して許可すべきである。

(2) (製造許可後における注意義務)

厚生大臣は、医薬品の製造を許可した後においても、その許可した医薬品によつて人の生命・健康に不測の危害を与えることを未然に防止するため、次の各措置を講じ、もつて、引続き医薬品の安全性を確認し、確保すべき義務がある。

(イ) 厚生大臣は、医薬品の害作用情報の収集・評価体制を整備、充実し、常に十分な監視体制を整えなければならない。

また、厚生大臣は、自らまたは製薬会社に命じて、世界最高の水準にたつて当該医薬品及びその類似化合物についての国内外の(警告を含む)害作用報告、毒性報告等の文献、臨床試験の結果等を集めるとともに臨床使用例の追跡調査をして医薬品の安全性・有用性に関する情報を組織的・系統的に収集・調査することはもちろん、当該医薬品の外国(殊に医薬品の安全性に大きな関心が払われているアメリカその他の国々)における規制状況、使用状況等についても絶えず注意を払つて調査し、当該医薬品の安全性を引続いて確認しなければならない。

(ロ) 厚生大臣は、右事後監視の結果、安全性・有用性に疑念が生じたとき、殊に人体にとつて無視し得ない危害が生ずるかもしれないという危惧感が生じたときは、次の措置を講じて薬害発生の結果を回避すべきである。

即ち、厚生大臣は、右危惧感の内容と程度に応じて暫定的に適応性・用法・用量の限定等の規制をし、あるいは販売の一時中止・使用見合わせ、市場からの製品の回収等の措置を講じ、これと並んで、医薬品の危険性を正確に把握するための調査・研究をし、安全性の厳密な確認をし、その結果に対応して、医薬品製造許可の取消、販売中止、市場からの回収指示、使用方法(適応症・用法・用量)の規制等を行ない、警告を発し、注意を喚起し、能書の書き換えを指示する等の恒久的措置等速やかに適切な対策を講じ、もつて、被害の発生を未然に防止し、あるいはこれを最小限度にくいとめるべきである。

(3) (医療に関する指示義務)

(イ) 医療行為は、人の生命健康にとつて欠かすことのできないものである反面、多くの場合、人の身体に対して何らかの侵襲を加えるものであるため、人の生命健康に重大な危険を及ぼす虞れがあることから、憲法二五条の理念をうけて積極的に医療の向上を図り、もつて国民の生命健康の維持増進を図ることを目的として医師法が制定されている。同法は、医師に対して一定の資格を要求し、診療に応ずる義務や療養方法等の指導義務等を始めとして種々の義務を課しているほか、厚生大臣をして、公衆衛生上重大な危害が生ずる虞れがある場合において、その危害を防止するため特に必要と認めるときは、医師に対して医療または保健指導に関し必要な指示をすることができることとしている。これは、厚生大臣に対して単に必要な指示をする権限を付与したに過ぎないものと解すべきではなく、所定の要件が発生したときには、必要な指示をして公衆衛生上重大な危害の発生することを未然に防止すべき義務をも課したものというべきである。

従つて、厚生大臣は、国民の健康を保持する立場から、常に世界最高の水準にのつとり必要な医療上の情報を収集して医療殊に公衆衛生上重大な危害の有無を調査し、これが予想されるような場合には、同法二四条の二に基づき、適切かつ具体的な指示をして、国民が医療被害にさらされることのないように医療行政を運用しなければならない。

(ロ) 厚生大臣は、何ら医療技術を科学的に点検する能力及び手段を有しない国民に代つて、世界最高の水準に則り、必要な医療上の情報を収集して公衆衛生上重大な危害を生ずる虞れがあるか否かを常に調査点検すべき注意義務があるとともに、右虞れがある場合には、直ちにその原因を調査し、対策を検討したうえ、医療行為に従事する医師及び医療機関に対し、必要な指示指導をして国民の生命健康に対する危害の発生を未然に防止すべき義務を負つている。

(三) (予見可能性等)

予見可能性の範囲は、結局とるべき措置との関係で定められ、当該結果回避のためにとるべき措置を可能ならしめる程度に危険についての予見が可能であれば足りるものである。そして、被告国は、前記注意義務を尽すことにより、このような意味での本症に関する予見をし、さらに公衆衛生上重大な危害が発生する虞れを認識することができた。

番号

判決

年月日

(昭和)

裁判所名

出典

事故年

(昭和)

提訴年

(昭和)

薬液名

事故内容

備考

1

27・7・25

京都地裁

下民三・七・一〇二八

24

25

25%キニーネ

左腓骨神経不全麻痺

2

34・5・15

浦和地裁

厚生省医務局監修

医療過誤民事裁判例集

33

33

40%ナルピリン

左橈骨神経麻痺

3

36・4・8

広島

地呉支部

判時二五九・三二

30

33

イルガピリン

右下腿総腓骨神経麻痺

4

41・2・15

甲府地裁

訟務月報一二・四・四七〇

36

38

イルガピリン

左腓骨神経麻痺

被告国

5

41・2・26

東京地裁

同     一二・七・九七七

38

39

ピラビタール

右橈骨神経麻痺

6

42・12・18

湯浅簡裁

甲第二九号証二六

アミピロ

左腓骨神経麻痺

刑事

事件

7

46・3・31

東京地裁

判時六三八・八〇

42

43

イルガピリン

坐骨神経麻痺

8

47・7・21

福島地裁

判時六九一・六八

41

44

グレラン注

橈骨神経麻痺

(1)(イ) 医薬品の注射による投与が非生理的で危険なものであること、筋肉注射によつて、硬結、陥凹等が生じ得ること、これらの現象が注射による無菌炎症の結果であること、乳幼児の筋肉組織は抵抗力が弱く、著しい成長過程にあること、また、医薬品は製造許可されれば成人ばかりか乳幼児に対しても大腿部その他の筋肉に投与されるであろうこと等は特に文献に頼らずとも厚生大臣において当然に認識または予想していた。

(ロ) 筋肉注射剤による組織障害性についての研究報告は、日本においても既に明治時代から発表されてきたほか、昭和二一年以降、世界各国で筋肉注射剤の組織障害性と筋肉注射の適応とを検討する研究報告が発表されており、その主要なものについては、先に他被告の関係で摘記したとおりである。また、組織障害の一形態である神経麻痺に関しては、多数の学術報告例、裁判例が公表されている。グレラン注射液及びグレラン注の組織障害性については、溶血性に関し、昭和一五年河邊昌伍により、昭和二八年森忠男により完全溶血を示すとの報告がされていた。

そして、筋肉に対する害作用の有無、程度は、当該医薬品のPH、浸透圧、溶血性等の薬理試験ないし動物実験等により比較的容易に知ることができる。

なお、注射による神経麻痺に関しては、次の判決が公表されている〈編注・上表参照〉

(ハ) 大腿四頭筋拘縮症を含む筋拘縮症の症例報告は、日本において終戦後間もなく世界に先がけて報告されており、その後も世界で最も多くの症例報告が発表されており、厚生大臣は、遅くとも昭和二七年ころには大腿四頭筋拘縮症の発生とこれが注射(注射行為及び注射液の両方を含む。)によつて生ずることを知ることができ、更に、遅くとも昭和三〇年ころには、グレラン注に大腿四頭筋拘縮症を惹起する害作用のあることを容易に予見することができた。もし、厚生大臣が万一、製造許可の段階で右の害作用を看過したとしても、事後監視義務を尽すことにより、昭和四〇年ころにはグレラン注に本症を発症させることの可能性のあることを予見できたものである。

(ニ) そして、前記各報告等の文献は、インディックス・メディクスや医学中央雑誌等の文献検索誌により、容易にその存在と要旨を知ることができる。なお、厚生省には昭和三四年以降毎月日本整形外科学会から「日本整形外科学会雑誌」が送付されていた。

(2)(イ) 雑誌「医療」は、医療同好会なる団体が発行する同会の機関誌であるが、同会は、その住所及び事務局を厚生省の医務局内に置き、国立病院や国立療養所に所属する医師を会員とし、厚生省医務局職員がその事務をも行なつている任意団体である。

医療同好会の組織としては、会長(一名)、常務理事(二名)、理事、監事、評議員が置かれているが、会則により、会長には厚生省医務局長が、常務理事には厚生省医務局国立病院課長と同局国立療養所課長がその他の理事等には各国立病院等の医師、薬剤師が就任している。

医療同好会の主たる業務は、雑誌「医療」の編集発行であるが、その編集会議は毎回厚生省の会議室を使用して行なわれ、厚生省医務局の幹部が編集委員として編集会議に参加している。また、国立病院等の医師が同誌にその業績を発表しようとするときには、単に同誌に投稿するだけでは足りず、別に医務局に対する報告が要求され、医務局の職員がこれら医師の研究発表を積極的に収集するとともにその内容を逐一検討し、医務局内部でそれらをまとめている。従つて、厚生省医務局職員は、国立病院等の医師の研究発表に大きな関心を寄せていたということができる。

そして、同誌は、その大半が国によつて買上げられており、例えば、昭和四八年の同誌の売上合計八六四万円のうち、月刊号売上の六一%に当る一八一万円及び特集号売上の四一%に当る二四〇万円が国の買上分であり、昭和五〇年の売上約一二七四万円のうち国の買上分は六二%に当る七九四万円、会員への売上分は四七〇万円で書店への売渡分は九万六、〇〇〇円に過ぎない。従つて、同誌は、厚生省が作らせ国(厚生省)が買い上げているものと言つても過言ではない。

以上のとおり、雑誌「医療」は、実質的には、厚生省医療担当部局の機関誌ということができ、従つて、同誌に筋拘縮症の記事が掲載されていれば、そのことは、国ないし厚生省が筋拘縮症を認識していたことを意味する。そして、同誌二〇巻六号(昭和四一年六月号)には、国立東京第二病院外科の喜多島豊三らの「腹直筋短縮症ともいうべき一例」と題する報告が掲載されているが、同報告中では、大腿四頭筋拘縮症についても触れており、参考文献として、森崎、青木らの五文献が引用されている。また、同誌二一巻の増刊号には、国立小児病院整形外科の柴垣栄三郎らによる「注射によると思われる大腿直筋拘縮の一七例について」と題する大腿直筋拘縮症の報告が掲載されており、この中で注目すべきことは「注射薬の解つたものは一七例中七例ですべてペニシリンである」と具体的な薬品名を挙げているほか、大腿直筋部位の注射は避けるべきことを提言している点である。

(ロ) 昭和四一年一〇月五日及び六日、愛媛県松山市で厚生省の主催で第二一回国立病院療養所総合医学会が開かれたが、前記柴垣らの報告は、同会で発表され、この発表に対しては、会場から国立松本病院の平川寛の発言があつた。

会場でこの報告と発言を聞いていたに違いない厚生省担当職員にはその両者を十分に理解することができたはずである。これを前記医療二一巻増刊号に記事として掲載する作業に携わつた医務局の職員についても、その点は同様である。

(ハ) このようにみてくると、厚生省としても昭和四一年には筋拘縮症の研究、調査に着手しまたはすべき状態にあつたのであり、また、前記喜多島または柴垣らに問合わせ、参考文献を読む等して、筋拘縮症の調査、研究に着手し得る状態にあつた。

(3)(イ) 公衆衛生上重大な危害を生ずる虞れがある場合とは、医療行為の結果もたらされる国民多数の生命身体に対する危害であること、その危害が医療行為の目的である効果に比して大きく、しかも放置できない程重大なものであることを、そのような危害が現に発生し、またはその発生の危険が切迫していることの各要件を充足する場合を言い、当然のことながら、本症の発生メカニズムについての認識までは必要とはしない。なぜならば、医師法二四条の二の主眼は公衆衛生上重大な危害が発生することを事前に防止するところにあるのであつて、注射が多用されていることについての認識等を背景として、本症被害が公衆に広がり得るものとの認識があれば、指示がなされなければならないからである。

(ロ) しかるところ、昭和三五年ころ、伊東市で本症患者が多数発生し、同三八年の整形外科学会において同市での三〇名の集団発生が報告されたが、右発生に引続き、昭和三七年ころ以降も大量発生が相次ぎ、患者数は増えつづけた。厚生省発表の昭和五〇年三月末までの中間結果によつても、本症患者は二九〇〇名をこえ、本症の症状はないが、大腿の硬結、陥凹などの症状を示すものは八六〇〇余名を数えるに至り、まさに公衆衛生上重大な危害が生じてしまつた。昭和四〇年には文献報告例一九六例、そのうち注射によるものと記載されたもの九八例を数える状態であつた。

このようにみてくると、昭和三八年には(遅くとも同四一年には)乳幼児に対する筋肉注射が公衆衛生上重大な危害を生ずる虞れがあり、その危害防止のためには、医師に対し乳幼児への筋肉注射の副作用、害作用につき特に指示し適切な対策をとる必要性のあることが容易に認識できたはずである。

(四)(1) (製造許可に関する義務違反)

厚生大臣は、前記のとおり、昭和三〇年ころにはグレラン注による大腿四頭筋拘縮症の大量発生を予見できたにも拘らず、それ以後における製造許可に際し要求される注意義務をいずれも怠り、筋肉注射液の投与による当該筋肉部位の組織障害について十分な調査研究をせず、筋肉注射液についての安全性の基準も用意せず、また、厚生大臣自ら動物実験及び薬理試験も実施しなかつたばかりか、被告グレランに対しても右実験及び試験を実施させることもないまま、漫然と無条件に、前記年月日に、被告グレランに対し、グレラン注(製品名は、グレラン注射液またはグレラン注)の製造を許可し、被告グレランに対し、使用上の指示警告義務も課さなかつた。

(3) (製造許可後における義務違反)

(イ) 厚生大臣は、前記のとおり、昭和三〇年ころには、グレラン注による大腿四頭筋拘縮症の大量発生を予見することができたほか、昭和四〇年には、アミノピリンに顆粒球減少症という重篤な副作用があり、そのためにアメリカ合衆国のFDAがアミノピリンの規制措置をとつたことを、また、昭和二五年ころにはウレタンに発癌性のあることをそれぞれ知つた。

(ロ) しかるに、厚生大臣は、前記グレラン注の製造許可後における監視義務及び結果回避義務を全面的に怠り、右アミノピリン及びウレタンによる害作用を看過したに止まらず、大腿四頭筋拘縮症の発症を未然に防止するための前記各措置を全くとらずにこれを放置し、この結果原告患児らの本症罹患を許すこととなつた。

(3) (医療に関する指示義務違反)

厚生大臣は、筋肉注射による大腿四頭筋拘縮症の発生について十分な調査研究をすることなく、公衆衛生上重大な危害の発生する虞れを看過し、医師らに対して特に乳幼児に対する筋肉注射を安易に使用することのないように指示するなどの措置をとるべきであるのに、何ら適切な指示指導をしなかつた。厚生省が本症に関して積極的に情報収集したのは、昭和四八年九月二〇日公衆衛生局保健情報課長より都道府県及び指定都市の衛生主管局長に対し「原因不明の感染症や環境汚染等による健康被害発生時の通報について」と題して通知したのが最初で、それは既に本症が全国的に大量発生してから後のことである。

(五) (責任の根拠)

(1) 厚生大臣の右各義務違反行為は、いずれも公権力の行使に当たる公務員の過失による違法行為に該当し、この行為によつて原告患児らが大腿四頭筋拘縮症に罹患したのであるから、被告国は、国家賠償法一条一項並びに民法七〇九条に基づき、原告らの後記各損害を賠償すべきである。

(2)(イ) 被告国は、全く有用性のない欠陥医薬品の製造について被告国の機関である厚生大臣がその許可を与え、これにより身体障害等の被害が生じたときは、民法七〇九条以下の不法行為の規定全体の趣旨から、その損害について無過失責任を負うべきである。

(ロ) グレラン注には筋肉組織に対する害作用の他に、これに含有されるアミノピリンとウレタンには重大な副作用がある。昭和七年以降アミノピリン投与による顆粒球減少症の報告例があいついで発表され、またアメリカにおいては昭和七年から同九年の間において同症により一五〇〇名の死亡者が出たと報告されている。またウレタンについては、昭和一八年以降これが発癌性を有するとの論文があいついで発表され、同二五年ころには確定的になつたと評価される。このように、グレラン注は全く有用性がないばかりか欠陥医薬品ともいうべきものである。

(ハ) しかるに、厚生大臣は、前記のとおりグレラン注の製造を許可したのであるから、被告国は、グレラン注により生じた原告らの後記各損害を賠償すべきである。

(3) 右のとおり、グレラン注は、全く有用性がない薬品であるから、その製造の許可について仮りに無過失責任がないとしても、少なくとも過失が推定されるべきである。

5  (共同不法行為)

被告国の機関である厚生大臣のグレラン注の製造許可は、被告グレランがこれを製造し、被告武田がこれを一括販売する前提となり、またこの販売及び厚生大臣が前記医師法二四条の二の指示をしなかつたことは、被告奥田が漫然とグレラン注を継続使用する原因となり、右厚生大臣及び被告らの各行為は、前者の行為が後者の行為の必然的な前提となつており、被告らの行為の一つでも欠けば原告らが大腿四頭筋拘縮症に罹患することがなかつたという意味で相互に密接な関係にあり、これらの行為は、原告らの本症罹患に向けられた社会通念上全体として一体かつ一個の行為として評価することができる。

従つて、被告らは、原告らに対し、連帯して民法七一九条の損害賠償責任を負うべきである。

6  (損害)

(一)(1) 原告患児らは、大腿四頭筋拘縮症罹患により、前記のとおり、股関節、膝関節に機能障害を有している。そのため、原告患児らは、日常生活において、歩行・走行の際の出尻、跛行、足の外振出(外分回し)等の異常があり、転び易く、生傷が絶えない患児もいる。また、原告患児らは、階段の昇降についても不自由を感じ、食事の際等に正座をすることが困難ないし不自由なため、足を投げ出したまま食事せざるを得ず、しやがみこみが不能もしくは困難であるため、用便に際しても不自由をきたしており、更に、筋力が低下していることや無理な姿勢をとつたり無理な筋肉の使い方をしなければならないため、足の筋肉の痛みを訴える等、慢性疲労に陥りがちである。

(2) 原告患児らは、学校生活においても、体育の授業では走行、体操、水泳等種々の種目が不能ないし他より劣る結果となつており、特に走行姿勢の異常を仲間から馬鹿にされ、走行スピードが落ちるためリレー競技等のグループ競技で仲間から疎外され、水泳では、平泳の際に足が開かず尻が水面上にポコンと上る等学童にとつて最大の喜びである遠足、運動会、クラブ活動等への参加も消極的にならざるを得なくなつている。更に、原告患児らは、授業中の姿勢についても、足を前方または側方に投げ出す等、正しい姿勢を保つことができず、そのために、だらけているという誤解を受ける等の不利益を被つている。

(3) 原告患児らは、正座、歩行、走行が困難なため、社会生活上も支障がある。原告患児らは、現在、殆んどが中学生、高校生であるが、将来の就職先については、筋力の低下、特に手術後の筋力低下等のハンディキャップが重大な支障とならざるを得ず、仮りに就職できたとしても、職業活動上、社会生活上、筋力の低下が大変な障害となることが十分に予想される。また、結婚に対する不安も拭い切れず、原告患児らには筋力の低下のみならず、大腿前面に大きな手術痕、陥凹等が見られ、原告患児らの成長とともに美容上の問題も大きな問題となりつつあり、特に女子にとつては、あるいは機能上の障害以上に本人を傷つけるものとなつており、今後その傾向が一層強まるものと考えられる。更に、大腿四頭筋の障害は、背骨が横に曲がり(側彎)、膝蓋骨を上に引き上げ、四頭筋が萎縮して足が細くなるという症状を引き起し、また、老化を早めるという危険性も指摘されている。

(4) 大腿四頭筋拘縮症は、長い間、癖、遺伝、奇病として放置され、注射による障害と判明した後も、対策の遅れから治療方法の開発が遅々として進まず、長期間マッサージに通つても症状が悪化し徒労に終つた原告患児も多い。また、種々の手術治療方法が試され、行なわれてきたが、その結果は必ずしも良好なものではなく、ただ大腿部に大きな醜い手術痕を残したのみで機能障害が全く回復せず、あるいは一時的な効果があつても時間の経過とともに元に戻つてしまい、更には手術前よりも悪化した例も数多くあつた。こうした多くの犠牲の下に大腿四頭筋拘縮症の直筋型及び直筋型傾向の強い混合型については手術適応、手術方法が徐々に確立されつつある。しかし、これも障害を完全に治癒させるものではなく、機能障害を一時的に日常生活に支障のない程度に軽減するものであり、また、手術は、一定の年齢に達するまでは控えた方が良いとされており、原告患児らは、それまでの長い間、障害に苦しまなければならない。更に、広筋型の大腿四頭筋拘縮症については、現在も手術によつて機能回復することはないとされており、その深刻さは重大なものがある。

(5) 原告患児らの損害は、単に筋肉障害による機能障害にとどまるものではない。本件の特徴は、原告患児らがいずれも乳幼児の時期に頻回に注射を受け、物心つく以前に既に大腿四頭筋を障害されており、以来、そのハンディキャップを背負つて十年以上も生活してきたことである。大腿四頭筋拘縮症ではその障害が外形において顕著に現われるため、原告患児らは、物心ついて以来、不当な好奇の眼と嘲笑にさらされ、それに耐えてこなければならなかつた。人格形成に最も重大な影響を持つ幼・少年期にかかるハンディキャップを負わされ、障害に負けまいと幼い心を痛めてきた原告患児らの苦痛は筆舌に尽し難いものがある。また、前記機能障害を除去するための手術にしても壊死した筋肉を切除するという大手術であつて幼ない原告患児にとつては重大な試練であり、手術そのものの危険・苦痛に対する不安、術後の経過に対する不安等原告患児らには耐え難い不安を訴えているものが多い。この原告患児らがこれまで経験してきた肉体的・精神的苦痛は、単に原告患児らの機能障害軽減によつて償われるものではとうていあり得ない。

(二)(1) 本件の大腿四頭筋拘縮症による被害は、単に原告患児らの苦痛にとどまるものではなく、自主検診団の努力により大腿四頭筋拘縮症の発症が筋肉注射によるものであるという事実が明確にされるまでの間、原告患児を持つ原告両親らは、遺伝、風土病等と他人から言われ、筋拘縮症という奇病の影におびえながら、社会の冷たい眼に耐え、必死に治療のための努力を重ねてきた。大腿四頭筋拘縮症の原因が明らかにされた後も、このような情況に変化はなく、原告両親らは、原告患児らの将来について心痛の耐えることがなく、また、大腿四頭筋拘縮症の手術についても、原告患児ら以上に心を痛め、入院への付添、術後のリハビリテーション等原告患児らの入院付添等の心労は筆舌に尽し難いものがある。原告患児らの母親が入院付添のため留守となつた家庭を守る父親らの生活も影響を受けざるを得ない。

原告両親らは、子供の病気について、医師の行なう治療、場合によつては医師が使用する薬品の投与が子供の治療、健康確保のために行なわれるものと信頼するほかなく、被告奥田の原告患児らに対する筋肉注射も真に必要な治療方法として選択されたものと信頼し、そこで使用された注射剤についても製薬会社がその安全性を十分に見極めたうえで製造販売し、被告国がこれを公の立場から確認しているものと信じていたのに、この信頼を裏切られた。そして、我が子のためにと連れて行つた被告奥田のところで打たれた筋肉注射が本件の大腿四頭筋拘縮症の原因であると知つた原告両親らの精神的苦痛は、むしろ自らが重大な傷害を負わされた場合よりもはるかに大きなものと言うことができる。

(2) 原告両親らの被つた損害は、単に精神的苦痛にとどまるものではない。治療費の負担、治療のための東奔西走の労力、そのために費した時間、金銭は計り知れない。

(3) 原告両親らは、民法七〇九条、七一〇条に基いて損害の賠償が認められるべきであり、七一一条に限定されるものではない。そして、この賠償の要件として「生命を害された場合に比肩すべきまたはそれに比して著しく劣らない程度の精神的苦痛」に限るのは不当であり、仮りにこのような要件を前提としたとしても、本件における原告両親らの苦しみの深刻さを考えると、当然にその固有の損害賠償が認められるべきである。

(三)(1) 本件については、次の各点において交通事故と異なる特徴があり、被告らの背信性、悪質性は交通事故の場合と比較して極めて重いのであるから、賠償額の定額化、低額化を主眼とする交通事故賠償論を本件に適用することは不当である。

(イ) 本件は、侵害行為の態様において、本来国民の身体の保護にあたるべき被告国が加害行為に加わつており、国民の健康に対して全く配慮のない被告武田ら製薬会社の利益追求行為が加害行為となつており、患者保護の至上の任務があり、容易にグレラン注の害作用を知り得た被告奥田が金儲けのために加害行為を継続してきたものである。

(ロ) 本件は、被侵害利益の性質において、人間の行動上不可欠の足に対する侵害であり、症状も固定しておらず進行性のものであり、脊椎彎曲、骨盤変形等二次的症状の不安も大きく、治療方法も未だ確立されていないという特徴がある。

(ハ) 原告らと被告らとの間には、交通事故における加害者と被害者のような立場の交替性がなく、また、被告らは注射に関する情報を独占しているのに対して原告らはこれを一切持ち合わせていない。そして、本件は、国、製薬会社、医師と患者との社会的信頼関係を破壊した。

(2) 原告らは、被告らに対し、制裁的慰謝料の支払を求めるものである。

本件は、前記のとおりの特徴を有するものであり、とりわけ、被告武田及び同グレランは、グレラン注が筋肉組織障害性を有することを知つており、かつ、これが筋の機能障害に至ることを容易に知り得たにも拘らず、グレラン注を製造販売し続けてきたのであるから、通常交通事故で定額化されている慰謝料額をもつてはとうてい公平を欠く。被告らに対しては、制裁として、できるだけ多額の慰謝料を支払わせるべきであり、これが、正義を実現し、原告らを慰謝し、被告らに対して同種の加害行為を思いとどまらせる方法であり、薬害、医療被害を根絶させる効果的な方法である。

(3) 原告らは、その身体的損害のみならず精神的損害その他の損害をすべて慰謝料という名目で包括して賠償請求する。その根拠は、次のとおりである。

(イ) 原告患児らの損害を身体への侵害そのものを中心とした人間的総体としての損害であると把握する以上、包括請求こそ理論的である。

(ロ) 多数の被害者を原告とした公害、薬害等の集団的訴訟においては、個別積上方式に従つた個別損害項目の主張、立証は極めて困難であり、訴訟の迅速化の理念にも反する。

(ハ) 原告患児らは、被告らの共通の加害行為により、共通の被害を被つたものであり、賠償額に差異はない。

(4) そこで、原告らは被告らに対し、以上の損害を慰謝料として一括のうえ、原告患児ら、原告両親らそれぞれにつき、一律同額の損害賠償請求をするものである。

(四)(1) 以上の諸事情を総合して原告らの損害を金銭で評価すると、原告らの損害に対する慰謝料額は、原告患児らについて各金三、〇〇〇万円、原告両親らについて各金一五〇万円が相当である。    (2) 原告らは、本件訴訟について原告ら訴訟代理人らに訴訟遂行を委任し、その費用として各損害額の一割を支払う旨を約した。

7  (結語)

よつて、被告らに対し、原告患児らは、損害金各金三、三〇〇万円及び原告両親らは、損害金各金一六五万円並びに右各金員に対する被告らへの本件訴状送達の日の翌日から各支払ずみに至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二請求原因に対する被告らの認否

A  被告奥田

1 請求原因1(一)(1)の事実は不知、1(一)(2)及び1(二)の事実は認める。

2 請求原因2の各事実のうち、

(一) 原告守孝を除く原告患児らが、当事者個人表受診年月日欄記載の各年月日に、同表病状欄記載の疾病について、それぞれの被告奥田から診療を受け、同表注射歴欄記載のとおり、グレラン注を大腿前面に筋肉注射されたことは認める。

(二) 原告守孝に関する部分は否認する。

(三) 原告患児らがその後大腿四頭筋拘縮症に罹患したこと、原告患児らの病状の経過は不知。

3(一) 請求原因3(一)の事実は否認する。

(二) 請求原因3(二)の事実のうち、「小児の微症状」と題する文献のあつたことは認めるが、その余の事実は不知。

(三) 請求原因3(三)の事実のうち、グレラン注の成分については認めるが、その余は不知。

(四) 請求原因3(四)の事実のうち、被告奥田が、原告患児の左大腿部にグレラン注とレスミンを右大腿部にペニシリンとパラキシンを注射したことは認めるが、その余の事実は否認する。

4(一)(1) 請求原因4A(一)(1)の事実のうち、筋肉組織内で炎症が起きた場合には、発赤、熱感、腫脹、疼痛等の症状を呈すること、炎症を起こした部位が線維化・瘢痕化する場合があることは、一般論としては認め、その余は否認する。

(2) 請求原因4A(一)(2)の事実のうち、大腿直筋の役割が膝関節の伸展作用と股関節の屈曲作用を行なうことであり、三広筋の役割がいずれも膝関節の伸展作用を行なうことであることは認め、その余は否認する。

(3) 請求原因4A(一)(3)、(4)の各事実は否認する。

(4) 請求原因4A(一)(5)の事実のうち、乳幼児の筋肉が成人のそれに比して未発達であり、異物に対する抵抗力が弱く、著しい成長過程にあるという特殊性を有することは認め、その余は否認する。

(5) 請求原因4A(一)(6)の事実は否認する。ただ、原告患児らの母親の誰かから、昭和四七年一二月以前時点で患児の歩行異常を訴えられたことはあつた。

(6) 請求原因4A(一)(7)の事実のうち、被告奥田が患者の左右の足に注射剤を打ち分けていたことは認め、その余は否認する。

(7) 請求原因4A(一)(8)の事実のうち、被告奥田が名古屋市立大学の医局に在籍していたことのある事実は認めるが、その余は否認する。

(二)(1) 請求原因4A(二)(1)は、一般論としては認める。

(2) 請求原因4A(二)(2)のうち、薬剤は、その効用の反面、何らかの害作用を伴うのが通常であるから、医師は、薬剤の使用のみに着目して安易にこれを使用すべきでなく、その害作用にも留意して投与の必要性を十分吟味するとともに、可能な限り安全な投与方法を選択すべきであることは、一般論としては認め、その余は争う。

(三)(1) 請求原因4A(三)(1)の事実のうち、原告守孝を除く原告患児らが被告奥田から注射を受けたのがいずれもその幼児期においてであること、その際の疾病が請求原因当事者個人表病状欄記載のとおりであること、体温が同表体温欄に記載のとおりであること(但し、原告毅の昭和四六年六月二九日PM9.30の体温36.4とある部分を除く。)は認め、その余は右括弧部分を含め否認する。

(2) 請求原因4A(三)(2)は争う。

5 請求原因5は争う。

6 請求原因6の事実はいずれも不知。

B  被告グレラン

1 請求原因1(一)(1)の事実は不知、1(一)(2)の事実は認める。1(三)の事実のうち、被告グレランに関する部分は認める。

2 請求原因2の事実のうち、原告守孝を除く原告ら患児が被告奥田の診療を受け、それぞれグレラン注を投与されたことのある事実は認めるが、その余の事実は不知。

3(一) 請求原因3(一)の事実は不知。

(二)(1) 請求原因3(二)冒頭部分は否認する。同項の事実中、原告主張の標題の文献、関係機関の見解が発表され、動物実験がされたことは認めるが、これらについての内容及び評価は争う。

(2) 請求原因3(三)の冒頭事実は否認する。同(1)の事実のうち、グレラン注の主成分がピラビタール、アミノピリン、ウレタンであること、アミノピリンには顆粒球減少症をもたらす副作用があること、ピラビタールについて筋に硬結を作り易いとの指摘がされたことがあること、ウレタンに発癌性があることは認め、その余は否認する。

(3) 請求原因3(三)(2)の事実は否認する。

(4) 請求原因3(三)(3)の事実のうち、森忠男が昭和二八年にグレラン注の溶血性を指摘したことは認める。また、グレラン注の組織障害性については、それが能書記載の用法、用量に従つて使用されることを前提に極めて軽微な程度に存することを認める。その余の事実は否認する。

(5) 請求原因3(三)(4)の事実のうち、注射液の浸透圧比は、およそ0.5から7あるいは八位の範囲が望ましいとされていること、グレラン注の浸透圧比が約一〇であることは認め、その余は否認する。なおグレラン注のPHは5.9である。

(6) 請求原因3(三)(5)の事実は否認する。

(三) 請求原因3(四)の事実のうち、原告患児らがグレラン注の害作用により大腿四頭筋拘縮症に罹患したとの点は否認するが、その余の事実は不知。

4(一) 請求原因4B(一)の主張のうち、被告グレランが薬品の製造及び販売にあたり、その安全性を確認すべき義務のあることは一般論として認め、その余は争う。

(二) 請求原因4B(二)のうち、原告主張の文献が存在することは認めるが、その主張は争う。

(三) 請求原因4B(三)のうち、被告グレランがグレラン注を製造し、被告武田に一括販売してきたことは認め、その余は争う。

5 請求原因5の主張は争う。

6 請求原因6の主張は不知。

C  被告武田

1 請求原因1(一)(1)の事実は不知、1(一)(2)の事実は認める。1(三)の事実のうち被告武田に関する部分は認める。

2 請求原因2の事実のうち、原告守孝を除く原告患児らが被告奥田の診療をうけ、それぞれグレラン注を投与されたことのあること、原告和樹が昭和五八年七月に左大腿部の手術をうけたことは認めるが、その余の事実は不知。

3(一)(1) 請求原因3(一)の前段部分のうち、大腿四頭筋拘縮症患者のうちに乳幼児期に大腿部に筋肉注射をうけたものがあるとされていること、本症の症状の一つに歩容異常があるとされていることは認めるが、その余の部分は争う。

(2) 請求原因3(一)の後段部分のうち、筋肉注射剤により筋肉組織内に炎症を起し、筋肉組織が瘢痕化することがあること、その程度如何によつて筋の機能障害を生ずることがあることは認めるが、その余の事実は否認する。

(二)(1) 請求原因3(二)の冒頭部分のうち、筋肉注射剤に何らかの組織障害性のあることは認めるが、その余の事実は否認する。同項の事実中、原告主張の標題の文献、関係機関の見解が発表され、動物実験がされたことは認めるが、これらについての内容及び評価は争う。

(2) 請求原因3(三)(1)のうち、グレラン注の成分については認めるが、その余の事実は否認する。3(三)(2)は争う。

(3) 請求原因3(三)(3)の事実のうち、昭和二八年に森忠男がグレラン注の溶血性が高いことを指摘したこと、グレラン注が何らかの組織障害性を有することは認め、その余は否認する。

(4) 請求原因3(三)(4)、(5)は争う。

(三) 請求原因3(四)の事実は不知。

4(一)(1) 請求原因4C(一)(1)のうち、製薬会社に医薬品の安全性につき注意義務を負うことのあることは一般論としては認めるが、被告武田にグレラン注の販売に関し原告ら主張の義務があるとの点は争う。

(2) 請求原因4C(一)(2)の事実のうち、被告武田が研究施設を備えていること、昭和三七年に被告武田の研究員らが注射剤の界面活性剤として用いられる界面活性剤等の筋肉障害性についての論文を発表する等原告ら主張の研究をしたことは認め、その余は争う。

(3) 請求原因4C(一)(3)は争う。

(二)(1) 請求原因4C(二)(1)の事実のうち、被告武田が被告グレランの筆頭大株主であること、被告グレランが被告武田から原材料を仕入れていることは認め、その余は否認する。

(2) 請求原因4C(二)(2)の事実のうち、被告武田が被告グレランからグレラン注を一括購入し、これを独占的に販売したことは認め、その余は否認する。

(3) 請求原因4C(二)(3)の事実のうち、グレラン注の容器、能書に「販売武田薬品工業株式会社」との表示があることは認め、その余は否認する。

(4) 請求原因4C(二)(4)の事実は否認する。

(5) 請求原因4C(二)(5)の事実のうち、CE条約案の内容は否認し、その余は認める。

(6) 請求原因4C(二)(6)は争う。

(三) 請求原因4C(三)は争う。

5 請求原因5は争う。

6 請求原因6の事実は不知。但し、原告両親らに損害賠償請求権があるとの点は争う。

D  被告国

1(一) 請求原因1(一)(1)の事実のうち、原告めぐみ、同武司、同裕一、同隆仁、同守孝、同和樹、同博之、同広志、同寿孝が大腿四頭筋拘縮症の患児であることは認め、その余は不知。

(二) 請求原因1(一)(2)の事実は認める。

(三) 請求原因1(四)の事実のうち、被告国が厚生大臣をして医療薬事行政を担当させていることは認める。表一ないし四の許可については不知、これらの点については現在資料がなく不明である。表五については認める(但し、許可したのは昭和三五年二月一六日である。)。

2 請求原因2の事実のうち、原告めぐみ、同武司、同裕一、同隆仁、同守孝、同和樹、同博之、同広志、同寿孝が大腿四頭筋拘縮症に罹患したことは認め、その余は不知。

3(一) 請求原因3(一)前段の事実中、乳幼児期に筋肉注射をうけると、注射部分の組織が原告ら主張のような変化をおこすことは不知。その余の事実は認める。同項後段の事実は不知。

(二)(1) 請求原因3(二)の冒頭部分は否認する。同項の事実中、原告主張の標題の文献、関係機関の見解が発表され、動物実験がされたことは認めるが、これについての内容及び評価は争う。

(2) 請求原因3(三)(1)の事実のうち、グレラン注の成分及びアミノピリンには顆粒球減少症という副作用があること、ウレタンには発癌性があることは認め、その余は否認する。

(3) 請求原因3(三)(2)、(4)、(5)は争う。

(4) 請求原因3(三)(3)のうち、グレラン注が多かれ少かれ局所障害を有していることは認めるが、その余は争う。

(三) 請求原因3(四)の事実は不知。

4(一) 請求原因4D(一)の主張は争う。旧並びに現行薬事法はいずれも厚生大臣に対し安全性確保義務を課しているものではない。但し、厚生大臣が、薬剤の安全性確保のためにいくつかの行政措置をとつた事実はある。

(二) 請求原因4D(二)は争う。

(三)(1) 請求原因4D(三)の冒頭主張は争う。同(1)のうち、原告らの主張のとおりの神経麻痺の判決のあつたことは認めるが、その余は否認する。

(2) 請求原因4D(三)(2)の事実のうち、雑誌「医療」に原告らの主張の記事が掲載されていること、昭和四一年一〇月松山市で第二一回国立病院療養所総合医学会が開催され、原告ら主張のような柴垣らの報告がなされたことは認めるが、その余の事実は否認する。

(3) 請求原因4D(三)(3)は争う。

(四) 請求原因4D(四)のうち、昭和四八年九月二〇日厚生省公衆衛生局保健情報課長より都道府県及び指定都市の衛生主管局長に対し、原告ら主張の標題の通知をしたことは認めるが、その余は争う。

(五) 請求原因4D(五)のうち、アミノピリン及びウレタンに原告主張の副作用があるとされていることは認めるが、アミノピリンとウレタンに関しアメリカにおいて原告ら主張の報告があいついでなされたとの点は不知、その余の主張はすべて争う。

5 請求原因5は争う。

6 請求原因6の事実は不知。

三  被告らの主張

A  被告奥田

1 (予見可能性)

被告奥田は、原告患児らに対して筋肉注射を行なつた当時、大腿四頭筋拘縮症の発症を予見することができなかつたのであるから、原告らに対し損害賠償責任を負わない。

(一) 整形外科の領域において、筋肉注射が大腿四頭筋拘縮症の原因であることが広く認識されるに至つたのは、昭和四八年以降のことであり、早くても昭和四五年以前に遡ることは困難である。日本整形外科学会が本症及び類似疾患が注射によることが多いとして、注射に関し「要望書」と題する警告を発したのは、昭和五〇年四月九日のことであり、昭和四八年八月の段階で、乳幼児の治療に当る一般小児科医に対し、整形外科の領域における右認識を伝達する方法は、何らとられていなかつた。

また、日本小児科学会筋拘縮症委員会が「注射に関する提言」と題する警告を発したのは、昭和五一年二月一九日及び同年七月一日であり、大腿四頭筋拘縮症の問題点が一般小児科医に認識されるようになつたのは、整形外科学会等の学会、国または薬剤製造業者からの情報伝達によつてではなく、昭和四八年三月の福島県における訴訟提起、同年一〇月の山梨県における集団発生及びこれに続く集団検診等の事実、これに前後する患者家族によるいわゆる口コミによる情報伝達、マスコミの報道等を介してであると推測される。

(二) ところで、臨床医の世界では、学者であると開業医であるとを問わず、古くから内科、小児科、整形外科等とその専門とする分野が縦割りとなつており、個々の医師は、専門とする分野の学会に参加することにより、または専門とする分野の医学書、医学雑誌を読むことにより医学知識の吸収に努めるのであつて、ある専門分野に属する医師が他の専門分野の医学書、医学雑誌に目を通すことは、特段の事情のない限り、まずあり得ないことである。このような実情を前提とする限り、仮りに整形外科の領域において大腿四頭筋拘縮症が注射によるものであるとの医学水準が昭和三九年末には既に存在していたとしても、小児科を専門とし、診療科目として小児科を標榜する被告奥田が整形外科の分野の文献に目を通すことはありえないし、これを同被告に要求することもできない。

(三) 被告奥田は、昭和四七年一二月二一日、受診に来院した乳児の母親から、数日前の中日新聞に整形外科医による大腿四頭筋拘縮症に関する記事が掲載されている旨を聞き、この記事を読んで初めて本症を知るに至つたのであり、同日以降、乳幼児の大腿部に対する筋肉注射を行なうことは取り止めたのである。たしかに、小児科の分野でも、僅かながら熊谷進他「注射による大腿直筋短縮症について」(小児科臨床二四巻一〇号、昭和四六年)、泉田重雄「注射による筋拘縮について」(右同二五巻四号、昭和四七年)、馬場一雄他「大腿四頭筋拘縮症」(小児の微症状所収、昭和三七年)との文献があつたが、これは膨大な小児科学に関する文献資料からすれば、容易に目にとめることのできる程のものではなく、現に小児科学の一線の研究者である、例えば森正樹医師(国立名古屋病院小児科医長、厚生省筋拘縮症共同研究班員、日本小児科学会筋拘縮症委員会委員)や宮田雄祐医師(大阪市立大学講師、日本小児科学会筋拘縮症委員会委員)でさえも、本症の発症を知つたのは昭和四八年本症の発生が社会問題化してからであり、一介の小児科医にすぎない被告奥田が原告患児らの大腿部に筋肉注射を行なつた当時の本症の発生を予見することはとうてい不可能であつた。

2 (グレラン注の用法の妥当性)

(一) 被告奥田がグレラン注を解熱剤として用いたのは、同被告が名古屋市立大学医学部小児科教室医局員であつた当時、同教室において解熱剤として用いていたのをそのまま踏襲したものである。

(二) 被告奥田が原告患児らに対しグレラン注を用いていた当時、同剤が鎮痛剤として発売されていたことは事実であるが、昭和五〇年以後は、鎮痛、解熱剤として発売されるに至つている。

グレラン注は、もともと一管二ml中にピラビタール(グレラン)二〇〇mg、アミノピリン一〇〇mg(昭和四七年八月以前にはウレタン二五〇mgも含まれていた。)を含み、アミノピリンは、解熱作用を有するので、グレラン注を解熱剤として用いることは医学上誤つていない。

被告グレランが昭和五〇年にグレラン注の能書に解熱剤を加えるに至つたことは、結果的に、被告奥田がグレラン注を解熱剤として用いたことの医学的正当性を追認したことになる。

(三) 注射は、一般に、偶発的副作用、神経麻痺、膿瘍等の障害を伴うことがあり、小児に対しては苦痛、恐怖心等を与える等の見地からできるだけこれを控え、経口投与を原則とすべきことが早くから提唱されてきたことは事実であるが、このような考え方が一般臨床医、特に開業医の間に全般的に浸透せず、また、注射が病気の諸症状に対して即効的な効果を有する確実な投与方法であることから、経口投与によらず注射が多用される傾向にあつた。このような傾向は、筋肉注射が経口投与にはない有利な治療手段であり、子供の症状を終始目にしている親が注射の効果を認め、医療を受ける側(親)の強い要望から生じたものであり、原告患児らが長期間にわたつて疾病罹患の都度被告奥田の診療を受けていたのも、原告両親らがグレラン注の使用を含む被告奥田の治療に効果を認め、好感を抱いていたからにほかならない。原告母親らが被告奥田の治療行為に疑問を感じていたのであれば、他医で受診すればすむことであるのに、前記のとおり、原告患児らが病気になる度に被告奥田の診療を受け続けてきたのである。また、大腿部に発赤、腫脹があるのに、同じ部位に注射をすることは、筋肉注射の手順からみてあり得ないことである。

(四) 被告奥田は、早い時期に病気を治す、大事をとる、余病の併発を防ぐという見地から、原告患児らにグレラン注その他の注射を行なつてきたが、原告患児らが受診時平熱または微熱の場合にも解熱剤としてグレラン注を注射し、このことが解熱剤の適応のない場合の最たるものとして非難の対象とされている。しかし、被告奥田は、受診時の発熱の有無、程度に対応して一対一という単純な形でグレラン注を使用したわけではなく、患児の顔色、動き、機嫌、呼吸状態、脈拍、発熱の有無、食欲、嘔吐その他諸々の症状を全体的に把握したうえで治療方針を決定し、患児の受診時における全体像からグレラン注の要否を決定しているのである。グレラン注に含まれるピラビタールには鎮静作用があり、従つて、グレラン注は、患児の解熱にとどまらず、患児の不眠、不安、不機嫌、興奮等の症状に対しても有効な薬剤として使用することができる。

従つて、被告奥田が原告患児らの平熱時または微熱時にグレラン注を使用したことについて、診療録に記録されている体温のみに対応させてその適応を云々することは当を得ない。

(五) 筋拘縮症が社会問題化して以後、注射は、その利点が無視され、治療手段として疑問視されるに至つているが、本症が社会問題化したが故に、それ以前の筋肉注射を頻用、多用、濫用等の表現の下に医学的に無価値化してしまうのは極端に過ぎる。

前記のような意味において有用であつた筋肉注射行為にストップをかけるものは、筋拘縮症発症の予見以外にはなかつたと考えられる。筋肉注射の頻用、多用、濫用等の非難もそれによる筋拘縮症の発症を予見し得たと言える場合にのみ妥当するものである。

(六) 以上のとおり、原告らの被告奥田に対するグレラン注の用法についての非難は当を得ないものである。

3 (グレラン注の一回量の妥当性)

(一) 薬用量は、筋肉注射剤においても、局所の障害性、非生理性を目安にして定められるものではない。いかなる量を用いれば期待される薬効が得られるのか、どのような量に達すれば有毒な害作用を及ぼすに至るかを目安として薬用量が決定されるのである。

(二) 被告奥田は、

2cc×体重/10kg

の計算式を用いてグレラン注の一回投与量を算出し、これを原告患児らに用いたのであるが、相被告らは、この薬用量が量を越えるとか、警告量を越えるとか、常用量の何倍にも当るとして被告奥田を攻撃している。しかし、原告患児らの障害が右計算式で算出されたグレラン注の使用によりその毒性から来る副作用として生じたのであれば格別、本件では、そのような意味での副作用が問題となつているのではないことに留意すべきである。被告奥田のグレラン注の一回薬用量が常軌を逸した使用量か否かは、あくまでも同剤の毒性による副作用が発現した場合との関連で論じられるべきである。

そして、被告奥田が右の計算式で算出されたグレラン注を用いたことにより、同剤の毒性の発現と見られる症状が出たことはない。

(三) 筋拘縮症に対する被告奥田の法的責任の有無を判断する場合には、同被告が常用量を越えるグレラン注を使用することと本症の発症との間に何らかの因果関係の存することの予見を持ち得たか否かという観点からの検討がされるべきであり、結論として、消極に解さざるをえない。

B  被告グレラン

1 (グレラン注の効能等)

(一) 医薬品が人体にとつて異物であり、使用目的に適つた有効性を発揮する面と、程度の差はあれ、何らかの副作用をもたらす面とがあることは否定できない。また、この医薬品の副作用のうち特に人体に有害な副作用について、これを可及的に排除すべく薬理学、臨床医学の各分野の協力の下に製薬会社はもちろん国をはじめ医・薬関係諸機関が努力を重ねているのにも拘らず、有効性のみを有し副作用を有しない医薬品を開発することは、現在の学問水準においては至難のことである。それにも拘らず、副作用のある医薬品がその存在価値を認められるのは、医薬品における長所としての有効性と短所としての副作用との総体的相互比較に立つての判断から、その長所が短所を上回つてその使用目的に沿つた医療効果をあげ得るからである。

このように医薬品の有用性は、その有効性と副作用とのバランスの上に認められるのであるが、有用性については、単に製品となつた医薬品自体の性質だけでなく、当該医薬品を如何に使用するかが重要な関係を有する。即ち、医薬品には医療について専門的知識を有しない一般大衆が使用しても有用性を発揮できる一般用医薬品と医療の専門家である医師または歯科医師が患者の症状等に応じた専門的判断に基づいて使用した場合に有用性を発揮できる医療用医薬品とがある。

グレラン注は、医薬用医薬品であるから、製薬会社が当該医薬品に対して期待している有用性は、これを使用する医師等がその専門的判断により投与の可否、投与部位、投与量、投与回数、投与期間等を決定して行なう医療行為によつて発揮されるものである。

(二) グレラン注は、依存性等の害作用を有するアヘンアルカロイド性鎮痛剤に代り、その害作用を避けることのできる非アルカロイド性鎮痛剤として開発され(グレラン注の前身製品であるグレラン注射液の製造販売開始は、昭和五年である。)、長年にわたり実地医療に重用されてきたものである。

昭和初年当時の医療界においては、モルヒネ等のアヘンアルカロイド製剤が鎮痛剤として臨床上用いられていたのであるが、これは、一方において極めて強力な鎮痛効果を発現するが、他方において、臨床上不快な副作用として、塩酸モルヒネ注射液に代表されるような悪心、嘔吐、不安、錯乱、発汗、腸管麻痺作用による便秘、排尿障害、呼吸抑制等の症状が発現するほか、薬物依存性を有するため使用中止困難から各種慢性中毒症状をきたし、または強い禁断症状が発現するものであつた。そこで、バルビタールの化合物を成分とする非アルカロイド性鎮痛剤が開発されたものの、昭和当初は、欧州からの輸入新薬であり高価であつたことから、被告グレランの前身である柳澤薬品商会は、輸入品であるバルビタール剤ベラモンと同一組成のグレラン注射液を昭和五年に発売開始した。そして、柳澤薬品商会は、発売時である昭和五年から昭和三〇年代まで、グレラン注射液についての臨床治験を続けたのであるが、その結果、グレラン注射液の安全性とともに有効性が裏付けられたのである。

ところで、柳澤薬品商会は、昭和二五年三月に被告グレランとして改組設立されたのであるが、当時、グレラン注射液と同様のピラビタール製剤が他の製薬会社からもそれぞれの商品名で製造販売されていたため、被告グレランは、「グレラン」のブランドを他社同種製品と区別して確保する必要上、昭和二五年、グレラン注射液の製造許可事項を一部変更して、一アンプル二ml中にピラビタール二〇〇mg、アミノピリン一〇〇mgを含有する注射液として申請し、他社のピラビタール注射剤とは別規格の製品としての許可を得て、以後、グレラン注の製造を開始し、長く市場に供給してきたものである。しかし、このグレラン注の製造許可により、グレラン注射液の組成が実質的に変更されたわけではない。即ち、ピラビタールは、バルビタールとアミノピリンの分子複合体であるから、ピラビタール剤であるグレラン注射液三〇〇mg中にはバルビタール85.5mg及びアミノピリン214.5mgが含有されるところ、グレラン注三〇〇mg中にはバルビタール五七mg及びアミノピリン二四三mgが含有され、結局、バルビタールとアミノピリンの配合比に多少の増減があつたのに過ぎない。そのため、グレラン注射液のグレラン注への組成変更は、厚生大臣に対する製造許可事項変更申請書の提出のみをもつて足り、かつ、その許可がなされており、新組成への変更に伴う各種資料提出の必要も指導もなかつたのであり、ピラビタール注射液と比較して新規性を問うまでの変更ではなく、当時、ピラビタール注射剤が広く診療各科で施用されていたという有用性の評価がグレラン注に継承されたものとみなすことができる。

(三) グレラン注は、前記のとおり、その成分としてピラビタールを含んでいるのであるが、ピラビタール剤の効能は、頭痛、偏頭痛、三叉神経痛、肋間神経痛、坐骨神経痛、筋肉痛、肩こり、結核の解熱及び鎮静、手術後の疼痛、打撲痛、骨折痛、月経痛、過激陣痛、後陣痛、流産後の疼痛、歯痛、歯齦炎、歯随炎、歯根膜炎等の疼痛、耳鼻咽喉科及び沁尿器科領域の諸種疼痛、乗物酔、流感等と広く疼痛適応症が認められていたし、臨床治験文献には、多数の有効疾患例が報告されている。しかし、グレラン注が有効性を発揮する痛みは、中等度の痛みに限られ、また、グレラン注を頭痛、肩こり、感冒、解熱の目的で用いる場合には、これらの症状の原因が多様であり、他に治療方法もあるのであるから、これを投与する医師は、患者に対する問診、検査等の結果から、その裁量の下に必要な限りにおいてこれを投与すべきである。

(四) 被告グレランが昭和二五年にグレラン注の製造を開始してから昭和五〇年までの二五年間の年次別正味販売数量の推移は、次表のとおりである。

(1) 昭和二五年以降、年を追つてグレラン注(グレラン注射液)の需要が増大したのは、麻薬性鎮痛剤の取扱いが極めて厳重な法規制の下におかれることになり、グレラン注の麻薬性鎮痛剤代用薬としての効用が更に広く認められていつたからに外ならない。

(2) その後、昭和三二年ころに年間販売数量のピーク(約二〇〇万アンプル)を迎え、以後次第に減少の傾向をたどつた。その原因は、昭和三一年に、グレラン注(グレラン注射液)よりも更に鎮痛効力があり、麻薬性鎮痛薬の効力に匹敵する鎮痛注射剤の新製品ノブロン注を被告グレランが発売し、それが市場に浸透したためである。

しかし、このノブロン注には、注射後に起立性低血圧症をもたらす副作用等があつたため、診療面において外来の患者に用いることが困難であり、専ら手術後疼痛等の激しい疼痛に対して、入院臨床患者に限つて用いられるという不便さがあつたため、このような副作用等がなく、入院、外来患者を問わず適用できるグレラン注(グレラン注射液)は、その後も年間百数十万アンプルの需要を維持できたのである。

年次

販売アンプル数

累計アンプル数

年次

販売アンプル数

累計アンプル数

二六

九〇七

九〇七

三九

一、一五二

一九、二五八

二七

一、〇六四

一、九七一

四〇

一、二二八

二〇、四八七

二八

一、二八四

三、二五五

四一

一、〇八三

二一、五六九

二九

不明(資料焼失のため)

四二

一、〇八二

二二、六五一

三〇

一、七四〇

四、九九五

四三

一、一一三

二三、七六四

三一

一、七六七

六、七六二

四四

一、〇九〇

二四、八五四

三二

二、〇六七

八、八二八

四五

一、二五八

二六、一一二

三三

一、八九五

一〇、七二四

四六

九九〇

二七、一〇二

三四

一、五三五

一二、二五九

四七

八六八

二七、九七〇

三五

一、七三一

一三、九九〇

四八

八九〇

二八、八六〇

三六

一、五三九

一五、五二八

四九

一、〇九七

二九、九五七

三七

一、三八一

一六、九〇九

五〇

一〇四

三〇、〇六二

三八

一、一九七

一八、一〇六

(単位・千アンプル)

(3) 昭和四五年以降、グレラン注の需要が再び減少した。その原因は、同年にアメリカからペンタゾシン注射液という新製品が導入され輸入され輸入販売されたためである。

(4) 昭和五〇年七月二四日、厚生省薬務局長通知(薬発六四二号)により、ウレタンについて、動物実験の結果、肺腫瘍発生が認められたので予防的見地からウレタンを含有する医薬品の使用を中止するよう通知された。

グレラン注には、水に溶け難いピラビタールを溶かすための溶解補助剤としてウレタンが含まれていたため、同年、被告グレランは、直ちにグレラン注の製造、販売を中止し、全市場製品の回収と廃棄を実施したのである。

(五) このように、グレラン注は、昭和二五年から二五年間(昭和五年の製造開始からは四五年間)の長きにわたり、その有用性が認められ、臨床医家等に広く用いられてきた。

そして、グレラン注の適正使用上は、人の筋肉組織に影響を及ぼす害作用について検討を要するような(換言すれば、筋拘縮症に結びつくような)組織障害作用の知見は、臨床上も文献上も何ら見出すことができないのである。

2 (グレラン注の組織障害性の程度)

(一) 医薬品製造業の草創期においては、グレラン注射液をはじめ、各製薬会社の各種注射剤の研究開発過程において、その適用部位に対する安全性試験がどのように行なわれていたのか詳らかでないが、昭和三二年ころまでの間は、製薬会社における注射剤の局所刺激性試験は、専らその担当研究者が自らの腕に注射をして、局所刺激痛の程度を左右の腕相互に比較判定する手法がとられていたのであり、兎の筋肉を用いて注射の局所刺激性を測る方法(新谷法)が人体による疼痛試験に先行して実施されるようになつたのは昭和三二年以後である。

しかし、動物の皮下、筋肉組織に注射を行なつても、人の注射時の局所刺激痛に関する情報は何も得られないし、まして、体重比で計算した注射液量の注入によつて局所の炎症症状の所見がなければなおさらである。動物の筋肉に過量を注入して局所の障害を拡大したとしても、人における局所刺激性の既知な注射液を対照とした比較評価には用い得るかもしれないが、人における臨床量注射の結果と相関するものではない。いずれにしても昭和五年当時、注射剤の局所刺激性試験が製薬会社もしくは基礎・臨床医学の場において動物を使用して実施されていたか否かは不明であり、グレラン注射液についてもこのことは同様であるが、昭和五年当時においても何ら安全性について配慮することなくグレラン注射液を製造販売することはあり得ず、前記のとおり、柳澤薬品商会は、昭和五年ころから、約二〇年間にわたり、グレラン注射液の臨床治験を行ない、その有効性と安全性を確認したのである。

グレラン注射液は、その後二〇年間、臨床上の使用に十分に対応し、この間、何ら筋肉に対する障害、危険性をもたらしたことがなく、主成分組成の変更時である昭和二五年には、改めて安全性の再確認を要するような臨床上の課題は全く存在していなかつた。

その後、昭和五〇年にグレラン注を回収するまでの間においても、前臨床的な動物実験に立ち帰らなければならないような臨床上の課題は、何ら発生しておらず、グレラン注の問題性が明らかになつたのは、昭和五一年の久永報告が最初である。

(二) 被告グレランの研究員である府川和永は、グレラン注の永年にわたる臨床適用で有用性が保持された能書記載量から得られる常識的な範囲の臨床対応量において、右久永報告に見られるような筋肉障害性が発現するか否かを検討するための次のような動物実験を行なつた。

グレラン注を生後六週令体重六〇〇ないし八〇〇グラムの日本白兎の大腿直筋の同一部位に能書記載の成人量二mlより求めた体重あたり投与量0.4ml/10kgを標準量とし、この1.5倍標準量の0.6ml/10kg及び三倍標準量の1.2ml/10kgを午前、午後の二回、連続七日間、計一四回ほぼ同一部位へ反覆注射したがその結果は次のとおりである。

(1) 注射後約一時間における注射部位の触診結果は、1.5倍標準量(以下1.5倍という)の一回注射では、いわゆる「しこり」について異常を感知しない(一)例が四九例の全例であり、三倍標準量(以下三倍という)の一回注射では、しこりについて差異があるように感じられた(十一)例は二〇例中二例のみに認められたが、二回目の注射直前の触診ではその二例とも消失していた。

二回目の注射では、1.5倍において四八例中三例に(十一)のしこりを生じたが、三回目の注射直前にはうち二例が消失しており、三倍では二〇例中五例に(十一)のしこりが生じ、三回目の注射直前にはうち二例が消失したが、新たに(十一)となつた一例を合わせて(十一)が三例、(十一)がしこつた部位を感知する程度の(+1)に一例が変化していた。

以下注射回数を追つてしこりの程度は増大し、最終一四回目の注射一時間後の1.5倍では、全四六例中(+1)が六例、しこつた部位の広がりを感知する(+2)が三二例、しこつた直筋を感知する(+3)が八例であり、同じく三倍では全一八例中(+2)が三例、他の一五例は全て(+3)であつた。

しかしながら、一四回連続筋注一時間後に触診された種々の程度のしこりも、1.5倍注射終了二週間後には四五例中四〇例において消失をみており、しこりとは別の触感として硬結部位を感知する(+1)が五例に認められたが、これも注射終了四週後には全て消失していた。また三倍注射二週後では、一八例中一一例においてしこりが消失しており、(+1)の硬結が三例、硬結の拡がりを感知する(+2)が四例認められたが、注射終了四週後では(+1)が三例のみとなり、これも注射終了六週後には全て消失していた。

要するに、鎮痛剤グレラン注を厚生大臣の許可条項である能書記載の効能・用法・用量に従い、医療の常識どおり筋注の都度、注射部位を変更して施用する限りにおいては、筋肉組織に対する障害性は極めて軽微で、原告らの主張する強い催炎性はなく、まして、筋拘縮症のような筋機能障害の発生に連なるものとは全く言えないことが明らかになつた。

(2) グレラン注の解熱作用の時間的推移及び発熱五〇%抑制量のいずれも解熱剤スルピリン注射液と同等の成績を得た。

(三) グレラン注は、PH5.9であるが、これは、筋肉注射剤として特に問題となる値ではない。

グレラン注の浸透圧比は10.1であり、溶血に至る浸透圧比より若干高いに過ぎない。グレラン注の適正量が適切な容積を有する筋肉実質内に正しく注射された場合においては、筋肉組織には緩衝能力があり、毛細血管網がよく発達して豊富であり、従つて血液が盛んであることから注入された水溶性薬液の浸透圧比がいつまでも持続せず、逐次環血によつて希釈されて局所からの吸収、排除が速やかに行なわれるのであり、また、筋肉には修復、再生力があるので、注射剤の影響は、時間的経過とともに消失するのである。加えて、筋肉注射剤の溶血性と組織障害性との関連についても未だ明らかではないところである。

一般に筋肉注射によつて、局所組織の顕微鏡レベルで発生する組織障害と大腿直筋が全体的に線維化瘢痕像を示し運動機能障害を伴うまでに至つた筋拘縮症とは全く異なる現象であり、筋拘縮症を合理的な薬物療法に従つた注射行為による局所組織障害性の結果ないしその延長線上において発生するものであると把握することはできない。

(四) グレラン注は、臨床治験、永年にわたり広く臨床に応用された経験例、臨床薬用量を基準とした臨床試験の結果からしても、その通常使用量において筋拘縮症をもたらすような強い組織障害性を有するものではない。

3 (含有成分の害作用)

(一) 原告らは、アミノピリンの副作用を指摘してグレラン注に有用性がないと主張しているが、そもそも本件訴訟は、原告患児らが乳幼児期にグレラン注を左太腿部に筋注された結果大腿四頭筋拘縮症の発症を見たことに対する原告らの損害賠償請求にかかる事案であつてグレラン注により原告らに顆粒球減少症が発生したとする損害賠償の請求ではないのであるから、原告らの右主張は、本件訴訟の本筋から外れるものである。しかし、これに対して、あえて反論を加える。

(1) 長年月にわたつてグレラン注またはグレラン内服薬を多数患者に投与した被告奥田においても、東京逓信病院医師北原哲夫においても、アミノピリンの副作用である顆粒球減少症を見ていない。また、前記のグレラン注の臨床治験例においてもかかる副作用発生の記載はない。

アミノピリンは、わが国では古くから日本薬局方に収載されているが、昭和五一年の第九改正日本薬局方解説書によれば、アミノピリンによる無顆粒細胞症がわが国では欧米に比べて少ないと記載されている。更に、アミノピリン等につき顆粒球減少症の副作用の記載がある成書等中でアミノピリンの有用性を否定したものはなく、欧州各国でもその有用性を否定していない。

アメリカにおいては、昭和四〇年にアミノピリンについて厳しい規制が行なわれたが、これも基本的には十分注意して用いるべきであるとの趣旨である。

(2) 医薬品は、有効性と安全性について総合的に比較考慮がなされてその有用性が判断されるものであり、診断、治療が可能であり、かつ極めて稀な発生を見る顆粒球減少症の副作用があるとの一事をもつてアミノピリンを有用性なしとして排除するような考え方は現時点においても行なわれていない。仮りに有用性がないとすれば、他の重要な医薬品ともども地球上から消滅し、大多数の人類がアミノピリンその他の医薬品の恩恵から見放される事態に至ることは明白である。

(二) 原告らは、ウレタンに発癌性のあることをあげて、グレラン注に有用性がなかつたと主張しているが、これも失当である。

(1) 厚生大臣の諮問機関である中央薬事審議会の副作用調査会の意見により、ウレタンを含有する医薬品に対する措置がとられたのは、昭和五〇年七月二四日であるが、これは、過去の臨床報告の蓄積に加え、昭和五〇年の野村大成(大阪大学)の実験報告を待つて行なわれたものであり、また、WHOがウレタンの発癌性に関する論文の集積を行なつたのは昭和四九年である。

(2) 第七改正日本薬局方第二部解説書によれば、ウレタンは、歴史的には催眠薬、気管支喘息薬として用いられたことがあり、適用として、慢性骨随性白血病、多発性骨随腫、菌性息肉腫等に内服(一日量1.5ないし4グラム)または静脈注(一回四グラム)を用いるとされているほか、製剤上の溶解補助剤として用いるものとされている。

また、アメリカの医薬品解説であるU・S・ディスペンサトリー二七版(昭和四八年)には、制癌剤としてウレタンが収載されており、一日服用量は二ないし六グラムとされている。これは、グレラン注の含有量の一三ないし四〇倍量である。アメリカの準薬局方であるナショナルフォーミュラリー一三版(昭和四五年)にも同じく抗腫脹剤としてウレタンが収載され、(但し、昭和五〇年の一四版で削除。)、イギリスのエクストラファーマコピア二七版(昭和五二年)にも同様に収載されていた。

更に、第七改正日本薬局方第一部には、ピラビタール注射液が収載されていたが、同薬局方には、「ピラビタールは、水に溶けにくいので、一般に溶解補助剤としてウレタンを一五%の割合に加えている」との記載があり、その後、ピラビタール注射液の収載が削除されたのは、第九改正日本薬局方(昭和五一年)に至つてである。

(3) 昭和五〇年当時、薬価基準に収載されていたウレタン含有薬品は、四二品目であり、ピラビタール注射液の各社製品をこれに加えると五一品目となる。

(4) 世界的な監視の中の経過においても、人のウレタン投与を原因とする発癌の臨床例報告及び疫学的研究結果は、なかつたとされており、昭和五〇年七月の時点で日本においてウレタンを含有する医薬品について規制措置がとられた事情は右のとおりであるから、本件訴訟において問題となるべき昭和四七年末以前の時点においても、ウレタンが同様の措置の対象であるべきであつたとする原告らの主張は理由がない。

4 (因果関係と一般的予見可能性)

(一) 本件において論じられるべきは、原告患児らの左大腿四頭筋に筋肉注射された被告グレランの製造販売に係るグレラン注と、原告患児らの被つた被害、即ちに左大腿四頭筋拘縮症発症との間の法的因果関係であり、ただ筋肉注射剤一般の組織障害性を論じるだけでは足りるものではなく、また、グレラン注が原告患児らの左大腿部に筋肉注射されたために原告患児らが左大腿四頭筋拘縮症にかかつたというがごとき自然的因果関係を論じるのみで足りるものでもない。

被告奥田により原告患児らの左大腿部にグレラン注が筋肉注射され、その結果原告患児らが機能障害の程度は別として左大腿四頭筋拘縮症に罹患している事実が立証されたとしても、これによつてグレラン注と原告患児らの本症発症との間の法的因果関係が立証されたとはいえない。

グレラン注と本症発症との間の法的因果関係が一般的に存在するためには、仮りにグレラン注を解熱目的に施用するとしても、通常の医師が乳幼児に用いるであろう注射量・回数・部位・頻度で使用すれば、必ず本症のごとき障害が程度を別としても発生する必要がある。そして本件における個別的因果関係を認定するためには、被告奥田が原告患児らに右のごとき通常の医師が乳幼児に用いるであろうグレラン注の注射量・回数・部位・頻度で使用したにも拘らず、本症が発症したことを要するのである。

(二) 原告らは、筋肉注射剤の組織障害性が疫学の病因論における主因(必要条件)であり、その他の要因は副因ないし誘因(十分条件)であると主張しているが、「筋肉注射剤の有する筋組織障害性」という一般的因果関係を論じるのではなく、本件においては、能書記載の成人量を基準とした臨床常用量のグレラン注に本症の主因となるような筋組織障害性があるか否かを論じるべきものである。

原告らの挙げる証拠は、通常の臨床常用量をはるかに超えた注射量による局所毒性的動物実験結果としての筋組織障害度であり、あるいは生体内に注入された注射液が稀釈、拡散、吸収される事実を無視した試験管内の溶血現象に過ぎない。被告グレランは、右の実験の価値を低くみるものでは決してないが、これらの実験は本件におけるグレラン注の通常臨床量使用時における筋組織障害性を証明するものではない。原告らが主張していることは、筋肉注射剤と筋組織障害性についての一般的因果関係に過ぎない。

法的因果関係の存否を、「統計的因果関係」、「高度の蓋然性」、「疫学的因果関係」、あるいは「事実上の推定」等々いずれの手法によつて論じる場合においても、それはあくまでもグレラン注と本症との個別的関係においてなされるべきもので、筋肉注射剤一般と筋組織障害性との関係で論じるべきではなく、またあくまでも通常使用の臨床量を用いた場合の結果を前提条件とすべきであつて、局所毒性的動物実験における注射量を前提とすべきではない。

しかるときは、統計的因果関係を認定するためには、「通常量のグレラン注の筋肉注射によつて統計的にみて本症が発生する」ことが必要となるが、統計的考察ができるようなグレラン注筋注による本症発症例は本件以外一件もないのである。

高度の蓋然性の手法によるものとしても、特定の事実が特定の結果を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性が主張立証される必要があるが、右に述べたごとく被告奥田の使用下においてのみグレラン注筋注による本症の発生をみる以上、被告奥田の使用下においての高度の蓋然性のみが論じられることとなる。このことは、被告奥田の特異な医療行為(特定の事実)が本症発症(特定の結果)を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性が認められることを意味するに過ぎず、右特定の事実としての被告奥田の医療行為がグレラン注の適正使用を前提としていない以上、グレラン注に本症発症の高度の蓋然性の存在を証明することはでき得るはずもない。

さらにまた疫学的因果関係について触れるならば、右手法は本来自然的(事実的)因果関係の解明を疫学的見地からの考察によつて得た結果によつて法的因果関係の解明まで高めるものであるので、必然的に地理的・地域的な観察と歴史的な観察を余儀なくされるものである。被告奥田の一診療所における例をモデルとして論ずることは単に自然的因果関係を論ずるに止まるものであつて、到底疫学的考察とはいえない。

以上のいずれの点からしても、グレラン注の適正使用と本症発症との間に法的因果関係は認められない。

(三) 次に、筋肉注射一般と大腿四頭筋拘縮症発症との因果関係についての一般的予見可能性であるが、浸透圧、溶血性、筋肉注射剤の筋組織障害性についての研究に、日本においては何びとにも先がけて早期から着手したという赤石英が、大腿四頭筋拘縮症に着目したのが昭和四六年頃からであり大腿四頭筋拘縮症に関する研究の権威者とされる宮田雄祐が本症と取組みはじめたのが昭和四九年から、また薬害と薬事行政の欠陥について第一人者と称されている高橋晄正が本症を知つたのが昭和四八年である。また、万一本症の原因が注射液の非生理性にあることが昭和四七年頃までに確定できていたものであるならば、医師は製薬会社に対しては医薬品の購入者の立場にあるので、全く何の気兼ねもなく各種申入れなりクレームが出せる立場にあつたのであるから、グレラン注についても当然そのようなクレームが出ていたはずであるのに現実にはそのような事実はなかつたのである。このように、医学会の権威者、第一人者ですら把握できなかつた筋肉注射剤の筋組織障害性が本症の原因であるとの予見は被告グレランにとつて全く不可能であつた。

(四) 原告らは、グレラン注と大腿四頭筋の因果関係に関し、注射による神経麻痺の事例を挙げているが、これは全く無意味なことである。即ち、橈骨神経とか坐骨神経とかの極めて重要な神経走路に関する解剖学的な知識の保有は、医師においては医学上の常識に類するものであり、またかかる神経に接して薬液が注入された場合には、注射薬剤はそのほとんどが非生理性を帯有するものであるから、神経損傷が生じて神経麻痺を発来することの知識も医師においては常識に類することである。従つて、神経において麻痺による損害が発生した場合には、専ら医師若しくは医師の監督指導下における看護婦の責任が問われるのであつて、製薬会社に注射薬液の神経に対する損傷作用についての責任は及ばないのである。人体各部位組織の繊細、脆弱性の程度は様々であり、注射薬液が橈骨・坐骨神経等を損傷するからといつて、それが直ちに筋組織に損傷を与えることを意味せず、従つて、これが注射薬液自体の副作用として論じられることもなく、結局不適切な注射部位の選択という医療過誤の問題に帰せられるのである。

5 (被告奥田のグレラン注使用の異常性と被告グレランの予見可能性)

グレラン注は成人向鎮痛剤として販売してきたものであり、能書記載の常用量による通常の使用においては、何ら筋肉組織障害性を有しない薬剤であり、従つて、仮りに原告患児らの障害が被告奥田のグレラン注投与行為によつて惹起されたものであるとしても、それは、後記の被告奥田の異常なグレラン注投与行為に原因があるのであつて、これこそ本症発症の不可欠の要因であり、この不可欠の要因に原告患児らの個体差が関連して発症したもので、グレラン注自体が原因となつているのではないから、被告グレランのグレラン注の製造、販売と原告患児らの障害との間に因果関係はなく、また、被告グレランは、被告奥田のそのような異常なグレラン注の使用を予見することができなかつた。

(一) グレラン注を含む通常の注射剤は、局所刺激性を有していたとしても、その量が常用量でかつ注射手技を誤らない以上、注射部位の筋肉組織に毛細血管等の異物に対する反応として生ずる急性炎症も軽度であつて注射液の吸収によつて筋肉組織に対する刺激が除かれ、炎症反応がおさまるのであり、この場合には、何らの筋肉組織障害も残さないのであつて、これが通常の筋肉注射の場合の経過である。ただ、大量の注射をしたために生じた激しい炎症がおさまらないうちに再び同一部位に注射されて炎症が継続するなどの特別の事情があれば、二次的に筋肉組織自体が変性を受けて壊死に至ることもあり得るが、これによつて直ちに大腿四頭筋拘縮症の因果関係が明らかになつたということはできない。筋肉注射は、広く行われているものであるにもかかわらず、筋肉注射を受けた患者、なかんづく小児の全員に筋拘縮症が発症しているわけではなく、筋拘縮症の発症には、注射液の種類、注射部位、頻度、量、患者の個体差等複雑な要因が指摘されており、かかる要因こそが筋拘縮症の原因と目さるべきものである。

(二) 一般に、乳幼児に対する注射剤の適正投与量は、アウグスベルガーの式ないしナルナックの式等により算出されるのであるが、ハルナックの式により計算すると、一歳児の小児薬用量は成人の四分の一である。グレラン注は成人使用を前提として一アンプルは二mlとなつていたのであるが、仮にグレラン注を小児に用いるとすれば一歳児に対する適正な使用量は0.5mlとなり、同様に二歳児に対する適正な使用量も0.5mlである。

また、乳幼児の手術後の疼痛に対して鎮痛剤を用いることは極めて稀で、特に乳児に対しては不要であり、その他の痛みについては、乳幼児がこれを訴えることはできないかまたはその訴えが不確実であるため、まず診断に留意し、次いで病名を明らかにし、確診を得た後に薬物投与が行なわれるべきであり、その対症療法剤としてグレラン注が用いられることがあるのであるが、グレラン注が鎮痛注射剤であり、かつ、乳幼児に対する解熱剤の投与は内服薬によつて行なわれるべきであることからすると、グレラン注等の筋肉注射の乳幼児に対する適用は殆どないか、または、極めて限られた状況下、例えば、現実に熱性けいれんが起つている場合、過去何度も熱性けいれんを起こしている場合、注射を打たなければならない緊急性のある場合等においてのみ、小児科専門医の判断ないし裁量により行なわれるべきである。グレラン注のような鎮痛注射剤が乳幼児に対して多用ないし連用されることは、臨床上、常態ではないのである。

(三) 被告奥田は原告らの主張によれば、当事者個人表記載のとおり、原告患児らに対して、グレラン注を連用しているのであるが、その一回投与量は二mlであり、これは、乳幼児に対する適正使用量0.5mlの四倍であつて、小児薬用量の常識をはるかに超える異常なものであつた。成人に対するグレラン注投与量の四倍量は、四アンプルに相当する八mlと換算されるが、この量は、日本薬局方における「一回投与量は、通例四mlを越えない。」との記載を著しく逸脱するものである。原告患児らの大腿部の筋肉が障害され、大腿四頭筋拘縮症に罹患したとしても、原告患児らの大腿部のグレラン注投与後の腫脹等は、すべてグレラン注適正量の四倍という過大量が原告患児らの左大腿筋肉内に乳児期から繰り返し注入されたことを要因とするものであり、グレラン注の適正な使用に由来するものとは言い難い。被告奥田は、体重一〇kg以下の乳児に対し、

成人量2ml×体重/10kg

の換算式に従い、グレラン注の量を算出したというのであるが、被告グレランは、このような換算式に従い、いとも通常的にグレラン注の連用が行なわれるが如き特異例に関しては、とうてい予見できなかつたところである。

(四) 右のグレラン注投与量の異常さに加え、被告奥田は、同表記載のとおり、常識ではとうてい考えられないグレラン注の多用、連用を行なつているのであるが(なお、原告患児らの注射回数を総受診回数で割ると84.7%となり、注射のみの治療回数を総受診回数で割ると三五%となる。)、その際の病名から見ると、注射時の病名の96.7%が比較的重篤でない軽微なものであつて、この原告患児らに注射されたグレラン注の96.7%は、いわば不必要な注射であつた。

このように、被告奥田は、原告患児らに対し、その初診時から注射をしただけでなく、その後も、患児に発熱がなくても近い将来に高い熱が出てくる可能性のある場合には、早目にやつていたほうがよいという考えで解熱剤としてグレラン注を投与した(なお、その際の原告患児らの体温の分布は、三六度台が15.2%、三七度台が44.2%で合計59.4%であり、正常の体温にある場合が過半数である。)。しかし、奥田医院で受診した原告患児らは発熱体温分布からも診断名、症状からもその時重篤な症状にあつた事実は、カルテの記載からも殆ど窺うことができないうえ、逆に、解熱目的で頓服投与されたグレラン、アミノピリンにつきその服用による解熱状況を記載した原告患児らのカルテを検討すると、大半は解熱の効果が得られている。解熱剤の適応に関し、発熱予防という適用は一般的に容認されているとは言えず、まして解熱注射剤をもつてこれに当てることは、解熱薬の効力持続がたかだか数時間に過ぎない点からしても、著しくその妥当性を欠くものと言わざるを得ない(なお、原告患児らの頓服服用時の体温は、三七度台が三〇%、三八度ないし三九度台が七〇%であり、これを前記被告奥田の注射時の原告患児らの体温分布と比較すると、頓服時の方が高く、発熱及び解熱に対する被告奥田の考え方がより鮮明となる。)。

(五) そもそも、医薬品において、医師が右のようにその適応を無視して多量に使用することについては、医療上一般性、妥当性があるとは考えられず、従つて、被告グレランに限らず製薬会社において、そのような事実を認識することはとうてい出来ない。適応を無視した当該医師にはそれなりの学問的根拠や識見があつたというべく、製薬会社の支配をはずれた医師の自由裁量性の領域における医療状況については、専ら当該医師の責任範囲に属すべきもので、製薬会社は無関係である。

C  被告武田

1 (大腿四頭筋拘縮症の発症の機序及び原因等)

(一) 筋拘縮症は、単に筋肉組織内に瘢痕が形成されているだけではなく、瘢痕形成の結果、筋肉の伸長性が阻害され、当該筋肉の関係する関節の機能障害を生じている疾患であるが、その関節の機能障害をもたらすのは、広範囲に筋が線維化・瘢痕化し、これがあたかも索状物のような状態になつた場合である。しかし、その詳細な発症機序は、未だ明らかになつていない。

(二) 筋拘縮症の原因及びその症例についてはもろもろの見解報告があり、また動物実験の結果についての報告がなされているが、これを要約すると次のとおりである。

(1) 筋拘縮症は、森崎直木、伊藤四郎の報告以降、臨床上の観察を通して、整形外科の領域において次第に知られるところとなつてきたのであるが、当初は症例も散発的であり、その成因についても、それが先天性のものか、それとも後天的な因子によつて生じたものであるかという関心以上には出ていない。その後、筋拘縮症に関する症例報告がある程度集積し、患者に筋肉注射の既往歴があることが共通して指摘されるに伴い、実地医療上日常的におこなわれている筋肉注射によつて筋拘縮症が生じるのか、生じるとすればその原因は何かという点に関心が寄せられるようになつた。

笠井実人らの一連の報告は、筋線維の委縮、変性、瘢痕組織がみられると述べ、原因についての考察をおこなつているが、これらはその点に関心を示した最初の報告であるということができる。しかし、この報告は、異物による無菌性の炎症、軽い細菌感染、注射針の血管損傷による血腫、薬液の吸収遅延による筋線維の瘢痕化、薬液の筋膜あるいは筋束の中隔近くへの侵入による癒着といつた、もつぱら注射手技上の問題にその原因があるのではないかと推論しているのであり、結論的には本症の成因に関しては大腿直筋の変性、あるいは瘢痕化ということ以上に深く分つていないというのである。また、笠井らの後期の報告では、注射薬液の種類、量、頻度、部位等も関係するのではないかと述べているが、注射歴その他注射薬液についてのそれ以上の考察はなく、それはあくまでも注射手技の観点から注射薬液に言及しているだけである。

実地医療上、筋肉注射が施行される頻度と比較して、筋拘縮症の発生頻度が少ないことから、もつぱら注射手技上の問題に原因があり、また先天性素因が主たる要因である場合をも否定し得ないというのが笠井らの結論であつた。

その後の諸家の報告も、基本的には笠井らの推論の枠を越えるものはない。先天性素因や体質が関係していると考えられるという指摘や、注射の部位、回数、薬液の量、吸収、局所の細菌感染等が関係するであろうという推論がなされており、また若干の症例について具体的な注射薬剤名があげられてはいるが、いずれも笠井らと同様に、もつぱら注射手技に原因があるのではないかという観点から、それらの諸要因を推論しているのである。また、筋拘縮症が一つの医原性疾患であり、医師としては、筋肉注射の施行に際して慎重でなければならないとする提言が数多くの諸家によつてなされていることは、筋拘縮症が注射手技に起因する事故であろうと考えられていたことを示しているのである。

拘縮筋の組織学的検討もおこなわれているが、いずれも筋肉組織の線維化、瘢痕化、ないしは周囲組織との癒着がみられたことを述べているだけであつて、注射との関係については、その点に言及するものでも、注射によつて生じた瘢痕様変化、ないしは周囲組織との癒着であろうと想像する域を出ていない。

瘢痕様変化ないしは周囲組織との癒着をみた原因に関しては、注射薬液の量、注入部位、注射回数等の注射手技の適否や、軽度の感染、薬液の吸収不良、患者の体質素因等が複合的に推測されているに過ぎない。薬液の刺激による無菌的な炎症を考えているものも散見されるが、前記のいくつかの要因の一つとして、その他の諸要因との複合によつて、筋拘縮症が発症したものであろうと推論されているだけである。

薬剤の一般的性状に最初に言及したのは根岸照雄の報告のようであるが、根岸らは、従前の症例報告で指摘されている個々の薬剤に特有な性状というよりも、当該薬剤の非生理的なPH、浸透圧等の一般的性状が、注射の量、頻度、期間、部位、および患者の年齢等と関与し合つて、筋拘縮症が発症するのではなかろうかと考えているのである。手術時の患部の所見や組織学的所見から、筋拘縮症の本態を考察しようとする試みも、すでに笠井らの報告に見られるが、筋の変性、ないしは瘢痕化という以上には出ていない。その後の多くの報告も、精粗の差はあれ、いずれも筋線維の変性、ないしは瘢痕化を指摘している。しかしながら、筋線維の瘢痕化が生じる機転に関しては、前記の幾多の要因の複合的関与を考えるにとどまつているのである。即ち、成因に関して現在わかつていることは、注射による筋の変性、或いは瘢痕化ということであつて、何故、大腿前面筋肉内に注射を受けたもののうちの極く少数にのみ本症がみられるのか、また両側に注射を受けても拘縮が片側にしかないものや、拘縮の程度に左右差がみられるのは何故かといつた疑問に対しては、現在のところ先天性の素因も考えられるし、注射薬液の種類や量、濃度、注射回数の頻度あるいは注射部位が関係しているのではないかと想像される段階をでていないのである。

筋肉注射剤の筋組織障害性については、筋拘縮症との関連を直接に指摘する報告はないと言つてよい。

(2) 動物実験の結果については、現在までに発表されている主要な動物実験に関する報告を検討しても、筋拘縮症発症の真の要因が何であるかは、未だ明らかとはなつていない現状である。

佐野精司ら及び宮田雄祐らの報告は、実験的に動物に筋拘縮症を作り出したというものであるが、佐野らの報告の内容を見ると、中間広筋部に筋注したものでも直筋型拘縮症となつて発現したり、直筋部の所見では、表層筋膜の肥厚が著明で、周囲組織と強く癒着し、易剥離性を失つていたということであるから、実験手技上に問題がなかつたかどうか疑問があるし、仮りにその点に問題がなかつたとしても、単に実験動物に筋拘縮症を作り出したというだけであつて、その成因に関してはなんら明らかにするところがない。また、宮田らの報告は、多要因説の域を出ないものであつて、しかもその発症メカニズム論は、炎症論上の知見と必ずしも一致しないものであるし、実験としては、炎症の極期であると考えられる一八日目までの観察にすぎず、その後の修復過程が全く観察されていないのであるから、その結論はにわかに首肯できない。

この間にあつて注目されるのは、西島雄一郎の報告である。西島が一旦筋肉の注射局所に生じた線維化部分が、脂肪組織に移行し、拘縮が消失することを実験によつて明らかにしたことは、従来の炎症論に新たな一知見を加えるものであるとともに、筋拘縮症の成因について、局所の炎症・線維化・瘢痕化という炎症論の単純な図式によつて、換言すれば、局所障害の量的集積によつて、筋拘縮症が生じるものではないことを強く示唆しており、本件との関係においてきわめて重要な知見であるということができる。

結局のところ、筋拘縮症の真の原因は、西島のいう拘縮型の経過を惹起する原因であろうというのが、現在までに得られた知見の総合的結論である。

以上の症例報告と動物実験報告を検討して得られる結論は、筋拘縮症の発症機序、筋肉注射と筋拘縮症との関係はいずれも明確にはされていないということである。

(三) 右のように筋拘縮症の原因については、諸々の見解があり、先天性の原因とするもの、後天性の原因とするもの、後者中でも注射を原因とするもの、注射以外に原因があるとするものなど症例によつて分れているが、患部に筋肉注射を受けた既往がある者、即ち注射が原因であるとし、または注射が原因であることを示唆する報告例が多いことも事実である。しかし、このように患者に注射歴があり、他に原因が考えられないことから、注射を受けていなければ筋拘縮症に罹患しなかつたであろうと思われる症例について、注射が原因であるといい、更に筋拘縮症には注射が原因のものが多いと称するのは、その限りでは誤つていないにしても、しかし、それだけでは被告武田に法律上の損害賠償責任があるとはとうてい言えないのである。

(四) 骨格筋の再生力は、血管や神経線維ほど強くはないにしても、それほど弱いものではなく、むしろ旺盛な再生力を有することが確認されており、骨格筋に注射による炎症等の損傷が生じても、肉芽組織を生ずることなく再生筋で完全に修復することが多い。従つて、筋肉注射によつて注射部位に損傷を受けても、特に障害を残さずに治癒するのが原則である。ただ例外的に、筋拘縮症に罹患する場合のあることもまた否定できない。そこで、このような発症と非発症とを分ける要因を明らかにすることが重要となるわけであるが、この問題を探究するには、実際に生じた症例の分析による方法と動物実験による方法とがある。

ところで、実際の症例を分析して発症の原因を明らかにするためには、発症例と非発症例とについて、いずれも発症に関連があるのではないかと考えられる事項が明らかになつており、その両者を比較して検討することができなければならないところ、実際の症例報告では、検討に際しての着眼点となる重要事項、本件では注射した薬液の種類、量、頻度、部位、先天的要因、年齢的要素等から具体的に明らかにされているものが殆どなく、非発症者については、全く不明である。本件における原告患児らの場合には、一般の症例報告に比較すると格段に詳しいが、それでも発症要因を検討するうえで重要な事項が総て明らかになつているわけではない。更に、被告奥田から注射を受けながら発症しなかつた者の状況は一切不明であるから、発症者と非発症者の状況を比較して発症要因を明らかにすることができないのは一般の症例報告と同様である。

このような事情により、学問的な厳密さでは、症例の分析からは発症要因が明らかにはなつていないのである。

(五) 原告らは、本症は筋肉注射剤の有する筋組織障害性を主因として発症すると主張する。

しかし、これ迄の症例報告で指摘された注射剤の種類は多種多様で組織障害性の強弱と本症発症の程度との間に何らかの関連性を見出すことはとうてい不可能であり、臨床経験に基づいた実地医家の見解の多くは、注射薬の組織障害性ではなくむしろ医療行為自体に問題があつたのではないかと指摘している。

これらの実地医家の見解は、臨床経験からの推論であつて、実験的な裏付けを行なつたものではないが、臨床体験に基づいて指摘している点を若干挙げることができる。即ち、

(イ) 筋拘縮症は、乳幼児期に頻回の注射を受けた場合に多く、乳幼児期の注射は特に慎重を期すべき旨を指摘する見解が多い。筋拘縮症の患者として報告された者に乳幼児期に注射を受けた者が多いことは、筋拘縮症による機能障害は、成長過程にあり著しい骨の伸長期にある者、即ち、骨の伸長期前に筋拘縮症に罹患した者において著しいとも考えられるが、筋拘縮症の発症要因についての考察では、筋拘縮による機能障害の程度だけではなく、筋拘縮自体の発生の危険も乳幼児が大きいとする種々の見解もある。

(ロ) 筋拘縮症の症例報告で、患者が受けたと報告されている注射剤の種類は極めて多種多様であり、その中には組織障害性の極めて弱いと考えられる生理食塩水、リンゲル液等も含まれていて、特定の種類の注射剤にのみ筋拘縮症の発症が見られるのではなく、筋拘縮症の発症は、筋肉注射剤一般に通有する問題であるとされている。

(六) 筋拘縮症の発症の状況では、次の諸点に注目すべきである。

(イ) 筋肉注射は、広く用いられている医療技法であるが、筋拘縮症の患者は、一部にしか発生していない。

(ロ) 注射剤の種類や組織障害性の強弱によつて筋拘縮症の発症の程度に差異があるとは認められていない。

(ハ) 筋拘縮症の発症の危険は、乳幼児期の注射において大であると考えられている。

(ニ) 特定の医療機関で集団的に筋拘縮症の患者の発生がある。

以上の諸点からすると、筋拘縮症の発症には、注射手技上の問題が重要な関係を有しているのではないかと考えられる。そして、更に、

(イ) 動物実験の結果によれば、筋肉注射によつて注射局所に生ずる組織障害の程度に注射薬量及び頻度が影響を与えていること。

(ロ) 動物実験の結果によれば、一回の注射によつて生じた障害は、その殆どが完全に回復しているのに対し、同一部位に連続して(毎日または隔日)注射した場合に回復が著しく損われること。

等の点を綜合して考えれば、筋拘縮症の発症には、注射が乳幼児期に行なわれたこと、注射液量が注射を受ける筋肉の大きさに対して過量であること及び注射による局所の障害が回復しないうちに次の注射が行なわれる程度に注射の頻度が密であつたことが筋拘縮症の発症に重大な関係を有するのではないかということである。即ち、筋拘縮症の発症の原因は注射剤の組織障害性の強弱にあるのではなく、患者の年齢並びに注射薬量及び頻度についての配慮に欠けた注射行為という注射手技上の問題も疑わしく、筋拘縮症の発症状況を説明する見解としては現在のところ、最も合理的なものである。

2 (予見可能性)

(一) 被告武田の研究者の研究報告の趣旨内容は、次のとおりであり、いずれも本症の予見可能性に結びつくものではないのである。

(1) 新谷茂らの研究報告「ウサギへの筋肉注射による薬剤の刺激性の新測定法」は、注射時の疼痛の有無・大小を動物によつて試験できるようにすることを目的とするものであり、この目的に沿つて、実験動物である家兎の注射部位(腓側広筋)及び障害の程度を肉眼で観察するための簡便・容易な方法を工夫したことを特色とするものである。

しかし、被告武田の問題意識は、注射に伴う疼痛、腫脹、発赤等の刺激性に注がれていたのであり、注射部位の損傷は、疼痛その他の刺激性評価の一つのメルクマールとして位置付けられていたのであつて、新谷の試験方法もこの立場から開発されたものである。

(2) 美間博之らの研究報告「非イオン性界面活性剤水性注射液の局所作用」は、ビタミンA、Dの可溶化研究の一環として行なわれたものであり、油溶性ビタミン可溶化技術についての特許となつているUSビタミン社の方法よりも更に良い方法を見出すことを目的とするものである。そして、その目的のために、美間らは、当時入手できた各種非イオン性界面活性剤について、注射時の疼痛、発赤等につながる局所刺激作用を界面活性剤の分子の形や大きさ等との関連において系統的に研究した。

しかし、この研究で用いた局所刺激性の試験方法は新谷の開発したものであるが、これによる判定は、専ら注射後二四時間の局所の観察によるものであり、永続的な組織障害の有無は全く意識していなかつたのである。

(3) 青木勝夫の研究報告「注射剤の疼痛軽減に関する研究(第一報)酸性注射剤におけるブドー糖の効果」は、酸性注射剤の疼痛軽減そのものを目的とした研究であつてそれ以外の何ものでもない。

(4) 荒蒔義知らの昭和三五年のクロモマイシンA3に関する研究報告は、被告武田が開発した強力な製ママ癌作用をもつ抗腫瘍物質クロモマイシンA3の組織障害性の観察を目的とするものであり、急性、悪急性及び慢性毒性試験のほか、薬理学的作用、局所作用について検討した広範かつ基礎的なものである。

また、新谷らの昭称三八年の研究報告「クロモマイシンA3の局所障害に関する実験的研究」は、クロモマイシンA3を筋肉内、皮下、服腔内、静脈内、眼瞼粘膜の各投与方法により投与し、肉眼的及び組織学的検討を行ない、併せて局所作用軽減の方策について種々検討したものであり、一部、新谷の局所刺激測定法が用いられたが、その結果としては、クロモマイシンA3による局所損傷は、最終的には再生像の見られる正常の組織に戻るという可逆性の変質性出血性炎であることが示されている。

以上のように、被告武田の研究者らの主たる研究目的は、注射による局所刺激の軽減ということであり、これらの研究者が筋肉注射による局所刺激性の研究及び局所障害性の観察をしていたからといつて、筋拘縮症の発症を予見していたと考えるのは全く誤りである。

(二)(1) 厚生省は、新医薬品について申請時に申請者から使用上の注意事項の案を提出させ、承認審査の際に中央薬事審議会で検討することとしているほか、昭和四三年からは、各薬効群毎に使用上の注意事項を整備する作業を開始した。これに基づき発せられた薬務局長通知は極めて多数に上り、現在もこの作業が続けられているが、筋肉注射剤に筋拘縮症に関する指示・警告をしなければならないとした薬務局長通知は皆無である。

(2) 昭和四二年以降、薬事法の下においては、医薬品開発過程で把握される有効性・安全性に関する全資料が当該医薬品の有用性判定のために提供されていたのであるが、同時にこのような体制の下においても、筋肉注射剤の局所刺激性は全く問題とされることなく、これに関する資料の提出が要求されることもなかつた。

(3) 一九六五年(昭和四〇年)五月、国連の世界保健機構(WHO)は国際医薬品モニタリング制度の検討を行なうこと、および加盟国は国内医薬品モニタリング制度を確立すべきであるとの決議を行なつたが、これを承けて、厚生省は、昭和四二年三月から医薬品副作用モニター制度を発足させた。

調査の対象となるのは

① 医薬品を通常の方法で使用した場合に発現する人体に対して好ましからざる副作用で使用時に予期し得なかつたもの

② 右以外の場合に発現した人体に対して好ましからざる作用で特に重篤又は異常なもの

である。

対象病院は昭和四二年の制度発足当時は、一九二施設であつたが、その後逐年拡充され、報告された副作用情報については、中央薬事審議会に提出されて検討を経たうえ、必要な場合には所要の行政措置をとるものとされているほか、「医薬品副作用情報」として厚生省から各方面へ伝達されている。しかし、制度発足の当初から昭和四八年三月までの医薬品副作用モニター報告のうち、注射剤についての報告をみても、筋拘縮症をうかがわせるような報告は全くない。

右のほか、新医薬品については、昭和四二年の「基本方針」により、医薬品の製造業者、輸入販売業者に副作用報告義務が課され、また、新医薬品以外についても昭和四六年一一月五日付薬発第一〇五九号厚生省薬務局長通知をもつて医薬品の製造業者、輸入販売業者に副作用報告義務が課された。しかし、これらの報告にかかる情報にも筋拘縮症に関する報告はない。

このような副作用モニタリングシステム等によつても、筋拘縮症に関する情報が捕捉されなかつた原因について、昭和四二年当時の厚生省薬務局製薬課長渡辺康が「筋拘縮症が医薬品の副作用とは考えられていなかつたためであろう。」と述べていることは、注目に値する。

(4) 被告武田は、医薬品の製造販売が薬事法の規則に適合しているという一事をもつて、民事上何らの責任もないと主張するものではない。

しかしながら、医薬品の有効性を確保することを目ざして、医薬品の開発過程における全資料を医学・薬学の一流の専門家によつて審査する体制を敷いたわが薬事法の規制のもとにおいて、なおかつ、筋肉注射剤の局所刺激性あるいは、筋拘縮症が問題とならなかつた事実及び各方面にはりめぐらした副作用モニタリングシステムによつても筋拘縮症に関する情報が捕捉されなかつた事実は、本症が薬剤固有の副作用でなかつたことを示すものであり、従つてまた、製薬会社が本症を薬剤固有の副作用として認識予見することがとうてい不可能であつたことを如実に示している。

(三) 筋拘縮症の発症機序や筋肉注射と筋拘縮症との関係が学問的に明確にされていないことは、製薬会社の予見可能性を論ずるに当つては極めて重要である。即ち、筋肉注射と本症との間の因果関係がどのように把握されていたか、その因果関係において、注射剤、なかんづくその組織障害性がどのような役割を果している関係を有するものとして把握されていたかが明らかにされなければならないのである。換言すれば、筋肉注射における注射剤が本症の発症にどのように関与しているかが明らかでない限り、製薬会社としては筋肉注射剤によつて本症の発症を予見し、またその予見に基づき発症を防止すべき措置をとり得べくもないからである。

また、予見可能性の有無を検討するにあたつては、判断の基礎となる情報の範囲を確定する必要があるところ、原告患児らが被告奥田から注射をうけたのは、昭和四一年五月から同四八年一二月迄の期間であるから、予見可能性の有無を検討するにあたつては、昭和四一年五月(遅くとも同四八年一二月)までに公表された情報が検討の対象とされるべきものである。そして、この範囲の症例報告及び動物実験報告が筋肉注射剤と筋拘縮症との関係について明らかにしている内容は、筋肉注射剤の種類性状が要因の一つとして、他の要因と複雑に関与し合つているのではないかという推論、あるいは筋肉注射剤の筋組織障害性が他の要因と並んで要因の一つに考えられるのではないかという推論にとどまつている。

一方、筋肉注射によつて、注射局所の筋肉組織に、程度の差はあれ、なんらかの非生理的な変化――場合によつては、壊死、反応性炎症――が生じることは、つとに知られていたことであり、そのような変化は、通常、局所的、一時的なものであつて、筋肉の機能に重大な障害を後遺することは知られていなかつたし、またそのようなことがあろうとは全く考えられていなかつた。結局、筋肉注射による局所の障害についての、当時におけるこのような認識のもとにおいて、製薬会社が、前記の筋肉注射と筋拘縮症との関係についての情報から、重大な機能障害を後遺する筋拘縮症の発症までを予見することはとうてい不可能であつたと言わなければならない。

3 (被告奥田の診療行為と本症発症の因果関係)

(一) 本症の発症には注射手技の問題が重要な関係を有しているのではないかと考えられることは先に触れたとおりであるところ、被告奥田の原告患児らに対する診療は極めて特異なものであつた。即ち、解熱及び発熱予防の目的でグレラン注が、消化器疾患の場合にパラキシン(山之内製薬の筋注用クロラムフェニコール)が上・下気道疾患の場合にペニシリンが、それぞれ第一選択の薬剤として初診時にまず使用されていることであり、また、発熱があつたとは認められない患児に対してまで、不適切かつ不必要にも予防と称してグレラン注を注射したことである。

(二)(1) 元来、乳幼小児に対しては、解熱剤をみだりに使用しないのが原則である。小児は、発熱し易いが、成人に比して発熱に耐える力が強く、また、発熱は生体の防禦機転の一つでもあるので、発熱があつた場合に直ちに解熱させるのが良いかどうかは、発熱の程度そのものではなく、全身状態や予後によつて決めるべきである。解熱剤投与の適応は、熱性けいれんを起す虞れのある場合、発熱によつて原疾患が修飾され診断が困難な場合、発熱が持続し消耗が激しい場合等である。また、解熱剤は、経口投与で十分であり、注射を必要とすることは殆どない(この点については、被告グレランの主張5を援用する。)。

(2) 小児科診療においては、筋拘縮症の問題が生ずる以前においても、注射の適応は、重症な患児について薬剤の迅速な効果を期待する場合、嘔吐が激しいため経口投与が不可能な場合、意識障害のため誤飲の危険がある場合、正確な量の薬剤を投与することが確実に必要な場合、経口投与では薬剤が分解したり、腸管からの吸収が不確実になる虞れがある場合、経口投与では胃腸障害がひどくなる場合等であり、小児に対してはできるだけ注射をしないのが鉄則であるとされていた。

(3) 以上のとおり、被告奥田の原告患児らに対する注射は、およそ医療の基本を無視した過剰な診療行為であることが明らかである。

(三) 被告奥田は、原告患児らに対する診療期間中、原告患児らの注射局所のしこり、腫れ等についてしばしば訴えを受けていたほか、下肢の機能異常(歩行障害)の訴えも受けていたにも拘らず、注射局所の変化には何らの考慮も払わずに同一部位または僅かに位置をずらした部位に頻回大量の注射を繰り返しており、このことは、被告奥田の記載した原告患児らのカルテ等から明らかである。

(四) 本件は、原告ら主張のとおり、被告奥田に医師として当然わきまえるべき基礎的な知識さえあれば予見・回避が可能なはずであつた。このような医療上の問題については、そもそも製薬会社に警告義務はないし、医師が不注意にも結果を予見せず、結果の発生を防止し得なかつた場合には、専ら医師のみがその責に任ずるべきである。このことは、専門職である医師の職責に照らして当然のことというべきである。

本件では、被告奥田は、前記のとおり、原告患児らに対して医学の常識をかけ離れた独自の治療を行ない、不必要な注射を漫然と頻回に実施し、注射局所の変化や下肢の機能障害が生じてもこれに全く注意を払わず更に不必要な注射を続けたのであり、かつ、僅かの注意を払つていれば、原告患児らの障害の発生を防止することが可能だつたはずであるから、本件については、被告奥田が専らその責を負うべきである。

4 (筋肉注射剤の筋組織障害性とその警告義務)

(一) 仮りに、グレラン注の筋組織障害性が原告患児らの本症発症に関与しているとしても、この障害性はおよそ筋肉注射剤一般の通有性であり、強弱の差はあれ、市販の注射剤は例外なくこれを有しているのであつて、この障害性を除去することは現在の科学水準では製薬会社の努力をもつてしても不可能である。津山直一が「注射の功罪」の中で、筋肉注射によつて筋組織が瘢痕化し、その程度如何によつては機能障害の可能性があると述べている趣旨は、注入される薬物の種類を問わずおよそ筋肉注射剤一般についての問題の指摘である。このように、筋組織障害性は筋肉注射の宿命ともいうべきものであつて、筋肉注射を全面的に廃止するのでない限りこれを除去できるものでなく、それ故に古来筋肉注射とはそのような筋組織障害性のある薬液を筋肉内に注入するものとして実施されてきたし、また、そうあるほかないのである。とすれば、グレラン注が何らかの筋組織障害性を有していても、これは自動車の通有的な一般的危険性をこえる構造上の欠陥に相当するような固有の欠陥ではないというべく、製薬会社としては、物そのものの欠陥による製造物責任は問題にならないことになり、欠陥の有無は、筋肉注射剤に添付される指示警告の問題のみに限られるのである。しかし、問題とされている事項が、製薬会社が指示警告すべきものとはいえない場合であれば、そのよう指示警告が付されていなくても当該筋肉注射剤が欠陥医薬品に該らないことは言うまでもない。このように、筋肉注射剤の組織障害性に起因して本症が発症するものとしても、このことから直ちに本件被害が製薬会社の責任領域に属する問題とすることはできないのであつて、問題は、先に主張したような具体的事実関係の下で発生したとされている本症の場合に、これを未然に防止すべく、被告武田に医師に対し指示警告をするべき法的義務があつたか否かである。

(二) そもそも、製薬会社が医師に提供すべき情報は、医薬品に固有の情報に限られるべきであつて、医師の専門領域である医療技法の問題にまで立入つた情報を提供する必要は全くない。製薬会社には医師の医療行為を指導監督しなければならない義務はないのである。筋肉注射は古くから医療の世界で用いられてきたのであるが、筋肉注射剤が一般に組織障害性を有していること、筋肉注射がときとして硬結や瘢痕を生じさせることは、医師の一般的知識ともいうべきものであるから、このようなことを製薬会社から医師に伝達する必要などはこれ迄全く考えられなかつたことである。

原告患児ら罹患の原因としては、医師の注射薬量や頻度についての配慮に欠けた注射行為という注射手技上の問題が最も疑わしいのであるが、これは本来医師の領域の問題であつて製薬会社の領域の問題ではないのである。このことは薬事法五二条の規定からも明らかであるし、一方、欧米先進諸国においても、筋肉注射による本症の発症例が報告されているにも拘らず、それらの諸国における筋肉注射剤の能書中に、本症発症の危険を指示警告している例はないのであるが、これは、それらの事項が製薬会社が指示警告すべき事項ではないと考えられているからである。

5 (グレラン注の欠陥性について)

原告らはグレラン注を欠陥商品であると主張している。しかし、原告らの主張のうち、アミノピリンによる無顆粒球症及びウレタンの発癌性については、仮りにこれらがグレラン注の欠陥性を招来するものとしても、本症はそのような欠陥により生じたものでないから本件の問題には関係がない。問題はグレラン注の筋組織障害性であるが、前記のように市販の筋肉注射剤は程度の差はあれ例外なく筋組織障害性を有するものであり、欠陥性として把握すべきものではない。もつともこの障害性の程度が、一般の筋注剤における通有性として許容される範囲を逸脱する程度に至つている場合は、これが欠陥として評価されても仕方がないのであるが、グレラン注がそのように強度の障害性をもつ薬剤であるとの証拠はない。

6 (医薬品の安全性確保と販売者の責任)

(一) 近時の医薬品には合成化学物質から成るものの多いことは事実であるが、合成化学物質であることが直ちにその医薬品の危険性を意味することにはならない。のみならず、合成物資であれ天然物質であれ、それを新規に医薬品として開発し人体に投与する場合には、未知かつ重大な有害作用の危険性がないとはいえないのであり、その反面、合成、天然いずれの物質であれ、長年の使用経験を積んだ後には、末知の有害作用の危険性は言うに足りないこととなるのである。従つて、原告らの主張のように合成化学物質の危険性のみをとりたてて強調することは事を誤るところとなる。

長年使用に供されてきたグレラン注について、それが合成化学物質であるということだけでいかにもそれに危険性があるかのような結論を導こうとするのは、論理的にも不当である。

(二) 大量生産による商品として流通過程に置かれるものは、ひとり医薬品に限らない。およそ商品に欠陥がありそのために被害をもたらす場合、それが大量に生産され、かつ流通する以上、被害の規模がそれだけ拡大することは当然のことであり、このことは、当該商品が何であるかということには無関係である。のみならず、本件被害の発生が原告患児らに対する注射の量、頻度等と密接な関連があるとすれば、それはまさに医療過程における診療行為の適否の問題に属することであり、当該注射剤が大量に生産されたかどうかとは無関係である。けだし、当該薬剤が大量に生産され、かつ、流通に置かれても、医療過程に採用される機会を広く与えたというだけのことであつて、注射の量や回数を左右するものではないからである。

(三) 医薬品の安全性に関する情報の一切を専ら製薬企業のみが把握している事実はなく、この種の情報は、大学、諸研究機関、医療機関等もまたそれぞれ、場合によつてはむしろ製薬企業以上に、これを得ており、また、本来有すべきものである。本件において問題とされている医薬品は、国民自らが購入し施用するものではなく、専ら専門的な医療過程において、個々の患者に対し注射という一つの医療技術を通してのみ投与されるものであるから、医療機関に対する信頼という問題こそあれ、消費者たる国民の製薬会社への信頼という問題は、そもそも生ずる余地がない。

(四) 今日、一つの商品が生産され流通に置かれて消費者の手に渡るまでには極めて多くの者が関与している。最終製品の製造者を始めとして、原材料、部品を製造しこれを最終製品の製造者に提供する者もあれば、最終製造者から商品を一括購入してこれを小売商に転売する卸売業者、卸売業者から購入した商品を直接に消費者に販売する小売商があり、更にはこれらの者の間にあつて商品の運送や保管を担当する者等種々の者が生産と流通とに関係しているわけである。

ところで、商品の安全性を問題とする場合に、法的次元においては、これら総ての者が当該商品の安全確保義務を負うということはできず、また、その義務の態様も一様ではない。従つて、商品の欠陥による被害につき誰がその法的責任を負うべきであるかを問題とする場合には、当該商品欠陥の態様とその商品の製造と流通にかかわりを持つた者の関与の態様とが具体的に検討されなければならない。

グレラン注の容器・包装等には被告武田の商号が付されてはいるが、被告武田は、「販売」と明示し、更にこれと並んで「製造 グレラン製薬株式会社」との表示がなされているのであるから、消費者がこの表示から被告武田を製造者と見誤ることはあり得ない。従つて、被告武田は、CE条約案三条二項の予定する責任主体とはなり得ない。

また、薬事法上、薬品の製造業者及び輸入販売業者については、製造または輸入の許可、能書の添付、薬品の包装等に関する厳しい規制があるが、これに対し、販売業の許可に対する薬事法の規制は、店舗の構造設備、薬剤師の員数、申請者の欠格事由の有無等、販売業を営むうえで必要な条件についての審査が行なわれるのみである。一般販売業にあつては、販売に至るまでの医薬品の貯蔵・保管が保健衛生上支障なく適切に行なわれるため店舗が一定の設備基準に適合することが必要とされ、そのための審査が行なわれるわけであるが、製造承認・許可が品目毎に行なわれるのに対し、販売業の許可はそうでない点において製造業と販売業との規制には本質的に異なるものがある。

(五) 被告武田は、我が国最大の製薬企業であり、その宣伝力、流通力が巨大であるとしても、そのことと被告武田の本件責任とは何のかかわりもない。

なるほど被告武田は、研究所を有し、必要な調査研究を行なう能力を有している。しかし、問題は単なる販売者に過ぎない被告武田がグレラン注を被告グレランから仕入販売するに当り、果してその安全性の確認をなすべき注意義務を負つていたか否かということであり、調査研究能力の有無は、かかる注意義務の存在が肯定された後において初めて問われるべき事柄である。

(六) 被告武田が被告グレランの筆頭大株主であるとしても、被告グレランは、被告武田とは別個の株式会社であり、独立して経営活動を行なつているのであるから、被告グレランの責任が直ちに被告武田の責任と同視し得るような一体性は、両者間に存しない。

また、被告グレランは、自己の製品には資己の商標たる「グレランGrelan」を付しているのであつて、被告武田がブランドを付与している事実はない。被告グレランが被告武田から一部の原材料を仕入れている事実があるとしても、それは、一般の商取引関係があるというにとどまり、本件責任を論ずるにつき被告武田と被告グレランとの一体性を基礎づける事由とは全くなり得ない。

更に、グレラン注の能書に「販売武田薬品工業株式会社」という記載があるのは事実だが、これは前記のとおり、あくまでも販売者名を表示しているのにとどまるのであつて、能書の作成名義の表示ではない。薬事法上、医薬品については能書(添付文書)の必要的記載事項が法定され(同法五二条)、これに適合しない医薬品の販売は禁止されている(同法五五条)のであるから、能書は当該医薬品が販売される以前に製造者の段階で作成され添付されていなければならない。そして、被告グレランから被告武田に対するグレラン注の販売も薬事法上の販売と見るべきものであるから、グレラン注の能書は、薬事法を遵守する限り、被告武田が被告グレラン注を購入する以前において添付されていなければならず、この点からも単なる販売者が能書の作成者となることはあり得ないのである。従つて、被告武田がグレラン注の能書の作成者であることを前提として、被告武田がグレラン注の品質を保障したとする原告らの主張もその前提を欠くものである。

そして、被告武田は、如何なる意味においても、グレラン注の製造に関与したことはないのである。

(七) 仮りに、販売者といえども製造者や輸入販売者と同様の注意義務を負うとされる例外的な場合があり得るとしても、本件における被告武田の立場は、右例外的な場合には該当しない。

(1) 原告らが請求原因4C(二)(販売者責任の根拠)で主張しているところは、要するに被告武田の立場が右の例外的な場合に当るとする主張であるにほかならない。しかし、そこで主張されている諸事情は、前記のとおり、いずれも根拠として的外れかないしは事実誤認に基づくものであつて不当である。

(2) もとより、製造者に安全性確保義務が課せられているのは、当該製品が販売されればこそである。製造されても販売されることがなければ、消費者によるその使用ということもまたありえない道理であつて、安全性確保義務などは問題となりえない。この意味で、医薬品の製造者に課せられている安全性確保義務とは、より正しくは、製造者が当該医薬品の製造・販売をおこなうにつき課せられているところの義務と解される。

そして、本件グレラン注に関していえば、これまた言うまでもないことであるが、右の趣旨における製造・販売は、被告グレランがこれを行なつていたのである。被告グレランの右販売活動は、被告武田との間の物流取引のみならず、直接需要家に向けての宣伝、販売促進、学術情報活動をも包含するものであつたのであり、被告武田の立場は、被告グレランと各卸売業者との中間に位置して、製造・販売者から末端需要家に至る商品流通過程の一段階を担う中間流通業者としてのそれであつたに過ぎず、その現実的な役割も、右に照応して、製品の物流と代金回収に尽きていたものである。

従つて、通常の製造者の場合にみられる製造・販売は、本体においても被告グレランが自らこれを行なつていたことには何らかわりはないのであつて、なにも、右の製造・販売のうち、本件において被告グレランが行なつていたのは製造の部分のみであり販売の部分は専ら被告武田が担当していて、両者伴せて一本の製造・販売が行なわれていた特殊なケースといつたものではない。

(3) 医薬品の製造者が当該医薬品の使用に関して消費者に伝達すべき情報は、自ら当該医薬品の開発・生産・試験を行ない、関連情報を蓄積し、当該製造者の責任において一元的に掌握・管理・伝達すべきものであり、かつそれが常態である。即ち、添付文書が製造者段階で作成され商品に封入されるものであることをはじめとして、これを補充するものとしての学術パンフレット類の作成、送付、医学雑誌等への広告掲載、学術情報員(プロパー)の教育及び需要家への派遣等の情報活動は、挙げて製造者自らがこれを行なうのである。製造に関する日常のクレーム処理もしかりである。

以上は、いわゆる「販売元」と目される販売者を経由して販売がおこなわれる場合においても何ら事情は異ならない。本件グレラン注の場合の情報管理も、医薬品に関する情報管理のあるべき常態に即して、すべて製造者たる被告グレランが行なつていたのである。

(4) 医薬品の販売者が、いわゆる「販売元」である場合、「衡平の見地に立脚」して、この者に輸入販売者、従つてまた製造者におけると同一内容の安全性確保義務を負わせるとする見解がある。しかしながら、その立脚するところの「衡平の見地」とは、単に「医薬品というそれ自体に危険性をはらむ商品を販売して利潤を挙げている者とそれを使用する、あるいは使用せざるを得ない最終利用者である一般大衆との立場、利害等の相違や安全性確保能力の有無等を考慮した結果」というに過ぎないのであつて、問題を製薬企業対一般消費者という単純図式一般の問題にすりかえてしまつているのである。

もとより、一般論としては、右のような衡平の考え方に立脚すべき場合もありえないわけではなく、現に、医薬品の製造者が高度の安全性確保義務を課せられるとするのは、まさにそのような見地に立脚すればこそなのであろう。しかし、ここでの問題は、衡平の見地に立脚した結果として製造者が右のごとく安全確保義務を負うとされている場合において、なにゆえに、これに重ねて流通に従事するにすぎぬ「販売元」たる販売者までもが、右と同一内容の安全性確保義務を負わねばならないのかということである。

(5) 製造者に安全性確保義務が課せられていることを前提としても、なお例外的には販売者といえども、右と並んで製造者同様の義務を負わせることが必要な場合があるとすれば、それは、製造者にのみ右の義務を負わせるとするだけでは、衡平の見地からみて、いかにも片手落ちとなるような特段の事情の存する場合に限るというべきである。

こうした観点からすれば、製造者が国外にある場合、これに対する被害者からの賠償請求が実際上困難を伴うことを慮つて身代り的に安全性確保義務を負わされているのが輸入販売者の立場であると理解できるし、また、製造工程のみは無名の下請業者に請負わせて、自らの製品であるかのごとく自らのブランドを付して販売する販売者の責任を製造者同様のものと考えることも、こうした見地からはじめて是認されることとなるのである。

しかし、本件においては、製造者に安全性確保義務を負わせることに加えて販売者にまで右同様の義務を負わせるのでなければ、被害者との関係において衡平を失することとなるような特段の事情は全くなく、原則通り、本件販売者たる被告武田がグレラン注について製造者同様の安全性確保義務を負うものではない。

7 (原告らの損害論について)

被告武田は、本件について損害賠償責任を負うこと自体を争うものであるが、それとは別に、原告らの主張する損害論も失当であると考える。

(一) 原告らは、損害賠償額として慰謝料の名目で全員につき一律の金額で請求しているが、大きな疑問を抱かざるを得ない。

(1) 原告らの主張の趣旨が、各患児らの個別的事情を考慮することなく、一律に損害額を算定請求するというのであれば、そもそも私法上の請求については、当事者毎に個別的に具体的事情に応じて損害額が算定されるべきであると解されているから、このような一律請求は許されないものと言わねばならない。

(2) 不法行為を原因とする損害賠償の内容は、逸失利益を中心とする財産的損害と精神的損害(慰謝料)とがあるわけであるが、本件では、原告らは、特段内容を明らかにすることなく慰謝料のみを請求している。原告らは、慰謝料請求の中に原告患児らの全損害を含めて請求を行なうものであつて、精神的損害のみの賠償を求める趣旨ではないと主張しているが、各原告の個別的事情を全く無視することは妥当でない。

従前もいわゆる包括請求を認めた裁判例が幾つかあるが、それも、慰謝料認定に当り、個別の具体的症状を詳細に検討のうえ、損害額を認定しているのである。

本件においても、原告患児らの症状の程度等は個別に検討し、損害賠償額の算定をするべきである。

(3) いわゆる評価説(傷害説、労働能力喪失説)も、個別の症度等を無視して損害を認定すべきことを唱えているわけではなく、却つて、労働能力の喪失自体を損害と解する立場は、必然的に被害者に後遺症の部位、程度によつて、どの程度の稼働能力の低下をきたすかという点の検討を要請することになるのである。

(二) 原告らの制裁的慰謝料なる概念は認めることができない。けだし、

(1) 制裁的慰謝料は、損害の公平な分担を目的とする損害賠償制度の理想に反するものであつて、民事法と公法、特に刑事法との明確な分化を理想とする我国の法制の下では採り得ないものである。

(2) 前記のとおり、被告武田は、筋拘縮症による機能障害を全く予見していなかつたのであり、これを予見していたとの原告らの主張は、事実無根である。原告らは、被告武田が利潤追求のために製薬会社としての任務に著しく背いたかの如く主張しているが、原告らの主張するところは、曲解と独断に満ちており全く根拠のないものである。

D  被告国

1 (医薬品の特質)

(一) 医薬品は、その使用目的に適つた有効性を発揮し、人体にとつて有害な副作用、毒作用等がないのが理想である。しかし、化学物質の生体に対する作用は多面的なものがあり、有効性のみを有する医薬品を開発することは、現在の学問水準では不可能なこととされている。従つて、医薬品は、有効性を有する反面、何らかの副作用等による危険性を伴うものであり、このような性質をたとえて、両刃の剣といわれるゆえんである。

(二) 医薬品は、右のような特質を有するため、その有用性は、有効性と安全性のバランスを考慮した上で評価されなければならない。医薬品の有用性とは、通常、その適応症に属する患者群に対してこれが用いられた場合、治療上の有益性が副作用等による危険性を上回ると総合的、統計的に判断されることを意味するのであり、必ずしも個々の患者に投与された医薬品がすべてその患者にとって有益であることを意味しているのではない。従つて、個々の患者に使用される医薬品の有用性の確保は、その医薬品を使用する医師が、個々の患者の疾患の程度や状態またはその推移等を考慮のうえ、その専門的な判断によつて配慮していくべき重要な課題なのである。

(三) 被告国は、医薬品のこのような有効性に関するメリットと副作用等に関するデメリットとを総合的に比較考慮し、国民全体にとつて保健衛生上有益であるとのマクロの立場に立つて、医薬品の存在価値を認めているのである。従つて、個々の患者のレベルにおいても、多くの場合、投与された医薬品の効果によるメリットが享受されていることになるが、だからといつて、被告国がその存在価値を認めた医薬品の副作用によるデメリットの方をより重く受ける患者が全く出ないことまでは、被告国は保証しているものではない。

(四) 医薬品による副作用の発生要因は、薬物の作用のほかに、投与される生体の条件と投与条件(投与量、投与回数等)に影響されることが大きい。

この生体側の条件としては、患者の生理的特性(年齢、性、妊娠、体重等)、疾患の性質(重症度、急性、慢性、治癒の難易度、予後等)、合併疾患の有無と性質、代謝物の生成と毒性、個人差、人種差、薬物相互作用、精神的・心理的因子等の事項があげられる。このため、同一の医薬品を同じように投与しても、生体側(患者側)の条件によつて副作用が発現する場合と発現しない場合とがあり、発現する場合でもその内容や程度が著しく異なる場合がある。しかし、医薬品の副作用は、通常投与量、投与回数、投与期間等に比例して、強くまたは弱く発現する場合があるので、医薬品の副作用を論ずる場合には、医薬品の使用状況との関連性が重視されなければならない。

2 (注射剤とその使用方法)

(一) 医薬品は、その有用性をより高め、適用に便になるように、種々の剤型に製剤化されている。昭和五一年四月制定の第九改正薬局方においても二七種類の剤型が掲げられているが、これらの剤型は、それぞれ投与経路から経口剤、注射剤、外用剤に大別することができる。

そして、注射剤は、経口剤の欠点を補い、主として次のような特長を持つ医薬品の剤型として製造されてきたものである。

(1) 効果の発現がより確実であり、かつ、迅速である。

(2) 経口投与が不可能な患者に対しても投与できる。

(3) 経口投与が不適当な薬物でも、注射剤としては可能である。

注射剤は、このような意義と目的をもつて製造されているものであるが、その歴史は古く、既に一七世紀の末ころから一部の医師によつて使用されたといわれ、その後一八世紀にフランスでアンプル剤が開発されてから次第に広く使用されるようになり、現在、薬局方の製剤では、錠剤とともに最も収載数の多い剤型となつている。このことは、注射剤が、過去及び現在において、その存在価値を世界的に認められ、医療上必要な剤型として使用されてきたことを示している。

(二) 注射剤は、適用方法から分類すると、皮内注射、皮下注射、筋肉注射、静脈注射、動脈注射、腹腔内注射、脊髄内注射等に分類される。注射剤の適用方法は、薬物の性質や患者の病状等によつて異なるものであるが、筋肉注射の特長は、次のとおりである。

(1) 筋肉注射は血管が多いので、皮下注射と比較して一般に吸収は速やかである。

(2) 皮下注射では投与が適当でない不溶性・懸濁性の薬剤も投与可能で、投与された薬剤は、静脈注射では急速に吸収されるためショック等の障害が起きやすく、作用時間も一般に短かいのに対し、筋肉内で徐々に吸収されるため、作用時間を持続させる利点がある。

(3) 筋肉組織は、知覚が鈍いので、注射時の痛みが少ない。

このように、筋肉注射剤は、医療上の必要性から剤型化された製剤であり、その存在価値は、現在においても評価され、世界各国で使用されているものである。

(三) 右のとおり、注射剤は、臨床上極めて有用ではあるが、一般に、経口剤と比較して副作用や毒性も強くなるので、全身的な作用を期待して薬剤を投与する場合には、医師は、まず経口投与方法を考慮する。しかし、診療上、経口投与が不可能な場合や不適当な場合には、前記の剤型的特長を有する注射剤の使用を考慮することとなるが、ただ注射剤はあくまでも経口投与剤を補うものとして限定的に使用すべきものであり、このことは、医師が注射行為をする場合の一般的原則、当然の遵守事項として確立しているものである。

(四) 右の注射剤使用の一般的原則は、小児科領域における注射剤使用においてもあてはまる。即ち、小児科領域の医学書には、従来から注射使用の一般原則がほぼ同様な内容で記載されており、これによれば、注射剤は、従来より小児科領域において経口投与が不適当または不可能な場合、あるいは迅速な効果とする場合に限つて使用すべきこととされていたのである。そして、小児の場合、成人に比して副作用、毒性等が発現しやすいので、注射剤の使用はより慎重を期さなければならないことが併せて指摘されていたのである。

3 (筋肉注射剤の局所障害性と大腿四頭筋拘縮症発症との一般的因果関係)

本症発症の機序は、未だもつて科学的に明確にされておらず、推測の域を出ていないのであるが、この点は措くとしても、本症の主因は、筋肉注射剤の局所障害性にあるのではなく、むしろ、医師の適応を無視した頻回、大量の注射行為にあるのではないかと考えられるところである。その根拠は次のとおりである。

(一) 本症の症例報告や注射に関する文献によれば、諸外国での本症の報告は少なく散発的であるのに、我が国ではその総数が多く、特定地域の特定医療機関に集中的に発生するという特異な現象をみせている。即ち、本症の集団発生事例として報告されているのは、伊東市の某医院、岸和田市のM医院、福井県今立町のH病院、山梨県鰍沢町のY医院等であり、本症を社会問題として提起する端緒となつたのは昭和四八年の山梨県鰍沢町での集団発生である。このことから本症多発の原因は、特定医療機関の医療技術の欠陥にあると考えられる。

集団発生の例は、このほかにも指摘されているが、注目すべきことは、特定の医療機関の注射部位の好みで筋拘縮症の種類にも著るしい差異が認められることであり、例えば、岸和田市、福井県今立町、山梨県鰍沢町は大腿四頭筋拘縮症であり、岩見沢市、京都府網野町は三角筋拘縮症である。

このように、筋肉注射が全国のあらゆる医療機関で行なわれているにも拘らず、本症がある特定地域の特定の医療機関において集団発生していることは、特定医師の医療行為に原因があると考えざるをえない。

(二) 日本小児科学会筋拘縮症委員会は、日常実際の医療に従事している臨床医師に対して筋肉注射についての共通の心得を示し、不必要な筋肉注射を阻止し、濫注射による本症の防止を周知徹底させることを目的として「注射に関する提言」を昭和五一年二月と七月の二回にわたつて発表した。また、この趣旨を徹底させることを目的として同五三年六月「筋肉注射に関する提言の解説」を発表した。この提言に記載された事項は、医師にとつては常識的で基本的事項であつたが、この「注射の提言」及び「提言の解説」が多くの小児科医に読まれて周知されるに至つた結果、本症の患者数は激減している。

右のとおり、本症が社会問題化した以後も依然筋肉注射剤が使用されているのに、筋肉注射投与に関する常識的事項を医師が遵守することで本症患者の発生が激減したことは、本症の原因が、筋肉注射剤の成分にではなく、注射の方法にあつたことを充分窺わせるのである。

(三) 注射は、注射針を皮膚組織、筋肉組織等に突き刺し、人体にとつて本来的に異物である注射液を生体内に注入する行為であるから、注射針による侵襲作用及び薬液の組織内への注入に伴う機械的、物理的刺激作用により、注射部位に疼痛、発赤、腫脹等の一時的・局所的な組織反応を発生させる危険性があることは否定できない。

しかし、通常の注射行為によつて起る局所組織反応は一時的なものであつて、一般に時間の経過とともに回復し得るものである。注射局所の病理学的変化として、時には出血、細胞の壊死等が現われることもあるが、殆んどの場合吸収され治癒してしまう一過性のものである。また、仮りに壊死細胞等が完全に吸収完治されず線維性の瘢痕組織に置換されたとしても、その範囲は局所的で、その影響も顕微鏡的レベルに止まるものであつて、筋組織の全面的な変性により機能障害を起した筋拘縮症とは全く異なる現象である。しかし、それが、何らかの要因によつてマクロのレベルまでに及び、不可逆的かつ広範な瘢痕化にまで発展したのが本症であり、従つて、本症を合理的な薬物療法に従つた注射行為による局所組織反応の結果と把握することは誤りである。

即ち、筋肉注射は、注射剤使用についての医学・薬学上の常識及び合理的な薬物療法に基づいて適正に使用される限り、仮りにその局所障害性によつて災症が生じたとしても、それは一過性の軽度なものであり、更に瘢痕化するとしてもその範囲は顕微鏡的レベルのものであつて、筋組織の全面的な変性や機能障害をもたらすものではないのである。

(四) 本症は、森崎直木の報告以降、臨床上の観察を通して、整形外科の領域において次第に知られるところとなつてきたが、初期の症例報告は散発的で成因についての考察も、先天性のものか、それとも後天的因子によるものかという関心以上の域を出ていなかつた。筋肉注射によつて本症が発症するのか、発症するとすれば、その原因は何かという点が論ぜられるようになつたのは、その後症例報告が集積し、患者に筋肉注射の既往歴のあることが共通して指摘されるようになつてからである。そして報告の内容からして、本症発症の原因についての考察を行なつた最初の報告は、笠井実人らの一連の報告であるが、笠井らの報告中初期のものは、もつぱら注射手技上の問題にその原因があるのではないかと推論し、後期の報告では、注射薬の種類、量、頻度、部位等にも言及しているが、それはあくまでも注射手技の観点から注射薬液をとりあげているだけである。そして、その後の症例報告も基本的には右笠井らの推論の枠をこえるものではなく、また、若干の症例報告は、具体的な注射薬剤名をあげているが、これらも注射手技に原因があるのではないかという観点から、それらの諸要因を推論しているに過ぎない。

(五) 動物実験で本症を作り出したのは、佐野精司らの実験と西島雄一郎の実験だけである。しかし、佐野らの実験は、整形外科的治療の研究のため筋拘縮症を作り出すことに主眼があり、非常に大量の薬剤を筋肉注射すれば本症を発症させることができるということはいえても、それ以外の発生要因について明らかにするところではない。また、西島は、一旦筋肉の注射局所に生じた線維化部分が脂肪組織に移行し、拘縮が消失することを明らかにするとともに、ヒトの本症の組織像中、改善型例の家兎に見られた組織像と同様な組織像を示す場合は、ヒトにおいても経過中に拘縮が改善される可能性を推論できるとしている。

他方、宮田雄祐ら及び阪本桂造の各実験は、いずれも本症を発症させたものではなく、炎症の機序、転帰の多様性のうちの一段階・一側面を観察したにすぎず、本症の発症の要因の究明には至つていない。

(六) 日本小児科学会筋拘縮症委員会は、昭和五七年一二月「筋拘縮症に関する報告書」を発表したが、右報告書は同委員会の八年間にわたる調査、検討結果の総括であつて、斯界の権威者らによる現時点における総合的な報告書として一応の評価をすることができるものであるところ、右報告書においても「(本症は)注射回数以外にも薬剤の障害性、注射部位、一回の注射量、注射時の年令等の要因によつても発症率が高められる。」として、注射回数が最も大きな要因であり、薬剤の局所障害性等の他の要因は発症率を高める要因にすぎないとされているのであつて、筋肉注射剤の局所障害性が本症の主因としてはしていないのである。

4 (グレラン注と原告患児らの本症罹患との間の個別的因果関係)

(一) グレラン注も一般の筋肉注射剤と同様に局所障害性を有しているが、右の注射剤使用の一般的原則に基づいてこれを使用すれば、本症の発症は考えられないものである。このことは、グレラン注の成分変更がなされた昭和二五年からその販売が中止された昭和五〇年までの二五年間において、グレラン注は臨床現場で広く使用されてきたにも拘らず、被告奥田の医院以外からの本症発症例の報告には接していないことからも明らかである。

(二) 被告奥田は、原告患児らに対し標準投与量の四倍量のグレラン注を筋肉注射していたのである。薬剤の投与量は医師がその裁量によつて決定すべきものであるとしてもおのずから限度があり、通常は標準投与量の五割増しまでであつて、せいぜい倍量が限度とされている。しかも、被告奥田は原告患児らの左大腿部が腫れたり、しこつたりしているのにも拘らず、殆んどこれを無視して同一部にグレラン注を打ちつづけた。ところで、厚生省の注射剤の局所刺激性に関する研究班の「注射剤の局所刺激性に関する研究報告書」によれば、「一回注射より連続して同一個所へ注射する方が局所刺激性が強く現われる。」「注射容量が大きくなれば局所刺激性は強くなる。」とされており、これは今日ではほぼ確立した知見といつて差支えない。とすると、被告奥田の原告患児らに対するグレラン注の前記注射行為はまさに右知見を実証した行為であつたというべきである。

5 (因果関係の予見可能性)

(一) 厚生大臣が本症の存在を知つたのは、昭和四八年山梨県鰍沢町における本症集団発生の報道を契機としてであり、それ以前において、筋肉注射剤と本症との関係を予見することは不可能なことであつた。グレラン注の製造事項変更許可がされた昭和三五年二月までに発表されていた本症の症例報告及び文献は、すべて本症の症状と治療方法を紹介する報告であり、原因についても一応の関心を示したものもあるが、先天性のものや後天性のものもあるのではないかとか、後天性の原因としては注射や炎症が考えられるという程度のものにすぎない。また、右の注射についても、患者に注射の既往歴があることから、先天性の因子に対比して後天的因子として注射という漠然とした因子を推測するのみで、注射行為に問題があるのか注射剤に問題があるのかの指摘は全くない。

(二) 昭和三六年ころになると、本症に関する症例報告も漸次増加し、その発症機序に関心が持たれてきた。しかし、笠井実人らは注射による癒着ということを一応考え、その原因として種々の場合を想定しているが、結局は明確なことはわからないと述べ、更に、注射に際しては厳重な無菌的操作を行なうとともに、正確に筋肉内或いは皮下に注射して薬液を速やかに吸収させることも必要であると思うと述べて注射手技に問題があると考えていた。その後の本症の症例報告においても本症の原因については種々の説が唱えられ、その中には先天性素因を問題とする見解も相当数存在していた。

他方、新生児期及び乳児期における頻回注射が本症の原因ではないかという指摘もなされていた。その後、頻回に注射をうけたという症例報告は多数みられるが、その中で根岸照雄らの報告は新生児期及び乳児期における頻回注射について初めて詳細な考察を加えたものと言える。

しかしながら、昭和四七年一二月当時においても本症の成因が注射の構成要素である多くの要因の複合的関与を推測する段階にすぎず、現在においても、注射回数が重要な要因ではないかと考えられてはいるが、その発症機序については未だ推測の域を出ていないのである。従つて、右の時点で厚生大臣が筋肉注射剤が本症の原因であると予見することは不可能であつた。

(三) 国立病院、国立療養所総合医学会は、年一回全国の国立病院、国立療養所関係の医師看護婦が集まつて討議するものであり、分科会は一六位である。昭和四一年に開催された同医学会の整形外科分科会において、柴垣栄三郎らが一般演題として、本症につき「注射によると思われる大腿部直筋拘縮の一七例について」と題して発表を行なつたのであるが、右演題を「注射によると思われる」としたのは、当時本症の文献報告は存在したが、いまだ注射が原因であると言えない段階であつたからであり、追加発言者の平川寛も「私も一〇例程の本症を経験しているが、中には注射によると思われないものがあり、脳性小児麻痺や先天性股脱整後の症例にこうした症状をみたことがある。」と報告していたのである。

従つて、厚生大臣が右医学会における柴垣らの報告から本症を知り得べくもなく、まして本症が筋肉注射剤の局所障害性と関係があるなどと予見することは不可能である。

6 (薬事法の製造承認・許可)

(一) 医薬品の製造承認・許可は、それがなされる当時の医学、薬学等の自然科学水準の下において、当該医薬品の有用性が肯定された場合になされるものである。医薬品は、両刃の剣的性格を有するものであるから、その有用性は、単に有効性と安全性の比較考慮の上に判断されるだけでなく、その時々の社会における疾病に対する治療上の必要性という社会必要性も斟酌のうえ判断されてしかるべきものである。即ち、医薬品の有用性の判断は、当時の医学、薬学等の科学水準の下における単なる事実の認定に限定されるものではなく、右の事実を踏まえた当該医療品の公衆衛生上の必要性をも斟酌してなされなければならないのである。

このような医薬品の本質及び製造承認・許可の性格からすれば、医薬品の絶対安全性ということは、存在し得ないものである。従つて、医薬品の絶対的な安全性を確保する注意義務を要求したり、いささかの副作用なり危険があれば薬剤被害の予見可能性があるとする考え方は、医薬品の本質及び製造承認・許可の性格を無視した極めて不当な考え方である。

(二)(1) 旧薬事法(昭和二三年七月二九日法律第一九七号)は、「この法律は、薬事を規整し、これが適正を図ることを目的とする。」(一条)と規定している。これは、医薬品、用具または化粧品の製造、調剤、販売または授与及びこれらに関する事項(二条)を保健衛生の見地から規整し、その適正な運営を図ることによつて、終局的に公衆衛生の向上及び増進を図ろうとするものである。

(2) 旧薬事法上、医薬品の製造業を営もうとする者は、製造所毎に厚生大臣の登録を受けなければならない(二六条一項)とされていた。

この製造業の登録は、製造業を営もうとする者は、製造品目のいかんに拘らず、一般的にこれを受けなければならないのであつて、いわば個々の具体的な品目を製造し得る前提となるものである。この登録を受けた医薬品の製造業者が公定書(日本薬局方または国民医薬品集)に収載されていない医薬品を製造しようとするときは、品目毎に厚生大臣の許可を受けなければならない(二六条三項)。公定書に収載されていない医薬品は、その化学構造式、組成または適応が薬学的知識を有する専門家の間において、いまだ一般的承認を得ていないため、これを自由に放任するならば、保健衛生上危害を生ずる虞れがあるので、製造しようとする品目について十分検討したうえ、その製造の許否を決定しようとするものである。

(三)(1) 現行薬事法(昭和三五年法律第一四五号)は、「医薬品、医薬部外品、化粧品及び医療用具に関する事項を規制し、その適正をはかることを目的」(一条)とし、もつて公衆衛生の向上及び増進を図り、国民の健康な生活を確保しようとするものである。不良医薬品が一般に流通するときは、人の生命、身体に対して危害を生ずる虞れがある。現行薬事法は、公共の保健衛生上の目的から医薬品等の製造、販売について規制することとした取締法規である。そのため、旧薬事法に比し、現行薬事法は、登録制を許可制にするなど規制の強化を図つている。

(2) 現行薬事法(以下、被告国の主張において単に薬事法というときは現行薬事法を指す。)は、医薬品を業として製造しようとするときは、製造所毎に厚生大臣の許可を受けなければならない(一二条二項)としている。医薬品が国民の保健衛生に極めて密接な関連を有することに鑑み、医薬品の製造業について、その製造設備の状況(一三条二項一号)、人的適格(同項二号)等を審査して許可を与えることにより、医薬品の品質を確保し、その営業が保健衛生上支障なく行なわれることを確保しようとする趣旨である。この許可は、いわゆる業態の許可であり、一三条一項及び一八条の各規定から明らかなように、特定の品目を特定の製造所において業として製造することについての許可であつて、品目と無関係ではなく、医薬品の製造許可の性質をも併せ有しているものである。従つて、製造許可は、製造所(工場)毎に受けることを要し、製造許可を受けるには、それぞれの製造所が製造しようとする品目について薬局等構造設備規則(昭和三六年厚生省令第二号)で定めた設備を有することが必要である。

(四) 日本薬局方に収載されている医薬品を製造しようとする場合は、単に医薬品製造業の許可を受ければ足りるが、日本薬局方に収載されていない医薬品等を製造しようとする者が製造業の許可を受けるには一三条二項の規定の基準に適合するほか、品目毎に厚生大臣の承認を受けることを必要とする(一三条一項、一四条一項)。日本薬局方に収載されている医薬品は、広く用いられ、かつ、その有効なことが公知実証され、医薬品としての価値が定まつたものであつて、その品質及び性状が日本薬局方によつて公定されているところから、改めて厚生大臣の承認にかからせる必要は認められないが、日本薬局方外医薬品については、それが医薬品として一般に流通することが適当なものであるかどうかを保健衛生上の見地から厚生大臣において判断することとし、その名称、成分、分量、用法、用量、効能、効果等を審査して、その製造について承認を与えることとしているのである。この承認に際して、厚生大臣が必要と認めたときは、申請者は、医薬品等若しくは原料の見本品、基礎実験資料、臨床成績その他の参考資料を提出しなければならない(薬事法施行規則二〇条)ものとされている。

なお、旧薬事法二六条三項による品目毎の許可は、薬事法一四条の品目の承認と同法一二条の製造業の許可との両方の性格を持つものであつたのに対し、薬事法は、この両者を区別して規定した。しかし、薬事法一四条の承認が同法一二条の業態許可の前提要件とされていることは前記のとおりであるから、旧薬事法の許可制と薬事法の右承認・許可とで実質的に差異はない。但し、旧薬事法は、日本薬局方に収載されている医薬品については、その製造の許可を要せず、登録で足りるとしていたので、この点において現行薬事法と相違する。旧薬事法の規定により、医薬品の製造許可を受けている者は、当該品目について薬事法一四条の規定による承認を受けたものとみなされることとなつている(薬事法附則五条)。

(五) 医薬品の製造についての承認基準と審査内容については、新医薬品の製造承認申請に当り要求される添付資料により明らかとなる。審査の参考資料としていかなるものを用いるべきかについて基準を定めたものとしては、昭和四二年九月一三日付薬発第六四五号厚生省薬務局長通知「医薬品の製造承認等に関する基本方針」が最初のものである。これ以前においては、中央薬事審議会(旧法上は薬事審議会)の意見に基づき、当時において学問的及び社会的に承認されていた最も妥当な方法によつて行なつていたのである。

ところで、右の基本方針で示されている基準は、厚生省が医薬品の製造承認を行なうに当つて、いかなる参考資料の提言を求めるべきかを判断する際の一応の目安を与えているものに過ぎないのであつて、この基準に定められた資料のみでは参考資料として不十分であると判断される場合には、更に資料の追加を要求することができるとともに、形式的にこの基準の定める資料の一部が不足していても、他の資料によつて参考資料としては十分であると判断し得る場合には、更に資料を要求しなくてもよいことが是認されるという性質のものである。医薬品は、多種多様であるから、その有効性や安全性を判断するための資料も多種多様とならざるを得ず、画一的な基準によつて参考資料の範囲を定めることはとうてい不可能である。

また、医薬品は、すぐれて科学的な技術の所産であるところから、審査資料も当該審査の時点における自然科学の水準によつて制約されることは避け得ないところであり、従つて、その時々において要求される審査資料に変更があることは当然である。

前記薬発第六四五号薬務局長通知及び同年一〇月二一日付薬発第七四七号薬務局長通知「医薬品の製造承認等に関する基本方針の取扱いについて」の両通知は、従前から順次積み重ね、充実されてきた審査方針と新たに決定した方針とを併せ集大成したものである。この基本方針においては、医薬品の承認審査に必要な資料要求の範囲と承認審査の方針を明確にしたことのほかに、医療用医薬品と一般用医薬品とを明確に区分したこと、新開発医薬品について副作用報告を義務付けたこと等広範囲に及ぶ行政方針を定めているのである。

(六)(1) 新薬は、人体に対する有効性、安全性が未知であるため、前記添付資料をもとに医薬品としての妥当性が評価される。この評価を行なう機関としては、厚生大臣の諮問機関として薬事に関する重要事項を審議するため医学、薬学等の権威者によつて構成される中央薬事審議会がその任に当つており、同審議会における審査の結果医薬品として妥当と認められたものが厚生大臣に答申され、医薬品として承認される。

なお、新薬とは、次のものが該当する。

(イ) 化学構造または本質、組成が全く新しいもの(日本薬局方収載医薬品及び薬事法一四条一項の規定による承認を受けている医薬品のいずれにも有効成分として含有されていない成分をその有効成分として含有している医薬品)。

(ロ) 既に医薬品として製造承認がされているものと同一成分であるが、その投与方法が承認されているものと異なるもの。

(ハ) 既に医薬品として製造承認されているものと同一成分であるが、その用量が承認されているものと異なるもの及びその効能・効果が承認されているものと異なるもの。但し、効能・効果としては同一であるが、表現方法のみ異なるものを除く。

(2) 日本薬局方に収載されている医薬品については、承認(旧法上は許可)を受ける必要がない。ただ、日本薬局方に収載されている医薬品を有効成分とする医薬品については承認を受ける必要があるが、当該医薬品の有効成分は日本薬局方に収載されることにより既に有効性及び安全性が確認されているため、当該医薬品の有用性については改めて審査しない。

(3) その他の医薬品については、既知の医薬品で日本薬局方に収載されていないものは、個別に承認を受ける必要があるが、これらの医薬品は、有効成分が既知であつて前承認と同一のものまたは賦形剤・溶解剤等の医薬品添加物の種類が異なるものなどである。従つて、これらの医薬品の審査は、厚生省において承認前例及び学術文献等を参考として行なわれる。

(4) 新薬以外の医薬品の承認申請に際しての添付資料は、新薬に添付すべき資料に比して大幅に省略することができるが、その理由は、次のとおりである。

医薬品としての作用は、その有効成分である物質によつて発揮されるのであるから、当該物質を医薬品として許可するか否かの判断は、その物質の医薬品としての使用経験の有無によつてその評価方法が異なつてくる。また、この場合に、医薬品の剤型即ち当該医薬品が経口剤として使用されていたかまたは注射剤として使用されていたのか使用経験も当然考慮に入るのであるが、いずれにせよ、有効成分、剤型共に全く同一の医薬品が過去において存在し、それがかなり使用されていた場合に、それと同様の医薬品の審査に際しては、改めて基礎、臨床の総ての資料を要することなく、それまでの使用経験に基づいた判断で評価することで足りるのである。

(七) 被告国の薬事法上の責任の存否を判断するに当たつては、本件の医薬品被害の現象面にとらわれることなく、薬事法の性格、医薬品の特質及び製造・販売に関する国の基本的立場について慎重な検討がなされなければならない。

特に、医薬品に係る被害が発生した場合にあたつては、これを製造販売した製薬会社が存するのであるから、右被害についての救済は、医薬品の安全性の確保について報償責任を負担すべきであるとされる当該製薬会社の責任の存否とのかかわりを直視して論じられるべきである。本件において、あえて被害者の救済の名の下に、薬事法の性格、医薬品の特質及び医薬品の製造・販売に関する国の基本的立場等について十分検討することなく、法的論理を短縮させ、いたずらに国の損害賠償責任に結びつけることは極めて不当である。

(1) 薬事法上の厚生大臣の権限は、医薬品の製造、販売業者を取締ることにより公衆衛生の向上、増進という公益をはかることにあり、個々の国民に対する安全性確保義務までは措定されていない。

即ち、厚生大臣は、国民の生活の安全を確保するという行政目的を達成するため、医薬品の製造業者がその固有の責務である安全確保義務を尽くしているかどうかを、後見的にチェックするため、医薬品の製造許可承認の制度を設け、医薬品の有用性の審査を行なつているものであるから、その結果については政治的、行政的責任を問われることはあつても、個々の国民の損害をも賠償する責務を負つているものではないのである。

(2) 要するに、厚生大臣の製造許可等の権限の行使によつて、公衆衛生の増進が図られるとともに、国民のうちの特定の個人もまた少なからず利益を享受することとなるとしても、その特定の個人が享受する利益は、副次的利益(反射的利益)であるといわざるを得ない。

(3) このような、薬事法制の性格及び医薬品の製造、販売過程における国の立場からすれば、旧薬事法から現行薬事法に至る薬事法制が衛生警察法規であり、取締法的性格を有するものであつて、厚生大臣に医薬品の安全性確保義務を負わせたものではないことは明白である。

(八) 仮りに、厚生大臣に医薬品の製造許可・承認時において、医薬品につきその安全性確保義務が認められるとしても、許可・承認は厚生大臣の自由裁量に属する行為である。

即ち、医薬品の有用性の判断は、当時の医学、薬学等の科学水準の下における単なる事実認定に止まらない専門的、技術的、合目的的な判断であり、従つて、当該医薬品について許可・承認を与えるか否かは右の見地に立つた厚生大臣の自由な裁量に任されているものである。この厚生大臣の裁量が、審査の実体面のみならず、審査基準の設定のような審査の手続面にも及ぶことは事柄の性質上の当然のことである。また、自由裁量処分の司法審査に当つては、裁判所は、当該処分が全く事実上の根拠を欠くとか、社会観念上著しく妥当を欠くものと明らかに認められる場合はともかく、そうでない限り、専門的、技術的、合目的的見地にたつてなされた行政庁の判断を尊重すべきであり、このことは、厚生大臣の医薬品の製造許可・承認の判断にもそのままあてはまるものである。

7 (グレラン注の製造許可)

(一) 厚生大臣は、昭和三五年二月一六日、グレラン注を、日本薬局法非収載医薬品として、旧薬事法二六条三項、薬事法施行規則第二四条により、製造許可事項の変更許可をしたものである。

グレラン注は、その有効成分であるピラビタール及びアミノピリンがいずれも当時日本薬局方に収載されていた医薬品であつて、既に有効性及び安全性が確認されているものであつたことから製造許可されたものであり、これを実質的にみても、グレラン注は麻薬性鎮痛剤の持つ薬物依存性の副作用を有しない中程度の鎮痛作用を有する非アルカロイド系鎮痛剤として、既に臨床現場において長期間にわたり繁用されてきた実績を有し、他方、安全性については特段の問題点を指摘されたことがなかつたのであるから、その有用性は否定され得ないものであつて、厚生大臣がグレラン注の製造を許可したことはもとより適法なものであつた。

(二) 原告らは、グレラン注の非有効成分であるウレタンには発癌作用があり、このことは昭和二五年以前に判明していたことであるから、グレラン注の製造許可は違法である旨主張している。

しかしながら、グレラン注の製造許可がなされた昭和三五年当時においては、未だウレタンの発癌作用についての知見が確立していたものとは到底認められないのであるから、厚生大臣が、ウレタンの発癌作用を考慮することなく、グレラン注の製造を許可したことに何ら過失はなかつたものというべきである。

また、グレラン注の有効成分であるアミノピリンには顆粒減少症をもたらす副作用があるとの点であるが、医薬品の副作用は人種差、個体差あるいは当該医薬品の使用状況等によつてその発生状況を異にするものであるから、医薬品の副作用対策について最も重視されるものは自国における副作用であり、そして我が国におけるアミノピリンによる顆粒球減少の症例報告はごく少数に過ぎず、アミノピリンは医薬品再評価の結果においても有用性ありと判断されている。従つて、厚生大臣が、右の諸点を総合考慮し、グレラン注に有用性ありとした判断は極めて妥当なものであり、グレラン注の前記製造許可はもとより適法なものであつた。

(三) 原告らは、グレラン注の非生理性、局所の炎症反応の転機に関する医学上の基礎知識、筋組織障害性に関する研究報告及び神経麻痺の事例に照らせば、国は、自ら又は被告グレランをしてグレラン注の局所障害性を動物実験により調査すべきであつたと主張している。

しかしながら、そもそもグレラン注は臨床現場において長期間にわたり広く使用されてきたが、その局所障害性について特段問題とされることはなかつたのである。ところで、既知の医薬品については、個々の医薬品の審査に際し、新薬に必要とされる程度の基礎及び臨床試験資料は要求されていない。これは既知の医薬品として医療機関に広く使用されている医薬品は、使用の時点において有効性、安全性の確認が実際に行なわれているからである。従つて、右のようなグレラン注について改めてその局所障害性につき動物実験をする必要性はないのである。

また、問題を筋肉注射剤一般としてとらえても、グレラン注の製造許可時はもとより、グレラン注が原告患児らに注射された当時においても、筋肉注射剤の局所障害性は注射剤使用の一般原則及び承認された用法及び用量、効能又は効果(適応症)等に従つて使用されるのであれば、本症の機能障害を伴うような重篤な障害に発展するものとは考えられていなかつたのである。そして筋肉注射の局所組織に及ぼす影響に関する動物試験の研究が各方面で活発に行なわれるようになつたのは、山梨県における本症患児大量発生事件を契機としてであり、これらの各試験及び一部企業における内部研究報告試験のいずれもが研究者独自の方法によるものであつて、動物種、注射部位、注射量、注射回数、観察期間、筋肉変化の評価方法等がまちまちであり、これらの異なる試験法によるデータから各注射剤の局所障害性を相対的に評価していくことは現在においても極めて困難なことである。被告国が注射剤の局所障害性に関する試験法を確立するための研究に着手したのも右事件以降のことであるが、その試験方法は現在に至るも確立されていないのである。

右のように、筋肉注射剤の局所障害性に関する動物実験データの必要性が一般に認識されていない段階において、国が筋肉注射剤の有用性評価のために動物実験を自ら行なう、あるいは製薬会社に要求することは無理であるといわざるを得ない。

(四) 原告は、仮りにグレラン注の製造を許可するにしても成人に限定して許可すべきであつたと主張する。しかし、グレラン注は注射剤使用の一般的原則に従つて使用すれば通常本症を発症させるものではないこと、グレラン注が本症を発症させる可能性があることの予見が不可能であつたことグレラン注を含め一般の筋肉注射剤の局所障害性は現在の技術をもつてしては除去できないのであり、昭和四八年以前において局所障害性について特段の問題提起はなかつたこと、しかも、局所障害性を有することをもつて医薬品としての有用性を否定されるものではないことの各点に照らすと、グレラン注を成人に限定して許可しなければならなかつたとすることはできない。

8 (製造承認・許可後の安全対策)

(一) 旧現薬事法は、本来、不良医薬品の取締を主眼とした取締法規の性格を持つものであることは先に主張したとおりである。従つて、発売後における医薬品の安全対策は、何よりもまず医薬品製造(輸入)販売業者の自主的かつ積極的な対応に俟つべき性質のものであり、国は、後見的な立場から行政指導によりこれに対処しているに過ぎないのである。このため、国が、薬事法上合法的に製造(輸入)販売されている個々の医薬品について、有効性な安全性の面につき何らかの行政指導を行なおうとする場合には、その必要性が合理的根拠に基づいてかなりの程度まで客観的に認められる情勢となることが必要である。

(二) また、医薬品の副作用は、前記のとおり、その使用状況と密接な関係を持つのであるが、医薬品の安全対策上問題となるのは、通常用いられる用法及び用量で発現する副作用である。

一般に、事故または過剰投与あるいは正しくない使用方法によつて有害かつ予期せざる反応が発生した場合には、それは、医薬行為に関する問題であり、薬事法の規制の対象とはなり得ないのである。

(三) ところで、行政庁の不作為というためには、作為義務の存在が当然の前提となるのであり、右作為義務は原告らと国との間において個別に措定されていることが必要である。

しかし、既に主張したとおり、薬事法規の文言及び医薬品の特質に鑑みれば、薬事行政の目的は、適正な医薬品の供給を通じて公衆衛生の増進を図ることにあり、薬事行政における厚生大臣の権限は、右の公衆衛生の増進という公益目的達成のために製造業者の営業の自由を規制するものとして意義付けられることとなる。そして、この権限行使の結果、公衆衛生の増進が図られるとともに、国民のうちの特定の個人もまた少なからず利益を享受することとなるが、その特定の個人が享受する利益は、右の規制の副次的利益であるといわざるを得ない。従つて、厚生大臣は、単に副次的利益しか享受しない特定の個人、即ち原告らに対して行政権限を行使すべき義務を負う理由はない。従つて、本件において、国民のうちの特定の個人、即ち原告らは、厚生大臣が負うとされる義務の相手方とはなることはできないのである。原告らの主張は、この点において既に前提を欠き、失当である。

(四) 医薬品は、両刃の剣的性格を持つているから、その製造許可・承認後においても、その未知の副作用の発現については絶えず関心が払われ、その副作用に基づく被害の防止のために常に適切な配慮をする必要があることは原告ら主張のとおりである。

被告国も、国民の健康を維持、増進するという見地から、医薬品の製造許可・承認後においても、その安全性の確保を図るため、種々の一般的措置、具体的には、医薬品の再評価、副作用モニターや企業からの副作用情報の収集等の対策を講じているのである。

しかしながら、これらの措置は、あくまで、国民の健康の維持、増進という国の一般的責務に基づくものであつて、特定第三者との関係における法的義務を前提にしているものではない。言い換えれば、右責務は、行政機関がその使命とする公益増進の目的に由来するものであつて、これについてはいわゆる政治上の責任を生ずることはあつても、それに基づいて損害賠償責任を追及し得るような性質のものではないのである。

(五) 仮りに、厚生大臣が右の安全性確保の権限を有するとしても、いかなる場合に行政権限の不行使が違法となるかは具体的事案ごとに判断されるべきものであるところ、次の諸点に鑑みると、厚生大臣には、グレラン注の局所障害性に関し、製造販売の中止あるいは添付文書への警告文言の記載指示をなすべき義務が存しなかつたのである。

(1) グレラン注の局所障害性は当該医薬品に固有の副作用ではなく、筋肉注射剤一般が通有するものであつて、医師が注射剤使用の一般原則を守り、これを適正に使用すれば本症の発症は防止できたこと、

(2) 医学上注射剤使用の一般的原則は既に確立していたこと、

(3) 従つて、本症の発症は、医師が右の注射剤の使用の一般的原則を遵守することにより回避できるものであること、

(4) 筋肉注射剤の局所障害性は発赤、硬結等を生じさせるものとして、医師に知られた危険であり、連続注射をする場合には注射部位をその都度かえるべきこと等は医師の常識的な事項であること、

(5) 医師は、その専門的知識に基づき、病状、年齢など患者の置かれた状態を総合的に判断し、注射剤投与の是非、注射剤の種類、投与量、投与回数、投与期間、注射方法及び注射部位などを決定するものであり、薬事行政は、医師の医療行為に対して一切介入できないものであること、

(6) 厚生大臣は、医薬品の安全性について全面的かつ最終的な責任を負う製薬会社とは異なり、後見的に医薬品の安全性をチェックするに過ぎないものであり、添付文書への使用上の注意事項の記載は、本来製薬会社が独自の判断でなすべきものであること、

(7) 諸外国においても、筋肉注射剤の添付文書に、原告ら主張のような警告文言を記載した例は存しないこと、

(8) 厚生大臣は、本症が社会問題化するまで、その存在を知らなかつたこと、

以上の(1)ないし(8)の諸点に、仮りに厚生大臣に安全性確保義務が発生する余地があるとしても、この場合はまさに特殊例外的な場合にとどまるべきであることを併せ考慮すれば、グレラン注の局所障害性に関し、製造販売の中止あるいは添付文書への警告文言の記載指示をなすべき義務は存しなかつたものというべきである。

9 (添付文書等の記載と国の責任)

(一) 有用性があると認められる医薬品であつても、定められた用法、用量や使用上の注意が守られずに使用された場合には、そのバランスがくずれ、医薬品の有用性が発揮されない症例が現われることがある。

このため、薬事法五二条一号は、医薬品はその添付文書またはその容器若しくは被包に使用及び取扱上に必要な注意が記載されていなければならない旨を規定しており、この規定は、製造(輸入販売)業者が、自己の責任と判断の下に、その製造または輸入販売する医薬品について、添付文書等に必要な使用上の注意等を記載すべきことを定めたものである。

医薬品の使用上の注意の内容は、その時代時代に報告されている副作用情報とその学問的評価に基づいて変動する性格をもつものである関係上、従来から薬事法一四条の規定に基づく承認事項の対象外となつており、製造(輸入販売)業者の責任と判断に基づく添付文書等への記載に委ねられていたのである。

従つて、添付文書等に記載される使用上の注意の内容については、直接に被告国がこれに法的責任をもつという性格のものではない。

(二) ところで、添付文書等に記載する使用上の注意事項は、一般用医薬品と医療用医薬品とでは、その性格上、一般的に記載内容が異なるものである。

一般医薬品の場合には、薬に対する基礎的な知識に乏しい一般大衆を対象にするものであるから、医薬品の使用を誤らないよう、医薬品使用の基本的な注意を含め、医薬品を有効かつ安全に使用するうえで必要な注意を一般大衆にわかり易く、なるべく詳細に記す必要がある。

これに対し、医療用医薬品の場合には、医療の専門家である医師を対象とするものであるから、医学教育の場で教えられ、あるいは医学薬学関係の成書に共通的に記載されているような薬物療法の基本的な注意事項を添付文書等へ記すことは必要ではないのである。つまり、医療用医薬品の場合には、薬物療法に関する基本的な注意事項は、当然、医療の専門家である医師が承知していることを前提とし、その医薬品固有の注意事項を主体として、医薬品を有効かつ安全に使用するうえで必要な注意を添付文書等に記載する方式がとられているのである。

注射剤は、医師が使用する医療用医薬品である。そして、注射剤をその剤型的特長から経口剤等に代つて一般にどのような場合に投与を必要とするか等は注射剤使用に関する医師に要求される一般的な注意事項であるから、これを医療の専門家である医師を対象にした医療用医薬品の添付文書等に記載する必要はないのである。従つて、厚生大臣は、関係業者に対し注射剤使用に関する一般的注意事項を個々の注射剤の添付文書に記載するよう行政指導しなかつたことについて、何らの過失もないのである。

(三) いわゆる薬害訴訟において被告国の責任が問われるためには、医師が当該医薬品を添付文書に記載されている適応症に使用したことによつて被害が生じたことが前提となる。即ち、医薬品は、有効性を有する反面、何らかの副作用を伴うものであるため、適正に使用されることを前提にして製造、販売されるものであり、そのため、製造業者は添付文書に適応性を定め、かつ用法、用量等使用上の注意事項を記載し、これを医薬品に添付して販売するものであるから、医師が右の添付文書の記載と異なつた適応症に使用した結果被害を生じさせた場合には、その責任を負うのは当該医師であつて、そのような医療行為を規制ないし支配できない国や製造業者がその責任を負う理由はないからである。

ところで、昭和三五年二月一六日付許可の際のグレラン注の効能は、手術後の疼痛、神経痛等いずれも鎮痛効果を目的としたものであつた。

そして、原告患児らに投与された当時のグレラン注の添付文書によれば、グレラン注は、「非アルカロイド性鎮痛剤グレラン注」とされており、その作用としては「鎮痛鎮静作用」及び「アルカロイド剤の使用量軽減」を標榜し、鎮痛効果を目的とした適応症が掲記されていた。即ち、グレラン注の前身である「グレラン注射液」は、鎮痛剤として開発されたものであつて、昭和二五年に成分変更がなされた後においても、被告グレランは一貫してグレラン注を鎮痛剤として製造し、厚生大臣もこれを鎮痛剤として製造許可したものであり、従つて、当然のことながら、グレラン注の添付文書も鎮痛剤である旨標榜され、臨床現場においても鎮痛剤として位置づけられていたのである。なお、グレラン注は、昭和五〇年五月改訂の能書により、「解熱の効果」を標榜し、適応性にも「緊急に解熱を必要とする場合」との一項目が加えられるに至つたが、これは、医薬品の再評価結果に基づくものであり、グレラン注が鎮痛剤として製造許可を受け、鎮痛剤として製造販売されていた事実と矛盾するものではない。ところが、被告奥田は、グレラン注を乳幼児に対し鎮痛剤としてではなく、添付文書記載の適応症の範囲外である解熱ないし発熱予防の目的で使用したものである。乳幼児は痛覚が未発達なため被告国は、鎮痛注射剤が臨床上乳幼児に多用されるなどとは夢想だにしなかつたところ、本症発症の重要な要因が乳幼児に対する頻回注射にあると想定されることを考慮すると、被告奥田がグレラン注の使用目的を逸脱したことは、被告国の責任の有無を判断するに当つて重大な意味をもつものというべきである。被告奥田がグレラン注の解熱効果に着目し、これを解熱剤として使用することは、あくまでも被告奥田医師の責任においてなされるべきものであり、そうでないと国の責任の範囲がどこまでも広がることになつて、まことに不都合な事態が生ずることになるからである。

10 (注射剤使用の一般的原則を著しく逸脱した使用)

(一) 被告奥田の注射剤使用の一般原則を著しく逸脱したグレラン注の使用状況については、被告グレラン及び被告武田が主張しているところであるので、基本的には右被告両名の主張を全面的に援用することにするが、要するに、被告奥田の原告患児らに対するグレラン注施用の実態は、独自の判断により、標準投与量の四倍という過大量を使用して、局所反応の生じている同一部位に内服薬の適応を考慮することなく頻回注射し続けたというものであつて、端的にいつて薬物投与の基本原則及び注射使用の一般的原則を著しく逸脱した極めて特異な方法に基づくものであつて、標準的な治療水準から大きくかけ離れたものであつた。

(二) 注射剤使用の一般的原則を著しく逸脱した被告奥田の前記診療実態を、厚生大臣が予測できたか否かを判断するにあたつては、被告国の薬事行政と医師との関係、国と製薬会社との立場の違いを明確に認識する必要がある。

即ち、医師との関係における薬事行政の役割は、その時代、社会に要求されるより良い医薬品を医療の場に提供するための円滑な施策(新薬の製造許可、承認、不良医薬品の監視、取締り等)につきるのであつて、医師の治療行為自体については、いかなる形であれ介入する権限は存しないところである。

従つて、厚生大臣は、個々の医療行為が具体的にどのように判断され実行されているかを知り得る立場にはない。また、厚生大臣は、医薬品の製造許可、承認行為を通して、間接的に医療行為に関与することはあるが、右の製造許可、承認は、もとよりその時代時代における標準的な医療水準を前提にして行なわれるものであるから、右の前提を逸脱した治療行為については、医師が自らその責任を負うべきものであつて、これを規制ないし支配できない被告国がその責任を負う理由はない。

11 (医師法二四条の二の指示)

(一) 医師法二四条の二は、公衆衛生上重大な危害を生ずる虞れがあり、かつ、その危害を防止するため特に必要があると認められる場合に、医師の行為による危害をできるだけ防止しようとする政策的見地から、公衆衛生の向上及び増進を図ることを一般的任務としている厚生省の長である厚生大臣に対し、医療行為についての訓示的指示を与えることのできる道を開いておく必要があつて設けられた権限規定である。

同条は、「厚生大臣は、公衆衛生上重大な危害を生ずる虞れがある場合において、その危害を防止するため特に必要があると認めるときは、」と規定し、「公衆衛生上」、「重大な危害」、「生ずる虞」、「特に必要」という不確定ないし多義的概念を用いており、かつ、これらの概念及びその認定は行政の極めて専門的技術的な判断を要する事項である。更に、同条は、「必要な指示をすることができる」と規定しているのであつて、指示を発する要件を認め得るかどうか、要件を認め得た場合においても指示を発するかどうかは厚生大臣の広範な裁量に委ねられているものであり、厚生大臣が同条に基づく指示を発したことまたは発しないことは、当不当の問題を生ずるにとどまり、法律上の義務違反を問責される性質のものではない。

(二) 医師法二四条の二の指示は、医師の行為のうち、専門的判断、専門的技術にかかわる事項については発し得ないものであり、これらの事項の進歩、向上は、医療行為の本質、性格からして何よりも医師自身の自律的コントロールによるべきものである。

このための知識、情報の獲得、技能の向上に資するように、被告国は、医師の臨床研修制度を実施している。医学の進歩は著しく、これに対応した適切な医療を行なうためには、医師は、常に厳しい自己研鑚を必要とするのであり、これは、医師という職業に課せられた社会的責務、職業論理として考えられるべきものである。右臨床研修制度は、このような自己研鑚の最初の場を被告国が提供しようとするものである。また、医師の自己研鑚のため、学術団体として多数の医学会があり、医師は、それらの学会に出席するほか、地域の講習会、研修会、集団会等に出席したり、学会誌、各種の医学専門誌等によつて医学上の知見、情報の収集に努めなければならないのである。

(三) 医師法二四条の二の指示は、法的には訓示的意味を持つに過ぎず、その効果は、医師の注意を喚起し、その違反による事故につき過失判断の一つの基準になるという程度の事実上の効果にとどまる。この意味において、厚生大臣が医師に対して指示を発する行為の実質は、行政指導と大差がない。

(四) 現行法上、厚生大臣が公衆衛生上の危害の発生につき常に情報を収集すべき法的義務はない。もつとも、厚生大臣として、医師に対し必要な指示を行なうためには、これに関する情報を収集し、あるいは調査研究をしなければ指示の必要性の有無についての判断をなし得ないことは当然であるが、これはもつぱら行政庁の政策的判断にかかつていることであつて、それは、政策的批判の対象とされることはあつても、法的問題にはならない性質のものである。

(2) 厚生大臣の指示は、「公衆衛生上重大な危害を生ずる虞が明白な場合」に限られるのであるから、筋肉注射による筋拘縮症の発生が予見できただけでは、この場合に該当せず、筋肉注射による被害の重大性及び被害の大量発生の予見可能性がなければならない。

昭和二一年の森崎直木及び昭和二二年の伊藤四郎の報告は、内容に関する印刷物がなく、その内容はいずれも不明であり、その後の報告例についても、必要な調査を開始すべき程度の疑いを当然に持ち得るものではない。そもそも、臨床医学は、日々進歩してやまないものであるから、その知識の体系も確固不動のものではなく、常に病理現象に関する新たな仮説が生成発展しながら、そのうちのあるものは経験科学的な実験ないし証明に耐えることによつて確実な医学的知見として臨床医学の知識体系の中に定着してゆくものである。そのための学会のオーソライズを経て初めて定説と評価できることになるものもあるのであつて、右文献報告から直ちに筋拘縮症の大量発生を当然に予見できるものではない。もつとも、筋拘縮症について、昭和四八年八月八日の第二二回東日本臨床整形外科学会において、シンポジウムが持たれ、注射を原因とする症例が報告されているが、その時点でもなお演者の中から注射が原因とは考えられないとの報告もなされている状況であつた。

ところで、厚生省としては、伝染病予防法や食品衛生法等により特別な疾病や事故の発生につき医師に届出義務を課しているものがあるが、その他については、情報収集等に関し特別な法律は存しない。厚生省においては、昭和四八年九月二〇日公衆衛生局保健情報課長から都道府県及び指定都市の衛生主管部局長に対し、「原因不明の感染症や環境汚染等による健康被害発生時の通報について」と題して通知されたのが唯一の例外である。そして、右通知に基づき、同年一二月一一日福井県から、同年一二月一五日山梨県からそれぞれ大腿四頭筋拘縮症大量発生の報告を受けた。右のような経過から漸く地域的な多発の現象が認識されるところとなり、従つて、類似の現象が他の地域に見られないか否かが当然の関心事となつたことから、行政庁の政策的判断として情報収集が必要となつてきたものであるが、これを契機として、昭和四九年二月二三日、厚生省医務局は、整形外科専門学者に対し、改めてこの点についての文献を中心とする調査研究を依頼し、次いで、厚生省は、大腿四頭筋拘縮症に関する研究班を発足させ、同研究班が原因の究明、治療方法の開発を継続してきたのである。

この間、昭和五〇年四月九日第四八回日本整形外科学会総会において、「大腿四頭筋拘縮症及び類似疾患の発生が注射によることが多いと考えられるので、注射をする場合は十分な配慮を行なうこと」との決議をしたのであるが、この決議は、具体的な提言を欠いているのであつて、そのこと自体、筋拘縮症の発生にいかなる要因が関与するのかについて、なお推測の域を出ないことを意味している。また、前記研究班予防部会の昭和五二年六月三日の中間報告によつても筋拘縮症が筋肉注射と何らかの関係があるのではないかと考えられるということにとどまつているに過ぎず、更に各方面の研究の集積が必要であるというのがその結論であつた。右中間報告によつても、指示の要件である画一的具体的な方法により容易な防止の方途が見出されたというものではない。

(3) 次に、前記各県からの報告のあつた時点で大腿四頭筋拘縮症の集団発生の事実の認識を持ち得たとしても、筋肉注射と同症との関係についての前記専門学者集団の動向からすると、仮りに厚生大臣が医療行為の裁量性を損わない限度で指示しようとすれば、筋肉注射の全面禁止はあり得ず、筋肉注射を必要やむを得ない場合のみに限定するという内容にとどまらざるを得ない。とすれば、そのような内容と同様のことが前記小児科領域における各医学書に記載されており、更に、保険医療機関及び保険医療養担当規則二〇条四号は、注射に関する一般的遵守事項を示しているのであるから、本件について、厚生大臣の指示自体必要性がないものである。

四被告らの主張に対する原告らの反論

1(一)  被告奥田を除くその余の被告らは、原告患児らの大腿四頭筋拘縮症発症の原因はグレラン注の筋組織障害性にではなく、もつぱら被告奥田のグレラン注の濫用という注射行為の誤りにあり、従つて、グレラン注の筋組織障害性と原告患児らの大腿四頭筋拘縮症発症との間に因果関係がないと主張するが、正当ではない。

被告奥田がグレラン注を濫用したことは確かであるが、これは、原告患児らの大腿四頭筋拘縮症発症の副因であつて、その主因は、グレラン注の筋組織障害性にあるのであるから、被告らの右主張は、その点からだけでも理由がない。しかし、仮りに自然的因果関係の場面において被告奥田のグレラン注の濫用が極めて重大であると評価され、このことが法的因果関係の場での規範的評価においてもグレラン注の筋組織障害性という要因に優越するのではないかとの疑問を生じさせた場合でも、なお、被告国、同武田及び同グレランが本来果すべき注意義務を果していたか否かが改めて吟味されなければならない。何故なら、被告奥田以外の被告らがそれぞれ固有の注意義務を尽していたならば、被告奥田においてもグレラン注を使用しなかつたか、または適正な使用をしたであろうことが十分に期待され、原告患児らの大腿四頭筋拘縮症罹患という結果は回避され得たという関係にあるからである。換言すれば、本件のようないわゆる複合原因による被害は、医師による注射濫用が制限されるだけでは十分でなく、注射剤の障害性等他の原因も除かれなければ回避され得ないのである。そもそも、医療が、医師の医療行為のみでなく、医療補助者等の人的設備、医薬品や医療機械器具等の物的設備、医学・薬学に関する情報・技術的秘訣等の要素が有機的総合的に組織されて初めて正しく機能するものであることは言うまでもなく、換言すれば、医療におけるこれらの要素は、いずれも独立して存在意義を有するのではなく、当初から臨床現場において医師の手により結合されることを予定してのみその存在意義を有するのである。すなわち、これらの要素は、いずれも医療という一つの場面で強い関連共同性を有するのである。

医療の場における被告らの強い関連共同性に鑑みれば、本件に即して損害賠償責任の不当な拡大であると意識されるのは、被告らが本来果すべき注意義務を完全に尽したにも拘らず被告奥田がこれを無視ないし軽視してグレラン注を使用した場合に限られるべきである。

(二)  また、被告奥田を除くその余の被告らは、被告奥田のグレラン注の使用方法は予期できないもので、これから生ずる結果について予見することはできないと主張する。しかし、被告奥田の使用方法は異常であつたとはいえ、当時の臨床現場に照すとき、これを予期できない程異常であつたとはとうてい言えないのである。即ち、一回当りの注射量について言えば、そもそも、成人薬用量についても、医師の裁量的判断によつても標準投与量を越えた多量が用いられることがありうるし、小児薬用量の決定についても、最近迄かなり混迷を極めており、決定的な基準は無かつたと言つても過言ではない。つまり、臨床現場における各医師はいわば手さぐり的経験的に小児薬用量を定めていたのであり、小児に対し、いわゆる標準投与量を越えて相当多量が用いられていたのが現実である。また、被告奥田が解熱剤の適応及び剤型の選択を誤つたことは事実である。しかし、古くは山本康裕がその著「小児科療法」において「何んでもかんでも、それこそ猫も杓子も注射であり、感冒にも注射、下痢にも注射であるが、このことについて医師は慎重なる考慮を要し、社会に対する責任を反省しなければならない。」と注射濫用の実態を厳しく指摘し、新しくは、日本小児科学会の「筋拘縮症に関する報告書」において「いたずらに解熱剤や特定の抗生剤の注射が多用されていたことについて、我々医師は深く反省する必要がある」「治療上の便利さから筋肉注射は次第に日常的に繁用されるようになり、遂には真の適応を越えてまで行なわれるに至つた。筋肉注射が濫用され、筋拘縮症多発に至つた背景には、製薬会社の販売攻勢やそれを無批判に受け入れていた医師の姿勢、現物給付の現行健康保険制度、国民皆保険による受診者の増加、注射礼賛の社会的風潮、医療の閉鎖性、患者の医師に対する依存性など多数の社会的要因が互いに絡み合つていることは否めない。」としていることからも明らかなように、右被告らには予見できたことである。

2  被告グレランは、昭和五年にグレランを供給して以来、その有効性及び安全性についての評価が高まつたと主張して各種臨床報告を援用するが、これらの臨床報告は、臨床医家の自発的な報告というよりもむしろ薬品提供者の宣伝への協力としての性格を有するうえ、販売政策的考慮に照応して、鎮痛・鎮静効果とアルカロイド性鎮痛剤に見られるような副作用のないことに力点が置かれ、その他の副作用は殆んど問題とされていないのである。従つて、それらの臨床報告は、本件で問題とされているグレラン注の筋肉組織障害性との関係で、その安全性を裏付けるものとはならない。

3  被告グレランは、府川和永の動物実験の結果に基づいて、原告らのグレラン注によつて原告患児らが本症に罹患したとの主張を争つている。

この実験は、赤石実験において、グレラン注の組織障害性の強さを、また、久永報告においてグレラン注こそ原告患児らの本件発症の原因であることが指摘されたことから、被告グレランが自然的因果関係の場面ではこれを認めつつも、法的因果関係の場面において被告奥田の不適正な使用に原因があるとして、その免責を企図して行なつたものである。

しかしながら、この実験の従事者はすべて被告グレランの関係者であつて、客観的第三者の関与を認めておらず、しかも、グレラン注は臨床上安全な薬剤のはずであるとの前提のもとに、一回あたりの投与量に焦点を絞り、最大限体重比による標準投与量の三倍量までのグレラン注を投与した結果を見るという、極めて限定的、片面的な実験であるうえ、設定された標準投与量なるもの自体臨床現場での実態を踏まえない過少量である。更に決定的なことは、実験動物である兎の拘縮測定につき、拘縮度がはるかに少なく表われるような誤つた測定方法をとるという問題点の存することである。

このように、右実験には、科学的客観性を欠く等の種々の重大な欠陥があり、このような実験に基づく「原告患児らの本症罹患はグレラン注の本来予定された適正使用に由来するものではない。」との結論には信ぴよう性がないと言わねばならない。

第三章  証拠関係〈省略〉

理由

〔凡例〕

以下の理由中において認定の用に供した各書証のうち、事実第三章で引用した本件記録中の書証目録認否欄に認と記載のあるものは、成立(写についてはこれに加えて原本の存在及びその成立、写真については撮影者被写体等に関する事実)につき、各当事者間に争いがなく、その余の書証のうち、書証番号下の括弧内に証拠を挙げたものは、この括弧内の証拠によつて成立の真正が認められ、括弧内証拠の記載のないものは、書面の趣旨体裁から成立の真正(写については、これに加えて原本の存在及びその成立の真正、写真については撮影者被写体等に関する事実)が認められるので、いずれも書証番号のみを表示する。なお、症例報告その他の文献は、その文献番号のみを示し、これの認定の用に供した書証についての証拠関係は、別冊文献表Ⅰの当該文献欄⑥に記載のとおりである。

第一章  当事者

一(原告ら)

原告猪岡靖子、同荻本孝子、同奥村祐子、同北岡里子、同内木洋子、同中村玲子、同西澤紘子、同濱口倭文子、同濵嶋成子、同福島峯子、同諸岡秋子各本人尋問の結果、乙D第一ないし第一〇号証によると、原告患児らの生年月日が原告ら主張のとおりであることが認められ、かつ、請求原因1(一)(2)の事実(原告患児らとその余の原告らとの親子関係)は全当事者間に争いがない。

二(被告ら)

1  被告奥田が、肩書地において奥田医院を開設し、診療行為に従事している医師であること。

2  被告グレランが、医薬品の製造販売を目的とする会社であり、グレラン注射液及びグレラン注を製造してきたこと。

3  被告武田が、医薬品の製造販売を目的とする会社であり、グレラン注射液及びグレラン注を販売してきたこと。

4  被告国が、厚生大臣をして医療薬事行政を担当させていること。

以上の各事実は、原告らと当該各被告との間で争いがなく、かつ、その余の被告らも明かに争わないところである。

第二章  当事者間に争いのない

事実

一前章に摘示の当事者間に争いのない事実の他、争いのない事実のうち、主要な事実は次のとおりである。なお、括弧内の当事者は、原告らと当該当事者との間で争いのないことを示す。

1 厚生大臣が、昭和三五年二月一六日グレラン注の成分変更に関し、製造許可事項の変更許可をしたこと(被告国)

2 被告グレランが被告武田へグレラン注を一括して販売し(被告グレラン、同武田)、被告武田がグレラン注の容器、能書に「販売武田薬品工業株式会社」と表示してこれを販売してきたこと(被告武田)

3 原告守孝を除くその余の原告患児らが、当事者個人表受診年月日欄に記載の各年月日に、同表病状欄記載の疾病について、それぞれ被告奥田から診療をうけ、同表注射剤名及び注射部位欄記載のとおり、グレラン注を大腿前面に筋肉注射されたこと(被告奥田)

4 原告守孝を除くその余の原告患児らが、被告奥田の診療をうけ、それぞれグレラン注を投与されたことがあること(被告グレラン、同武田)

5 原告めぐみ、同武司、同裕一、同降仁、同守孝、同和樹、同博之、同広志、同寿孝が大腿四頭筋拘縮症に罹患したこと(被告国)

6 グレラン注の成分が、原告ら主張のとおりであること(全当事者)

7 請求原因3(二)記載の文献、関係諸機関の見解が発表され、また動物実験が行われたこと(被告グレラン、同武田、同国)

二以上を除く当事者間に争いのない事実については、理由第三章以下において適宜摘示する。

第三章  大腿四頭筋拘縮症の概念及び研究史

一総説

以下に摘示の各文献によれば、大腿四頭筋拘縮症に関しては、その定義及び呼称について次のような見解のあつたことが認められる。

1(定義)

大腿四頭筋拘縮症について、森崎直木(文献F―35)は、「何らかの原因によつて、大腿四頭筋が瘢痕性線維性組織に変わり、筋肉の被伸展性が障害されたために起る疾患である。」と定義し、村上寶久(文献F―17)は、「先天性もしくは後天性に大腿四頭筋のある部分に変性(線維化)が起こり、筋の伸張性が減じて拘縮を発生し、その結果下肢の機能に障害をきたすものである。」と定義している。また、厚生省大腿四頭筋拘縮症研究班(文献F―13)は、「本症は、先天性もしくは後天性におこり、出産時、新生児期、あるいは乳幼児期になんらかの原因によつて大腿四頭筋に部分的変生を生じ、その結果、大腿四頭筋の一部が瘢痕化することによつて筋の伸張性を減じ、児が成長するにしたがつて大腿四頭筋が相対的に短縮した状態となり、幼児期にいたつて歩容異常、膝関筋屈曲制限などの症状を現わしてくる疾患である。」と定義した。

2(名称)

(一) 本症の日本における最初の命名は、昭和二七年の青山虎吉ら(文献A―3)の「大腿四頭筋短縮症」であつたが、昭和三六年、笠井実人ら(文献A―13)は、本症の症例の患筋が主として大腿直筋であることに着目して、「大腿直筋短縮症」と命名し、同年、福島正ら(文献A―26)は、「大腿直筋拘縮症」と命名した。

(二) 本症について日本で最初に「大腿四頭筋拘縮症」を呼称に用いたのは、昭和四一年の黒木良克ら(文献A―35)のようである。

(三) その後、昭和四四年、笠井実人ら(文献A―47)は、主として膝関筋屈曲にのみ障害を有する症例のあることに着目して、呼称を「大腿直筋短縮症」から「大腿四頭筋短縮症」と改め、昭和四五年には、根岸照雄ら(文献A―51)は、後天性例に拘縮症、先天性例に短縮症と分けて呼称すること、主とし大腿直筋に障害のあるものは「大腿直筋拘縮症」として「大腿四頭筋拘縮症」から区別することを提唱した。

(四) しかし、昭和四九年以後、厚生省(文献F―13)、日本医師会(文献F―11)、日本整形外科学会(文献F―15)は、本症の呼称として「大腿四頭筋拘縮症」を用い、その後は、この呼称が通例となつた。

(五) 日本整形外科学会学術用語委員会(松本淳委員長)は、先天性もしくは後天性に筋肉の変性や瘢痕にひき続き、関節運動が制限されることを表現する適切な名称として、「筋拘縮症」を正式な用語に採用した(文献F―52)。

以上のとおり、本症の定義が与えられており(但し、本件請求の当否を判断する上で、これらの定義が妥当なものとしてそのまま用いられるべきものであるか否かについては、後記第四章で検討するが、ここでは、一応、判断のために必要な前提作業のために、仮設的なものとして、右の定義に従うこととする。)、また、呼称についても変遷のあつたことが認められるのであるが、右認定の経緯に従えば、今日、「大腿四頭筋拘縮症」との呼称を用いるのが妥当であるから、以下の理由中では、特に研究史上の歴史的記述等に必要な場合を除き、右の呼称を用いることとする。

二大腿四頭筋拘縮症の病態

1(大腿の筋の構造)

乙B第七四号証の四の四四によれば、ヒトの大腿部(特に筋肉)の解剖学的構造は、次のとおりであることが認められる。

(一) ヒトの大腿の筋は、前側にある前大腿筋(伸筋)、内側にある内側大腿筋(内転筋)及び後側にある後大腿筋(屈筋とに分けられるが、各筋ともに上方から起り、下方に付着する。

大腿の筋には、次の諸筋がある。

(1) 前大腿筋(伸筋)

(イ) 第一層 縫工筋

(ロ) 第二層 大腿四頭筋

(2) 内側大腿筋(内転筋)

(イ) 第一層 恥骨筋、薄筋、長内転筋

(ロ) 第二層 短内転筋

(ハ) 第三層 大内転筋、小内転筋

(3) 後大腿筋(屈筋)

大腿二頭筋(長筋・短筋)、半腱様筋、半膜様筋

(二) また、解剖学上下肢帯筋に属するものとして分類されているが、大腿の運動に重要な役割を果すものとして、次の筋肉がある。

(1) 寛骨内筋、腸骨筋、大腸筋、小腰筋

(2) 寛骨外筋

第一層 大臀筋、大腿筋膜張筋

第二層 中臀筋

第三層 小臀筋、梨状筋、双子筋等

(三) 前記の各筋のうち、本症の理解にとつて重要と思われる諸筋の機能、構造等は、次のとおりである。

(1) 縫工筋(旧名・縫匠筋)

この筋は、幅狭く、人体中で最も長い筋である。

(イ)(起始・経過)

上前腸骨棘の直下から起り、斜めに下内側方に向う。

(ロ)(付着)

扇状の腱によつて脛骨粗面の内側に付着する。

(ハ)(作用)

大腿を前方に挙げ、下腿を内転し、屈曲する。膝関筋を屈曲したときは、大腿を内方へ回し、伸展したときは、大腿をその位置に固定する。

(ニ)(神経支配)

大腿神経

(ホ)(血管支配)

閉鎖動脈、内側大腿回旋動脈

(2) 大腿四頭筋

大腿直筋、内側広筋、中間広筋及び外側広筋の四頭からなり、中間広筋の一部は、更に膝関節筋(以下、膝関節運動に関与する筋を総称するときは、単に膝関節筋といい、中間広筋の一部である膝関節筋を指す場合には、狭義の膝関節筋という。)に分れている。大腿伸筋の殆んど全部をなす人体最大の強大な筋である。全体として下腿を伸展し、大腿直筋は、大腿を上方へ挙げる。なお、大腿直筋の膝関節伸展力と他の三広筋のそれとの比率は、約一対五であつて、圧倒的に後者が強い(文献F―52)。

Ⅰ 大腿直筋

(イ)(起始・経過)

二頭からなり、下前腸骨棘及び寛骨臼上縁から起り、合して紡錘状の筋腹をなし、膝蓋骨の上で共同腱に移る。

(ロ)(付着)

膝蓋骨の底に着く。一部は、膝蓋靱帯を介して脛骨粗面に着く。

(ハ)(作用)

大腿を上方に挙げる。起立の姿勢では骨盤の屈筋。

(ニ)(神経支配)

大腿神経

(ホ)(血管支配)

大腿回旋動脈

Ⅱ 内側広筋

(イ)(起始・経過)

大腿骨の転子間線の下部及び大腿骨粗線の内側唇から起り、斜めに下外側方に向かい、共同腱に合する。

(ロ)(付着)

膝蓋骨の内側縁及び上縁、中間広筋の終腱。

(ハ)(作用)

下腿の伸展、内側膝蓋支帯の張筋。

(ニ)(神経支配)

大腿神経

(ホ)(血管支配)

大腿深動脈の貫通枝

Ⅲ 中間広筋

(イ)(起始・経過)

大腿直筋に被われて大腿骨体の前面から起り、下方に走つて共同腱の中軸をなす。

(ロ)(付着)

膝蓋骨の底

(ハ)(作用)

下腿の伸展、内側膝蓋支帯の張筋

(ニ)(神経支配)

大腿神経

(ホ)(血管支配)

外側大腿回旋動脈

Ⅳ 外側広筋

(イ)(起始・経過)

大転子の外側面、大腿骨粗線の外側唇から起り、下内側方に向かい共同腱に合する。

(ロ)(付着)

膝蓋骨の外側及び上縁、中間広筋及び大腿直筋の終腱。

(ハ)(作用)

大腿を外転する。

(ニ)(神経支配)

大腿神経

(ホ)(血管支配)

外側大腿回旋動脈

Ⅴ 狭義の膝関節筋

中間広筋の一部から分れたもので、これに被われている。

(イ)(起始・経過)

大腿骨体の前面下部から起り、下行する。

(ロ)(付着)

膝関節包の上陥凹

(ハ)(作用)

膝伸展の際、陥凹を上方に引く。

(ニ)(神経支配)

大腿神経

(ホ)(血管支配)

外側大腿回旋動脈

(3) 大腿筋膜張筋

大腿筋膜を張る扁平な筋で、中臀筋の前にある。

(イ)(起始・経過)

上前腸骨棘から起り、大転子の前を経て腸脛靱帯に移り、下方に向う。

(ロ)(付着)

脛骨の外側顆

(ハ)(作用)

大腿筋膜を張り、下腿を伸ばせば脛骨を外転する。

(ニ)(神経支配)

上臀神経

(ホ)(血管支配)

外側大腿回旋動脈

2(類型)

以下に摘示の症例(証拠関係は、別冊文献表Ⅱの当該症例番号に対応する文献番号の文献について文献表Ⅰ⑥欄に記載のとおりである。以下、同様。)等のほか、文献表Ⅱ表Aで認定の本症の症例、乙B第七五号証、証人森谷光夫、同宮田雄祐の各証言並びに弁論の全趣旨を綜合すると、大腿の筋等の構造が前記のとおりであるため、その全部または一部が障害により伸縮性を失ない、あるいは、重要な筋に付着しまたはこれと接する他の大腿部組織の障害によつて筋の伸縮性が束縛、拘束されると、次のような種々の大腿部ないし下肢の関節運動障害が生じることのあることが認められ、この運動障害が本症の病態の主たる部分を形成するものと考えられる。

(一)(臨床例)

(1) 主として大腿直筋が障害により伸縮性を失つた場合には、股関節伸展位では大腿直筋が緊張して膝関節屈曲を阻害し(股関節屈曲位では大腿直筋が弛緩するため、膝屈曲制限が現われない場合がある。)また、腹臥位で膝を屈曲すると、膝屈曲制限のため膝がよく曲がらず、強いてこれを曲げようとすると緊張した大腿直筋によつて股関節が屈曲したような状態となり、尻が床から持ち上がる現象を生じ、これを尻上り現象という(症例19の1〜7、36・文献F―8)。

(2) 主として、中間広筋、外側広筋、内側広筋の全部または一部が障害により伸縮性を失つた場合には、股関節の肢位(大腿直筋の緊張または弛緩)に関係なく、膝関節の屈曲が阻害される(症例65の2、3、109の2、112、113)。

(3) 大腿直筋と大腿四頭筋の他の筋の全部または一部が障害により伸縮性を失つた場合には、膝関節屈曲の障害が常に現われるが、股関節の肢位(大腿直筋の緊張または弛緩)により、膝関節可動域が異なる(症例32、65の1)。

(4) 主として大腿筋膜が障害により伸縮性を失つた場合には、その直下の筋の伸縮に影響を与え、種々の運動障害を生ずる(症例20、84)。

(5) 主として腸脛靱帯が障害により伸縮性を失つた場合には、股関節の内転等が阻害される(症例85・文献A―62)。

(6) 大腿各筋の障害のほかまたはこれと併せて、各筋間または皮下組織、皮膚、筋膜等と各筋との間の癒着があり、これによつて各筋の伸縮が阻害されまたは伸縮障害が増強される場合がある(症例41、42、37、39、46、66の4)。

(二)(診断基準上の病型)

日本整形外科学会筋拘縮症委員会は、昭和五四年四月二〇日、本症の病型について次のとおりに提言した(文献F―47)。

(1)(直筋型)

主として大腿直筋が障害されているもの。股関節伸展位においてのみ膝の屈曲が障害され、股関節屈曲位においては膝の運動は正常である(尻上り現象は陽性)。

(2)(広筋型)

主として中間広筋あるいは外側広筋が障害されているもの。

股関節の肢位に関係なく、常に膝の屈曲が一定の角度に障害されている(尻上り現象は陰性)。

(3)(混合型)

主として大腿直筋が障害され、同時に中間広筋あるいは外側広筋も障害されているもの。

直筋型と広筋型の症状が当然混在するので、膝の屈曲は常に障害されており、その角度は股関節の肢位によつて変化する(尻上り現象は陽性)。

三大腿四頭筋拘縮症の症状

1(臨床所見)

本症の病態は前記認定のとおりであるが、後記本章四及び文献表Ⅱ表Aで認定の本症各症例、文献F―35、F―47を綜合すると、本症の罹患による外部的臨床症状は、次のとおりであると認められる。

(一)(1) 膝関節屈曲制限

本症の最も特徴的症状で、背臥位で膝関節を他動的に屈曲させるとき、屈曲は十分に可能であるが、腹臥位では、ある程度曲げると屈曲制限を認める。

(2) 尻上り現象

尻上り現象については、本章二2(一)(1)で既に判示のとおりであるが、この尻上り現象の始まる瞬間の膝関節屈曲角度を尻上り角度という。なお、この角度の測定方法、特に基軸については、当初、基準がなく、各研究者等によつてまちまちであつたが、昭和五四年の日本整形外科学会の提言(文献F―47)以後ころから、床面を零度とすることでほぼ統一された。従つて、この基準による測定角は、大転子を基点とする屈曲角度とは異なることになる。

(3) 歩容異常(外分回し)

膝関節の屈曲制限のために、患肢を遊脚時に外側に振り回すようにして運ぶ。これを外分回し歩行、外遊歩行等と称する。

(4) 正座異常・しやがみこみ異常

膝関節屈曲制限のために、日本式正座が不可能または困難となる。可能な場合でも、患肢を外転させるために、膝が前に出たり(一側性では膝が揃わないことになる。)、踵と尻が十分に付かない等の現象が見られる。しやがみこみでも同様である。

(5) 腰椎前彎・出尻

直筋型または混合型で、腸骨が大腿直筋に引き寄せられて腰椎が前彎する(一側性では側彎となる。)。

(6) 膝蓋骨高位

大腿四頭筋の拘縮によつて膝蓋骨が上方へ引き上げられる。高度の場合(外側広筋型)には、膝蓋骨の外側脱臼を伴う場合がある。

以上の各臨床所見が見られるが、その具体例の詳細は、別紙文献表Ⅱ表Aの各症例要旨(ニ)欄のとおりである。

(二)(皮膚所見等)

大腿部に注射の跡と思われる皮膚陥凹や瘢痕を認めることがある。但し、このような所見は、その深部の筋肉の病変を示すものとは限らない(例えば、本章二・2(一)(6)のような場合がある。)。

(三)(触診)

触診で罹患筋を索状に触れる場合がある。特に、膝関節屈曲を強制した際に著明となる場合がある。但し、この索状物が常に大腿四頭筋の変化したものであるとは限らない。

2(診断)

(一) 昭和四九年、厚生省大腿四頭筋拘縮症研究班は、本症の診断基準を次のとおり定めた(文献F―13)。

Ⅰ 検診上の注意事項

(1) 大腿部の索状物は、すわらせたとき、又は、あおむけにして下肢をベッドから垂らしたときに触れやすい。

(2) 股関節屈曲時の膝関節屈曲は、あおむけにして股関節を曲げた位置で膝関節を曲げた時に踵が尻に近づくかどうかを検査する。その時の膝関節の屈曲角度を外側で測定する。

(3) 股関節伸展時の膝関節屈曲は、うつぶせにして股関節を伸ばした位置で膝関節を伸展位から徐々に屈曲すると、患側では尻上り現象がみられる。

この尻上り現象が起り始める膝関節の屈曲角度を外側で測定する(片手をかるく骨盤におき、他方の手で下腿をつかんで膝関節を曲げていくと骨盤が浮くのがわかる。)。

(4) 前記(2)、(3)の膝関節屈曲検査は、片足ごとに、股を開かない位置(股が外に逃げない位置)で行ない、踵が尻につくもの、あるいは尻上り現象開始角度が一三〇度以上のものは正常範囲とする。

Ⅱ 大腿四頭筋拘縮症の判定基準

大腿四頭筋拘縮症の判定は、年齢、拘縮部位等を勘案し、総合的に行うべきものであるが、一応の基準を示せば次のとおりである。

(A) 歩き方、すわり方に障害があり、あおむけでの股関節屈曲時の膝関節屈曲角度が、おおむね九〇度未満のもの、あるいは尻上り現象開始角度がおおむね六〇度未満のもの。

(B) 歩き方、すわり方に軽い障害があり、あおむけでの股関節屈曲時の膝関節屈曲角度がおおむね九〇度以上のもの、あるいは尻上り現象開始角度がおおむね六〇度から一三〇度未満の範囲のもの。

(C) 歩き方、すわり方に障害は認められないもので、大腿部にへこみ、ひきつれ、しこりまたは索状物があるが、あおむけでの股関節屈曲時に踵が尻につくもの、あるいは尻上り現象開始角度が一三〇度以上のもの。

(二) 昭和五一年、厚生省筋拘縮症研究班は、昭和四九年の診断基準の一部改定(高中度を(A)、軽度を(B)、現段階では拘縮症と認められないものを(C)と修正)を行なつたが、(文献F―49)、同年、日本整形外科学会筋拘縮症委員会は、厚生省の診断基準の一部修正(拘縮症と認められるものを(A)、認められないものを(B)と修正)を内容とする筋拘縮症検診票(案)を発表した(文献F―21、F―23)。

(三) 昭和五五年、厚生省筋拘縮症研究班は、日本整形外科学会筋拘縮症委員会の昭和五一年の一部修正案の線に沿つて、本症の診断基準を次のとおりに改定した(文献F―49)。

Ⅰ 検診上の注意事項

(1) 大腿部の索状物は、あおむけにして下腿をベッドから垂らしたときに触れやすい。

(2) 股関節屈曲時の膝関節屈曲は、あおむけにして股関節を最大に曲げた位置で踵が尻に近づくかどうかを検査する。そのときの膝関節の屈曲角度を外側で測定する。

(3) 尻上り現象は、うつぶせにして股関節を伸ばした位置で、膝関節を伸展位から徐々に屈曲すると、尻上りが見られる。この尻上り現象が起り始める膝関節の屈曲角度を外側で測定する(床面を基本軸、零度とする)。

Ⅱ 診断基準

大腿四頭筋拘縮症の診断について、一応の基準を示せば次のとおりである。

(A) 歩行時、走行時ならびに正座時などになんらかの障害があり、膝関節の屈曲障害、あるいは尻上り現象などが認められるもの。

(B) 大腿部に頻回の注射既往歴があつたり、へこみ、ひきつれ、しこりなどがあるが、膝関節の屈曲障害あるいは尻上り現象などが全く認められないもの。

Ⅲ 指導区分

(A) 専門医療機関に受診するよう指導する。

(B) 現段階では機能障害は認められないが、経過によつては症状の発現もあるので、定期的(一年に一回程度)に保健所などの療育相談等を活用する。

(注) 専門医療機関としては、「指定育成(更生)医療機関」が適当である。

(B)については経過によつて医療の必要がある。

四大腿四頭筋拘縮症の報告と研究の歴史

本症の研究史を辿ることは、被告らの責任の有無なかんづく予見可能性の存否を決するうえでは不可欠というべく、そこで後記認定のとおり原告患児らが被告奥田によつてグレラン注を大腿部に投与された昭和四七年末ころ迄の期間を一応の目途として、その間内外において行なわれた本症並びに関連疾患についての研究報告の概略を通観することとする。

1 本症は、当初は、先天性関節脱臼(明治三三年・ドレマン、昭和一二年、三木、昭和二四年・河邨)、膝蓋骨脱臼(昭和八年・ドマンスキー)、膝蓋骨高位(昭和一一年・ディクソン)の一部分症として述べられていた(文献A―63)。

第二次世界大戦前においては、本症としての報告は、昭和九年のアルジェリアのロンバルドの報告があるに過ぎない。ロンバルドの症例は、生下時から膝関節の伸展拘縮を有する先天性のものであつた(文献E―9、F―35、F―52)。

2 昭和二一年、第一五七回整形外科集談会東京地方会において、森崎直木は、日本で最初に本症の症例を報告した(文献A―1、F―35)。森崎の症例は、六歳の女子で、注射の既往なく、手術所見では、中間広筋のみが筋性斜頸における胸鎖乳突筋のように線維性に変化していたので、森崎は、これを先天性のものとして報告し、その後、昭和三三年に、同症例を一つの独立した症患と認め、日本外科全書(文献F―1)に記載した。

昭和二二年、第一六一回整形外科集談会東京地方会において、伊藤四郎は、大腿部筋肉注射による本症の二症例を報告した(文献A―2)。伊藤は、その二症例について、ブドウ糖筋肉内注射が本症発生の原因となつていると考察し、日本で最初に、本症が大腿部注射によつて起こる可能性を指摘した。その後、伊藤は、昭和二七年の第二〇二回整形外科集談会東京地方会で、その二症例を重ねて報告し、その抄録が日本整形外科学会雑誌に掲載された(文献A―2―2)。

3 昭和二七年、第二〇二回整形外科集談会東京地方会において、青木虎吉らが本症の三症例を報告したが(症例3、4、5)、その際、水町四郎は二例を(症例6の1、2)、武田栄は三例を(症例7、8、9)、山田義智は一例を(症例10)、伊藤四郎は前記の二例を(症例2の1、2)それぞれ追加して報告した(文献A―2―2、A―3〜A―6)。

この中で、武田、山田及び伊藤は、いずれも本症の原因が注射であることを指摘したが、証拠上、その根拠を示したか否かは明らかでない。また、武田は、「トリアノン、ピラビタール、バグノンが筋硬結を作りやすい。」と述べているが、証拠上、これらの注射剤と武田の三症例(症例7、8、9)との関係は全く不明であり、筋硬結と本症との関係について述べたか否かも全く不明である。ただ、武田がそれに続けて「注射だけでなく、炎症を起こしたものが悪い。発育により悪化する。」と述べているところからすると、この集談会において、武田が、注射による炎症、硬結形成、本症の発症、成長による悪化として、日本で最初に本症の発症のメカニズムについての意見を述べたと推測することは全く不可能なわけではない。

なお、トリアノン及びバグノンについては、本件証拠上、その成分等は必ずしも明らかでないが、〈証拠〉を綜合すると、これらはいずれも昭和二〇年前後に主として整形外科及び外科の領域で広く使用された注射剤で、注射時の疼痛等が著しく、現在では使用されていないこと、バグノンは、被告武田の製造販売にかかる注射剤であることが認められ、特にバグノンの組織障害性に関連して、赤石英は、六件の神経麻痺事故のあることを指摘している(文献F―7)。また、ピラビタールについては、乙C第一四号証によれば、昭和二九年当時、ピラビタール注射剤として、被告グレラン及び同武田のグレラン、シェーリング社のベラモン、三共のセダロン、マルコ製薬のナル、岩城のセドマノンが製造販売されていたことが認められるのであるが、証人北原哲夫の証言によれば、昭和二七年当時には、ピラビタールとグレラン注射液とを同一視しても不合理ではないと考えられる。

そして、甲第七号証によればこの集談会には森崎も参加し、「大腿四頭筋短縮症は軽度の場合には膝の屈曲制限を主訴とせず、却つて跛行を主訴とし、股関節伸展位にて始めて膝関節屈曲制限を認めることがある故に、小児の跛行にて診断不明のものに本診断法を行なつてみる必要がある。」と述べて、今日、直筋型として知られている本症の一病型の特徴と診断法を示唆していることが認められる。このことから、当時、森崎は、自身で本症の複数例を知るに至つていたことが推測される。

このあと昭和三二年までの五年間は、一部の研究者の内部的研究は進められていたにしても、少くとも外部的には、前記森崎らが提起した大腿四頭筋短縮症の問題が一応鎮静化した時期であると考えてよい(文献A―7、A―8)。

4 昭和三二年一月二六日、第二四三回整形外科集談会東京地方会において、東大整形外科の河井弘次らが一九例の本症の症例を報告した。この報告は、同年四月には、その抄録が雑誌(文献A―9)に掲載されたが、それによると、一九例中症状の高度な二例の組織学的所見から、筋膜及び筋腹内への注射液の注入による阻血性変化その他複雑な因子による疾患と推測されることが報告されたが、このような具体的な検討は、文献上、日本で最初のものである。

ところで、この一九例は、東大整形外科で扱われたものであるが、前記青木虎吉らの三症例(症例3、4、5)も東大整形外科で扱われたものであつて、右一九例中に含まれているものと推認される。そして、この一九例は、森崎によつて、翌三三年には成書中に引用されているのである(文献F―1)。更に、この一九例と思われる症例は、当時の東大整形外科教授三木威勇治によつて、(昭和三七年ころと推認される)第一九回中部日本整形外科災害外科学会(文献A―9①)及び昭和三七年七月一五日の第一九回東北整形外科災害外科学会(文献A―9②)において、それぞれ紹介されたが、前者において三木は「注射のみでおこるのでなく、先天的素因が大きな因子となつている」と述べている。これらの経緯に鑑みると、東大整形外科においては、昭和二七年の青木の報告以来、継続して本症に対する検討が行なわれていたと考えられ、このような検討の蓄積が、後記の湯河原における大量発生の発見(文献A―24)をもたらしたということができる。

ただ、当時の東大整形外科においては、前記のとおり、注射による本症の発生を明示する傾向がある一方、本症に先天性のものも少なくないことを強調する傾向も強く見られ、河井らの報告(文献A―9)中でも一九例中の二例を先天性と明記している(注射と明記されたものは一二例で、その余は注射以外の原因によるものとされている。)。しかも、この報告の報告者である土居通泰は、後に、第四八回日本整形外科学会総会において、「私は、昭和三二年、本症の一九例について発表した。先天性の二例以外は後天性で注射が主因であり、治療に抵抗し再発の傾向もあることを述べたが、当時もつと強く警告すべきだつたと今になつて反省している。」と発言している(文献A―92)。そして、三木が先天性素因を重視する見解を示していたことは、先に判示のとおりである。

従つて、河井らの報告(文献A―9)は、本症が注射の結果生ずることを強調するものとは必ずしも言えず、単に注射による症例のあることと、注射により本症が発症する可能性があることを指摘したに止るものと解するのが妥当である。

5 昭和三五年、国立療養所久留米病院の佐藤光雄が本症の一例を報告した(文献A―10)。これは、集談会における三六番目の発言で、しかもその抄録を記載した雑誌の内容もわずか七行の簡単なものである。

ただ、この報告で注目すべきことは、昭和三二年の河井らの報告(文献A―9)以前においては、症例の報告が東京周辺に集中していたものが、久留米の一医師によつて本症の存在が認識されていたこと、その医師が国立療養所に所属していたこと、注射による炎症が原因であることを示唆していることである。

同様のことは、昭和三五年五月の中国労災病院平川寛らの報告(文献A―11)についても言うことができる。この報告では、ロンバルト(文献E―9と推認される。)、森崎(文献F―1と思われる。)、青木(文献A―9)、及び矢橋(文献A―7と推認される。)を引用している。ただ、平川らの三症例(15、16、17)がいずれも原因不明として報告されていること(症例15について注射既往((但し、外傷の一種と把握されている。))のあることが報告されている。)からすると、この報告は、注射による発症説に対しては、かなり慎重な態度をとつているものと見るのが妥当である。

6 ところが、昭和三五年一一月二日、神戸市民中央病院整形外科の笠井実人らは、公立豊岡病院整形外科の佐々木正和と共に、第一七回中部日本整形外科災害外科学会において、注射が原因であることを明確に示して本症の七例を報告し、その抄録は、翌昭和三六年の雑誌(文献A―13)に掲載された。笠井らは、その発生機転については「癒着が考えられるが、詳細は不明である。」としているものの、注射発生説を鮮明に打ち出したのは、文献上、笠井らが最初のようである。

また、笠井らは、本症の患児らを腹臥位にして膝関節を屈曲するとお尻が上がることに着目し、これを尻上り現象と名付けた。

とまれ、その後、笠井らが本症の検討と治療方法の開発へ与えた貢献は少なからぬものがあり、後記のとおり、次々に症例報告(治療成績に特に重点が置かれている。)を発表するとともに(文献A―21、A―25、A―90)各学会に参加して意見を述べている(文献A―13①)。また、笠井の報告は、その後多くの文献、症例報告等で引用され、検討が加えられているのであつて、本症に関するその後の膨大な研究活動は、笠井らの研究及び注射発生説の唱道に端緒を有すると言つても過言ではない。

7 昭和三六年、第一八回中部日本整形外科災害外科学会において、京都第二日赤整形外科の保田岩夫らは、本症の四例(症例18の1〜4)を報告したが、この報告は、同年中に雑誌に掲載された(文献A―12)。

右保田らの報告で注目すべきことは、本章二・2(二)の病型の分類、すなわち、直筋型、広筋型及び混合型の存在の可能性を、実証に基づくものではないが、大腿四頭筋の解剖学的知見に基づいて理論的に予測していることである。そして、この理論的検討に基づいて、本症による障害に種々変化があり得ることを指摘している。

なお、四症例(症例18の1〜4)の発症原因としては、三例について、筋注と明示している。

8 昭和三六年には、外国においても、本症の症例が報告された。

(一) 同年、チェコスロバキアのネフコフスキーら、小児における中間広筋の進行性線維化として一二症例を報告した(文献E―1)。この報告中で、ネフコフスキーは、その臨床像が関節筋異形成の不全型に類似するが、生後一年以上の小児に発症し、徒手矯正や理学療法に抗して膝関節屈曲制限が増悪することをあげて、関節筋異形成とは異なる疾患と考えた。そして、更に、その組織所見について、「筋線維の直径は狭く、多くの部分で、筋線維は完全に消失している。筋線維の幅の減少を見、四頭筋の全ての筋線維、特に大腿直筋と中間広筋においてかなりの部分で脂肪組織に置換されている。筋鞘核は増加し、ある部分では喰細胞の集落を見る。」と述べ、また、膝蓋骨が発育遅延の所見を呈していることから、おそらく、先天性の筋形成不全の特殊型であろうと述べた。

(二) 昭和三六年『フェアバンクらは、一卵性双生児に見られた中間広筋の拘縮症の症例を報告した(文献E―2)。フェアバンクらは、一つの遺伝的人種的因子を考え、筋拘縮症は先天性筋性斜頸に見られる胸鎖乳突筋の拘縮と同様と思われると述べた。

また、イギリスでは本症の報告が皆無であることから、本症は東ヨーロッパ人の人種独特のものではないかとの見解を示した。

(三) 昭和三六年、トッドは、本症と注射との関連性を指摘した(文献E―12)。なお、昭和大学整形外科教室の阪本桂造は、トッドの発表以来注射による後天的発生が強調されるようになつたと述べている(文献A―63)。

9 昭和三七年、第一九回中部日本整形外科災害外科学会において、三重県立大整形外科の松生宏文らは、注射によることが確実な症例を初めて報告し、この報告は、同年中に雑誌に掲載された(文献A―14・抄録は文献A―14①)。

この症例(症例20)は、生下時、生活力が微弱で母乳を充分に吸啜することができず、栄養障害をきたしたため、医師により前後約一〇回にわたり両大腿前面及び右臀部にリンゲル液(量不明)の注射を受けた後、注射部に化膿を生じて切開を受け、瘢痕を残して創治癒以後放置されたものである。また、名古屋大学整形外科の森健躬から二症例(症例21、22)の追加報告があつた(文献A―15)。

また、同年三月一七日、名市大医学会第九一回例会において、同大学整形外科の松波百合子らにより、先天性と考えられる二症例(症例23、24)が報告され、同年中にこの報告は雑誌に掲載された(文献A―16)。

松波らは、全く原因が不明なことから右二例を先天性のものと考えたものであるようであるが、この時点における既報告症例数は全部で四四症例、うち先天性とされたものは七症例、注射によるとされたもの二九症例、外傷、手術、炎症等によるもの八症例と症例報告の分析結果を発表している。

従つて、昭和三七年当時、名古屋大学及び名古屋市立大学の各整形外科の一部の医師らは、既に本症の存在、本症の患者の所見、既発表の症例報告等についての知識を得ていたことになるのであるが、後記第五章で認定のとおり、昭和四五年九月ころの時点で、名古屋市立大学附属病院の整形外科の医師(氏名不明)は、原告隆仁が本症に罹患していることを診断できなかつたのである。このことは、本症に関する情報の伝達が、同一大学附属病院の同一診療科目の医師らの間でさえ、約八年の歳月を経てなお、十分でなかつたことを示すものであり、従つてまた、本症が長い間、限られた医師らの間でのみ研究調査の対象となつていたことを示すものである。

10 昭和三七年七月一五日、第一九回東北整形外科災害外科学会において、新潟大整形外科の竹前孝二らは、本症の一症例(症例28)を報告した。この際には、岩手医大整形外科の藤原豊が二症例(症例29、30)を、弘前大整形外科の村田東伍がペニシリンが原因と思われる症例をそれぞれ追加報告したほか、三木が東大には相当数の小児の報告がある等の発言をした。そして、これらの報告は、翌昭和三八年、雑誌に掲載されたが(文献A―19、A―20、A―17①、A―9②)、このうち、村田の症例は、同年、第一八回青森臨床外科医会総会においても報告された(文献A―17・症例25、26)。

また、小児科の分野の書物で、初めて本症に触れたのは、伊藤忠厚らの「小児の微症状」(文献F―2)であるが、その記載内容は、森崎の日本外科全書(文献F―1)の記載をそのまま引き写したものであつて、特に本症について調査・検討した形跡は見出されない。

11 昭和三八年四月三日及び四日の両日にわたる第三六回日本整形外科学会総会において、笠井らは、先に報告(文献A―13)した七例(症例19の1〜7)に併せて六例(症例31の1〜6)を新たに報告したが、この報告の詳細は、同年中に雑誌に掲載された(文献A―21・抄録は文献A―21③)。

この報告では、笠井らは、症例の内容、症状、手術成績、成因についての考察等に関して詳細に述べているが、特に注目すべきことは、本症の成因について、「両側に注射を受けながら、一側にしか症状の現われない例もあることから、薬液の種類、量も関係するし、また薬液の吸収がおそいために筋線維が変性に陥ることも考えられる。或いは異物による無菌的な炎症、または化膿にまで至らない軽度の感染も考慮しなければならないと思う。」との見解を示したことである。

この笠井らの報告に対し、まず慈恵大整形外科の丸毛英二が発言し、成人の症例(症例32)を紹介したうえ、瘢痕が高度の場合には大人にも本症が存在することを指摘し(文献A―22)、次に発言した東大整形外科の植田通泰は、注射によると思われる二〇例及び先天性と思われる三例(症例13の1〜14、33の1―9)を紹介したうえ、本症の自然治癒の可能性には疑問のあること、大腿直筋以外の大腿四頭筋が関与している場合もあるから本症の名称としては従来通り大腿四頭筋短縮症がよいと考えると述べた(文献A―23)。

12 昭和三八年二月二四日、第九回北陸整形外科集談会において、市立敦賀病院整形外科の山田浩らは、幼児期の注射によると思われる本症の成人例(症例27)を報告したが、この報告は、同年中に雑誌に掲載された(文献A―18)。

同年九月六日、第一二回東日本臨床整形外科学会において、厚生年金湯河原整形病院の立岩邦彦らは、冒頭に「最近三年間に、伊東市内で発生した小児の大腿四頭筋短縮症の三〇例を経験したので、その原因、症状、治療について報告する。」と述べて、本症の三〇例(症例34の1〜30)を報告したが、この報告は、同年中に雑誌に掲載された(文献A―24)。

この報告中で、立岩らは、「新生児期及び乳児期に、大腿前面に頻回の注射を受けたことが原因と推測される。しかし特別の注射液については調査できなかつた。」と述べているが、このことは、当時、立岩らが本症の発生機転について、一方で注射手技の問題に着目するとともに、他方では注射剤自体の問題にも関心を持つていたことを示しているということができる。しかし、この立岩らの報告の記事は、全体でもわずか一四行の極めて簡略なものであつて、その内容の詳細は、昭和四五年の根岸照雄らと立岩との共同報告(文献A―51)まで明らかにはならなかつた。

13(一) 昭和三七年、スティーン・ジョンソンは、筋注による本症の一例を報告した(昭和四三年のハーゲンに引用されている。文献E―8)。

(二) 昭和三八年、ガミーらは、二卵性双生児及び一卵性双生児の外側広筋及び中間広筋の拘縮症の症例を報告した(文献E―3)。

ガミーらは、その組織所見として、一連の筋線維が幼若な非常に細胞成分に富む結合織(線維芽細胞)にとり囲まれていると述べ、筋拘縮は、内反足やシュプレンゲル病または先天性斜頸の際に生じる先天性筋拘縮により生ずるとの見解を示した。

(三) 昭和三八年、クシンクは直筋拘縮症の症例を報告した(文献E―10)。

14 昭和三九年『笠井らは、第一七回中部日本整形外科学会における報告(文献A―13)及び第三六回日本整形外科学会における報告(文献A―21)に、その後発見した六例(症例35の1〜6)を併せて更に考察を加えた論説を雑誌に発表した(文献A―25)。

その内容は、第三六回日本整形外科学会における報告と骨子において変わりはないが、前記文献(文献A―25)が報告の要旨であつたのに対し、この論説は、内外の多数の文献を引用し、写真を用いて、より詳細に説明を加えている。

ただ、この論説においても、成因についてはいまだ明確なことは分らないとし、また、自然治癒の可能性を強調している。

このことは、注射発生説を唱道する笠井らにおいてさえ、その精力的な検討にも拘らず、昭和三九年当時には、本症の本態が不明のままであり、注射によると考えられる場合の発生機転も推測の域を出ることが困難であつたことを示している。

昭和三九年、第三〇五回整形外科集談会東京地方会において、順天堂大の福島正らは、本症の二例(症例36、37)を報告し、その抄録は昭和三九年に(文献A―26)、詳細な記事は昭和四一年に(文献A―34)それぞれ雑誌に掲載され、昭和四一年の雑誌記事(文献A―34)では、「一般家庭医の注射療法の過度使用、あるいは注射器の適、不適について今後の研究を要する」との指摘がされていることは注目に価する。

15 昭和三九年には、外国でも幾つかの注目すべき研究が発表された。

(一) 昭和三九年『カレンは、本症の六例を報告し、筋の線維化は先天的なものとして、ネフコフスキーと同様の見解を示した(文献E―4)。

(二) 昭和三九年、シンガポールのガンは、冒頭に「この論文の目的は、大腿四頭筋拘縮の病因の一つの重要な要素が大腿への筋肉注射の投与であることを示唆すること及び大腿四頭筋拘縮が時として膝蓋骨の再発生脱臼を惹起させ得るという考えを押し出すことである。」と述べて本症の二二例を報告した(文献E―5)。

ガンは、この報告の中で、まず、ネフコフスキー、フェアバンク、ガミーの見解を紹介した後、「三木(一九六二年)は、繰り返し打たれる注射が重要な要素であるかもしれないと示唆した。」と述べ、次に、膝関節屈曲制限の原因について殆んど疑う余地がないと思われる症例として、シグママイシンの筋注を受けた四歳の女児の例をあげ、続けて、大腿四頭筋拘縮による膝蓋骨脱臼について四症例をあげて検討し、そして、「四頭筋拘縮症発症の最も多い年齢は六か月から二年の間であるが、この年齢では筋が刺激に対して特に敏感であるのかもしれないし、あるいは単に筋の容積との関係で刺激が大きいのかもしれない。わずか過去一〇年間にこの種の症例が出現したことは、大腿四頭筋への有効な抗生物質の投与の頻度が増加しつつあることと関係しているのかもしれない。」との見解を示し、最後に、「大腿四頭筋の各部の拘縮は、稀なものではなく、しばしば腸脛靱帯の緊張を伴う。これが、筋肉内注射に随伴するものかもしれないことを示唆した。」と要約を述べて結んでいる。

(三) 昭和三九年、イギリスのロイド・ロバートらは、過去五年間の本症の六症例を報告した(文献E―6)。

ロイド・ロバートらは、ネフコフスキー、フェアバンク、ガミーからもその報告した症例二二例の資料を私的に入手し、自らの六症例と併せて検討を加えた結果、「我々としては、それらの症例に共通の分娩時の困難、双生児及び未熟児という病歴は、これらの子供達が生後間もなくしばしば治療の必要を持つたという限りにおいてのみ、本症と関係があると信ずる。特に、非常に早い時期における大腿四頭筋への注射を我々は原因と考える。我々の仮説に対するより大きな支持は、幼児の剖検時の所見から得られる。これらの筋注や輸液を与えられた筋肉は、しばしば、相当の浮腫と出血をきたしている。数か月ないし数年後に拘縮を随伴する線維化が時として進行することは、理論上あり得ることであると考えられる。」と述べた。

16 昭和四〇年、第二四回青森臨床外科医会総会において、村田らは、第一八回青森臨床外科医会総会における報告(文献A―17)後、新たに発見した二三例(症例38の1〜23)を報告したが、その抄録は、同年中に雑誌に掲載された(文献A―27)。しかし、その内容は、注射が成因の一つであり、大腿前面への注射は極力避けた方がよいとの意見のほかについては不明である。

同年、第二五回北海道整形災害外科学会において、札幌医大整形外科の富田良一らは、リンゲル注射による本症の一例を報告したが、その抄録は同年中に(文献A―28)、詳細な記事は翌昭和四一年に(文献A―36)それぞれ雑誌に掲載され、更に、その後、この症例は、昭和四一年に報告された二例(症例45、46)と共に、まとめて昭和四六年に報告され雑誌に掲載された(文献A―28①)。この症例(症例39)は、満三歳ころ、両側大腿前面部に計一〇〇回以上リンゲル液皮下注射を受けた既往はあるが、注射当時、炎症はなかつたというものである(但し、組織所見は炎症像を示す。)。

この報告に対し富士製鉄室蘭製鉄所病院整形外科の大吉清から、先天性と後天性との鑑別法、注射の種類、部位と本症の発生頻度との関係について質問が出された。これに対し、北海道大学の小川から、「鑑別は、既往歴によるより現在では方法がないと思う。」との発言があり、また、富田から、「先天性と注射によるものとを臨床所見から区別することは必ずしもできない。文献的に、注射の種類、量、頻度などは、殆んど記載されているものはない。」との発言があつた。

このことは、昭和四〇年当時においては、通常入手でき得る文献から具体的に本症と注射との関係についての知識を得ることが困難であつたことを示している(ちなみに、文献A―36では、森崎、笠井((文献A―25))、松波((文献A―16))、立岩((文献A―24))等が参照文献としてあげられている。)。

昭和四一年六月二六日及び二七日の両日にわたる第二回北信越外科整形外科学会において、信州大学整形外科の木下雅夫らは、昭和三五年以降に経験した先天性と思われる四例と注射によると思われる一例の本症五例(症例51の1〜5)を報告したが、この報告は、昭和四二年に雑誌に掲載された(文献A―38)。

17 昭和四〇年には、外国においても、ソーンダースらが注射による内外側中間広筋拘縮症の一例を報告した(文献E―11)。

18 以上のように、昭和四〇年までには、日本国内各地及び海外各国で本症の患者が発見され、その報告がなされていたのであるが、他方、このころから、大腿四頭筋以外の部位における筋拘縮症に注目する医師も出始めた。

(一) 昭和三八年、森崎らは、腓腹筋短縮症の一例を報告した(文献D―1)。

(二) 昭和三九年、第八回北陸整形外科集談会において、富山市民病院整形外科の大成清一郎らは、弾撥股の一治験例として、左臀部への一本のイルガピリン注射による臀筋(大臀筋)拘縮症の一症例を報告し、この報告は、同年中に雑誌に掲載された(文献C―1)。

この報告中で、大成らは、「本症では認むべき外傷がなく、薬剤注射によつて惹起されたものと推測され、我々の渉猟し得た文献にかかる病因は記載されておらず、興味あるところである。」と述べている。

(三) 昭和四〇年、東大整形外科の佐藤正次らは、第二九四回整形外科集談会において報告した三角筋線維化による肩外転拘縮の三例を雑誌に掲載した(文献B―1)。

この症例は、三例とも女児で、筋の線維化の原因として考えられるもので共通しているのは筋肉注射の既往歴のみであつたことから、佐藤らは、その原因について、「起こつた変化は恐らく注射の薬物または機械的刺激に対する反応によつて起こつた線維化であろうと思う。」と述べ、注射剤と注射針の問題を指摘したが、しかし、これに続けて、「いずれも想像の域を脱し得ない。」とも述べている。

(四) 昭和四一年、国立東京第二病院の喜多島豊三は、腹直筋拘縮症の一例を報告した(文献D―3)。

この症例は、腹直筋内に線維性腱様索状物があり、これが、大腿四頭筋拘縮症における索状物と類似するものであつた。

なお、喜多島は、大腿四頭筋拘縮症の原因について、「その原因としてはいまだ充分なる説明はされていないが、先天的なものおよび外傷(注射などを含む)などによる後天的なものとに分けて考えられているが、注射既往歴を持つた者がかなり多い。」と述べている。

(五) 昭和四二年慶応大整形外科の宮本建は、昭和二一年から昭和三九年一〇月までの間に同科で発見された翼状肩甲の四〇症例に対する考察を発表した(文献B―2)。

宮本は、その四〇例中、二一例が進行性筋萎縮、二例が三角筋短縮による肩関節外転拘縮と述べ、後者の二例の原因として、注射の既往を指摘している。

ただ、宮本が参考文献としてあげている外国文献一四、邦文献一七の合計三一文献のうち、大腿四頭筋拘縮症に関するものは、フェアバンク(文献E―2)一文献に過ぎない。

このように、各種の筋拘縮症の報告が出始めていたのであるが、これらの症例に対する考察等を比較すると、明確に大腿四頭筋拘縮症との類比を念頭に置いている報告者とそうでない報告者との差が著しいことが認められる。このことは、整形外科専門医らの間においても、大腿四頭筋拘縮症に関する情報の有無及びその程度にかなりのばらつきがあつたことを明確に示すものである。

19 昭和四一年、第一四三回富士鉄病院医学集談会及び第一〇回道南整形外科研究会において、富士製鉄室蘭製鉄所病院整形外科の大吉清は、注射によると思われる本症の一症例を報告したが、この報告は、同年、雑誌に掲載された(文献A―29)。

昭和四一年、第二六回北海道整形災害外科学会において、札幌医大の富田良ママ らは、前回の同学会の報告(文献A―28)に引続いて、本症の二例(症例45、46)を報告し、この報告の抄録(文献A―32)は同年中に、詳細な記事(文献A―39)は翌四二年にそれぞれ雑誌に掲載された。この二症例のうち一方(症例45)は、数回にわたり一ないし二mlの筋肉注射を、他方(症例46)は、約一週間にわたり連日五〇ないし一〇〇mlの筋肉注射をそれぞれ受けた既往を有するものであつたこと等から、富田らは、その原因を過去にうけた大量注射と推測した。

この報告(文献A―32)に対しては、厚生年金登別病院整形外科の内海寿彦が本症の二症例(症例47、48)を追加報告し(文献A―33)、これにつき北大整形外科の松野誠夫が注射薬品名は何かとの質問をしているが、この間のやりとりから明らかなことは、当時、少くとも北海道の整形外科医の間では、本症が比較的稀な疾患であると考えられていたこと、本症の原因に関し、注射剤の種類には必ずしも注目されていなかつたことである。

20 昭和四一年二月一二日、第一六四回新潟外科集談会において、県立ガンセンター新潟病院整形外科の加藤正らは、解熱剤らしい注射その他の注射に起因すると思われる本症の三症例(症例41、42、43)を報告し、この報告は、同年中に雑誌に掲載された(文献A―30)。

この報告は、症例の報告を主眼としたものではあるが、本症について注目すべき意見が述べられている。即ち、「大腿前面に注射をすれば、必ず大腿四頭筋短縮症が生ずるわけではなく、体質も関係が深いといわれているが、このように不幸な例がある限り、乳幼児期に、大腿前面への注射は絶対に禁止されるべきであり、」というのである。そして、注射剤について、「各種抗生物質、ビタミンK製剤、下熱剤、いわゆる皮下輸液が報告されている。」と紹介している。

21 昭和四一年、第四二回整形外科集談会東海地方会において、名古屋大学整形外科の前田博司らは、本症の一〇例を報告し、この報告は、同年中に雑誌に掲載された(文献A―31)。

この報告に対しては、名古屋市立東市民病院整形外科の板津博之が本症の術後再発例を報告し、術後数年にわたる観察の必要がある旨の意見を述べたほか、二、三の討論があつた。

ところで、本章四9のとおり、昭和三七年、既に名古屋大学整形外科の森健躬は本症の二例を報告していたのであるが、その後、昭和四一年当時には、同大学では更に一〇例が発見されていたのである。そして、翌昭和四二年には、前田博司らにより、本症の一六例が報告され(文献A―40)、その中の七例について病理組織学的所見の比較検討がされており、更に、昭和四六年六月一八日及び一九日の両日にわたる第三六回中部日本整形外科災害外科学会において、前田博司は、主として腸脛靱帯に障害のある本症の一例(症例85)を報告している(文献A―62)。

このことから、名古屋大学整形外科においては(少なくとも前田らを中心とする医師らの間においては)、本症に関して継続的に検討され続けていたということができる。

22 昭和四一年、第一五五回昭和医学会例会において、昭和大学整形外科の黒木良克らは、後天性に起つたと思われる本症の八例(症例49の1〜8)を報告し、この報告は、同年中に雑誌(文献A―35)に掲載された。

この報告では、注射を受けた症例について注射剤名が追跡調査され、八例中六例について、これが明らかにされている。その内訳は、リンゲルが最も多く四例、グロンサンが一例、テトラサイクリン筋注が一例である。

この報告に対しては、同大学小児科の中沢進から、「注射による障害である関係上このような症例の出現した場合、医師の責任を問われることはないであろうか。」との質問が出されたが、この質問に対して、同大学整形外科の菅谷修一が「今日迄の症例に関する限り問題は起こつていない。われわれも患者家族に対する発言には特に注意しているものであるが、医原病が問題とされる今日、医療に携わる人々は注射の管理も十分に注意しなければならないことを教えられる。」と答えた。

本件証拠上、小児科医が参加した学会における本症の報告は、これが最初のようであるが、この中沢の発言からは、本症とその原因を知つた小児科医の動揺が窺知されるとともに、本症に関する情報の伝達に消極的な整形外科医の姿勢を読み取ることができる。

なお、昭和大においては、その後も更に本症の症例が蓄積され、昭和四六年に総合的な研究成果が発表された(文献A―63)。

23 昭和四一年、第一四五回福岡外科集談会において、久留米大整形外科の安田芳雄らは、注射に起因するものと思われる本症の一例を報告し、この報告は、翌昭和四二年、雑誌(文献A―37)に掲載された。

この症例(症例50)は、満六歳時に、急性肺炎の治療のため、両大腿前面に合計一〇回くらい大腿皮下注射を受けた既往を有するものである。

24 昭和四一年一〇月五日、第二一回国立病院療養所総合医学会において、国立小児病院整形外科の柴垣栄三郎らは、注射によると思われる本症の一七例(症例53の1〜 ママ)を報告し、この報告は、昭和四三年に雑誌に掲載された(文献A―41)。

この報告は、その根拠は示していないが、一七例全部が注射により生じたものと思われる症例として報告し、また、注射薬の判明したものは一七例中七例ですべてペニシリンであると報告している。そして、「大腿直筋部位の注射は行なうべきでなく、後遺症の残らない安全な他の部位を選んで行なうことが必要」と指摘している。また、これは、本件証拠上、小児科関係の診療施設からの最初の報告であつたが、この報告に対しては、国立松本病院整形外科の平川寛が、「私も一〇例程の本症を経験しているが」と追加報告(うち一例は症例17と推測される。)したうえ、「中には注射によらないと思われるものがあり、脳性小児麻痺や先天股脱整復後の症例にこうした症状を見たことがある。」として、注射発生説を牽制する発言をした。

なお、昭和四一年には、前記小児の微症状(文献F―2)の第二版(文献F―4)が発行されたが、その中の本症の項目では、「既往を委しく聴取する時、乳幼児期に輸液あるいは抗生物質を大腿にされたことがしばしばあり、一種の医原病と考えられる瘢痕性拘縮の症例が多いことは注意すべきであり、」との指摘をしている。そして、同書第二版の執筆者の殆んどは小児科医であること、執筆者の一人として国立小児病院小児科の日比逸郎が名を連ねていることからすると、昭和四一年ころには、国立小児病院の医師らを含む各医療施設(特に大学病院)の小児科医にも、本症の存在がある程度まで知れ渡り始めていたことを推測させる。

25 昭和四二年、前橋赤十字病院整形外科の得津雄司(笠井・文献A―25の共同報告者)は、一二例の薬物注射障害の症例を報告したが(文献A―42)、この中には、大腿直筋短縮症の三例(症例54、55、56)のほか、半腱様膜短縮症の一例、化膿性膝関節炎の一例等が含まれている。

この報告では、得津は、赤石英らの研究(昭和四七年、文献F―7、昭和四九年・文献F―14)よりも五年以上前の段階で、本症を一連の注射事故の中に位置付けて検討を試みている。なお、この報告の冒頭には、「医学の進歩と共に新しい薬の開発もめざましく、私達臨床医は日々注射する機会も増している。多忙な診療行為の累積により思わぬ事故を起こすことは周知の通りである。」とのかなり微妙なニュアンスを含んだ記載がある。

26 昭和四三年の中部日本整形外科災害外科学会と推認される学会において、聖ヨゼフ整肢園の小林政則らは、山田赤十字病院の田坂兼郎らと共に本症の四例(症例57〜60)を、報告した(文献A―43)。

この小林らの報告に対し、京都府立医科大の岡崎清二は、既報告の本症症例を追加して報告し、笠井からは、本症に対する治療法についての発言と、「大腿前面に注射を受けた経験がないので先天性のものであろうということですが、近頃はお産の直後は母親と新生児は別々にしてありますので、その間に注射した場合には母親の記憶にも残らないのではないでしようか。先天性と簡単に決めてしまう訳には行かないと思います。」との注目すべき発言があつた。

また、同年の同学会と推認される学会において、大阪厚生年金病院整形外科の渡辺健児らは、昭和三八年以降に観血的治療を行なつた本症の二三例等を報告した(文献A―44)。この症例(症例61の1〜27)では、ピリン系の解熱剤、リンゲル液、ブドウ糖の大量皮下注射を受けているものが多かつた。

27 昭和四三年七月八日及び九日の両日にわたる第一回中国四国整形外科学会において、広島県若草園の佐藤俊之らは、本症の二例(症例62、63)を報告し、この報告は、同年中に後記山本一男の報告とともに雑誌(文献A―45、A―46)に掲載された。

この症例のうち一例(症例63)は、組織学的所見から大腿直筋の先天性形成異常と考えられるものであつた。

なお、佐藤らの報告に対しては、山口大整形外科の山本一男から、本症の二例(症例64の1、2)が追加報告された。

28 昭和四三年には、外国においても、従来の主流であつた先天性説に再検討を迫る重要な研究報告が発表された。

(一) 昭和四三年、ウイリアムズは、膝関節拘縮、習慣性膝蓋骨転位、関節筋異形成の四七例中、半数以上が注射の既往を有し、注射による発生が考えられるが、これらのうち多数例に靱帯や四頭筋腱付着に異常を認めるところから、先天的な発生によるのではないかと報告した(文献E―7)。

(二) 同年、ハーゲンは、内外側広筋、中間広筋、大腿直筋と広く障害を受けた本症の一二例を報告した(文献E―8)。

ハーゲンの症例中、第一例は、六か月間に結晶ペニシリンを四千万単位、第二例は、五か月間に一億三千万単位、筋注されていた。

ハーゲンは、この報告で、「どの種類の抗生物質が注射されたかということは余り重要ではなく、組織に対して障害を与える効果における相異性は、溶液の種々の性質(例えば非生理的なPH、浸透圧あるいは直接の筋毒性)によるものであろう。」と述べ、更に、「症状の重篤性は注射された抗生物質の量、治療の期間、治療期間中における間隔及び外科的侵襲による。」と述べている。また、組織所見については、「筋線維に著明な変性を認め、筋線維束は部分的に線維組織で置き代り、また、ある部分では脂肪組織で置換されている。」と述べている。

29 昭和四四年、第四二回日本整形外科学会総会において、笠井らは、「ふたたび注射による大腿四頭筋短縮症について」と題して、本症の二七例(症例19の1、2、5、6、7、31の1、2、35の1、65の1〜19)を報告し、この報告は、後記杉山の報告等と共に、同年中に雑誌に掲載された(文献A―47、A―48、A―49)。

笠井らは、その改良による新術式の説明を行なつた後、主として中間広筋または大腿四頭筋全体が瘢痕化している症例(症例65の1、2、3)を紹介し、本症を「大腿四頭筋短縮症」と呼ぶ方が適当であろうとして、従来の笠井らの呼称(大腿直筋短縮症)を訂正した。

この笠井らの報告に対し、慈恵医大整形外科の杉山義弘が注射による本症の六例(症例66の1〜6)を追加報告して、「注射の場合には大腿直筋のみでなく周囲に影響を与えているところから、大腿四頭筋拘縮症と呼ぶ方がよいのではないかと考える。」と述べ(文献A―48)、また、新潟大整形外科の林侃は、本症の七例(症例67の1―7)を報告したほか、名古屋市立大学整形外科の杉浦譲が乳幼児に対する適応について、名古屋大学整形外科の前田博司が手術法、組織所見、注射剤の種類について、同大学整形外科の村地俊二が新生児や乳児に対する注射に関し警告なり適切な指導を与える必要の有無についてそれぞれ質問をした。

これらの質問に対し、笠井は、「新生児期には母親と子供は別々にしてあるので、この時期に注射を受けたものは母親も全然知らない。しかもこういう時は注射によるものは強い変化を起こすと思われるので、後天性か先天性かの区別は難かしい。また、注射の種類については母親は殆んど知らない。従つて、手がかりはつかめない。この疾患には自然治癒は多数にある。従つてあわてて手術をする必要はない。現在日本の医療の世界に広く行なわれている注射は、やむを得ない場合の他はしない方が良い。特にそれの濫用は厳に慎しむべきであると思う。」と答えた。

30 昭和四四年、第一五七回、第三〇回福岡・久留米合同外科集談会において、九州大学整形外科の飯田尚生らは、本症の二二例を報告し、この報告は、同年中に雑誌に掲載された(文献A―50)。また、飯田は、この症例を、昭和四六年に別の雑誌の論説(文献A―66)で紹介した。

31 昭和四五年、第三四五回整形外科集談会東京地方会において、東京大学整形外科の根岸照雄、立岩邦彦らは、厚生年金湯河原整形外科病院整形外科の渡辺脩助と共に、冒頭に「いわゆる大腿四頭筋短縮症は近年多くの症例が報告されるようになり、稀な疾患とはいえなくなつた。その診断も本症の存在、特徴を念頭におけばきわめて容易である。しかし、本症が注目され、報告されるようになつたのは比較的近年になつてからであり、その多くは数例の症例報告にとどまるにすぎず、我々が調べ得た範囲ではその遠隔成績に関する詳細な報告は皆無であつた。我々は昭和三五年より昭和四一年の七年間にわたり、厚生年金湯河原整形外科病院において、四七例のいわゆる大腿四頭筋短縮症を経験した。本症の診断、治療、予後に関していささかの検討を行なつたので、ここに報告したい。」と述べて、本症の四七例を報告した(文献A―51)。この報告における症例(症例34の1〜30、69の1〜17)の検討は詳細なものであつたが、その要旨は次のとおりである。

① 注射によると思われる大腿四頭筋拘縮症の四一例に検討を加えた。

② 初診時年齢は二ないし四歳。青・壮年の症例は一例もなかつた。

③ 主訴は無痛性の歩行異常。三歳以下で気づくことが多いが、本症の発症は注意すれば更に早い時期にあると思われる。

④ 大多数が一歳以前に注射を受けており、本症の発生に年齢的要素の大きいことを示している。

⑤ 注射液の有する非生理的性状、量、注射の頻度等が本症発生の原因となるものと思われる。

⑥ 手術は、単なる大腿直筋腱の切離及びその周囲の瘢痕組織の切除では不十分である。しかし、初めから手術的に完全な膝関節屈曲性を獲得する必要があるか否か問題である。

⑦ 手術適応症例の厳格な吟味、術後の症例の長期追跡が大切である。

⑧ 本症を放置しておいても、必ずしも症状の進行をきたすとは限らないようである。

⑨ 大腿直筋拘縮症と大腿四頭筋拘縮症とは区別した方が合理的である。

そして、文献A―51では、参考文献として、多数の邦文献のほか、クシンク(文献E―10)、フェアバンク(文献E―2)、ガミー(文献E―3)、ガン(文献E―5)、ハーゲン(文献E―8)、ネフコフスキー(文献E―1)、ロイド・ロバート(文献E―6)、ソーンダース(文献E―11)、ウイリアムズ(文献E―7)をあげているが、これは、昭和四五年当時入手し得る本症の主要文献をほぼ網羅するものである。

ところで、文献A―51の「我々の症例の特異性について」と題する部分は、「すでに著者の一人である立岩が第一二回東日本整形外科学会において発表したが、我々の症例四七例中の実に三二例が既往に別の疾患で、某市の某小児科医院で受診し、大腿部に注射を受けていた。更にこのうち罹患肢が右側のみの症例はただの一例で、残りが左側あるいは両側罹患例であつた。」と報告している。この記載は、単に一小児科医における集団発生を暗示するに過ぎないが、本件証拠上、これが、最初の集団発生の報告である(立岩の報告が、文面上必ずしも明らかでなかつたことは本章四12のとおりである。)。

しかしながら、この報告は、その後、整形外科学会外の医療の現場に対して何らの影響も与えることなく、高橋晄正(文献F―30)が言うように、「わが国における最初の多発例として担うべき社会的役割を果すことはできず、単なる記載にとどまつてしまつた。」のである。

なお、この伊東市における集団発生が一小児科医院における集団発生例として着目されたのは、本件証拠上では、昭和四七年の赤石らの論説(文献F―7)が最初であり、社会問題化したのは、昭和四九年に至つてからであつた。

32 昭和四五年、第三七回北陸整形外科集談会において、福井県立あかり整肢園の坪田謙らは、冒頭に、「最近一年間に、福井県の一地区に発生した注射による小児の大腿四頭筋短縮症を三七例経験し、その原因治療について若干の検討を行なつた。」と述べて本症の集団発生について報告し、この報告は、翌昭和四六年に雑誌に掲載された(文献A―54)。

右の冒頭の文言からは明らかではないが、これは、福井県今立町の林保医師の下における集団発生の報告であつた。そして、甲第二号証、第一九六号証によると、この集団発生の事実は、新聞、NHK等によつて福井県内では報道され、今立町のみならず鯖江市医師会でも問題にされ、同市医師会、同市保健所等も調査に乗り出したが、結局、昭和四七年の時点で四〇例に上ぼつた本症の大量発生の事件は、福井県外では殆んど報道等されないまま、同年、患者らと林医師らとの間の示談という形で終了した(文献A―73)。

なお、坪田らは、その後、昭和四九年に、これらの症例について詳細な報告を行なつたのであるが(文献A―54①)、前記昭和四五年の報告以来、昭和四九年までの間、この今立町における集団発生の事件は、福井県以外の都道府県における医療の実情に対しては、全く影響を及ぼさなかつた。

33 昭和四五年、慈恵医大整形外科の杉山義弘らは、主として手術成績を中心とした本症の八例についての論説を雑誌に掲載した(文献A―52)。

また、同年、昭和四一年五月一五日の第三回三重整形外科談話会における山田赤十字病院整形外科の田坂兼郎らによる本症の二例(症例71、72)の報告が雑誌に掲載された(文献A―53)。

同年、巷野悟郎らが編集した小児診療百科第一版(文献F―5)が発行されたが、同書中には、本症についての項目があり、簡略ながらも本症に関する説明が記載されている。なお、同書の執筆者の約半数は小児科医であり、国立小児病院小児科医長の石田尚之も含まれている。

34 第三五八回整形外科集談会東京地方会と推認される学会において、千葉大整形外科の大塚嘉則らは、本症の五例(症例74の1〜5)を報告し(文献A―55)、日本医科大整形外科の藤田繁実は、これに本症の三例(症例75、76、77)を追加報告し(文献A―56)、更に横浜市大整形外科の土屋引吉を交えて、主として本症の治療、名称等について討論が行なわれたが、これらの討論は、昭和四六年に雑誌(文献A―55、A―56)に掲載された。

第二一回逓信医学協会近畿支部総会において、大阪逓信病院整形外科の西口優らは、本症の四例(症例78の1〜4)を報告して、「本症は、わが国でも多数報告されているが、注射を大腿部に施行された後に発症した症例が非常に多いようである。最近のわが国における注射の濫用を考えると、本症は問題のある疾患であると思う。」と述べたが、この報告は、昭和四六年に雑誌に掲載された(文献A―57)。

昭和四五年、日本人類遺伝学会第一五回大会において、東京医科歯科大整形外科の古屋光太郎らは、同大学人類遺伝学の大倉興司とともに、先天性と思われる本症の二組の双生児(症例79の1、2、80の1、2)を報告し、フェアバンク、ガミー及びネフコフスキーを引用しながら、「遺伝要素も考慮して検索を進めるべきである。」と述べたが、この報告は、昭和四六年に雑誌に掲載された(文献A―58)。

35 昭和四六年、東北整形災害外科学会において、東北大整形外科の久保田正博らは、昭和一七年から昭和四五年一〇月までの間に東北大整形外科で受診し、手術を受けた本症患者中追跡調査のできた九例についての術後成績等を報告したが(文献F―6)、この報告に対し、聖隷浜松病院整形外科の舟越忠が本症の二例(症例81、82)を追加報告し(文献A―59)、また、弘前大整形外科の東野修治が股外転で屈曲の増大する症例を追加報告したほか、小川病院整形外科の小川正二が「年長児あるいは大人では短縮症を余り見ないが、自然治癒はあり得るものだろうか。手術的な治療が必要となる限界ないし手術侵襲の量をどの辺におくべきか。」と質問した。この質問に対し、久保田は、「自然治癒については文献上で明瞭な答はない。たとえ短縮があつても歩行に異常をきたさないものは、尻上りの生じる膝関節の屈曲角は一一〇度が限界である。従つて、歩容の改善を主眼におけば、これより軽症は手術の対象にしなくてもよいし、手術もこの辺を目標にして処置を考えればよいと思う。」と答えた。

36 昭和四六年、札幌医大整形外科の山中幸光らは、昭和三九年以降に観血的治療を行なつた本症の九例一〇肢(症例39、45、46、83の1〜6)についての論説を雑誌に掲載した(文献A―60)。

これは、主として本症の術後成績に関するものであるが、参考文献として、ガン(文献E―5)、ウイリアムズ(文献E―7)、ロイド・ロバート(文献E―6)、ハーゲン(文献E―8)、ネフコフスキー(文献E―1)、フェアバンク(文献E―2)、根岸(文献A―51)、飯田(文献A―50)、富田(文献A―36)、笠井(文献A―25)をあげている。

37 昭和四六年六月一八日及び一九日の両日にわたる第三六回中部日本整形外科災害外科学会において、広島県立若草園の金原宏之らは、主として大腿広筋膜に障害のある本症の一例(症例84)を報告し、この報告は、同年中に雑誌に掲載された(文献A―61)。

金原らの報告に対し、名古屋大学整形外科の前田博司が主として腸脛靱帯に障害のある本症の一例(症例85)を追加報告したほか、昭和三八年にチェコスロバキアのウェールが四〇一例の腸脛靱帯拘縮の症例を報告してポリオ様のものが多いと述べていることを引用しながら、「筋電図学的検索で何か所見があれば教えていただきたい。」と述べた。これに対し、若草園の大野修は、「本症に関しての筋電図的検索は行なつていない。本症例は、ポリオと鑑別可能であり、このような症例の報告はみないと考える。」と答えた。

38 昭和四六年、昭和大学整形外科の阪本桂造は、「大腿四頭筋拘縮症に関する研究」と題して、昭和四六年当時までの内外の文献をほぼ網羅し、多数の症例を検討し、実験的研究を加えた本症の総合的研究を発表した。この研究は、二つの部分、即ち、「第一編臨床的研究」(文献A―63)及び「第二編実験的研究」(文献G―1)から成つている。

この研究は、第四五回日本整形外科学会(文献A―63①)及び昭和四八年の本症に関するシンポジウム(文献A―78)でその要旨が発表された。

阪本の研究は、極めて詳細なものであるが、阪本は、まず冒頭で、「大腿四頭筋拘縮症、それは疼痛を主訴としない、あくまでも整形外科的な機能障害を主訴とする疾患である」とし、「乳幼児期における注射の際には、大腿部がしばしば注射部位として選ばれる傾向があるが、種々の筋肉内注射を受けた数多くの症例のうちで、どのような因子により大腿四頭筋拘縮症が招来されるのか、臨床分析を行なうと共に注射による動物実験を加えて論及するものである。」と述べ、次いで内外の文献の概要を示した後、昭和大整形外科及び武蔵野日赤病院整形外科で加療した本症の三三例(症例49の1〜8、86の1〜25)に対する検討に進んでいる。そして、第一編のまとめとして、「本症は文献的に先天性と後天性に分けられるが、最近は後者ことに注射等による医療行為が起因したと思われる例が多く発表されている。今回の分析でもリンゲル液皮下注射及び抗生物質によると考えられるものが66.7%の多きに達している。」と述べている。第二編では、リンゲル液及び筋注用懸濁クロラムフェニコール(CP)を用いて白色家兎による動物実験を試みている。これは、邦文献上本症に関連するものとしては最初の動物実験であるが、その結果は、次のとおりである。

① リンゲル液皮下注群では、皮下腔や直下の筋に、場合によつてはび慢性に筋を囲周する線維化を見、筋線維の退行変化を認める。

② リンゲル液筋注群では、筋線維に対する障害は、皮下注群に比し軽微である。

③ CP皮下注群では、ほぼリンゲル液皮下注群と同様に、皮下腔、直下の筋に限局性、時にび慢性の線維化と筋線維の変性萎縮とを見る。

④ CP筋注群では、比較的限局性に線維化と筋線維の萎縮及び退行変化を認め、これは、注射の量、回数と比例する。

そして、阪本は、最後に、「実験例で認めた線維化、筋線維の萎縮及び退行変性が大腿四頭筋拘縮症に直接結びつくとは考えられないが、実験結果としての筋の変化を考えると、臨床的に重要な因子としての関連性を認め、また注射が局所に及ぼす影響の大であることを推察し得る。」と述べて稿を閉じている。

阪本の研究は、本症と注射との関係を明確に証明し尽しているわけではないが、昭和四六年当時に大学の一研究者が入手を期待できたほぼすべての資料を駆使して、本症と注射との関連性を示唆できる程度の結論にまで達したことは、高く評価されるべきである。

39 昭和四六年、第三六六回整形外科集談会東京地方会において、横浜市大整形外科の小宮懐之は、関東労災病院整形外科の岡本連三、神奈川県立こども医療センター整形外科の亀下喜久男と共に、本症の二七例(症例87の1〜27)を報告したが、この報告は、同年中に雑誌(文献A―65)に掲載された。

この報告は、主として追跡調査結果をその内容とするものであつたが、小宮らは、その中で、本症の成人例五例を紹介して、「意外に成人例は多く放置されている可能性があり、本症の自然治癒の可能性は、早期治療例は別にして、少ないのではなかろうか。」と述べている。

40 昭和四六年一〇月、国立小児病院整形外科の熊谷進らは、佐野厚生病院整形外科の柴垣栄三郎と共に、本症についての論説を小児科臨床関係雑誌に掲載した(文献A―67)。

この論説では、昭和四〇年一〇月から昭和四五年までの間に経験した本症の二一例(症例53の1〜17、88の1〜4、前一七例は、文献A―41の一七例と同一の症例)が詳細に報告されているが、このうち、投与された注射剤名が判明している七例は、いずれもペニシリンであつた。

この論説では、その結びの部分で、「大腿直筋部への筋肉内注射は避けるべきであり」と述べているが、他方では、「当科の昭和四四年四月より昭和四五年三月までの外来患者総数三、七八四人中一五人の本症を見ている。いずれにしてもそう多いものではない。」「また、昔から大腿部前面筋肉内に注射することは広く行なわれており、その割には発生頻度が低いこと等は、気付かれずに機能的に自然治癒するものが相当数あるとも考えられる。」とも述べている。

これらのことから推測すると、昭和四六年当時の国立小児病院整形外科の医師らの認識としては、大腿前面への注射により本症が発症することがあるとしてもその頻度は低い、という程度であつたと思われる。

41 昭和四六年、第三七回中部日本整形外科災害外科学会において、三重県立大塩浜病院整形外科の中野謙吾らは、先天性による本症の二例(症例89、90)と注射による本症の一例(症例91)を報告し、この報告は、翌昭和四七年、雑誌(文献A―68)に掲載された。

この報告にあたり、名古屋大学の植家毅が「本症が一小児科医のところで多発している例もあり、」と述べている。この「一小児科医」が伊東市の泉田医師(文献A―51、F―30)、福井県今立町の林医師(文献A―54、A―73)、名古屋市の加藤医師(昭和四六年八月に患児と和解・甲第一七一号証の一、二、三)、本件の被告奥田あるいはその他の医師のいずれを指すものであるのか全く不明であるにしても、少なくとも、この発言から、特定医院における多発が、昭和四六年当時の何人かの整形外科医の間では、暗黙の常識になつていた可能性がある。しかも、この植家の発言に対し、大阪厚生年金病院の渡辺健児から、「注射との因果関係の存在を軽々しく私共整形外科医は口にしてはならないと思う。これは医療過誤の問題とも関連するので特に会員の方は注意すべきと思う。」と発言していることからすると、現実の問題として、特定医における多発が法的問題になり得るまでに重大問題化しつつあり、それを、一部の医師らが知つていたことが推測されるのである。このことは、この討論で最後に発言した金沢大の高瀬武平が「演者は注射の既往のない症例を出されたが、私が最近経験した事例では、本症が集団的に注目され、社会問題化した時点で急に既往の注射の記憶を思い出して、医師の治療を受けた例があるので、治療方針をたてるうえから注意すべきことと思われる。一般に注射は、乳幼児のものが多いので、小児科医が介在しており、整形外科医の発言は、渡辺健児先生の言うとおり慎重でなければならない。」と述べていることからも明らかである。

42 昭和四七年一一月二四日及び二五日の両日にわたる第三八回中部日本整形外科災害外科学会において、名古屋市立大学整形外科の三輪昌彦らは、名古屋市立城西病院整形外科の植家毅らと共に、昭和四四年一月から昭和四七年六月に至る三年六か月間の本症症例二六例四四肢(症例96の1〜26)及び昭和三七年の松波らの報告した二例(症例23、24)についての予後調査結果を報告し、この報告は、翌昭和四八年雑誌(文献A―74)に掲載された。

43 昭和四七年までには、大腿四頭筋拘縮症以外の筋拘縮症についての症例報告も急増した。

(一) 昭和四二年一一月二五日、第五八回京阪神集談会において、京大整形外科の浜田勲らは、三角筋拘縮症の一例を報告した(文献B―4)。この報告中で、浜田らは、「今までの報告では三角筋に筋肉注射を受けたことが原因とされており、これがために筋肉内に線維化を生ずることにより三角筋に短縮を生じ、肩関節外転拘縮を起こしたとされているが、我々の症例は外傷が原因と考えられる。」と述べて佐藤らの報告(文献B―1)を引用している。

この浜田らの報告に対しては、大阪市大の小谷勉が注射の既往を有する三角筋拘縮症の一例を追加報告し(文献B―5)、三角筋拘縮症の原因について若干の討論が行なわれた。

(二) 昭和四三年、第五二回整形外科集談会東海地方会において、名古屋大学整形外科の前田博司らは、三角筋拘縮症の一例を報告した(文献B―6)。

(三) 昭和四三年、第三一回東北整形災害外科学会において、小川病院の小川正二は、仙台鉄道病院整形外科の阿部靖、東北大整形外科の藤田普也と共に、三角筋拘縮症の二例を報告したが、この報告は、同年中に雑誌に掲載された(文献B―7)。

この二症例のうちの第一例は、三七歳の女子で、昭和三五年ころから五年間にわたり不眠症のためレスタミンコーワ(塩酸ジフェンヒドラミン)三〇mgの筋注を頻回に受けた既往を有し、第二例は、五八歳の男子で、男性ホルモン筋注を頻回に受けた既往を有するものである。

この二症例の成因について、小川らは、「我々の症例も明らかに注射に起因する拘縮例であり、後天性の範疇に入るべきものである。」と述べ、更に、「常用される注射部位である三角筋部において、むしろ大腿四頭筋より拘縮発現が少ない事実は、注射対象が成人に多いこと、注射量が比較的少ないものが選ぼれることなどの理由によるものだろうと思われる。」と述べ、大腿四頭筋拘縮症と関連づけて検討を行なつている。

(四) 昭和四三年、第三一回北海道整形災害外科学会において、室蘭富士鉄病院整形外科の大吉清は、北大整形外科の三浪三千男と共に三角筋拘縮症の二例を報告したが(文献B―8)、その後、大吉は、更に二例を加えた合計四例を、昭和四四年の第三三回北海道整形災害外科学会において報告し、この報告の詳細な記事は昭和四五年に(文献B―12)、抄録は昭和四六年に(文献B―12①)それぞれ雑誌に掲載された。

この四症例はいずれも筋注の既往を有し、大吉はこれらの注射剤中の抗ヒスタミン剤に注目して「本症は注射による大腿四頭筋短縮症と同様、再三にわたる三角筋内への抗ヒスタミン剤を含有する注射による筋線維の膠原化、線維化が一原因と考えられる。」と述べ、更に、乳幼児期における筋注は臀筋内が望ましいことを強調した。

第三三回北海道整形災害外科学会においては、更に、旭川市森山整形外科病院の豊田馨らが北大整形外科の富樫久夫と共に、両側臀筋拘縮症の一例を報告したが、その詳細な記事は昭和四五年に(文献C―2)、抄録は昭和四六年に(文献C―2①)それぞれ雑誌に掲載された。

この症例は、一歳未満までに小児喘息で両側臀部に頻回の筋肉注射を受けた既往を有するものである。

豊田らは、文献C―2で、「本症の予防としては、感染の防止はもちろんであるが、更に無制限の筋肉注射は、ひかえるべきである。部位としては、大腿前面、三角筋における筋肉注射も、それぞれ大腿四頭筋短縮症、三角筋短縮症を惹起するため、より適当な個所はないと考えられる。」と、事実上、筋肉注射に安全な部位はない旨を述べている。

(五) 第五四回整形外科集談会東海地方会において、名古屋第一日赤病院整形外科の中村卓らは、名古屋大学整形外科の三浦隆行らと共に、三角筋拘縮症の二例を報告し、この報告は、昭和四四年に雑誌に掲載された(文献B―9)。

この二例はいずれも筋肉注射の既往を有するものであるが、中村らは、その原因として、「注射による刺激、薬剤の局所での反応、それらのいずれかが重かつた場合があり、特に塩酸ジフェンヒドラミン筋注の既往は興味ある点である。」と述べている。

(六) 昭和四五年、市立小樽病院整形外科の山本稔と北大整形外科の石崎仁英は、三角筋拘縮症の一例を報告した(文献B―11)。この中で山本らは、まず、三角筋拘縮症について、「渉猟し得た症例は二五例であるが、明らかに注射が原因と考えられるものは一五例である。小児が多いが、三例の成人例もある。殆んどが肩峰部特に中間部の拘縮であるが、グッドフェローの例では前部(鎖骨)で屈曲拘縮をきたしている。」と述べ、続けて、成因について、「注射ではジフェンヒドラミンを原因とするものが多いことが指摘されている。しかし、スルピリン、オピスタン、男性ホルモンでも起るようである。いずれにしろ、注射による薬物吸収の不十分、異物による炎症、軽度の感染等により発生するであろう(文献B―2)。一方にはこのような変化を起し易い体質も考えなければならない。」と述べている。

(七) 昭和四五年四月二五日、第三六二回整形外科集談会東京地方会において、国立小児病院整形外科の山口雅成らは、三角筋拘縮症の三例を報告したが、その詳細な記事は同年中に(文献B―13)、抄録は翌昭和四六年に(文献B―13①)それぞれ雑誌に掲載された。

文献B―13では、まず冒頭で、「疾患の治療にあたつて、注射は最も日常的な手技の一つである。注射による障害、後遺症のうち、橈骨神経麻痺、坐骨神経麻痺に代表される神経障害については以前より知られ、筋内注射の際には、これらの障害の存在を念頭におくことが常識となつている。これに対して、注射による筋性障害については意外に知られていない。これまで線維肉腫を生じた症例、大腿四頭筋拘縮、三角筋拘縮などが報告されてはいるが、いずれも偶発的なものとして等閑視されている感がある。大腿四頭筋拘縮、三角筋拘縮のうちには先天性のものもあるが、大部分は後天性、それも注射によるもので、この意味で医原病の一つとして意識し自戒せねばならぬことである。我々は、さきに注射によつて生じた大腿四頭筋拘縮の一七例を報告し、注意を喚起したが、今回、頻回の筋内注射の既往を有し、そのために生じたと思われる三角筋拘縮の三例を経験したので、これを報告検討し、他山の石としたい。」と述べているが、これは、昭和四六年の同病院医師らの報告の曖昧な表現(文献A―67)と比較すると、極めて強い調子のものである。文献B―13とA―67は、いずれも共同報告であるが、両文献で共通している共同報告者は、熊谷進と村上寶久のみである。また、同様に文献A―41と比較すると、文献A―41とA―67とで共通している共同報告者は、村上寶久と柴垣栄三郎であり、文献A―41とB―13とで共通している共同報告者は、村上寶久と泉田重雄である。そして、泉田は、昭和四七年の文献F―8で文献B―13と同様の強い調子で注射の使用を戒め、かつ、大腿四頭筋拘縮症の自然治癒の可能性について消極的な見解を示している。

このことから、国立小児病院の医師らの間にも、注射について強く警告すべきか否かについて考え方に濃淡があつたように推測される。

(八) 第三六回東北整形災害外科学会において、福島医大整形外科の高橋公らは上腕三頭筋及び三角筋拘縮の一例を報告し、この報告は、昭和四六年に雑誌に掲載された(文献D―6)。

この症例は、一六歳の男子で、両肘に障害を有するものであるが、これについて、高橋らは、「本例のごとき上腕三頭筋の著明な拘縮をきたした症例の報告は、われわれの調査範囲において皆無であり、非常に珍しい症例である。本症では注射を両側に受けているが、症状が肩から肘まで及んで、注射のみでは説明できない。先天性の素因が強く支配していて、たとえ少ない注射によつても上腕三頭筋拘縮症が誘発されたかもしれないが、あるいは注射などの外因なしでも発現し得たとも考えられる。しかし推論の域を脱し得ない。」と述べている。

この報告に対しては、弘前大学整形外科の沢田実が、皮下組織及び筋膜の上腕三頭筋癒着の一症例を追加報告した。また、青森県立中央病院整形外科の橋本善次郎らは、三角筋拘縮症の一例を報告した(文献B―14)が、この中で橋本らは「筋肉注射の際に、注射部位に起因する疾患として、大腿四頭筋短縮症、坐骨神経麻痺、橈骨神経麻痺等が知られている。それで上腕部位の筋注の際に、橈骨神経を避けて三角筋部へ注入することが慣例のようであるが、本疾患と三角筋部への筋肉注射との関連性を考える時、注射部位に関しての再考慮の必要性があると思われる。」と述べている。

(九) 第三六八回整形外科集談会東京地方会において、横浜市大整形外科の宮沢晶子らは、三角筋拘縮症の一例を報告し、この報告は、昭和四七年に雑誌に掲載された(文献B―15)。

この症例は、一三歳の女子で、七歳ころまでに左三角筋部に頻回の筋肉内注射を受けた既往を有するものである。

(一〇) 第三六回北海道整形災害外科学会において、市立釧路病院整形外科の多胡秀信らは、北大整形外科の中下健らと共に、大臀筋拘縮症の一例を報告したが、この報告は、昭和四六年に雑誌に掲載された(文献C―3)。この中で多胡らは、臀筋拘縮症について、豊田(文献C―2)、笠井(文献A―25)、大吉(文献B―2)、ロイド・ロバート(文献E―6)等を引用して検討を加え、「私共の症例においても、乳児期に頻回にわたり臀筋内注射をうけた経験があるが、その薬剤の種類、頻度についての詳細は明らかにし得なかつた。しかし、手術及び組織所見より筋の線維化は明らかであり、大腿四頭筋短縮症や三角筋短縮症と全く同じ機序によつて、注射時の筋の変性、線維化が起こつたものと推定され、これによつて大臀筋の短縮が起こり、股屈曲障害が生じたものと考えてよいであろう。」と述べている。

(一一) 第五九回整形外科集談会東海地方会において、西尾市民病院の前野耕作らは、上腕三頭筋拘縮症の一例を報告し、この報告は、昭和四六年に雑誌に掲載された(文献D―5)。

前野らは、この症例について、「注射との因果関係は判然としないが、既往歴及び疼痛の存在、病理組織所見等から見て、化膿にまで至らない程度の細菌感染の存在も考慮され、やはり注射に起因すると考えるのが妥当と思われる。」と述べている。

(一二) 昭和四七年、慶応大整形外科の山岸正明は、臀筋拘縮症の二例を報告した(文献C―4)。

この二症例のうち、第一例は、九歳の女子で、幼児期に頻回の抗生物質の注射を受けた既往を有するものであり、第二例は、四歳の男子で、乳児期に頻回の注射を受けた既往を有するものである。

山岸は、臀部の注射について、「臀部は、筋肉注射の好適部位であるが、時に本症例のごとき障害を惹起し得ることを述べて、大方の注意を喚起したい。」と述べている。

以上のように、昭和四七年までには、三角筋拘縮症等の症例報告も著しく増加した。しかも、ここで注目すべきことは、昭和四二年ころ当時と異なり、各筋拘縮症が大腿四頭筋拘縮症と関連づけられ、同一の発症機転により発生するものであるとの見解がほぼ定着していること、特に三角筋拘縮症の症例報告において、過去に投与された注射の種類等が詳しく調査され、抗ヒスタミン剤等の問題性が指摘されていること、昭和四五年、国立小児病院の泉田、山口らから注射の使用について厳しい警告が発せられ、その後、同様の注意を喚起する警告が相次いだことである。

44 昭和四七年、慶応大学整形外科の泉田重雄は、筋拘縮症に関する総合的な論説を小児科の雑誌に発表した(文献F―8)。これは、「小児科臨床に必要な他科の知識」と題する特集中の一論説であるが、まず、その冒頭において、「極めて日常的な治療手段である筋肉注射も、大量、反覆施行された場合、筋の壊死、瘢痕化によつて特有な機能障害を惹起する場合が必ずしも稀でない。即ち大腿四頭筋拘縮による膝屈曲制限、三角筋拘縮による上肢内転障害及び翼状肩甲、臀筋拘縮による下肢の内転、内旋障害等がその主たるものであるが、この医原性疾患に関して一般の認識が十分でなく、看過・誤診の可能性が大きい。その診断、治療、予防等について述べる。」と述べ、次に、大腿四頭筋拘縮症の二一例(特にそのうちの一例)、三角筋拘縮の四例、臀筋拘縮の二例を詳細に紹介している。まず、大腿四頭筋拘縮の説明の部分では、「注射による筋拘縮の中では最も頻度が高く、比較的よく知られているものであつて、内外の報告も少なくない。小児の筋肉内注射が好んで行なわれる部位が大腿前面であるためと思われ、吾々も二一例の経験を有する。」「注射に用いられた薬剤は過半がペニシリン等の抗生物質であるが、中には生理食塩水皮下注射後に化膿をきたした例が一例ある。」「いわゆる習慣性、反覆性または恒常性膝蓋骨脱臼と言われるものは、従来先天性素因に由来すると考えられていたが、乳児期に行なわれた注射による大腿四頭筋拘縮もその原因となり得ることを強調したい。」と述べ、更に「この種の筋拘縮が医原性のものであれば尚更その予防を考えなければならない。そのためには可及的に注射を止めて経口投与に切りかえるべきであろうが事情によつて不可能の場合も多いと思われる。」として注射の問題性を一般的に指摘している。

45 昭和四七年、東北大学法医学教室の赤石英及び押田茂美は、「注射による末梢神経損傷の実態と予防対策」と題する論説を雑誌に発表した(文献F―7)。

これは、主として、橈骨神経麻痺、坐骨神経麻痺と関連させて、筋肉注射の部位の適否について論じたものであり、本症に関する部分はほんの数十行に過ぎないものであるが、この中では、昭和四七年当時の一般の医師における注射の使用状況に関する問題点を鋭く指摘している。

赤石らは、まず、「日本では、製薬会社、大学、医師、患者、保険等の複雑なからみ合いのため、あるいは医療制度そのものの欠陥のため一般に患者に対する薬剤使用量が多く、たとえば英国などの数倍であると言われているが、欧米諸国では注射が極めて少ないのであるから、日本における注射の頻度は諸外国より法外に高いことは明らかであろう。大腿四頭筋短縮症は、本邦では昭和二一年に森崎によつて報告されて以来、多数の報告が見られる。その大部分は後天性のものであり、大腿部の注射、化膿性炎症等によつて生じた瘢痕性変化によるとされ、われわれの知り得た範囲では一〇八例の報告がなされている。根岸らの報告による集団発生例では、初診時年齢は一一か月ないし八歳一一か月(平均三歳一一か月)であり、大多数は無痛性の歩行異常を主訴としていた。ところで、注射液名については不明なものが多いが、リンゲル、ブドウ糖の大量皮下輸液や、抗生物質、解熱剤その他がある。」と述べている。

その後、赤石は、注射の問題の視点を注射部位から注射剤へと変え、昭和四九年には注射剤の溶血性等の問題を指摘するに至つた(文献F―14)のであるが、いずれにしても、この昭和四七年の論説は、筋肉注射の使用自体の問題を鋭く指摘し、詳細な考察が加えられている点において、極めて重要なものである。

46 昭和四八年八月八日、東日本整形外科学会主催で大腿四頭筋拘縮症に関するシンポジウムが開催された。このシンポジウムでは、まず、弘前大整形外科の水木茂らが本症の六〇例の症例報告等を行ない(文献A―77)、ついで、昭和大整形外科の阪本桂造らが第四五回日本整形外科学会における報告(文献A―63①)後の症例を合わせた本症の四二例と家兎による大腿直筋引張り試験の結果の報告等を述べた(文献A―78)。この試験結果について、阪本らは、「注射群では、対照群に比して、切断点張力も高く、また、立上り曲線も急峻であつた。」と述べている。三番目に、慈恵医大整形外科の赤松功也らは、本症の一二例一三肢についての病理組織学的検索結果等を報告し、「われわれの検索し得た範囲では、注射歴のあるものとないものとの間に組織所見上の差は認めなかつた。」と述べた(文献A―79)。四番目に、信州大整形外科の山岡弘明らは、本症の二〇例二三肢の症例報告等を行ない、本症の原因として、「大腿部への注射が原因と思われるものが一六例である。ことに生後間もなくの頻回の注射が原因である。」と述べた(文献A―80)。五番目に、東北大整形外科の桜井実らは、本症の一二〇例中、手術後予後調査を行ない得た二四例についての報告等を行ない、「手術直後は、一見短縮が緩解して尻上り現象も出現し難くなるように見えるが、遠隔の時点では多かれ少なかれ元に戻る傾向がある。」と述べた(文献A―81)。

これらの報告に対し、東京女子医大整形外科の森崎が、昭和二一年に最初に発見した者として、その発見の経過を話し、尻上り現象が本症診断の重要な症状であることを強調した。また聖隷浜松病院整形外科の河野左宙から本症の手術法等について発言があり、東北大法医学教室の押田茂美からは、「大量集団発生も既に数か所に見られており、医事紛争に発展している。このような事故防止のために、小児科医との連携による原因の明確化(注射部位・薬剤等)、経過観察の徹底等の検討が望まれる。」と発言した。

なお、このシンポジウムについては、同年八月九日、その討論内容等が同日付毎日新聞で報じられた。

47 昭和四八年、東大整形外科の奥津一郎らの大腿四頭筋の短縮を伴う弾撥股の一例の報告が雑誌に掲載された(文献A―76)。

この症例は、大量注射による大腿筋膜等と皮下組織の広範な癒着、腸脛靱帯の短縮、索状肥厚等を呈するものである。

48 昭和四八年一〇月五日、同日付の朝日新聞は、山梨県南巨摩郡鰍沢町と同郡増穂町における本症の集団発生を報じ、同月九日、毎日新聞も同様に報じた。その間、同月八日には、山梨県立中央病院整形外科の医師らにより集団検診が実施されて、両町で多数の患者が発見されていたが、その後、山梨県も調査に乗り出し、更に、同年一二月九日及び同月一七日の両日にわたる高橋晄正らによる自主検診により、一七一名の受診者中一三〇名が本症に罹患していることが判明し、これを契機として、本症がにわかに世間の注目を集めるに至つた(甲第二、第一五九、第一六〇号証)。

このような情勢の下において、山梨県当局もこの鰍沢町周辺における本症の大量発生を放置しておくことができなくなり、大腿四頭筋拘縮症対策委員会を発足させた。これは、医師会、整形外科医会、小児科医会に学識経験者として河野左宙、森崎直木、青木虎吉が加わつて設立されたものであるが、昭和四八年暮に第一回の同委員会により実施された精密検査により、一六〇名が本症と認定された。そして、昭和四九年春に同委員会の行なつた集団検診では、受診者二、九九〇名中の一九〇名が本症に罹患しているものと認定された。

他方、本症の患児らの親らは、各地で「親の会」等の団体を結成し、昭和四九年五月二七日には、これらが全国的な団体として統一され、「大腿四頭筋短縮症の子供を守る親の会」が結成され、また、この動向と軌を一にして、日本小児科学会に所属する医師その他の医師らにより「自主検診団」が結成され、全国各地で本症の集団検診や実態調査等が精力的に進められていつた(甲第二、乙B第一〇六号証)。

五研究史の小括

1以上概観したところを要約すると次のとおりである。

(一) 我が国においては、本症の報告は昭和二一年の森崎(文献A―1)を嚆矢とするが、当初は、研究者らの間でも原因が分からず先天性とされていた。

(二) 注射原因を最初に示唆したのは、昭和二五年の伊藤四郎(文献A―2)であるが、この点について日本整形外科学会で討議されたのは、昭和二七年の青木虎吉らの報告(文献A―3)に際して行なわれたのが最初である。

(三) その後、本症は、余り注目されず、昭和三二年の河井ら(文献A―9)の一二例の注射原因例が目に止まる程度であつたが、昭和三〇年代に入つて、全国の各医療施設で本症の症例が次々に現われ始めてきた。しかし、昭和三〇年代の前半は本症に関する情報が未だ全国に広がつてはいなかつたためか、文献上の症例報告は、殆んどなかつた。

(四) こうした中で昭和三三年に、森崎が、日本外科全書に本症に関する項目を加え、大部分は注射によるものであると記載した(文献F―1)。

(五) 昭和三五年、笠井、得津らは、注射発生説を強く首唱し(文献A―13)、以後、少なくとも整形外科の領域では、この点の検討が重ねられ、また、全国各地の病院、大学等の研究者から、本症の症例報告が相次ぎ、症例数も急増した。

(六) 昭和四〇年代に入ると、注射剤名を明らかにした症例報告も増え、本症の原因に対する関心が高まる一方、整形外科の領域における検討であることを反映して、治療法の適否に議論の重点が移行する傾向も見られた。また、一部小児科医の間にも本症に関心をもつものも出てきたほか、このころから、本症以外の三角筋拘縮症、臀筋拘縮症等の筋拘縮症に関する報告も相次いで発表された。しかし、これら各種の拘縮症が、同一のカテゴリーに属する疾患として統一的に研究されるに至るまでには、その後、やや年数を要した。

(七) 一方、外国でも昭和三六年ころから本症の症例報告が出始めている。ネフコフスキー、フェアバンク、カレンは先天性説を示唆し、トッドは本症と注射との関連を指摘し、ガンは昭和三九年に注射原因説を打出した。一方ロイド・ロバートは、前記ネフコフスキーの先天性説を批判し、注射を原因として筋組織の線維化が考えられると述べた。

昭和四〇年代に入つてもなお先天性説が見られたが、同四三年ハーゲンは注射剤のPH、浸透圧、筋毒性が本症の原因となる旨指摘するに至つた。

(八) 昭和四五年、根岸ら(文献A―51)は、静岡県伊東市内の某医院における本症の集団発生について、また、坪田ら(文献A―54)は、福井県の一地区における集団発生について報告した。しかし、根岸らの報告は、昭和四七年に赤右が引用(文献F―7)するまで、坪田らの報告は、昭和四八年まで、集団発生の報告としては全く注目されなかつた。なお、坪田らの報告の背景には、福井県今立町における本症集団発生という事態が存在していたのであるが、この集団発生は、福井県内のみでマスコミによる報道を通して社会問題化するに止まり、他には一般には知られずに終つたばかりでなく、研究者の一部にはこの事態を黙殺しようとする者さえあるような状況であつた。

(九) 昭和四七年、泉田は、小児科の雑誌(文献F―8)で、本症の詳細な紹介を行なうとともに、注射の危険性を強く訴え、以後、小児科の領域でも、ある程度まで本症が知られるようになつた。

(一〇) 昭和四八年、群馬県前橋市で開催された東日本整形外科学会での本症に関するシンポジウムにおいて総合的な検討が行なわれたが(文献A―77〜A―82)、その模様は、新聞でも報道され、社会の注目を引き始めていたところ、その後間もなく、山梨県鰍沢町周辺における本症の大量発生が新聞報道され、これを契機に、本症が一気に社会問題化した(文献A―85)。

2研究状況の要約は、以上のとおりである。しかし、このような研究報告等が存在したというそれだけの事実から、直ちに注射と本症との間に因果関係があるとか、本件各被告らに責任の前提となる本症の予見可能性等が存したとかの結論を出すことのできないことは当然である。

この点に関しては、後記第四章、第七章で検討する。

第四章  一般的因果関係

一総説

1前記第三章一1では、今日最も代表的と考えられる本症の定義を示した。そして、同章四で概観した本症の研究史から明らかなように、本症発症の原因としては、大腿前面に対する注射が極めて疑わしいとされているのである。そこで、本章では、原告らの主張に従つて本症と注射との一般的因果関係を検討することになるが(なお、本件で問題となるのは筋肉注射ないしグレラン注の筋肉内投与であるから、主としてその関連で検討を進め、前記研究史で現われた大量皮下注射、リンゲル液注射等と本症との関係については、右検討を進める上で必要な限度で適宜触れることとする。)、これに先立ち、本症の概念を明確にしておくことが必要であると考えられる。即ち、前記第三章二で検討したとおり、本症の病態、機能障害発生の機序が理論的にも現実の症例上も種々様々で必ずしも大腿四頭筋そのものが障害されているとは限らないことに加え、本症については、その呼称の点(前記第三章一2)はともかくとして、前記研究史で認定の各文献、症例報告等においてこれが必ずしも一義的には理解されておらず、症状の実態や解剖学的研究が必ずしも十分でなかつたことから、種々雑多な大腿部疾患(関節運動障害)をこれに含めていたかに窺えるからである。しかし、前記研究史に続く昭和四九年以降、本症に関する原因、病態を含めた総合的研究が一段と進み、大腿四頭筋拘縮症とはどのような疾患であるのか、その病態、症状等がある程度迄明らかになつてきた(前記第三章三)。そこで、これらの研究結果等を踏まえ、原告ら及び被告らの本件因果関係に関する主張の当否を判断するのに必要な枠組の中での概念規定として、次のとおり定義するのが相当である(なお、昭和四九年以降の研究状況については、一般的因果関係の検討に必要な限度で本章五において触れることとする。)。

即ち、「本症は、大腿部の皮膚、皮下ないし筋肉組織、腱、主として大腿四頭筋の全部または一部の障害による同筋の全部または一部の機能不全により、膝関節または股関節の一方または双方に運動制限を生ずることにより、下肢に種々の機能障害を惹起する疾患である。」このように定義することができ、以下、原則として、この定義に従うこととする。

2原告らは、注射が本症の主因である旨主張し、被告らは、いずれもこれを争つているのであるが、ただ、被告奥田を除くその余の被告らは、その主張内容に微妙な相違があるとはいえ、いずれも筋肉注射剤に局所に対する障害性あるいは刺激性の存することを認めており、特に被告武田は、この障害性からときとして機能障害のもたらされることのあることも否定していない。しかし、このことは、同被告らがグレラン注を含む注射剤と本症との因果関係を広く条件関係を含めて認めたことになるわけではなく、これらの被告らは、注射の中でもいわゆる注射手技に疑惑の目を向けているのに対し、原告らは、前記のとおり、もつぱら注射剤が主因であるとしているのであるから、被告らの責任の存否を判断するには、なお、注射行為及び注射剤と本症との間にそれぞれどのような条件関係が存するのか、即ち、それらとの一般的因果関係の有無を探究する必要がある。

二方法

1本件訴訟は、本症発症の原因についての科学的究明を目的とするものではなく、一定の限定された証拠資料という制約の下で、原告らの請求を基礎付ける主要事実の存否を確定する中で、その一部として、注射による本症の発症という命題が通常人の科学的合理性を具備した思惟の下で定立可能なものとして耐え得るか否かが判定されれば足りるものと解するのが相当であるから、注射から本症に至る全発生機転が完全に科学的に証明され尽されなくても、この機転の全体が通常人の右のような思惟の下で概括的にせよ納得首肯できればそれをもつて足りるものと解すべきである。

2一般に、一つの疾病の原因を確認する手法には二通りあることが考えられる。

その一つは、疾病(A)から遡つてその原因(B)を確認する手法であり、他は、一定の原因(B)から疾病(A)が発生するかどうかを確認する手法である。

しかし、後者で、Bがあれば必ずAが発生することまでの確認は、通常要求されていない。例えば、一定の感染症の原因としてある病菌が原因菌と想定される場合に、その病菌に感染した者すべてが罹患して症状を現わすことまでは確認する必要がなく、その病菌を有する者に後に現われた症状が当該疾患の症状と一致することが確認され、他の想定された原因ではこの一致の見られる頻度が考慮に値する大きさを有していないことが確認されれば足りるのである。

従つて、本件でも、Aから遡つて原因と想定されるBについて、BからAが発生し得ること、他の想定される原因(C)があるとして、Cの存在する可能性・確率、CによつてAが生ずる頻度が考慮に値する大きさを有していないことが確定されれば、BとAに条件関係ありとすることができ、Bがあれば必ずAが発生することまでは確定する必要がないのである。

3本件についてこれを見ると、前記昭和四八年迄の研究調査においても、本症発症の契機として、注射が最も疑われていることは先に判示のとおりである。とすると、他の要因の併存等の点を除けば、本症の原因としては、注射が考慮されるべき重要な要因であることは明らかである。そこで、この注射による発症という命題が通常人の科学的合理性をもつた思惟の下で了解し得る程度の根拠に基づいているか否か及び他の要因の並存等の点に関する検討を加えることにより、右命題定立の可否を判断すべく、そのために、まず、本症を惹起する大腿部障害の内容を明らかにし、次に注射によつてこの障害が起ることを説明できるか否か、また注射とはその刺入行為を指すのか、あるいは注入される薬剤を意味するのかを検討し、更に他の要因等についても検討を加えることとする。

三検討(総論)

1(大腿四頭筋部の障害の実態)

本症の機能障害を有する患者の患部における手術所見等を明らかにした報告等は、必ずしも多くはないが、これを比較検討してみることは重要であると考えられる。けだし、機能障害や外部的観察から本症に罹患しているものとされた事例が多いのであるが、本症は主として大腿四頭筋の全部又は一部に障害をきたしたものをいうのであるから、同部位の病態を知ることは本症と注射の関連を知るうえで必要だからである。

(一)(症例・手術所見)

(1) 森崎(文献F―1)の症例(症例1)は中間広筋のみがほとんど全長にわたつて線維性に変化していた。

(2) 河井ら(文献A―9)は、筋膜内、筋腹内の阻血変化を示唆している。

(3) 松生ら(文献A―14)の症例(症例20)は、右大腿前面中央部の皮膚瘢痕が下床と密に癒着し、その部の広筋膜も著しく肥厚して外側広筋と瘢痕性に癒着し、これが膝関節屈曲時に索状に緊張して屈曲を妨げていた。

(4) 江端ら(文献A―17)の症例(症例25、26)は、いずれも大腿直筋部に瘢痕を有していた。

(5) 加藤ら(文献A―30)の第一例(症例41)は、大腿直筋、内外側広筋に白みがかつた索状の瘢痕組織が硬く包み込むように癒着していた。第二例(症例42)は、大腿直筋外側縁に沿つて線維性に硬くなつた脂肪組織があり、深部では、大腿直筋と外側広筋に瘢痕性癒着があり、中間広筋と大腿直筋が長さ約二cmにわたり瘢痕性に一塊となつていた。第三例(症例43)は、大腿直筋と外側広筋の瘢痕癒着が見られ、中間広筋、内側広筋は短縮していた。

(6) 福島ら(文献A―34)の第一例(症例36)は、大腿直筋が白色で結合織性に肥厚索状を呈し、腱様で、裏側は、筋部とゆるく癒着していた。第二例(症例37)は、大腿直筋が白色で結合織性に変性し、筋膜状を呈し、広範に強固に癒着、瘢痕を認める。

(7) 富田ら(文献A―39)の第一例(症例45)は、大腿直筋起始部から中央部にかけて約七cmの伸展性に乏しい腱様瘢痕束を認め、これが大腿直筋に移行していた。第二例(症例46)は、大腿直筋起始部から中央部にかけて皮膚と筋膜が索状瘢痕をなす大腿直筋と癒着し、更に周囲の筋に波及して著しい瘢痕性癒着を呈した。

(8) 小林ら(文献A―43)の症例(症例59)は、大腿直筋遠位部の筋腹に瘢痕性癒着があり、中間広筋が短縮していた。

(9) 佐藤ら(文献A―45)の第一例(症例62)は、大腿直筋を中心とする癒着性の結合織性変化が認められた。第二例(症例63)は、大腿直筋に限局した腱様組織が認められた。

(10) 笠井ら(文献A―47)の症例(症例65の1)は、大腿直筋の筋腹部が瘢痕化していた。

(11) 林(文献A―49)の症例(症例67の1〜7)は、大腿直筋の線維化が主である。

(12) 坪田ら(文献A―54①)の直筋腱切離例は、腱の周辺、特に末梢側で周囲との軽度の線維性癒着を認め、直筋筋腹部では全例とも直筋を被覆する筋膜が正常な光沢及び均一な厚さを失い不規則な凹凸の肥厚を呈する線維性変化を示し、表層の皮下脂肪及び直筋筋腹と癒着しており、症例によつては、この変化が内外側広筋を被う部分、更にはこれに連なる直筋、内外側広筋間の筋膜にも及んでいた。瘢痕化した筋膜に接する直筋筋腹は、表層から種々な深さと広がりを持ち主に縦走する白色の硬い線維性組織に変わり、正常の弾力性、収縮性を失つていた。この変化が筋断面の中央あるいは深層に限局している症例でも、周囲の正常な性状を示す筋実質と不規則な走行の線維によつて種々の程度の癒合をしている状態であつた。

(13) 金原ら(文献A―61)の症例(症例84)は、大腿広筋膜が大転子直上で索状に肥厚していた。

(14) 阪本(文献A―63)の第三例(症例86の3)は、大腿直筋及び筋膜張筋に線維化が認められ、第五例(症例86の4)は、直筋、中間広筋、内外側広筋のいずれにも線維化が認められ、第六例(症例86の5)、第七例(症例86の6)、第八例(症例86の7)、第一三例(症例86の12)、第一四例(症例86の13)では、いずれも大腿直筋の線維化が認められた。第一五例(症例86の14)は、皮膚瘢痕及び大腿直筋の線維化が認められたが、皮膚瘢痕は、直下の筋線維と癒着していない。第一九例(症例86の18)は、大腿直筋、中間広筋、内外側広筋が線維化し、広く腱様に変化していた。第二〇例(症例86の19)は、皮膚瘢痕があり、直下の筋線維との強い癒着が認められた。第二二例(症例86の21)は、大腿直筋と筋膜張筋が強く線維化し、皮膚瘢痕が直下の筋線維と強く癒着していた。第二三例(症例86の22)、第二四例(症例86の23)、第二五例(症例86の24)、第二六例(症例86の25)は、いずれも大腿直筋が線維化していた。

(15) 中野ら(文献A―68)の第一例(症例89)は、大腿直筋が表面部に腱様組織を有し、中心に筋肉を有する二層構造を呈し、第二例(症例90)も同様の所見を呈していた。第三例(症例91)は、大腿筋膜張筋が肥厚著明、大腿直筋、内外側広筋、中間広筋が肥厚癒着著明で大腿前面に及び、各筋肉に索状硬結を多数認める。

(16) 森田ら(文献A―83)の第一例(症例105)は、大腿直筋、筋膜張筋が強く緊張していた。第二例(症例106)は、大腿直筋が強く緊張していた。第三例(症例107)は、大腿直筋、筋膜張筋、縫工筋が強く緊張していた。第四例(症例108)は、大腿直筋が七ないし八cmの瘢痕状、腱状であつた。

(17) 田中ら(文献A―86)の症例(症例111の1)は、大腿直筋に強度の瘢痕化が見られ、中間広筋、縫工筋起始部、腸脛靱帯にもそれが及んでいた。

(18) 山室ら(文献A―87)の第一例(症例112)は、外側広筋の筋腹が膝蓋骨上縁約四cm中枢側部分で腱様組織に移行して形成不全の所見を呈し、中間広筋は、膝蓋骨から中枢側へ五ないし六cmにわたつて弾性に乏しい灰白色の線維様組織となり、膝関節を屈曲すると強く緊張して明らかに屈曲制限の原因となつていた。第二例(症例113)は、大腿前面の筋膜が非常に薄く、皮下脂肪との境界が不鮮明で、大腿四頭筋との癒着が認められ、中間広筋は、周囲との癒着はないが、膝蓋骨上縁から約一〇cmにわたり線維化して灰白色で弾力性に乏しく、膝関節を屈曲すると強く緊張して膝関節の屈曲を著しく妨げていた。

以上のほか、文献上に表われた症例・手術所見は多数にのぼるが、参考までにこれを挙示すると次のとおりである。

文献A―21、22、36、42、52、56、60、64、67、84、F―3、8。

(二)(症例・光顕による病理組織学的所見)

(1) 笠井ら(文献A―21)の症例は、筋線維が萎縮、変性に陥つて強い退行性変化を示し、間質結合織も増殖していた。また、瘢痕組織も多く見られた。

(2) 大吉ら(文献A―29)の症例(症例40)は、筋膜は、線維束間の血管がやや充血していたほかは著変なく、中間広筋、外側広筋では、筋線維束がやや不整(左脚では、やや変性したようなところがある)であるが、筋間の結合織の増殖や血管増生、細胞浸潤は少なく、また、瘢痕性・癒着性でもない。

(3) 加藤ら(文献A―30)の第一例(症例41)は、筋肉は、退行性変性、血管壁肥厚等は殆んどなく、間質に線維化がかなり見られた。第三例(症例43)は、筋線維が細くなり、筋肉の間の線維化(筋肉の走行に垂直に線維性組織が入り込んでいるような所見)が見られた。

(4) 福島ら(文献A―34)の第一例(症例36)は、筋肉組織内に腱様組織と不規則な線維組織があつたが、大部分は腱様組織であつた。第二例(症例37)は、筋肉組織には線維化を示すところもあるが、結合織性の成分には束状に配列した腱様組織とかなり多くの線維化成分があり、所により両者の移行があつた。

(5) 富田ら(文献A―36)の症例(症例36)は、硝子様変性に陥つた索状配列を認めるのみであつた。

(6) 前田ら(文献A―40)の症例では、筋線維の萎縮、配列の乱れ、筋線維間の線維化、筋束間結合織の増加等が見られ、硝子様変性を示す例もあつた。

(7) 佐藤ら(文献A―45)の第一例(症例62)は、筋線維自体の細少化、配列の乱れと結合組織の侵入が認められた。第二例(症例63)は、正常筋組織と腱組織の二層構造を呈していた。

(8) 坪田ら(文献A―54①)の症例は、直筋筋腹部の資料において、線維組織の著しい増殖が目立ち、線維は、比較的規則的な配列を示し、細胞成分の分布は、あたかも腱組織を思わせる構造を呈する。変性組織中には、マッソン染色によつて筋漿の遺残を染め出す部分もあつた。正常な染色性を示す筋組織は、線維組織の間で島嶼状に僅かにその存在が認められる程度であつて、筋線維自体の細小化、配列の乱れが見られる。

(9) 大塚ら(文献A―55)の症例(症例74の1)は、変性した筋線維間と肥厚癒着した筋膜に著しい結合織細胞の増殖巣を見、細胞間に常に微細な結晶が存在しているのを認めた。

(10) 阪本(文献A―63)の第四例(症例49の3)は、大腿直筋起始部では、変性が強く、一部は萎縮しており、一部では線維性に認められ、筋肉では、間質が粗であり、筋膜張筋の筋肉では、変性萎縮が強く、崩壊して見え、一部では線維性に認められた。第一六例(症例86の15)は、大腿直筋起始部に変性が見られ、間質には線維増殖が強く、一部ではこれが筋の実質にまで及び、充血や軽度の細胞浸潤も認められ、大腿中央部瘢痕では、び漫性な変性と線維性増生が認められた。

(11) 熊谷ら(文献A―67)の第一四例(症例53の14)は、筋線維が横紋筋として存在する部には著変が認められないが、これに接して(おそらく横紋筋の線維化したものと見られる)結合織が方向をほぼ一定にして見られた。この中には弾性線維は見られない。

(12) 中野ら(文献A―68)の第一例(症例89)は、大腿直筋では、横紋構造が不明瞭となり、太さが比較的均一な筋線維で占められ、その中に腱細胞が散見された。第二例(症例90)は、染色性が不良であり、横紋は不明瞭で、細胞浸潤は極くわずかであり、腱様組織は、膠原線維で占められ、その中に腱細胞が散見された。第三例(症例91)は、筋線維が部分的に膠原線維に置換されて萎縮し、その後へ脂肪組織が代償的に浸潤し、全体として瘢痕であり、炎症の最終段階の所見を呈していた。

(13) 坂上ら(文献A―84)の第一例(症例109の1)は、大腿直筋の腱組織中に間質結合織の増生と脂肪織の出現が認められた。第二例(症例109の2)は、中間広筋の筋線維が不規則に置換され、残存する筋線維でも染色性の変化と横紋の消失が認められた。

(14) ネフコフスキー(文献E―1)、フェアバンク(文献E―2)、ガミー(文献E―3)及びハーゲン(文献E―8)の症例では、筋線維の喪失部が一部は線維化し、一部は脂肪組織で置換されていた(文献G―7)。なお、当初、ネフコフスキー及びフェアバンクの症例は先天性例として報告されていたが、後にロイド・ロバートによつて注射原因の可能性を指摘されたことは、前記第三章四で認定のとおりである。

以上のほか、文献に表われた光顕による組織所見報告としては、文献A―16、39、50、57、60、79、87、E―11がある。

(三)(症例・電顕による病理組織学的所見)

(1) 中野ら(文献A―68)の第一例(症例89)及び第二例(症例90)は、異常が認められなかつた。なお、中野らは、この症例を先天性例として報告している。

(2) 中野ら(文献A―68)の第三例(症例91)は、筋原線維の幅が狭く、小胞体の幅が広く、グリコーゲン顆粒が多く認められ、核、ミトコンドリア、筋原線維の微細構造に直接異常を認めない筋萎縮像を呈していた。

(四)(平林紀夫の所見)

名古屋大学医学部病理学教室助教授である証人平林紀夫の証言、甲第三五ないし第五七号証、第五八号証(証人平林)、第五九号証(同上)によると、同証人の所見は次のとおりである。

(1) 富山労災病院の飯田鴎二及び名古屋大学医学部付属病院から入手した本症の一三例の病理組織標本について検討した。

(2) 肉眼所見では、通常の筋肉と異なつて非常に固くなつており、時には筋肉の軟かさが全く失なわれて腱様になつているものがしばしばあつた。

(3) 組織所見(光顕)では、筋膜または腱膜の線維化は一一例に、筋の線維化瘢痕化は九例に、筋の変性・萎縮は一一例に、脂肪浸潤は一一例に、間質の線維化は全例に、血管増生は全例に、器質化血栓は三例に、神経の変性は一例にそれぞれ見られた。

(4) その具体例は、次のとおりである。

①(筋膜の例)

筋膜部に連続する筋肉組織は、緻密な構造を示し、筋の変性像と思われる。筋膜部は、肥厚し、血管増生が著明で、線維が錯綜した状態で雑然と増生しており、全体として肉芽組織による修復結果によるものと推定される。

②(血管部の例)

血管の内腔の全部または一部を凝固した血液が被つていたが、これは、血栓が変化したものと思われる。血管の中膜及び外膜も変化しており、その周辺には線維が増生している。

③(神経部の例)

部分的には神経線維の核の密度が保たれている部分もあるが、白く抜けている部分があり、神経の変性と考えられる。周辺部では、結合織が増えている。

④(筋肉部の例Ⅰ)

正常な部分に混つて、筋線維の中央部分に筋肉の核及び筋鞘の核が増えている部分がある。筋の不完全再生像と考えられる。

⑤(筋肉部の例Ⅱ)

個々の筋線維が萎縮し、途切れたり途中から融解している部分もある。筋線維間には大きく隙間ができているが、脂肪浸潤はない。一部に再生の試みと思われる核が出現した部分的正常筋組織も見られるが、これもすぐに途切れている。

⑥(筋肉部の例Ⅲ)

全体に筋線維が萎縮し、その間隙を脂肪組織が埋めている。

⑦(筋肉部の例Ⅳ)

正常に見える筋線維にも核が多数出現している。萎縮した筋線維で途中から線維化しているものもある。結合織性の線維及び脂肪組織も出現し始めており、全体として病的変化の進行中の例と思われる。

⑧(筋肉部の例Ⅴ)

正常な筋組織中の欠損部を脂肪が埋めている。全体として核も増えている。

⑨(筋肉部の例Ⅵ)

筋が途切れている部分(壊死部)がアザン染色で青く染まる線維に置換されている。

⑩(部位不明例)

血管の周囲に脂肪浸潤が見られるが、この脂肪組織自体も灰白に変性している。

(5) 全体としては、腱膜及び筋実質では変性または壊死、筋間質及び筋膜では炎症性の変化が考えられるが、その原因としては、様々の基本的な構成要素が無選択に冒されているということ自体から、内因性の原因よりも局所に加えられた外因性のものを推定させる。

(五)(障害実態についてのまとめ)

(1) 手術所見では、主として大腿四頭筋自体が白色に線維化ないし瘢痕化しているものと、主として筋膜、筋束間等における瘢痕組織(結合織性のものが多い。)が大腿四頭筋の各筋に癒着しているもの及びその中間型の三類型があることが認められた。

(2) ところが、光顕による病理組織所見では、筋線維の壊死(融解、空胞化等)を示す場合、結合織性の膠原線維を主とする線維組織の増殖ないしこの線維組織の残存筋線維への侵入及びこの侵入による残存筋細胞の島嶼化を示す場合、脂肪浸潤ないし壊死部の脂肪組織による置換を示す場合等、種々の様相を呈しており、また、筋の壊死及び再生不全の原因としても、筋細胞自体の化学的変化、血管の圧迫または血管内における血栓の形成による筋細胞の阻血性壊死、神経線維の破壊による影響等、種々の要因の存在を十分に窺わせるものである。

(3) このように、本症の病変部の実態が区々であることからすると、本症を、単純に炎症性反応からの線維化、瘢痕化としてのみ把握することは困難であり、個々の症例について個別的具体的に病態の把握を要するものと考えられるが、全体としての病態を見ると、何らかの原因による筋の壊死及び再生不全(線維組織が優位の場合、脂肪浸潤等による脂肪組織が優位の場合、その中間型)が本症の本態をなすものと考えられる。

(4) そして、これら手術所見で瘢痕または癒着等の認められた変性部分の除去等により本症に特有の症状(諸機能障害)が改善されることが少なくないことは多くの症例報告(その詳細は文献表Ⅱ表Aに記載の各文献に記載のとおりである。)から明らかであり、また、これら変性による下肢の関節運動制限の可能性は、前記第三章二1で認定の下肢の筋の構造に照すと、十分に肯定できるところである。なお、機能障害発生のメカニズムについては、前記第三章二2で認定のとおり、これを合理的に説明することができるところである。

(5) 従つて、これらの変性等を実態とする大腿部筋組織(主として大腿四頭筋)の障害が本症の諸症状を惹起させるものであると認められる。

2(瘢痕形成に関する一般的検討)

右1で検討したとおり、本症患者の患部の所見には炎症反応とは異なるものも少なからず含まれているのであるが、他方、前記第三章四の研究史上では、多数の研究者が炎症反応による本症の発症を推定する報告を発表しており、事実右1の所見でも局所に瘢痕組織の形成されているものが多い。そこで、ここでは、本症の各病態のうち、その多くの部分を占めると推測される瘢痕組織等に由来する症例についての注射による発症の可能性を検討するための前提として、一般病理学等の上で瘢痕組織の形成の原因、程度、消滅の可能性等についてどのような見解が有力であるかを概観することとする。

(一) 乙B第七〇号証の一、二によると徳島大学医学部第一病理学教授である檜澤一夫の見解は次のとおりであると認められる。

(1) 生体が障害を受けると、その程度に応じて種々の程度の傷みを生ずるが、これを、変性、壊死という。この変性、壊死を細胞の機能の面から見ると、細胞の働きの低下となり、壊死になると細胞の機能が全くなくなる。その機能低下の程度に応じて、細胞は、空胞化(小胞体が拡張して相互に融合する状態)、脂肪浸潤、筋原線維の崩壊、結合織部の出血、細胞浸潤等の変化を示す。染色では、細胞質の染色が非常に悪くなる。

(2) 生体がこのような変性、壊死を受けると、必ず元に戻ろうとする能動的な反応が起るが、これを修復という。修復には再生と肉芽組織形成の過程がある。

(3) 細胞が壊死等の原因によりその組織を失なうと、同じ細胞や組織が分裂、増殖をして、失なわれた組織を補い、元に戻る現象を生ずるが、これを再生という。これに対し、損傷を受けた組織が、修復に際して、毛細血管または線維芽細胞の増殖によつて補われる現象を生じる場合もあり、その場合の増殖した組織を肉芽組織という。肉芽組織の形成は、壊死が広範囲である場合、非常に強い壊死が起つた場合、障害作用が長期にわつてつ持続した場合、障害が何回も繰り返された場合等で、実質細胞(ここでは筋線維)の再生が少ないかあるいは不十分なときに起きてくる現象である。

(4) 形成された肉芽組織は、少量であれば後に吸収されて跡を残さないが、大量の肉芽組織が形成されると、吸収されずに残り、瘢痕を形成することがある。

(5) 人の細胞でも再生能力を持つているものの方がむしろ多いと言つてよい。細胞の種類で言うと、再生能力を持つている細胞の方が圧倒的に多く、再生能力のない細胞は、ごく限られている。

人の骨格筋でも、その程度は弱いにしても、再生能力を持つている。横山らの「現代の病理学総論」(文献J―10)には、「大きな損傷では、線維組織の置換による治癒である。筋線維自体の核が残るような損傷で細胞質の部分的損傷ならば、修復は可能である。」と書いてあるが、これが比較的事実に近い記録であると考える。

(6) 骨格筋に再生が起る場合の第一の条件は、骨格筋の壊死であると考えるが、その場合の壊死は、筋芽細胞のもとになる衛星細胞や筋核まで死んでしまうような完全壊死ではなく、筋鞘や基底膜も残るような不完全壊死の場合に、最もよく再生が起るようである。

(二) 乙B第七三号証の一二によると、広島大学医学部薬理学科生理化学教室教授である石橋貞彦の見解は次のとおりであると認められる。

(1) ある刺激またはこれに伴う何らかの傷害があつた場合に、とりあえずそれを充填するような形で形成される組織を肉芽という。

(2) 何らかの損傷があると、まず、その周囲の血管系が変化し、様々な細胞または血清成分がその周辺に集まり、次いで大食細胞(マクロファージ)がその周辺または血液中から出現し、傷害部位を貪食(食べて分解すること)する。これと前後して、結合織に存在している線維芽細胞がその部位を充填して肉芽を形成する。この線維芽細胞は、更にコラーゲン、ムコ多糖類等の蛋白質(細胞間質)を形成する。従つて、肉芽組織は、主として線維芽細胞、大食細胞その他の細胞間質で構成されている。

(3) 肉芽中の大食細胞は、一代限りで死んでしまい、通常は、他の大食細胞に貪食され分解されてしまう。これに対し、線維芽細胞は、炎症部位等では、どんどん増殖してゆく性質を持つている。そして、この増殖は、損傷部位が線維芽細胞によつて充填されるまで持続し、この充填によつてある一つの平衡状態に達すると、今度は、コラーゲンやムコ多糖類が盛んに合成されて細胞外に分泌され、これが細胞間質を構成する。そして、この合成も、ある程度の蓄積状態に達すると停止し、最終的には、このコラーゲンも分解吸収されて修復が完了する。このコラーゲンの分解には、コラーゲン分解酵素が関与しているものと考えられている。

(4) 肉芽は、すべて瘢痕になるわけではなく、普通は、徐々に消失していくものであると考えられるが、場合によつては残存することもあると考えられる。

(5) 一般的に、瘢痕組織中には、コラーゲンが多いと思われるが、コラーゲンは、体中の至るところにあるのであるから、コラーゲンの量をもつて瘢痕の判定をすることは難かしく、コラーゲンの存在イコール瘢痕とすることはできない。

(三) 前記証人平林紀夫は、次のように証言している。

(1) 生体が刺激を受けると、それに対する反応として炎症が起る。通常は再生により治癒するが、刺激による変化が強い場合には肉芽組織が形成される。

(2) 肉芽組織は、線維芽細胞と非常に細い毛細血管とから成るが、この線維芽細胞は、やがて線維となり、また、毛細血管は、消失する場合もあるが、病巣が大きい場合には血管として残り、血管も含め全体として線維化が起る。

(3) この線維が、より緻密に集まつて核も非常に少なくなつている状態または固さが非常に固くなつてくる状態を瘢痕化という。瘢痕化の場合には、同時に収縮も起る。

(四) 炎症反応と瘢痕形成に関し、各種成書には、次のように記載されている。

(1) 武田勝男編「新病理学総論」第一三版(文献J―8)には、「肉芽組織は、組織の再生、器質化、創傷の治癒あるいは炎症等において、基礎的な役割を演ずる複雑な新生組織である。組織の欠損、体内外の異物あるいは細菌による感染があるときに、それらの物理的、化学的、生物的な刺激に対する反応として、また、それらの異物刺激を軽減する意味において、また、他組織の欠損の代償性再生として、また、発生した変化を吸収消化し再生修復治癒するために、主として血管結合織細胞の再生を含む若い間葉性組織が新生して肉芽組織を作る。肉芽組織は、時がたつにつれて、次第に膠原線維化し、液体成分が吸収され、毛細血管や遊走細胞は消失し、あとに瘢痕組織を残す。瘢痕を作る結合織は、長期間後に収縮し、瘢痕収縮を起す。」と記載されている。また、同書第一二版(文献J―7)には、炎症の経過と転帰の説明として、「急性炎は、急激に起つて経過は短かく、組織学的には、血管反応が主で、白血球を主体とする滲出現象が著明であり、これに続く増殖性変化は弱く、殆んど瘢痕を残さないで吸収される。亜急性炎では、期間は急性炎よりも長く、組織学的には、滲出現象は弱く、結合織の増殖は起るが強く瘢痕化しない。慢性炎は、初めから徐々に起る場合と急性炎から移行する場合があるが、その経過は、数か月から数年に及ぶ。慢性炎の経過中に急性炎を繰り返す場合は、再発という。組織学的には、滲出は弱く、壊死が少なく、結合織の増殖が著明になり、瘢痕化が加わつてくる。」と記載されている。

(2) 藤本輝夫の「基礎病理学」初版(文献J―9)には、「肉芽組織とは、臓器組織に生理的に存在する毛細血管より新生伸長した幼弱な毛細血管と線維芽細胞等からなり、毛細血管周囲に大食細胞、多形核白血球等を伴つたものである。この肉芽組織は、無生物(壊死巣等)を処理しつつ、その占めていた部分を完全に置換して生体の続きの組織としてしまう。かかる現象を器質化という。その後には毛細血管が次第に退行し、遊離細胞も消失し、線維芽細胞は線維細胞にかわり、そこに膠原線維の増殖、基質の硝子変性等も加わる。このように変化した組織を瘢痕(瘢痕組織)と言う。」旨記載されている。

(3) ウォルターらの「一般病理学」第二版(文献K―2)には、修復の説明として、「失なわれた組織を、瘢痕組織を形成する肉芽組織で置き換えること。これは、例えば、筋肉または神経で、周囲の専門分化した細胞が増殖する能力を持つていないときには、避けられないことである。」と記載されている。

(4) ウォルトンらの報告(文献I―4)には、「筋線維部分及びその支持組織が完全に破壊されると、再生は残存線維の健全部分の末端からの多核性発芽によつて作動する。これらの状態では、新生線維は殆んど平行配列することなく、また、しばしば偶発的配列を示す。損傷が広範囲であり、筋肉構造がはなはだしく崩壊していると、多くの再生性発芽はその後に退化性変性を被るので、再生は不完全である。線維組織の増殖が著しく、また、多くの壊死線維に置換する。」と記載されている。

(五)(瘢痕形成についてのまとめ)

以上の事実から、次の知見が得られる。

(1) 生体の組織が損傷を受けても、その多くは、元どおりに再生する。しかし、場合によつては、損傷した部位が瘢痕組織で置換されることがある。

(2) 瘢痕組織は、主として膠原線維等からなり、肉芽組織から形成されるものである。瘢痕組織は、それが小さい場合には分解吸収されるが、大きい場合には生体中に残存する。

(3) 肉芽組織は、線維芽細胞、大食細胞その他細胞間質等から成り、損傷を受けた組織の再生、修復に重要な役割を果す。再生が行なわれる場合には肉芽組織は分解吸収されるが、分解吸収されず組織の再生が不十分な場合には、瘢痕組織となつて残る。

(4) ヒトの細胞に関しては、旧来、再生力が弱いとされてきたが、近年の研究の進歩により、旺盛な再生力を有することが確認され、骨格筋(大腿四頭筋もこれに含まれる。)においても、その程度は低いものの再生力は認められている。

(5) 従つて、生体の損傷(筋の壊死、刺激に対する炎症反応等)による最も理想的な治癒過程は、再生による治癒であり、一般的にはヒトにおいても再生による治癒の場合が多いが、損傷の程度が著しい等の原因により、瘢痕形成の程度が大きい場合等には、再生が不能または不十分となつて瘢痕組織が生体内に残存することがある。これを大腿部組織に則して言うと、大腿の筋その他の組織に著しい損傷が生ずると、その再生が不能または不十分となり、ときに瘢痕組織(瘢痕収縮により非常に固く伸縮性の乏しい組織となる。)が残存することになるのである。

なお、この瘢痕組織が、これに隣接する他の健常組織と癒着して、その伸縮性をも阻害するに至ることが少なくないことは、前記各手術所見等からも明らかである。

3(注射による瘢痕形成の可能性)

注射により炎症反応が生じ、更にこれ迄認定のような機転で瘢痕組織が形成されるに至るか否かが次の問題である。

そこで、まず、一般的に注射が炎症反応の原因となる刺激となり得るかを検討する(動物実験については、本章三4で注射の具体的内容については同四2でそれぞれ検討することとし、ここでは除外する。)。

(一)(諸研究者の見解)

(1) 前記檜澤一夫は、乙B第七〇号証の一、二の中で「注射によつて注射部位に壊死を生ずるが、これは、機械的刺激によるものと考えられる。しかし、その大多数は完全に再生する。注射により筋肉に広範な壊死が起つた場合は、大量の肉芽ができて瘢痕が残ることはあると思う。」と述べている。

(2) 前記石橋貞彦は、乙B第七三号証の一、二の中で「筋肉注射を施した場合、とにかく針を刺すという物理的な侵襲を行ない、そこに薬剤という異物を挿入するのであるから、そうした刺激に対する物理学的な反応として、炎症が起る可能性は十分に考えられる。化学的障害性があるとは必ずしも言えない。薬量が大量になれば、局所に対する物理的刺激も異なる。」と述べている。

(3) 赤石英は、「薬剤は、もともと毒物であると言つても過言ではなく、注射による局所障害は、ある程度避け難いことである。」と述べている(文献F―14)ほか、証人として、東北大法医学教室において、長期間上腕部に筋肉注射を受けた患者を、死後解剖したところ、明らかに注射によると思われる瘢痕形成を呈していた旨を証言している。

(4) 甲第一号証によると、津山直一は、「乳児期の大腿に注射を頻回に行なつたような場合、あるいは頻回でなくても大量の注射を小さな筋肉内に注入したような場合、そういつた場合に薬物の化学的な反応または薬物毒性によつて、筋肉が壊死を起す。それが筋肉でない瘢痕組織に置き換る。あるいは、大量の注射を注入した場合に、そのために小さな筋肉の中の内圧が高まつて阻血性の壊死が起ることも考えられる。もともと、注射ということは非生理的であり、注射をすれば筋肉の瘢痕化が起り得る。」と述べていることが認められる。

(5) 甲第一号証によると坂上正道は、「筋肉の瘢痕、線維化の原因としては、化学物質による筋の炎症が考えられる。その他の原因としては、注射剤の浸透圧、濃度、PH等も問題であり、また、添加物や安定剤等による影響も十分考慮される。一方、大量の液を筋の小範囲に注入するために圧迫による阻血性壊死が起ることも考えられる。」と述べていることが認められる。

(二)(文献等)

(1) 藤本輝夫の「基礎病理学」初版(文献J―9)には、「炎症は、局所への物理学的刺激、化学的刺激、微生物その他の寄生による刺激によつて惹起される。」と記載されており、更に、物理学的刺激の説明として、「機械的傷害、温熱あるいは寒冷刺激、電気刺激、紫外線の作用、エックス線、ラジウムその他の放射線の刺激等があげられる。」と、また、化学的刺激の説明として、「酸、アルカリ、その他の腐蝕剤、蛋白質凝固剤等の有無、無機の物質の刺激がそれである。」と記載されている。

(2) 日本小児科学会筋拘縮症委員会の「筋拘縮症に関する報告書」(文献A―99)には、「筋肉注射は、薬液という身体にとつては非生理的な異物を、緻密な筋肉組織の中に注入するのであるから、容易に障害の生じることは想像に難くはないであろう。また、たとえその薬液の化学的組成が生体にとつて障害がなかつたとしても、注入に伴う圧力や針による傷等の物理的障害を避けることはできない。」と記載されている。

(三)(注射による瘢痕形成の可能性についてのまとめ)

以上の各見解から次のことが示唆される。

(1) 注射により炎症反応が起り、これから瘢痕が形成されることのあることは病理学的に十分肯定できる。

(2) 炎症の原因となる刺激としては、注射剤自体の刺激性(筋毒性)、注射針の刺入による物理的損傷、注射液の圧力による物理的損傷またはこれによる二次的(阻血等)な筋壊死等が考えられる。

以上のような示唆が得られるのであるが、これら注射行為から生ずる各種の刺激が常に瘢痕形成をもたらすものではないことも以上の諸見解や本章三2の検討から明らかであり、かつ、これら各種刺激の影響力の大小に差があることも十分に予測されるところである。しかし、ここでは、一般的な示唆を明らかにするにとどめ、各種刺激による影響力の優劣等については、後記本章四で改めて検討する。以下、本章三5まで、この前提で更に検討を進める。

4(動物実験についての検討)

注射による筋肉部の瘢痕形成の可能性が動物実験によつても裏付けられているか否かを検討する。

(一)(動物実験)

(1) ロマンスキー(文献I―1)は、蜜ろう及びピーナッツ油に混ぜたペニシリン・カルシウム(以下、P・O・Bという。)を兎とハムスターに注射して、その経過を観察したが、その要旨は、次のとおりである。

① P・O・Bを筋肉内注射されたハムスターと兎をそれぞれ三か月及び六か月間追跡調査した。

P・O・Bの頻回筋肉内注射を受けた後一ないし二か月に様々な原因で死亡したヒトから得られた組織も観察した。

② P・O・Bの筋肉注射後二四時間の顕微鏡観察では、蜜ろうの小滴は、多形核細胞、大単核細胞及び異物巨細胞の集合によつて分離されていた。この反応に筋壊死は伴なつておらず、単に筋線維がばらばらにされているのみであつた。蜜ろうは、食細胞によつて組織から取除かれ、通常、一〇日ないし三〇日代の内に消失した。非常に小さな線維芽細胞の反応が生じたが、数か月内に消失した。

③ 前述の時点でのヒトから得られた組織においては、注射部位を発見するために数多くの筋肉連続切片を要したし、また、蜜ろうは確認されなかつた。

④ この時点では、部分的に崩壊し、巨大細胞を散乱させた薄い線維性膜を持つ微小な嚢胞が小数存在した。同様の像は、ハムスター及び兎でもみられた。この微小な嚢胞は、油に溶かしたどの薬剤の筋肉内注射で見出されるものと何ら異なるものではない。蜜ろうの吸収は、他でも報告されてきた。

(2) パンら(文献I―3)は、家兎と犬を用いた実験結果を報告しているが、その要旨は、次のとおりである。

① 家兎は、すべてオキシテトラサイクリン(OTC)五万μg/ccないし一〇万μg/ccの一回注射に耐性を示した。これらの濃度の頻回のOTC筋肉内注射は、犬でも良く耐性を示した。

② 殆んどの兎は、五万μg/ccのテトラサイクリン(TC)の筋肉内一回注射に耐性を示したが、一〇万μg/ccのTC筋肉内一回注射を受けた兎の五〇%以上では、硬結または出血のような軽度ないし中度の炎症性反応が認められた。

五万μg/ccないし一〇万μg/ccで複数ダースのTCを投与された犬は、殆んど例外なく、注射局所周辺に圧過敏及び硬結を示した。筋肉中には、中等度ないし顕著な炎症反応と必ずしも稀でない限局性の壊死が認められた。

(3) ウォルトンら(文献I―4)は、兎及び人間(志願者)を用いた実験結果を報告しているが、その要旨は、次のとおりである。

① 油、アルコール及び炭素懸濁液0.25mlの筋肉内注射は、ヒト及び兎に傷害中心部線維のヒアリン化及び硝子様変性(壊死)を惹起し、二日または三日以内に病変に細胞(最初は多核性白血球、次いでリンパ球、若干の形質球及び壊死筋肉を貪食する多数の食細胞)が侵入する。この過程は、最後には線維組織による壊死組織の置換を伴う線維芽細胞の増殖が続くが、一方、病変周縁では、部分的に損傷した筋線維及び単離した生存筋鞘核が見られ、再生活動を示す。

② 傷害二日目及び三日後に発現する再生の最初の徴候は、筋鞘核の増殖及び肥大であつて、それは大きく、円形となり、小胞性であつて、顕著な核仁を示す。これらの核は、損傷筋線維の生存部分から発育する芽を形成することがあり、この場合、核は、傷害四日または五日後にPMB染色した切片では、好塩基性細胞質に包囲される。これらの芽は、大きさ、長さ及び核の数を増加し、傷害後約一〇日後に分岐を示すことがある。この現象は、末端発芽による再生として知られている。七日ないし一〇日後の間及びその後は、ますます新しい筋原線維が芽または紡錘細胞内に形成され、これらのうち一部は、横紋を欠くが、その他のものには明らかに横紋があり、特にPTAH染色ではつきりする。

③ 一〇日間の標準間隔における同様の注射成績を、それぞれ一週間、二週間、六週間及び三か月間の除神経兎及び筋萎縮症罹患患者七例、神経または脊髄性筋萎縮に罹患した患者五例、多発性筋炎患者一例について観察した。

④ 除神経三か月後の兎の筋肉を全例採取した全例で、病変の大きさ、強さ及び注射筋肉の単位面積当り損傷筋線維数を考慮に入れると、再生活動は、正常反応と質的に差はなく、各例に再生が見られた。三か月間神経支配を除去した筋肉では、病変の周囲の再生活動は僅かであつたが、この筋肉は、神経支配除去後に激しい退行性変化を受けていた。線維は、多く消失し、脂肪によつて置換され、その他の線維は強く萎縮し、変性したが、実験的傷害によつて損傷されたものは比較的少なかつた。筋萎縮例でも、著しく萎縮した線維は、傷害後にわずかの再生活動しか示さなかつた。

これらの所見は、萎縮または退化が進行した段階の筋線維が除神経、筋萎縮を問わず、その再生能を失なうことを示す。しかし、原因は何であれ、進行した萎縮または非可逆的退化が同様の段階に達した線維では、同様の現象が真実であり、筋細胞の再生能力障害は、筋萎縮症または除神経の本来の影響ではないと思われる。

(4) ページェットら(文献I―5)は、ラットを用いた実験結果を報告しているが、その要旨は、次のとおりである。

① 注射剤によつては注射部位に疼痛または腫脹を殆んど起さないものもあるが、他方、この形式での一般的な使用を排除するほど激しい局所変化を惹起させるものもあり、新薬または薬剤の新剤型を筋肉注射に使用しようとする場合において、この観点は重要である。

② ラットの後肢大腿部の左側にカーボンブラックを含有する滅菌生食水0.2ccを注射し、右側筋肉に、同じサイズの注射針及び注射筒を用いて滅菌被験溶液0.2ccを注射した。注射後時間を区切つて、二匹ずつ屠殺し、解剖した。

③ 被験溶液のうち、滅菌した正規の生食水は、この試験で見られた最小量の障害を示した。

カーボンブラックを加えた生食水では、少数の筋線維が破壊されたが、四八時間後には壊死筋肉は食細胞によつて除去され、線維芽細胞の増殖が見られ、七二時間後には、カーボンは線維被膜に包まれ、食細胞の大半は消失し、反応は完全に治つた。

滅菌した蒸留水は、筋肉内注射で驚くべき重大な反応を起した。二時間後では、直径約二mmの浮腫性部分で筋束が浮腫によつて分離され、六時間後では多数の筋線維が明らかに壊死性に腫脹し、細胞浸潤も始まり、四八時間後では、多形核白血球と食細胞によつて浸潤されて貪食作用が進み、四八時間後では、貪食作用が更に進み、注射が完全に入らなかつた筋肉部でも同程度の反応が皮下脂肪組織と結合織で起つたことが示された。

高張度食塩水(1.7%)では、等張生食水の場合よりも浮腫は広範であつたが、個々の筋線維は破壊されていなかつた。炎症性反応は早期に現われ、この部は、決定的に線維症となつた。

一〇%グルコン酸カルシウムでは、注射部位の損傷は、生食水の場合とほぼ同じで線維の壊死を起していた。

ペニシリン・カルシウム五〇万単位/mlでは、二時間後で三ないし四mmの浮腫帯を生じた。二四時間後では、多形核白血球の浸潤は見られたが、筋肉壊死部の食細胞による浸潤は見られなかつた。七二時間後では、末梢顆粒組織形成と筋肉増殖が進行しつつあり、幾つかの切片では、血管に通常、重篤ではないがある程度の損傷が見られた。

ペニシリン・カルシウム一〇万単位/mlでは、等張液の場合、より高張の液に惹起される場合よりも筋肉損傷の範囲が少ないということは殆んどないばかりでなく、反応の性質にも差はなかつた。

キニーネ塩酸塩では、二時間後の損傷部位は直径六ないし八mmであつた。多くの切片で、傷害の中心部に出血を見ることができ、また、幾つかの細静脈中の赤血球が損傷されているようであつたが、他の静脈は血管壁の損傷を示していた。

(5) ハンソン(文献I―7)は、兎を用いた一一系列の抗生物質についての動物実験結果を報告しているが、その要旨は、次のとおりである。

① 広範囲スペクトル抗生物質の皮下及び筋肉内注射による兎の局所組織変化を観察した。

② クロラムフェニコール・サクシネート(CP・S)及びテトラサイクリン(TC)が最も激しい局所障害を惹起した。紛末を溶解したオキシテトラサイクリン(OTC)及びOTCのプロピレン・グルコール溶液は、組織の変化が最も小さかつた。

③ 肉眼及び顕微鏡での最も程度の低い壊死は、OTC製剤で観察された。壊死は、CP・S及びTCの注射に続く場合が最も激しく広範囲であつた。クロラムフェニコール(CP)は、TC及びCP・Sよりも僅かに少ない壊死を惹起した。

④ TCは、最も程度の大きな多形核細胞浸潤を惹起した。遊出赤血球細胞は、CP・S、CP及びTCの注射で最も著明であつた。単核細胞浸潤は、皮下注では全例で同程度であつたが、筋注部位においては、TC、CP及びCP・Sの注射で最大程度に見られた。皮下血管の血栓は、TC、CP及びCP・Sの注射で最も頻度が高かつた。

(6) ワイフェンバッハら(文献I―8)は、ラットを用いた実験結果を報告しているが、その要旨は、次のとおりである。

① 方法は、ページェットら(文献I―5)の方法に従い、ウィスター種のラットを用いて0.1mlを注射した。

② 予想通り、生理食塩液は、その等張性に基づき、最も軽い傷害を示したが、再蒸留水は比較的強い傷害を惹起した。更に強い傷害が、エチルアルコールの再蒸留水溶液で期待されたにも拘らず、これは、アルコールの希釈のために再蒸留水を生理食塩液と交換した場合でも本質的ではない程度にしか軽減化されないことから、傷害は、アルコールが「傷害を起す」成分として描くことができる。この現象は、ある一つの強い傷害性を有する物質の存在が他の成分の弱い傷害性の添加に完全に重なること、または、ある成分の傷害を起す効果が傷害性のない成分の添加によつては実質的に弱められないことを推測させる。

③ この観察は、油の溶液の場合にも確認された。ピーナッツ油は、ほんの僅かの筋肉障害しか惹起しなかつたが、他方、1.0%クロトン油のピーナッツ油溶液の注射は、予想通りの強い傷害を起した。

④ プロピレン・グリコール及びブチレン・グリコールによる傷害は、水溶液の場合と同様に比較的大きいが、油溶液の場合に似て、相当速やかに回復した。

⑤ 物質(再蒸留水、アルコール溶液、グリコール類及びクロトン油)の注射で破壊域が形成されると、治癒は、様々の経過をたどる。まず第一に、様々な数の多形核白血球が破壊域に侵入する。これは、大食細胞とともに、そして、それに伴われて、傷害を受けた筋線維を溶解し、同時に、破壊域の周縁から中心部へと浸潤が進行する。この多形核白血球及び食細胞によつて清浄にされた破壊域中の部分では、線維芽細胞の増殖が始まり、それが破壊域をカプセルのように包んで同心円を形成し、着色された切片標本で顕微鏡によつて観察できるようになる。増殖筋線維である外縁の円は、正常筋組織へと移行する。

(7) ベニッツら(文献I―9)は、ニュージーランド兎を用いた実験結果を報告しているが、その要旨は、次のとおりである。

① この実験で得られた結果を二例によつて素描することにする。

② その第一は、市販のフェノシアジン誘導体Aと化学組成の類似するフェノシアジン誘導体Bの新製剤及びB製剤の対照溶解剤との比較という比較的単純な実験から得られた。

これらのデータは、二つの薬剤投与群の間に計数上何ら有意な差のないことを示しているが、これに反し、フェノシアジン製剤Bを注射された群とこの製剤を抜いた溶媒のみを注射された動物の間には、すべての項目で有意な差が示された。我々の経験では、筋障害の急性期を検索する最適日時は、注射後二日である。

③ 第二例に示されているように、この方法は、治癒過程(注射後八日)の筋壊死の評価にも用いることができる。この時点では、病巣は、明らかに急性期よりも縮少していたし、また、壊死巣は、通常、若干の白血球と多数の線維芽細胞、大食細胞及び組織球を含むぶ厚い肉芽組織の穀で取り囲まれていた。

(8) 阪本桂造(文献G―1)は、前記第三章四38のとおり、動物実験結果を報告している(詳細は文献表Ⅱ、G―1参照)。

この実験では、クロラムフェニコール及びリンゲル液による筋の線維化と萎縮が認められている。

(9) 赤石英ら(文献F―14)は、各種注射剤の溶血性試験と筋障害性に関する動物実験結果を報告している(詳細は文献表Ⅱ、F―14参照)。

この報告では、注射剤の溶血性の強さと筋障害性(筋変性)との間に、一般的に比例関係があることが確認され、また、クロラムフェニコール・サクシネートを用いた実験で家兎の筋肉に暗褐色の筋肉変性による硬結の多数の形成と結合織線維の増殖が認められた。

(10) 松島達明は、注射剤の溶血性(文献H―25)及び組織障害性(文献G―2)に関する実験結果を報告している(詳細は文献表Ⅱ、G―2参照)。

この実験では、注射投与部位の筋壊死、結合織増殖と肉芽形成、瘢痕形成が確認されている。

(11) 千葉の実験結果報告は、若松英吉らの報告(文献A―93)で引用されている。

この実験では、注射部位の筋の類壊死ないし壊死、結合織増生、壊死に陥つた筋束の器質化とともに、特に一回注射群で筋線維の再生が認められている。

(12) 山村定光(文献G―3)は、クロラムフェニコールにより実験結果を報告している(詳細は文献表Ⅱ、G―3参照)。

この実験では、すべての群で注射直後から筋線維、末梢神経、神経・筋接合部に変性が認められたが、一回注射群では、四週間後には、よく再生されていたのに対し、頻回注射群では、再生途中で再び変性に陥つた筋管が認められる等、一般に再生は不良で、変性が持続していた。

(13) 佐野精司ら(文献G―4)は、カニクイザルを用いた実験結果を報告している(詳細は文献表Ⅱ、G―4参照)。

この実験では(おそらく筋膜の)筋線維萎縮、細胞浸潤、間質性線維組織の増生から瘢痕形成が認められ、更に注射後五週ころから股伸展位膝屈曲の現象を示し、注射後六か月現在でも改善しないことが認められた。なお、組織像で、炎症性細胞は全く見られず、筋線維には再生を考えさせる像は認められなかつた。

(14) 光安知夫らは、ウィスター・ラットを用いて動物実験を行ない、その光顕的観察(文献G―5)及び電顕的観察(文献G―6)の結果を報告している(詳細は文献表Ⅱ、G―5、G―6参照)。

この実験では、注射部位の筋肉に壊死、結合織の増生、筋線維の空胞変性等が認められたが、注射後八週目では、部分的に線維化を残した例を除き、いずれも筋の再生が確認された。そして、光安は、注射による筋障害は、限局性、毒性の損傷変化であり、損傷が生じると同時に再生過程が進行していることを強調した。

(15) 西島雄一郎(文献G―7)は、家兎を用いた実験結果を報告しているが、その要旨は、次のとおりである(詳細は文献表Ⅱ、G―7参照)。

① 溶血性陽性薬剤筋注により拘縮が生じても、正常に復する型(Ⅲ型)と復しない型(Ⅳ型)とがあるが、前者は、肉眼的には著変を示さず、組織学的には脂肪組織の像を示すのに対し、後者は、肉眼的には直筋全体が索状瘢痕となる所見を示し、組織学的には直筋全体が瘢痕線維化の像を示した。

② 注射終了後一か月の時点で、溶血性陽性薬剤筋注群では平均76.6%に一時的にしろ拘縮が発生した。組織所見では、Ⅲ型は、筋の凝固壊死、壊死巣への細胞浸潤から壊死巣の線維化、線維化部分の脂肪組織置換という変化が見られたが、Ⅳ型では、実験例が少なく、観察できなかつた。

③ マイクロアンギオグラフィを用いて観察すると、薬剤注入部位が完全な阻血状態となつていることが示されることから、溶血性陽性薬剤筋注による筋壊死には、筋毒性のみならず阻血性変化も加わつていると考えられる。

(16) 宮田雄祐ら(文献G―8)は、家兎を用いた実験結果を報告している(詳細は文献表Ⅱ、G―8参照)。

この実験では、生理食塩水以外の被験薬剤のすべてについて筋壊死作用があり、壊死の範囲が注射本数と比例することを示した。

(17) 林敬次ら(文献G―9)は、家兎を用いた実験結果を報告している(詳細は文献表Ⅱ、G―9参照)。

この実験では、筋注部位に瘢痕形成が認められたほか、直筋内に確実に筋注された一六肢のすべてに屈曲障害が現われた。また一回注射による本症発症の可能性を指摘している。

(18) 伊藤位一ら(文献G―10)は、家兎を用いたクロラムフェニコール・ゾル及びスルピリン混合液一回注射の実験結果を報告している(詳細は文献表Ⅱ、G―10参照)。

この実験では、線維性肉芽組織と脂肪組織の増殖等が示されたが、永続的な機能障害の原因となる索状物または広範囲な瘢痕は認められず、注射後三九日目には全例ともほぼ正常に復した。

(19) 府川和永(文献G―11)は、グレラン注についての動物実験結果を報告しているが、この報告については、後記第六章二2で検討する。

(20) 市川厚ら(文献K―7)は、ラットを用いた塩酸注射の実験結果を報告しているが、その要旨は、次のとおりである。

① 検査した筋線維の大部分は、傷害後にその全長にわたつて特徴ある壊死に陥り、筋核は完全に破壊されるが、付着した衛星細胞は薬剤の作用に抵抗し、傷害を受けないように見え、活性化されて再生過程で筋原細胞へ分化した。

② 活性化された衛星細胞のあるものは、元の筋線維に付着したまま残存し、変性過程の間、基底膜に沿つて伸長するが、他のものは間質組織の中へ移動して遊離細胞となり、再生過程で細胞分裂の像を呈することが多いように思える。

③ 再生の後期では、変性筋線維は細胞の索状物で置換される。それは、伸長した衛星細胞、貪食細胞、間質組織から浸潤した単核細胞等から成る。

④ 筋肉は、筋線維の多くが破壊されて全長にわたつて筋核を失つた時でさえも再生が可能である。

(21) 檜澤一夫(文献J―23)は、兎を用いた実験結果を報告しているが、その要旨は、次のとおりである。

① ネオフィリンM一回注射では、二日目に小壊死が起り、筋膜ないし腱分岐部では、薬液の拡散が結合織によつて防ぎ止められているような部分もある。七日後には、筋管のように長く伸びた筋線維芽が再生を示し、膠原線維の形成は少ない。

五回注射群では、肉芽形成は多いが、七日後には再生を示し、結合織増生は殆んど見られない。一〇回注射群では、二日目に広範に肉芽形成があり、一部に新壊死巣も見られたが七日後には再生小径筋線維群を見、線維化(瘢痕化)は見られなかつた。

② 0.75%酢酸注射では、二日後に小壊死巣が見られたが、五回注射群で七日に初期の線維化が見られたものの、五回注射群、一〇回注射群とも二週後には再生した。

③ 生理食塩水注射では、二日目にネオフィリンM注射及び酢酸注射の場合と同程度の壊死が見られたが、一〇回注射群でも七日後には再生が完了した。

(22) 厚生省研究班発生予防部会(文献F―46)は、動物実験結果の中間報告を発表している(なお、後記本章五1(四)(4)参照)。

この実験では、ラット及び兎で注射直後に傷害が認められたが、大半の例で回復を示した。

(二)(動物実験に対する評価)

以上に認定した各動物実験は、いずれもその目的、方法、判定基準等を異にするものであり、特に、方法については、文献上、必ずしも明確でないものが少なくない。従つて、これらを同一平面で単純比較することは、妥当でない。しかしながら、ここで検討すべきことは、注射によつて筋に壊死が生じ、これから瘢痕組織を形成する可能性が動物実験によつて裏付けられているか否かである。

そこで、その観点から、右各動物実験を比較検討すると、大部分の実験では、注射局所に筋の壊死または筋組織の崩壊が証明されており、これが認められないものでも多くが何らかの炎症反応を認めている。ただ、このような壊死等を生じた場合でもその圧倒的多数例は、筋の再生によつて正常に復していることが証明されており、逆に、筋の壊死から瘢痕形成(特に永続的なもの)を認めた実験例は少なく、更に、関節屈曲障害を惹起するに至つたものは、佐野ら(文献G―4)、西島(文献G―7)、伊藤ら(文献G―10)及び林ら(文献G―9)の僅か四実験例に過ぎない。

そして、この点に関連して、被告武田は、筋が壊死しても再生するのが原則であり、林らの実験結果は、短期間の観察に基づくものであるから重視すべきでない旨を主張しているので、この点について検討を加える。

(1) 動物における再生をヒトにおいてもパラレルに考えてよいか否かについての諸研究者の見解は、次のとおりである。

① 檜澤一夫は、乙B第七〇号証の二において、「一般に高等動物の方が下等動物に比べて再生能力は少ないという原則がある。」と述べている。

② 横山武らの「現代の病理学(総論)」(文献H―10)には、「一般には、再生という言葉は修復と同義に用いられることが多い。肝の部分的切除後の肝の再生といつても、イモリの尾が元通りの形に再生するような肉眼形態上の完全な回復は起らないのであつて、厳密には修復というべきものである。再生という言葉は、細胞を支えている枠組は障害されることなしに、細胞だけが、死んで抜けたあとに残つた同一の細胞が分裂して、抜け跡を埋めるというような微小なレベルで起る事柄にしか高等補乳動物では使えない言葉である。」と記載されている。

③ 佐野精司は、その実験報告(文献G―4)をめぐる討論の中で、「サルの筋注による実験で、光顕レベルではあるが、筋管等の出現は見られなかつた。従つて、筋拘縮の発生に際し、個体差、種属差のあることは、当然考えられることと思う。」と述べている。

これらの見解からは、動物における再生現象がそのままヒトにはあてはまらないことが示唆される。

(2) 西島の実験(文献G―7)では、注射後、一旦は拘縮を示しても約三か月を経過すると正常に復するⅢ型と全過程を通じて改善を示さないⅣ型のあることを明らかにしている。従つて、拘縮の程度の計測法のいかんによるある程度の偏差を考慮してもなお、相当長期間の観察を続けなければ永続的な拘縮発生の証明とは言えないことが考えられ、その意味では、林ら(文献G―9)の実験における注射後一八日の時点における観察は、必ずしも十分なものとは言えないかもしれない。しかし、その後の筋再生による回復が理論的に十分あり得る実験例であつても(伊藤らの実験では回復が報告されている・文献G―10)、一時的にせよ、注射による瘢痕形成と拘縮とが証明されたことは重要である。

(3) 結局、筋の再生の問題は、一般的にはその実験に供せられた動物の種属によつて異り、少くとも、家兎、ラット等の動物において、圧倒的多数に壊死からの筋の再生が認められている中で、壊死部が瘢痕組織または脂肪組織に置換されて関節屈曲障害を惹起した例のあることを重視すべきである。ただ、そのような瘢痕化等についての詳細なメカニズムは確定することができないが、この点の証明がなくても、条件関係の立証としては十分であると解するのが相当である。

また、ヒトの筋の再生力が実験動物よりも一般に低いとすれば、右認定の程度の拘縮発生例の存在する事実は、一層これを重視すべきであり、この拘縮発生の点をヒトに類推して考えることは可能である。けだし、拘縮を起した動物に与えられた損傷と比例する損傷がヒトの筋に加えられた場合には、仮りにそれによる筋壊死等の程度が実験動物のそれと比例するとしても、その壊死等からの筋の再生が動物よりも相当劣る可能性が十分に肯定され得るからである。

(三)(動物実験結果についてのまとめ)

次のように要約される。

(1) 注射剤の投与によつて注射部位を中心に筋が壊死または重大な損傷を受けることは十分あることが動物実験上証明されている。

(2) 筋が壊死した場合、その大半は筋の再生によつて正常に復するが、場合によつては、瘢痕組織または脂肪組織により壊死部が置換され、関節屈曲障害等を惹起するに至ることが動物実験上証明された。

(3) これらの結果をヒトの場合に類推することは、十分可能である。

5(本症発生機転についての説明の可能性)

以上1ないし4の各認定事実によれば、注射(注射剤と注射行為の両者を含む。)により、注射局所の筋肉組織等に壊死その他の重大な損傷が生じた場合に、本症と同様の関節障害を惹起するに足りる程度の瘢痕組織等が形成されることのあることが認められる。

しかし、これは、主として病理学的見地からの一般的な可能性を肯定できたに過ぎないので、次に、本章三1で認定した具体的な各症例が右一般的な可能性と符合するものとして、説明可能であるかを検討する。

(一)(諸研究者の見解)

(1) 村上寶久(文献F―17)は、「本症は注射薬剤の影響により筋の部分的壊死→瘢痕化(線維化)→拘縮発生という機序で起ることはまず問題ないものと考えられるが、そのほかにも筋の解剖学的構造の特殊性についても考えてみる必要がある。つまり筋の部位によつては構造的にみて容易に拘縮を発生しやすいのではないかと考えられるからである。たとえば三角筋を例にとつて考えてみると、この筋は一見扁平な縦走する筋線維束の集団と見えるが、実際には構造的にみて、その中央部(肩峰部)は多数の矢羽状となつており、その矢羽の各中心部は腱様組織となつている。従つて、これら矢羽状の筋線維の一部に変性(線維化)が起ればこの腱様組織と容易に癒合し、一塊となつて線維性の索状を形成しやすい。大腿直筋などの構造もこのような矢羽状となつており、筋の部分的変性から容易に線維性索状化を発生しやすいことが十分考えられる。とくに筋発達の未熟な新生児、乳児期にあつてはこの部分における筋注の影響はさらに大なるものであることがうかがわれる。」と述べており、証人宮田雄祐も同旨の見解を証言している。

(2) 証人森谷光夫は、「大腿四頭筋は起始部で筋肉から腱になつているが、その腱が一部筋肉へ入り込んでかなり中央くらいまである。腱が入り乱れているということで、それが筋肉注射によつて容易に線維性瘢痕組織になつたものがそれと結びついて全般的に拘縮をすることによつてそういう様相を示すのではないかと考えられる。大量皮下注射の場合では、全般的に筋膜から筋に対する栄養を障害するものであるから、非常に多く筋が障害を受けるということも考えられる。」と証言しており、甲第一号証によると、保坂武雄は、「大腿直筋の上の腱と下の腱との間の筋肉の線維の長さは乳児期では約二cm程度と思われ、腱と腱との直線距離は大体五mm以下と思われる。この部位に壊死を起すような注射をされると、上下の腱は、瘢痕で結びつけられ、一本の紐のようになつて拘縮する。」と述べている。

(3) 証人平林紀男は、次のように証言している。

① 筋の瘢痕化、線維化には、基本的には二つの筋道が考えられる。第一の「間質の線維化・瘢痕化」は、筋の間にある間質が増えて、そこの線維が増すことによつて、しかもその線維が瘢痕性に収縮することによつて筋そのものを締めつける効果も期待され、そのことは、一方では筋の変性・萎縮にも通ずる。第二の「筋の線維化・瘢痕化」では、目で見た範囲の筋肉が硬くなつてくる。筋実質自体が変性、壊死する結果としての瘢痕化である。

② 血管、神経が冒される結果、筋の変性、萎縮へつながることも考えられる。血管の場合は、それが動脈性の血栓であれば筋の変性、壊死、いわゆる栄養障害、阻血性の変化がくるであろうから、筋の線維化、瘢痕化へと行くと考えられる。神経の場合は、その神経が分担している筋肉への刺激がうまくいかなくなり、その筋肉の働きが悪くなつて、やがて筋肉が萎縮すると考えられる。

(4) 津山直一(文献F―29)は、「注射という行為自体が非生理的な現象であるから、正常の生体組織がそれによつて瘢痕化し、その程度によつては機能を障害することは筋肉注射を全面的に否定し、行なうことを避けない限り不可抗力的であるといえる。この場合、筋肉注射によつて筋組織に変化の起る原因としては、未熟児や幼若児の小さな筋に対して細い注射針であろうとも反復刺入すること自体、刺創をくりかえし与えることになり、それにより機械的損傷を起す可能性がある。それに加えて薬物の細胞毒性、PHや溶血性による筋細胞破壊の問題があり、薬物がたとえ生理的食塩水やリンゲル液のごとき無毒のものであつても、大量の液を筋中に急速に注入すると、筋は本来筋膜や筋鞘、筋間隔壁等の伸張性に乏しい結合織性の膜によつて包まれたコンパートメント内に存在するものであるために、筋内組織の膨化、筋全体としての容積の増加が液体注入により起るに比し、筋を包むコンパートメントは容積をひろげ得ないために、相対的に筋組織の内在が亢進し、筋肉の血管が圧迫せられ、筋内血行は不良となり、筋に阻血状態が起る可能性がある。これらの現象のために筋細胞自体が死滅するに至る。これが注射による筋の壊死である。注射を同一筋に反復する回数が多いほどこのような病変を起しやすいが、少数回の少量の薬液によつて筋に壊死が起り得る場合のあることも知られている。これは細胞毒性効果が激しく現れたほか筋中栄養血管に損傷が加わつて起ることも考えられる。細胞が死滅すれば核は正常の網目構造を失い均等に濃染するようになつたり、ばらばらに分裂したりするが結局核が消失してしまう。その結果、酵素が死滅した細胞自体に働いてそれ自体を消化溶解するようになる。このような自己溶解変化が起ると、その後には線維芽細胞が出現し、線維性瘢痕組織が本来の筋組織を置換するに至る。筋組織が破壊消失し、線維性瘢痕組織に変質してしまうと、神経筋接合部、それを介する電気的・化学的現象、その結果としての随意支配下の能動的収縮能のすべてが喪われ、筋は、単なる硬く被伸展性に乏しい線維瘢痕性索状物に過ぎなくなる。この線維性瘢痕組織はそれ自体が月日とともに次第に短縮しようとする傾向があり、更に幼若時にこの種の瘢痕組織を生じた場合には、骨成長の度合に応じて成長・伸展していかないために、関節に対する拘縮効果は逐年的に増悪するようになる。」と述べている。

(二)(投与後の注射液の帰趨)

(1) 前記各動物実験中には、(特に外国文献で)注入部位を確認するためにカーボン等を注射液の中に混入している例もあるが、この点が不明なものも少なくなく、投与後の注射液の帰趨については、必ずしも明らかでない。

(2) 証人赤石英は、「兎に造影剤注入後のレントゲン写真撮影を試みたが、その結果によると、個々の筋肉の筋膜内で注射液が拡散し、筋肉注射といつても必ずしも筋肉内に入るものばかりではないと思われる。」と証言している。

(3) 林ら(文献G―9)の実験では、「直筋内注射の確認は組織学的検索で確認」したとされており、方法論的に疑問もないわけではないが、実験動物全七六肢中、直筋内中に注入されたことが確認されたものは一六肢のみであつた。

(4) 根岸ら(文献A―51)は、「乳幼児の皮下大腿組織腔は比較的狭小で、この部へ誤つて筋肉注射のつもりで薬液を入れること、逆に皮下輸液のつもりが筋内輸液になること等が考えられる」と述べている。

(三) 以上の諸見解に前記本章三3の諸見解を併せると、同1で認定の本症の症例における病変及び同4で認定の動物実験における所見のいずれもが注射によつて惹起され得るものであることについての合理的な説明が与えられているものと考えられる。

ただ、本章三1(五)でも触れたとおり、注射による筋の壊死等から本症に至る経緯を単一の経路で統一的に説明することは不可能であり、また、一口に注射と言つても、一個の注射行為の中には、本症との関連で、注射針刺入、量、薬液の性状等の問題が不可分に並存し、複数回注射では、更に回数または頻度の問題があるところ、これら各要因の各々によつても瘢痕形成等の可能性を肯定する見解があることは、本章三3及び5で検討したところから明らかであるが、これら見解は、病理学等における一般的見解としての合理性は、これを肯定することができるにしても、これが現実の本症の病態に全面的に完全に妥当するとは限らない。即ち、刺入行為による物理的損傷、薬液の性状による化学的損傷等の諸要因は、そのうちの一つの要因が主たる要因となつているかもしれないし、複数のそれが主たる要因となつているかもしれないことが容易に予想されるのである。この点については後記本章四で各論的に更に検討を進めることとする。

(四)(説明可能性についてのまとめ)

前記第三章四及び本章三1で認定の所見の殆んどは、これまで判断してきた注射による一般的可能性の範囲内にあり、注射によつて惹起されたものとして合理的に説明可能であるが、その具体的内容は、症例毎に区々である。

6(消極的因果関係の検討)

これまでの検討結果によると、注射(注射剤及び注射行為の両者を含む。)があれば本症が発生することがあるという意味での注射と本症との条件関係は、認められるが、ここで問題とするのは、注射がない場合にも本症が発症し得るかどうかである。

即ち、右条件関係が認められても、他原因による本症発症の発生率が相当に大きい場合には、個々の具体的因果関係を個別的に検討しなければ、本症が具体的に注射に起因するものと推認することができず、逆に、本症の圧倒的多数が注射によるものとすれば、本症の罹患自体が、何らかの注射による発症を一層強く推定させることになるからである。

そこで、まず、注射がない場合の本症の発症率について考察し、次に、他原因例とされている事例をどのように考え評価すべきかについて検討することとする。

(一)(消極的条件関係)

仮りに、本症の主たる原因が注射以外にあるとすれば、注射使用の有無または注射使用頻度の増減によつて本症の発生率が変動することは少ないと考えてよい。逆に、注射の使用の有無または注射使用頻度の増減と本症の発症頻度との間に一定の平行関係が認められる場合には、他の因子が一定でないことについての反証のない限り、注射がなければ本症が発症しないという意味での消極的因果関係が一応推認されることになる。

(1) この後者の関係については、本章五3(六)でも触れるように昭和四八年ころに結成された自主検診団によつて検討が加えられ、日本小児科学会筋拘縮症委員会の「筋拘縮症に関する報告書」(文献A―99)でその結果がまとめられている。

この報告書で指摘されているのは、次の諸点である。

① 本症の多発施設での注射が激減すると、当該地域での集団発生がなくなるという事実がある(静岡県伊東市、福井県今立町、大阪府岸和田市、山梨県鰍沢町、京都府網野町等)。

② 国民皆保険の導入(昭和三六年四月一日)とともに本症が激増した傾向があるが、国民衛生白書を見ても、国民皆保険以後に注射を必要とする疾患が急増した事実がないのに、注射剤の生産高は、昭和三五年ころから上昇の傾向を示し、昭和四三年ころから急激な上昇を示した。本症の原因剤として注目されたスルピリン剤は、本症の大量発生が社会問題化すると、昭和五〇年には三分の一に生産高が減少し、クロラムフェニコールの生産高も昭和五〇年以降、大幅に減少した。

③ 山梨県における本症の集団発生の報告や、その後の日本小児科学会の「注射に関する提言Ⅰ及びⅡ」による啓蒙活動等によつて本症と注射の関係が広く知られるようになり、臨床における注射の使用が慎重になると、本症の発生が減少した。

(2) 米沢らの調査では、大阪府下の同一の保育園、幼稚園で、昭和四九年には受診者二、六六六名中、有症者が二八八名発見されたのに対し、昭和五五年には要観察が二名発見されたに止まつた(本章五3(五)・文献A―98)。しかも、昭和四九年の調査では注射既往歴を有するものが90.6%であつたのに対し、昭和五五年の調査では38.8%と減少していた。

右報告につき、米沢は、昭和五六年五月の第八四回日本小児科学会において参会者の質問に対し、「昭和四九年度に比べ、昭和五五年度の筋拘縮症患者が激減している理由は、明らかに注射を打たれた人が減少していること、注射を打たれた人の内でも注射本数の少ない人が多くなつていることから全体として注射が減つたことがその原因と考えます。くしくも、このことで筋拘縮症の原因が注射によることがますます明白になつたと思います。」と答えている。

また、兼次邦男ら(文献A―95)による山梨県富士川流域(但し、富士吉田及び都留を除く)における調査結果では、平均的な注射率の急激な減少と本症患者発生数の急激な減少との間に平行関係が見られると報告されている。

(3) 以上を総合すれば、少くとも大量観察的には、注射の不存在と本症との間の概括的な正の相関すなわち消極的条件関係は、一応推定することができると考えてよい。

(二)(他原因についての検討)

前記のとおり、本症については先天性等の注射以外の原因によるものとする症例報告も少なくない。また、前記第三章四1ないし46のとおり(各文献の詳細は、文献表Ⅱ表Aのとおりである。)、注射を原因とするものでも先天性素因を肯定する症例報告も少なくない。

そこで、これらの他原因例を検討し、特に注射既往歴の判然としない症例の存在をどのように考えるべきかを検討する。

(1) 本件証拠上、注射以外の原因によるもの、または、原因不明とされたものは、次のとおりである。

① 森崎の症例(症例1・文献F―1)。これは、手術所見が先天性筋性斜頸と類似していることから、先天性として報告されたものであるが、昭和二一年当時、研究室内においても原因が全く分らず、そのために、先天性例とされたもののようである。

なお、日本小児科学会筋拘縮症委員会の報告書(文献A―99)は、筋性斜頸自体、先天性と断定されたものではないとしている。従つて、この症例は、むしろ原因不明例とすべきであると思われる。

また、フェアバンクも筋性斜頸との類似性を指摘して、先天性例として一卵性双生児例を報告しているが(前記第三章四8(二))、後に、ロイド・ロバートは、フェアバンクの症例に大腿部注射既往のあることを明らかにしている(同15(三))。

② 丸毛らの症例(症例11・文献A―7)は、両親が血族結婚をしている例で、先天性とされているが、証拠上その根拠等の詳細は不明である。

③ 菅原らの症例(症例12・文献A―8)は、子宮内胎児異常による大腿直筋の発育障害を原因とする先天性例のようである。

④ 河井ら(文献A―9)は、注射以外の外傷、手術、炎症を原因とするもの五例(26.3%)のほか、先天性例二例(10.5%)を報告しているが、証拠上、先天性とされた根拠等は不明である。

⑤ 平川らは、三例(症例15、16、17・文献A―11)の原因不明例を報告している。

⑥ 保田ら(文献A―12)は、原因不明例を一例報告している。なお、保田らは、これと併せて三例の注射例を報告しており、このことからすると、注射既往歴等についての問診等の結果、結局、原因不明と判断したものと推測される。

⑦ 松波らは、二例(症例23、24・文献A―16)の先天性とも思われる原因不明例を報告している。根拠は、組織所見の特異性のようである。

⑧ 福島らは、一例(症例36・文献A―26)の原因不明例を報告している。この症例では、先天性形成不全が考えられたが、瘢痕性変化も疑われた。

⑨ 内海らは、一例(症例47・文献A―33)の原因不明例を報告している。

⑩ 木下ら(文献A―38)は、四例の先天性例を報告している。このうち、一例では筋の発生学的な異常が推定されているが、他の三例については、証拠上、その根拠等の詳細は不明である。

⑪ 前田ら(文献A―40)は、本症の一六例を報告しているが、その原因についてはいずれも留保し、特に一六例中の三例については全く注射歴がないことを指摘している。なお、注射歴が明らかなものは、一六例中一一例であつた。

⑫ 小林らは、一例(症例63・文献A―45)の先天性例を報告している。その根拠としては、大腿部の注射既往歴が全くないことが示されている。

⑬ 佐藤らは、一例(症例62・文献A―45)の先天性例を報告している。この症例は、組織所見から大腿直筋の先天性形成異常が推定されている。

⑭ 林(文献A―49)は、二例の先天性例を報告している。その根拠等の詳細は、証拠上、不明である。

⑮ 田坂ら(文献A―53)は、一例の原因不明例を報告している。

⑯ 大塚らは、二例(症例74の4、5・文献A―55)の原因不明例を報告している。この二例は、いずれも注射の既往が不明であつた。

⑰ 古屋らは、二組の双生児(症例79の1ないし4・文献A―58)を先天性例として報告している。その根拠として、大腿部に注射、外傷、炎症等の既往歴がないこと、大腿部皮膚に瘢痕、陥凹、局所的硬結が見られないことをあげている。

⑱ 中野らは、二例(症例89、90・文献A―68)の先天性例を報告している。この二例は、注射、外傷の既往がなく、筋が特異な二層構造をなし、炎症性所見は全く認められず、電顕所見でも異常がなかつたというもので、注射を原因とすることは極めて困難な症例である。おそらく、本件証拠上現われた症例中で最も先天性との説明に親しみ易い症例と思われる。ただ、佐野ら(文献G―4)の拘縮を起したカニクイザルでは炎症性細胞が全く認められなかつたことからすると、注射原因を全く否定することもできないと考えられる。

⑲ 三輪ら(文献A―74)は、本症の二六例中、注射既往を有するものは二二例であると報告しており、残りの四例は、注射既往が確定できなかつたものと推測される。

⑳ 水木ら(文献A―77)は、本症の六〇例中、注射歴が明確なものは、四四例であつたと報告しており、残りの一六例については、注射歴を確定できなかつたものと推測される。

阪本ら(文献A―78)は、本症の四二例中注射歴を有するものは三九例と報告しており、残りの三例については注射歴が確定できなかつたものと推測される。

赤松ら(文献A―79)は、本症の一二例一三肢中注射歴のないもの二肢と報告している。

山岡ら(文献A―80)は、本症の二〇例中注射原因一六例と報告している。従つて、残り四例は、原因が確定できなかつたものと推測される。

森田らは、二例(症例106、108・文献A―83)の注射既往不明例を報告している。

坂上ら(文献A―84)は、膝部外傷による一例と先天性股関節脱臼による一例を報告している。注射例一四例中三例は感染化膿によるものである。

山室らは、二例(症例112、113・実験A―87)の先天性兄妹例を報告しているが、その根拠とするところは、注射歴が全くないことのようである。

若松ら(文献A―93)による宮城県全学童生徒に対する調査結果では、本症の二四六名中、大腿部注射歴を有する者は一八三名に過ぎず、残りの六三名(25.6%)では、注射既往が判然としなかつた。

また、この調査結果で注目すべきことは、第一次調査で尻上り現象、正座困難及び跛行のいずれかが認められた者の合計は九二八名で、そのうち本症と診断された者は二四六名に過ぎなかつたこと並びに右の三症状のいずれもが認められた者では、先天性股関節脱臼後遺障害、脳性小児麻痺、火傷瘢痕、肥満、内反足、大腿骨骨折、外傷性膝障害等が多かつたことである。特に肥満及び外傷性膝障害では、尻上り現象が著明である。

ネフコフスキーは、先天性関節拘縮または先天性筋異栄養症(アルトログリポーシス)の一二例を報告している(前記第三章四8(一))。但し、ロイド・ロバートは、ネフコフスキーの症例中の四例に大腿部注射歴のあることを明らかにしている(同15(三))。

(2) このように、本症の外部的臨床症状を呈しながら、注射歴がないとか手術所見または病理組織所見が炎症像を示していないということ等を根拠として、注射以外の他原因による発症例とされたものが少なくないことは事実である。しかしながら、原因不明例の多くは、単に報告者である整形外科医が、患者の親に対する問診等により調査した範囲内では注射歴が判然としなかつたというのに過ぎないと考えられるものであり、また、先天性形成不全例等とされた例でも、例えばネフコフスキーの四症例及びフェアバンクの症例のように注射歴を有することが後から判明し、かつ、注射原因例としても説明可能な場合(ロイド・ロバート、文献E―6)もあり、更に、病理組織所見等で炎症像が見られない例でも、直接に血管が破壊された場合の阻血性変化その他注射原因として説明が不可能ではないと考えられる例も少なくないことは本章三5で検討したところからも十分に推測されるところである。従つて、若松ら(文献A―93)の調査結果で見られたように、本症に関する調査という明確な目的意識をもつた専門医らによる厳密な診断により、先天性股関節脱臼後遺症、脳性小児麻痺、肥満、内反足、骨折その他外傷等による疾患であるとして鑑別診断されたものを除いては、たとえ先天性例ないし原因不明例として報告されている例でも、注射原因の疑いを完全に払拭することができない。

(3) 右の諸点からして次のことが考えられる。

(イ) 原因不明等の例の大部分も単に注射歴が明らかでないに過ぎない可能性を否定できない。

(ロ) 注射歴が明らかな例でも、その明らかとなつている注射歴とは別の知られていないまたは忘れられた注射歴があり、その後者が原因となつて本症に罹患していたところへ前者の注射歴が加えられた例の存在する可能性もある。

(ハ) 注射以外の原因で本症に罹患していた者に単に注射歴が加えられたに過ぎない可能性もあり得る。

以上、三つの可能性を導くことができるが、このうち、第三の(ハ)については、前記第三章四及び本章五で認定のように特定地で大量に本症の集団的発生を惹起するような細菌感染または遺伝性要素等が昭和三〇年ころから昭和五〇年ころにかけて特発的に増加したことを認めるに足りる証拠はないことに鑑みると、(ハ)の可能性が仮りにあるとしても、その確率は非常に小さいものと考えてよい。また(イ)の可能性については、つとに笠井によつて指摘されていたところであるが(前記第三章四26)、若松らの調査結果では、それがある程度まで実証され(文献A―93)、注射歴の明らかになつている症例中でも、未熟児出産のために出産直後に大量の注射を受けた例(例えば、症例32・文献A―22)もあり、出産直後の注射が現実にあることを示している。このことから(ロ)についてもその可能性の十分にあることが推定される。何故なら、カルテの注射投与の記載または母親らの記憶が正確であつても、それは、それ以前の注射による発症の可能性を何ら否定するものでもないし、また、その可能性の不存在を何ら保証するものでもないからである。

従つて、これら原因不明例等を含めて本症が注射と条件関係にあると説明することは十分可能であるが、同時に明らかにされている注射既往が本症発症の原因とされた「注射」に該当しないこともあることを示唆するものである。

(4) 最後に、その発生の確率は少ないにしても、注射以外の原因によるものの存在の可能性であるが(なお、本症についての体質論に対する検討は、後記第四章四3で行なう。)、津山直一(文献F―29)は、「すべてが注射によるものでないことは明らかであるが、その比率からすれば先天性のものや注射以外によるものは極めて少数というべきである。大腿骨の骨折や大腿前面の軟部組織に受けた挫傷、開放創等が瘢痕を形成して同様の症状を起すことは当然考えられ、また大腿四頭筋の筋炎のような炎症性変化、化膿巣等により瘢痕化することもあるが、鑑別診断上は容易に区別できる。そのほか、アルトログリポーシスと呼ばれる疾患がある。これは、筋の個体発生が胎児期の幼若未分化な中胚葉性組織の段階で停止し、その後、収縮機能を営む筋線維組織にまで発育せずに線維性組織となつて生誕し、その後その状態のままにとどまるために、大腿四頭筋が短縮した線維性索状物となつてしまうものである。しかし、この疾患は、大腿四頭筋のみでなく、全身に多発性に筋短縮、関節拘縮を起すことが多く、発症例は極めて稀である。」と述べており、その可能性を否定できない。

(三)(消極的因果関係についてのまとめ)

(1) 大量観察的には、注射がなければ本症が発生しないという意味での消極的条件関係は高度の蓋然性があると言える。

(2) 本症患児または本症の諸症状を示す患者中には、外傷その他の注射以外の原因によるものが稀ではあるが存在する。しかし、これは、前記本章二2で判示の他の要因として考慮するに値するだけの十分な大きさを有していないと考えてよい。

(3) 原因不明例でも、新生児期等に大腿部に注射を受けている可能性が十分にある。従つて、原因不明であることは、直ちに先天性を推定するものではない。

(4) 判明している注射既往は、必ずしも本症の原因となつた注射とは限らない。

四検討(各論)

本章三で考察してきたとおり、本症の症例を検討することによつても大腿四頭筋拘縮症が注射により惹起されることのあることは、肯定できるところであるが、これは、一般的な結論に過ぎない。そこで、次に、どの注射剤によつて、どのような条件の下で、どの程度まで本症発症の可能性を肯定できるのかについて、主として筋肉注射の場合に限定して検討を加え、更に、前記第三章四の研究史及び本章五の昭和四九年以降の研究で度々議論の的となつている先天性素因等の問題について考える。

1(原因となる注射の特定)

前記本章三6(二)で触れたとおり、本症が注射によつて惹起されるとしても、その当該原因となる注射は、必ずしもカルテ、母親らの記憶等から明らかとなつている注射既往と一致するとは限らない。

即ち、本件に即して言えば、被告奥田が原告患児らに投与した注射については、後記認定のとおり投与の日時、その薬剤名が、被ママ告守孝を除いてはほぼ明確に認定できるのであるが、果してそこで認められる注射以外に本症の原因となる可能性のある注射はないかということが問題となるのである。

そこで、まず、患児の注射既往についての母親らの記憶の信頼性がどの程度に評価されるべきかを検討し、次に、これまでカルテその他から明らかになつている注射既往から本症が直接に発生し得る可能性をどの程度に評価すべきかを一般的に考察する。

(一) (母親等の記憶の信頼性)

(1) 注射、特に皮下注及び筋注が一般に激しい疼痛を伴うものであることは広く知られている(文献H―8)。従つて、注射により著しい疼痛が発現したような場合には、注射投与についての記憶が残りやすいと、一般的には言えても、その投与の回数、内容等まで詳細に記憶することは、一般的には期待できない。このことは、原告中村玲子本人尋問の結果からも明らかであり、また証人赤石英も母親の記憶に誤りがあつた事例を証言している。

(2) また、出産直後における注射等、一般的には母親らに覚知できない状況下で注射が行なわれる場合があることは前記本章三6で認定のとおりであり、このような場合には、特に医師からの説明等がない限り、そもそも記憶として残る前提を欠くことになる。

そして、若松ら(文献A―93)の報告では、出生時平均体重以下の小児では、このような場合が多いことが示唆されている。従つて、患児が出生時平均体重以下で、かつ、母親等の記憶によつてしか注射既往が推定できない場合には、この記憶のみで原因注射を特定することは危険である。

(3) この理は、前記第三章四で認定の各症例の注射既往にも妥当し、症例報告上の注射既往が単に母親等の記憶に基づく場合には、慎重な検討を要するものと考えられる。

(二) (特定の可能性)

(1) 一定の注射投与から本症が発症する経過が判明している場合、注射前に正常であつたものが、当該注射後障害を惹起したことが判明している場合等には、当該注射を原因注射として推定できることは明らかである。

そして、一般に幼児が歩行を開始する後と思われる一歳ころ以降に注射歴を有し、これが原因注射として考えられる唯一の注射既往である場合には、それ以前に障害が発現していた等の事情がない限り、この注射既往を原因注射と推測して差支えないと考えられる。

(2) 問題となるのは、本症患児の大部分が該当すると考えられる歩行開始するころ(満一歳前後ころ)以前に注射既往を有する場合(文献F―25)である。この場合、前記第二章三で判示のとおり、本症の症状が歩行障害その他の運動制限として現われるため、歩行開始前には罹患を発見することが比較的困難であり、従つて、注射時と罹患時との前後関係等を特定して認定することが困難であると考えられるからである。

ところで、前記第三章四及び本章五で認定する研究結果によると、本症の発症状況については、次の特長が指摘されている。

(イ) 注射の使用頻度(生産高)と本症の発生数とに平行関係があること。

(ロ) 一般に、頻回の注射既往を有する者に本症の発症率が高いこと。

(ハ) 本症が、特定医の下で集中して発生している例が少なくないこと。

しかし、後記本章四2(三)のとおり、本症の発生と注射回数との関係は、必ずしも実証されていないところである。この点からすると、ここでの検討は、(イ)及び(ロ)の指摘は余り考慮すべきでないことになり、従つて、(ハ)の指摘を重視すべきことになる。してみると、本症の患児が特定の医院において集中して発生しているような場合には、それが、患児らの歩行開始前の注射であつても、その当該医院における注射が本症の原因注射である蓋然性が非常に高いものと言うことができ、その他の場合においては、当該注射が本症の原因注射であると一応推定し得るに止まるものと解するのが相当である。

(三) (注射特定についてのまとめ)

(1) 本症の大部分は、注射により発症するものと考えられ、注射既往が明らかでなくても、その記憶が忘却した場合等が考えられることから、直ちに注射以外の原因で発症したとすることは妥当ではない。

(2) 注射歴のはつきりしている者については、特段の事情のない限り、明らかになつているその注射が原因となつて本症が発症したものと推定してよい。但し、特定医における集団発生例ではなく、かつ、判明している注射の回数が少ない場合には、この推定は働かない。

2(原因となる注射の内容の特定

右認定のとおり、本症の大多数は、注射(注射剤及び注射行為の両方を含む。)により発症するものと考えられ、しかも、注射既往として明らかになつている当該注射がその直接の原因となつている場合が多いと認められる。

そこで、進んで、注射の内容、即ち、注射行為(特に注射針の刺入)、注射剤(注射液の注入、注射剤成分による組織の破壊)等のうち、本症の発症に対する影響度が最も高いものは何か、そして、その相互の関係如何について検討を加える。

(一) (注射針刺入による影響の程度)

注射針刺入という機械的物理的刺激により注射部位に炎症を起し、壊死を起すことがあるとする医学薬学研究者の見解は先に前記本章三3で紹介したとおりである。

(1) しかるところ、前記第三章四で認定の各報告(詳細は文献表ⅡA参照)並びに後記本章五で触れる諸報告によると、本症患児の注射歴では、数本程度の比較的小本数のものも少なくない。このような場合、一般論としては、注射針刺入による影響の大小を速断することはできない。

また、多数回の注射歴を有する場合でも、注射針刺入により筋組織、血管、神経等の破壊の起る確率がそれだけ高まることは明らかであるが、それと同時に薬液の成分により破壊が起る確率も高まるのであるから、この場合にも注射針刺入による影響の程度を薬液による影響と対比して判断することは容易でない。

いずれにしても、単に注射回数が多いか少ないかという観点のみからでは、注射針刺入による組織障害の程度を判断することができない。

(2) 注射針の刺入による影響を最もよく判断できるのは、同一の注射剤で注射針の太さを異にして注射された事例のような場合であるが、このような症例は報告されていない。本症の症例上、注射針刺入の影響を比較判断し易いのは、特定の患者またはその集団において、例えば左右両大腿部に注射剤を左右で異にしたうえ、同一の注射針を用いてほぼ同数の注射をしたにも拘らず、片側にのみ発症している場合、または一定の注射剤のみを投与された者のみが発症している場合等である。このような事例では、注射針の刺入行為よりも、注射剤の影響が推測されるからである。

本件証拠上、この点について明らかになつているのは、被告奥田の患児らのみのようであるが、これは、グレラン注についての具体的検討と関連するので、後記第六章で検討する。

(3) 前記第四章三4の各動物実験結果からは、次の諸点が示唆される。

① 注射直後の組織所見では、薬剤の種類による差を認めなかつたもの(檜澤・文献J―28)もあるが、一般的には、薬剤の種類によるある程度の差が認められている。

この点については、注射針の太さ(ゲージ)、注射方法等の詳細が不明な報告例も少くなく、従つて、これらの実験報告を単純に比較することはできないが、少くとも、個々の実験例では注射針、注射方法等を一定にして実験が行なわれたと信頼してよいと解されるから、各実験動物群中の個々の実験動物における個体差等を考慮してもなお、注射直後における組織所見等の偏差は、注射針刺入による影響よりも注射剤成分の違いによる影響を窺わせるものと考えられる。

② 多くの実験例(一回注射)で、薬剤の違いにより、注射後の変化の違いが認められている(特に文献I―5、G―1、G―2)。最も軽いものは、数日を経ずして筋の再生が確認されているのに対し、再生等までに相当時間の経過を要するものも認められている。同様の傾向は、複数回注射例でも認められている(文献G―1、G―3、G―7、J―23等)。同注射回数群毎に薬剤の種類による経時的変化における偏差の出現が見られることは、注射針刺入の影響の大きくないことを示唆している。

(4) 一般に、注射針が血管または神経に直接当る確率は、そう高くないと考えられるが、この点について、証人赤石英は、注射による神経麻痺に関連して、むしろ、注射剤による影響を重視すべきである旨証言しており、また、注射による阻血性変化を示唆した証人西島雄一郎は、阻血の原因となる栄養動脈等の破壊は注射ではなく注射剤による変化に起因するものであろうとの見解を証言している。更に、神経の破壊による筋再生の阻害を考え、マウスに二三ゲージの注射針を用いて筋注する動物実験をした山村定光も注射剤による変化を示唆している(文献G―3)。

(5) 以上によれば、筋の壊死等の損傷、筋の再生、筋の線維化ないし瘢痕化、本症の発症等に対しては、注射針の刺入による影響はそれ程大きくなく、むしろ注射剤の影響を主として考慮に入れるべきことが認められる。

(二) (注射剤の種類による影響の程度)

(1) これまで認定したところによれば、注射既往が判明している場合でも当該注射(特に複数の注射の場合には、その中の特定の注射剤)が本症を惹起するという関係は必ずしも実証されておらず、前記第三章四のとおり、大量観察的には、本症患者がリンゲル等の大量皮下注射、抗生物質(特にクロラムフェニコール、ペニシリン等)、解熱剤(特にスルピリン)または抗ヒスタミン剤の筋肉注射を受けている場合が多いと言うことができるに止まる。

ただ、本症の原因注射としてあげられている各注射剤は、赤石(文献G―14)、松島(文献H―25)等の実験等により、リンゲル等を除き、いずれも溶血性が高いことが実証されている。

(2) また、多くの動物実験で、溶血性の強い注射剤が一般に強い筋障害性(組織障害性)を有すること、または、壊死からの筋の再生が遅いか不良であることが確認されている(本章三4)。

特に西島(文献G―7)の実験によれば、次の結果が出ている(詳細は文献表Ⅱ、G―7のとおり)。

① 赤石の方法による溶血性試験(以下、同じ)で溶血性は、リンコシン、スルピリン二五%及びNA、溶血性は、アクロマイシン及びスタフシリンV、溶血性は、クロロマイセチン・ゾル溶血性(−)は、ケフロジン、デカドロン、リンデロン及びリンゲル・ゾルであつた。

② 体重一kg当りの標準投与量の五倍量三回注射実験では、注射後一か月の時点で、拘縮発生率は、スルピリン二五%が一〇〇%、NAが一〇〇%、アクロマイシンが一〇〇%、スタフシリンVが四〇%、クロロマイセチン・ゾルが八〇%、ケフロジン、デカドロン及びリンデロンが〇%であつた。

③ 五倍量五回注射実験では、スルピリン二五%が八〇%、NAが八〇%、アクロマイシンが八〇%、スタフシリンVが一〇〇%、クロロマイセチン・ゾルが八〇%、ケフロジンが四〇%、リンデロンが二〇%、デカドロンが〇%であつた。

④ 五倍量一〇回注射実験では、スルピリン二五%が一〇〇%、NAが八〇%、アクロマイシンが一〇〇%、スタフシリンV(実験肢数一)が〇%、クロロマイセチン・ゾルが一〇〇%、ケフロジンが四〇%、リンデロンが四〇%、デカドロンが四〇であつた。

そして、西島の実験では、実験動物として白色家兎のみが用いられ、注射針も一定(二四ゲージ)であるから、同注射回数群中で変数となつているのは、溶血性のみであると言うことができる。従つて、少くとも、家兎においては、溶血性の程度と拘縮発生率との間に比例関係があると推認することができ、この関係は、これをそのままヒトにあてはめることはできないにしても、原則的にはヒトにも該当することが十分に考えられる。

また、赤石(文献F―14)も、動物実験で、一般に溶血性の強い注射剤では筋組織障害の程度が強いことを報告し(本章五4(一)(二))、証人として溶血性の薬液には必らず組織障害性が認められると証言しており、第八回口頭弁論期日における同人尋問調書に添付の写真によつても、溶血性の注射液を一回家兎に注射した三日後の筋組織には、肉眼でも観取できる著明な変性が顕れているのに対し、それが(−)及び(+)のものについては、そのような変性、組織変化は、少なくとも肉眼的には観察できないことが認められる。ただ、松島(文献G―2)によれば、定量的に厳密に溶血性を測定することは、現段階では不可能のようであり、赤石の右実験における方法についても全く批判がないわけでないことが証人赤石英の証言からも窺われるところであるが、松島も定性的かつ簡便な判別方法として赤石の溶血性試験がそれなりの有用性を持つことは認めているところである。なお、松島は、溶血性と組織障害性との間に平行関係は認められなかつたと報告しているのであるが、定量的な測定を不可能とする以上は、このような結論を出し得るはずがないので、この点の松島の見解は疑問であり、また、松島の実験データを詳細に検討すると、赤石の方法による溶血性、Hbによる溶血率及び培養細胞障害率のいずれもが高い二五%メチロン及びリンコシンでラットの組織障害が比較的大きいという結果が得られていることが認められるのであつて、この点からも、溶血性と組織障害性との間に平行関係がないとする松島の見解はその根拠が疑われるものである。

更に、一般的に、溶血性の強い注射剤が、一部例外があるにしても、組織障害性も強いことが、厚生省研究班でも明らかにされている(本章五1(四)(4))。

これに対し、薬剤のPH及び浸透圧と本症の発症率または筋障害発生率との関係については、赤石(文献F―14)松島(文献G―2)、西島(文献G―7)等の実験結果を綜合すると、必ずしも比例関係があるとは言えないことが認められる。

(3) 一方、〈証人〉の各証言、〈証拠〉、「注射の功罪」(乙D第一一号証)中の津山直一、赤石英の論稿(文献F―29、33)を綜合すると、次の各事実及び知見が認められる。

① 溶血現象は、血球の破壊による血球中の血色素の融出現象である。そして、血球も生体の基本的構成要素である蛋白質から成つているのであるから、溶血現象が生ずる場合には、蛋白質の破壊も生じていると考えてよい。

② 溶血現象が薬剤により惹起される機序は、大要二通り考えられる。即ち、浸透圧の差から血球が過大に膨脹し(低張液の場合)、物理的に血球が破裂、破壊されて血色素が血球外へ融出する場合及び浸透圧とは関係なく、薬剤の化学的性状によつて血球の蛋白質が破壊され、血色素が血球外へ融出する場合である。

後者の場合には、一般的に蛋白質に対する化学的破壊性が認められると考えてよい。従つて、このような性状を有する薬剤が生体内に注入されると、その破壊性の程度いかんによつては少量でも注入部位の筋細胞、血管、血管内の血球、神経細胞等いずれも蛋白質によつて構成される生体組織が破壊されることになる。

また、前者の場合、後者のような蛋白質破壊性を有していなくても、大量に低張液が生体内に注入されると、血球の破壊の場合と同様に生体細胞が物理的に破壊される可能性は否定できないが、一般に生体には生体内組織の浸透圧を平準化させようとする作用が帯有されているため、浸透圧による破壊の可能性は、少くとも生体内では比較的少ないと考えてよい(なお、高張液でも同様に考えられるが、高張液の場合には、それのみに起因する溶血現象は現われない。)。

以上のとおり認められる。してみると、溶血性と言つても、その厳密な内容は必ずしも一義的に明確とは言えないにしても、少くとも化学的破壊性を主体とする溶血性を帯有する注射剤が大腿部に注入された場合、この化学的破壊性に起因して筋の壊死等から本症の症状が生ずることは十分に推測されるところである。

即ち、前記本章三5(三)で判示のとおり、この化学的破壊によつて、皮膚、皮下組織、筋膜、腱、筋、血管、神経等に壊死が生じ(血管の壊死、血栓の形成等による阻血現象から二次的に他の組織が壊死する場合もある)、壊死部に瘢痕化、脂肪組織による置換等が惹起され、このような病変自体または病変部と健常組織との癒着等によつて、前記第三章二2で認定の本症の諸症状が発現する可能性が十分に推測されるのである。

なお、前記本章三1で認定の本症の症例における組織所見等の殆んどが、化学的破壊性を主体とする溶血性を有する注射剤による組織障害の結果としても合理的に説明できることは、此迄判示してきたところから明らかである。

(三) (注射回数または頻度による影響の程度)

(1) 本症の症例報告で、注射回数と本症の発症頻度等に着目したもののうち、主要な報告は、次のとおりである。

① 症例20(文献A―14)

リンゲル約一〇回大腿前面注射

② 症例39(文献A―36)

リンゲル液皮下注射・約一年間に合計一〇〇回以上

③ 症例50(文献A―37)

生理食塩水大腿皮下注射合計約一〇回

④ 症例45(文献A―39)

筋肉注射(一ないし二ml)数回

⑤ 症例46(文献A―39)

筋肉注射約一週間(合計五〇ないし一〇〇ml)

⑥ 症例66の3、66の4、66の5、66の6(文献A―52)

大腿部に頻回の注射

⑦ 症例76(文献A―56)

筋肉注射数回

⑧ 症例83の2(文献A―60)

両大腿前面に数十本の注射と輸液

⑨ 症例83の3(文献A―60)

両大腿前面にリンゲル液注射十数本

⑩ 症例91(文献A―68)

保育器に入つている間、リポクタン一五本、アナボ一九本、レチゾールH五本、プリモボランデポー一〇〇mg一本(合計四〇本)

⑪ 症例73の1ないし31(文献A―73、但し症例報告の一部については省略)

最低四本・最高八四本(平均三四本

⑫ 症例105(文献A―83)

両大腿前面に頻回注射

⑬ 症例107(文献A―83)

両大腿に頻回注射

⑭ 症例109の1(文献A―84)

一週間(毎日)両大腿前面に抗生物質注射

⑮ 症例109の2(文献A―84)

一週間(毎日)大腿部注射

⑯ 症例109の3(文献A―84)

保育器に入つていた一〇〇日間に両大腿に毎日注射、一歳ころ数回両大腿に皮下点滴

⑰ 症例111の1(文献A―86)

抗生物質、ピリン系等の注射頻回

(2) 本症の集団検診等の調査結果のうち、注射回数と本症の発症率との関係に関する部分は、次のとおりである。

① 亀山ら(後記本章五3(一))の調査結果では、注射本数が多いほど本症の発症が多く、注射歴を全く有しない患児は発見されなかつた。

② 斉藤彰博ら(同五6(一))も亀山らと同様の調査結果を報告している。

③ 荻原博嗣ら(同五6(四))は、注射本数の多い者に重症者が多いことを示しながらも、一〇本以下でも重症例があることを指摘している。

④ 厚生省研究班発生予防部会の中間報告(同五1(四))では、岩見沢市の調査結果に関する限り、注射回数と本症の発生との間に関連がない旨の指摘をしている。

⑤ 鯖江市医師会等における調査結果(文献A―73)では、同一医院における本症患児の注射本数が非患児よりも多いことを指摘している。

(3) 以上が本件証拠上現われた症例報告及び集団検診結果等のうちの主要なものであり、この他一般的に注射回数の多い程本症罹患の可能性が高いとする見解が少なくない。しかし次の諸点に鑑みると、これら報告等から直ちに注射回数と本症の罹患とにそれ程明確な比例関係があるとは認め難い。即ち、

① 注射回数等に関する調査結果等は、いずれも概括的に注射総本数を単純比較しているもののようであるが各患児の罹患時期が確定されていなければ、その注射回数の意味が明らかとならないところ(罹患前の注射は主として発症要因、罹患後の注射は主として増悪要因または再生阻害要因と考えるのが合理的である。)、この罹患時期が明らかにされていない。

② 前記本章三で認定のとおり、筋は破壊されても再生するのが原則であるから、ある注射が行なわれた後、注射局所に損傷が生じても、これが再生により治癒した後に次の注射が行なわれ、その後に本症が発症している場合には、治癒後の注射を一回目として計算すべきであるところ、右のとおり本症罹患時期が明らかとなつておらず、その意味でも単純な注射総本数の比較のみで一定の結論を出すことは相当でない。

③ 前記調査結果等がいずれも注射総本数の単純比較を行なつている原因は、発症時期の確定が極めて困難なことに加え、調査前から総注射合計により本症に罹患するとの前提が採られていたためと思われるが、そうだとすると、注射回数の調査によつて得られるべき結論が先取りされていることになり、調査としては適正を欠くことになる。この問題を回避するためには、一定の地域内に生活する同数の注射既往を有する者同志の比較により本症の罹患率の多寡を検討することが、完全でないとしても、とりうる方法としては、より妥当な方法である。この観点を考慮した調査が行なわれたのは、本件証拠上、厚生省研究班による岩見沢市における調査(文献F―37)のみのようであるが、その結果は、六〇例のカルテ分析では、正常者二四名の平均注射回数6.5回、要手術の本症患者二八名の平均注射回数7.2回等となつており、差がないとの結論が示され、このため、体質的素因もあるとされた。そして、他の調査においても正常者の注射回数の調査がされていれば、同様の結果が得られた可能性が全くないとは言えず、後に認定のとおり(第六章二5)被告奥田のところで、原告患児らと同じ程度に注射を受けたと思われる二六六名のうち本症に罹患したものは三〇名弱に過ぎないことが明らかとなつている。

結局、右厚生省研究班の調査以外の調査結果では、単に、調査対象者には注射総本数の多い者が多いとの結果しか得られないことになり、従つて、注射回数と本症罹患との関係を明確にするには、他の動物実験や病理学的検討を加えねばならず、これらによつて注射回数と本症罹患とに比例関係が裏付けられて初めて、それら調査結果等もある程度の合理性を認められることにもなるものと考えられる。

(4) そこで、比較的詳細なデータを発表している西島の実験結果(文献G―7)について、この観点からの検討を加えることとする。

この点に関する西島の実験結果の要旨は、次のとおりである(内容の詳細は文献表Ⅱ表G―7に記載のとおり。)。

① 完全拘縮(Ⅳ型)例は、四例で、その内訳は、アクロマイシン二〇〇mg一〇回注射一例、同五回注射一例、クロロマイセチン・ゾル五〇〇mg五回注射一例及びスルピリン二五%一〇回注射一例であつた。

② 一時的な拘縮例(Ⅱ型及びⅢ型)を含めた拘縮発症率は、溶血性陽性薬剤筋注群では、各薬剤毎に、三回、五回及び一〇回注射で差が僅かである。溶血性陰性薬剤筋注群では、回数の増加と拘縮発生率との間に平行関係が見られる。

また、前記厚生省研究班の実験結果でも、注射の種類によつて、回数の増加が局所反応の大きさに影響を受ける場合と受けない場合とがあることを示している。

即ち、ラットを用いて薬剤の一回注射と三日間に七回連続注射との比較が行なわれた。その結果、一回注射より連続七回注射の方が反応が強いこと、三%塩酸ジフェンヒドラミン注射剤の作用が特に強いこと、スルピリン注射剤とクロラムフェニコール・ゾルの併用により反応が増強されること、臭化ブチルスコポラミン注射剤の障害性は弱いことが明らかになつた。スルピリン注射剤と臭化ブチルスコポラミン注射剤を一日二回一〇日間同一場所に連続注射したが、三日間に七回連続注射した場合に比べて反応は特に強くならず、注射終了後九六時間でかなりの回復の傾向を示した。

右各実験結果からは、少数回注射でも拘縮を発生させるものと多数回の連用によつて拘縮が発生するものとがあり、溶血性陽性注射剤は前者に属し、陰性注射剤は後者に属すること、従つて、注射剤毎に注射回数と本症発症頻度との関係を検討する必要があり、この点を無視した単純な注射総本数の比較は意味を持たないこと、実験動物(家兎)の筋の再生力がヒトのそれよりも大きいと考えられるにも拘らず、溶血性の強い注射剤ではわずか三回注射で拘縮が発生し、五回注射以上では完全拘縮(Ⅳ型)となり得ることからすると、人においては、五回未満でも本症が発症する可能性が少なくなく、従つて溶血性陽性注射剤に関する限り、一時的な拘縮も含めると、拘縮の発生自体に対する注射回数の影響は比較的少ないとみる方が妥当であることが示唆される。

(5) そこで、逆に一回注射で本症の発症をみることがあるか否かについて検討すると、文献上は、第三章四18のイルガピリン一本で弾撥股を発症したとの報告(文献C―1)と松本文六(文献F―26)が報告している福岡市における自主検診団の集団検診で、一本注射の既往を有する者九名中一名が本症罹患と診断された例があるに過ぎない。しかし、これまで発表されている症例報告では、複数回注射の過程で、ある時期までは正常であつた者が、特定のどの注射後に本症に罹患したのかを明確にすることはできないことから、これらの諸報告だけからはこの点を確定することはできない。

その一方、証人久永直見の証言、甲第三二五号証によると、新生児期に山之内製薬製のタチオン二〇〇mgを一本打つただけで本症に罹患した事例ほか一例の一本発症例のあること、また、甲第二号証によると関寛之らは、一五九二例の注射本数別発症率に関し、一本ないし五本で発症したものが一〇%強あることを報告していることがそれぞれ認められる。また、文献F―14によれば、赤石英は、某医師の下における集団発生例で、注射本数二本が二例、四本一例、六本二例、症度別では重症者の下限四本、中等症者の下限二本、軽症者の下限六本と報告していることが、乙B第七四号証の四の二〇によれば、国立療養所西多賀病院の保坂武雄は、第四八回日本整形外科学会において「一回の注射でも拘縮の可能性はあり、回数が増せばその可能性が増加するのは当然である。」と発言していることがそれぞれ認められる。

動物実験結果では、ある程度の資料が得られており、林ら(文献G―9)及び伊藤位一ら(文献G―10)の各動物実験では、一本注射により一時的にせよ、筋拘縮の発生が証明されている。但し、伊藤らの実験例は、いずれもその後筋の再生が行なわれて拘縮が覚知できなくなつている。しかしながら、ヒトの筋の再生力が動物よりも劣ることを考えると、右各実験結果は重要であり、ヒトでは、極めて少ない注射回数で本症が発症し継続する可能性を示唆するのに十分である。

(6) 以上の諸点を綜合して考えれば、溶血性の強い注射剤では、一回注射を含む少数回注射により本症が発症する可能性のあることが認められる。そこで進んで、注射回数による影響を全く無視してよいか否かについて検討する。

(イ) まず、一回注射でも本症が発症し得るがゆえに回数が問題となることがあると考えられる。

即ち、一回注射で本症が発症することがあるということは必ずしも一回注射で常に本症に罹患するものであることを意味しないのであるから、注射の回数が多ければその中の一回注射で本症が発症する確率が高まることは自明である。

また、一回注射で惹起された組織障害が常に永続的なものとは限らずその後再生等によつて治癒する可能性を否定することはできないのであるから、治癒後の再罹患の可能性を高めるという意味で注射回数が多ければ本症の罹患の確率が高まることも自明である。このことは、罹患後に再生途上にある筋に対する複数注射の影響についても当然該当する。

(ロ) 問題となるのは、複数注射による累積的効果である。

前記本章三4で認定の各動物実験結果等によれば、注射剤の注入によつて注射局所に一定範囲の組織損傷が生ずることが認められており、従つて、全く同一部位に連続して注射液の注入が行なわれた場合に損傷の程度が増すことは容易に推測され、また、同一部位でなくても近接して注射液が連続注射された場合に損傷範囲が拡大することも容易に推測され、動物実験上も、このことがある程度まで実証されていると考えられる。即ち、山村(文献G―3・前記本章三4(一)(11))は、再度の注射により再生途上の筋管の破壊を観察しており、檜澤(文献J―23・前記本章三4(一)(20))は、再度注射部位に従来の壊死性変化に加えて新たな小壊死部が生じていることを観察している。そして、坪田ら(文献A―54①)は、本症患児にも同様な組織所見の見られたことを報告している(前記本章三1(一)(12))。

してみると、複数回注射(特に連用)は、一面において組織損傷の範囲・程度を増加させるという意味で、他面において筋の再生を阻害するという意味で、一般的に本症の発症の確率を高めるものであると認めることができる。そして、前記のとおり、溶血性の強い注射では少数回注射で拘縮が現われるのに対し、溶血性の弱い注射では注射回数と拘縮の発症とに比例関係の認められることも、注射によつて惹起される損傷の程度に鑑みると、右のことを裏付けているものと考えることができる。

但し、単純な滞留時間の累積の可能性について検討すると、乙B第七二号証の三の九によれば、筋肉注射の場合、遅くとも三〇分以内には吸収が終ることが認められるから、右の可能性は、比較的少ないと考えるのが合理的である。

(ハ) 以上のように、一般的には、注射回数の多いことが本症の罹患及びその永続化(不可逆的変化)の生ずる確率を高めるものと推測されるのであるが、ただ、溶血性の強い注射剤については、一回注射を含む少数回の注射で完全拘縮を惹起させる可能性を否定できないのであるから、大腿組織に不可逆的変化が生じた後の注射は本症の発症及びその程度に対して影響を与えないという意味で、注射回数の多いことは本症発症の必要条件にも十分条件にもなつていないと言わざるをえない。

(7) なお、証人赤石英は、一回注射での本症発症は考えられない旨証言するが、同証言は、この点につき必らずしも充分に検討した結果に基づくものとは認められない。また、桜井実は乙B第七四号証の一、二、三において、一本注射で本症が発症したとの症例報告について知つてはいるが、理論的にも臨床経験からも、そのようなことは認められないとして、前記林らの実験結果についても否定的見解を述べており、その供述内容には耳を傾けるべき点もあるとはいえ、これらの見解だけでは前記の結論を左右することはできない。

(四) (注射量による影響の程度)

一般に大量の注射剤が注入された場合に、その注射剤が組織障害性を有するものであるとすれば、その注入量によつて損傷される組織の範囲及び程度が拡大増加することはこれ迄認定の各事実に照し、容易に推測されるところである。また、各文献にも注射薬剤の過量注入が本症の発症要因の一つであると指摘するものも多い。例えば坪田ら(文献A―54①)は、本症の発症機序として、まず、注射剤の相対的過量注入をあげ、これが薬液の長時間停留となり、それだけ組織を障害する結果になる旨説明しており、注射が筋に及ぼす影響について実験的研究を行なつた阪本(文献G―1)は線維化と筋線維の萎縮及び退行変性は注射の量、回数と比例するとしたうえ、筋に過量の薬剤が注入された場合には組織間隙の粗な部分に薬剤が滞留し、そのために同部での線維増生が強いのではないかと考えると述べている。また甲第二一〇号証の三、四(証人宮田雄祐)によると、クロラムフェニコールとスルピリンの混注五倍量が一倍量よりはるかに筋組織障害の強いことが看取できる。

しかし、このことは、標準投与量による本症発症を当然に否定するものではない。そこで、このような過量注入が本症発症の不可欠の要因であるか否かを検討する。

(1) 前記西島の実験報告(文献G―7)によると、次の各結果が得られている。

(イ) 正常型(Ⅰ型)はケフロジン標準投与群、ステロイド標準投与群に多く、早期改善型(Ⅱ型)はリンゲル皮下注群とステロイド投与群及びケフロジン投与群の大部分等に多く、全体の三五%であり、改善型(Ⅲ型)は溶血性の強い注射剤投与群がこれに属し、全体の49.1%であつた。拘縮型(Ⅳ型)は、いずれも溶血性の強い注射剤投与群である。

(ロ) Ⅳ型は、いずれも五倍量投与群に属し、標準量投与群ではⅣ型例はない。内訳は、アクロマイシン(溶血性)一〇回注射例一、同五回注射例一、CP(溶血性)五回注射例一、スルピリン(溶血性)一〇回注射例一の合計四例である。

(ハ) Ⅲ型については、溶血性陽性注射剤では、標準量投与群と五倍投与群とで差がないが、溶血性陰性注射剤では、明らかに五倍量投与群で多く発生が見られる。

(ニ) Ⅱ型では、デカドロン及びリンデロンは、五倍量投与群で発生し、標準量投与群では発生しないという関係が見られるが、その余の注射剤(但し、リンゲルを除く。)では、逆に、標準量投与群の方で五倍量投与群よりも多く発生が見られる。

従つて、少くとも溶血性の強い注射剤では、五倍量を投与するとⅢ型以上の症型を呈するものが大部分である(そのために、Ⅱ型例数が少ない。)と考えられる。

以上からすると、溶血性陽性の注射群においては、注射量に関係なく大部分がⅢ型の症型を呈し、五倍量投与群ではⅣ型に達しているのであるから、最も強度の障害発生に関する限りで注射量による影響が認められるが、右Ⅲ型程度ではこの影響は少なく、溶血性陰性の注射群においては、全体として注射量が多いほど発症率及び症状の程度が高まるという関係が認められるにとどまる。

(2) 原告守孝を除くその余の原告ら患児は後記認定のとおり、全員が被告奥田のもとで右大腿部にもペニシリン、パラキシンの各注射を受けており、その回数も左大腿部注射と左程大きな差異はないところ、鑑定によると、原告隆仁、同守孝、同和樹の三人は昭和五八年四月二日の時点で右下肢に障害のあることが認められるほか、原告正文、同裕一も右鑑定時以前に右下肢に障害のあつたことは後記第五章で認定のとおりである。

ところで、原告ら患児に対するペニシリン、パラキシンの注射量は別紙各注射状況表のとおりであるが、〈証拠〉によると、これらの注射量は小児にとつてそれ程過量というものでなく、標準投与量かこれを若干上廻る程度に止まつていることが認められる。このことは、標準量あるいはこれを少々超える量でも下肢に機能障害をもたらす可能性のあることを実証している。もつとも、右患児らの右大腿部障害は左のそれに較べかなり軽微であることが、鑑定やあるいは既に治癒している事実から認められるが、証人赤石英の証言によれば、ペニシリン、パラキシンの溶血性はグレラン注のそれよりはるかに低い(±)であると認められることからすれば、このことは十分説明のつくところである。

(3) 以上の事実のみから、この点につき断定的な結論を出すことは極めて困難であるが、一般的には注射量の多いことが本症の発症並びに障害度を増悪させる確率を高めることは優に推測できる一方、少なくとも、溶血性の強い注射剤に関する限り、添付文書で指示の標準投与量ないしはこれを若干超える程度の量(しかも、前記のとおり極めて少ない注射回数)でも本症を惹起させる可能性のあることを全面的に否定することも相当でない。従つて、本症発症のためには、一般的に右標準量より常に大巾に過量でなければならないとの結論を導き出すことはできないと考えられ、この限りで、注射量が多いことは本症の発症の必要条件であるとは言えない。ただ、西島の実験でもⅣ型の発生は五倍量投与群にのみ認められていることからすると、完全に拘縮に至る程度の重大な大腿部組織の損傷が惹起されるためには一回当りの注射量が標準量よりも多いことが少なくとも十分条件となつているものと推認される。もつとも、ヒトにおける筋の再生力が家兎よりも劣ると考えられることからすると、西島の実験において、溶血性陽性注射剤の標準量投与で多く生じたⅢ型がヒトではⅣ型となる可能性は十分に考えられ、その意味では、注射量の多いことがⅣ型発症の必要条件となつていることまでは推認することができないと考えられる。

なお、ヒトにおいて西島のⅢ型及びⅣ型に相当する症例が存在するか否かについて検討を加えると、本章三1で認定の本症の症例における組織所見からは、現実に線維化ないし瘢痕化の優位する類型に属するものと脂肪組織による置換が著明な類型に属するものとが存在していることが認められ、また、同5で検討した結果に従えば、病理学的知見等の上でも、理論上、ヒトにおいても西島のⅢ型及びⅣ型が存在することを合理的に推測できるところである。

(4) ちなみに、乙C第七号証によれば、西島の実験(文献G―7)における家兎のⅡ型が正常に復するまでの一か月は、ヒトにおける約三年三か月に、Ⅲ型が正常に復するまでの三か月は、ヒトにおける約九年八か月に相当することが認められ、仮りにヒトにおいて家兎のⅡ型またはⅢ型例が存在するとしても、前者については注射後約三年経過までは、後者については注射後約九年まではいずれも完全拘縮例(家兎におけるⅣ型例)として扱われるであろうことが容易に想像されるところである。

(五) (注射内容特定についてのまとめ)

(1) 本症の発症に関し、注射針の刺入行為による組織の損傷はそれ程重視する必要はない。

(2) 本症の発症率は、溶血性陰性の注射剤では、注射回数及び注射量と比例関係にあるが、溶血性陽性の注射剤については、注射量との相関関係は必らずしも明確でないが、標準投与量により常に絶対的に過量でなければならないとは言い切れない。回数に関する限りは一回注射を含む比較的小本数でも本症を発症させる可能性を否定できない。

(3) 溶血性陽性の注射剤に関しては、この溶血性が本症発症の最も大きな要因となつている。

3(体質論等について)

前記第三章四のとおり、本症に関しては、その発症の要因または増悪要因等として、体質の関与を示唆する見解も少なくない。

そこで、体質論と呼ばれる見解中の主要なものに検討を加えることとする。

(一) (体質発生要因説)

本症の発生について、体質がその要因として主張される場合、その論拠としては、日本中で何万人もの小児が多数の注射を投与されていながら、全体からするとほんの僅かの者にしか本症が発症していないことがあげられることが多い。

しかし、本症が注射投与をうけた者の中のごく少数の者にしか発生していないということ自体は、筋が損傷を受けても再生により治癒するのが原則であることから、その損傷の規模、部位等の悪条件の重なりの程度の度合としても説明が可能であるから、体質をその条件の中の一つとして考慮するのはともかく、これを除外しても本症発症の説明は不可能ではない。

なお、厚生省研究班の「中間報告」(文献F―37)では、体質的素因の関与の可能性を示唆しているが、この点について、同研究班発生予防部会長であつた証人堀誠は、右の報告書の記載は、患者が栄養失調または未熟児新生の場合のような個体差を想定するものであると証言している。

(二) (ケロイド体質)

「注射の功罪」(文献F―30)では、本症患児にケロイド体質の者が多いことを示唆しており、また、本症の手術後にケロイド様手術痕が残ることが問題とされていることは前記第三章四のとおりである。

このように、一定の割合でケロイド体質を有する者があり、これが筋の損傷から瘢痕化への媒介要因となることは考えられないわけではない。しかし、このようなことがあるとしても、ケロイド体質を有する者がそのような体質のみに由来して本症に罹患することがあることを認めるに足りる証拠はなく、証人高橋晄正は、本症とケロイド体質とは比例関係がない旨証言し、証人赤石英もケロイド体質のものは注射による障害を受け易いかもしれないが、同体質保有者はごく稀であり、これでは本症の集団発生を説明できないと証言している。

いずれにしても、本件証拠上、この点に着目した統計調査等はなく、従つて、結局、ケロイド体質と本症との間に有意の関係を認めることはできない。

(三) (増悪要因論)

筋の再生を不良または不能ならしめる程度に瘢痕形成を促進するものとして、換言すれば、増悪要因として体質の関与する可能性も当然には否定できない。

しかし、仮りにこの可能性が認められるとしても、注射と本症の条件関係は否定されることにはならない。ただ、体質の関与が大きければ、体質を本症発症の必要条件として考慮しなければならないと考えられるが、この関与が大きいことを認めるに足りる証拠もないから、体質を本症発生の必要条件と考えることはできない。

五昭和四九年以降の研究調査等

昭和四八年山梨県鰍沢町における本症の集団発生が公になつて以後、厚生省、日本整形外科学会、日本小児科学会の専門家集団あるいは個々の研究者による研究調査が活発に行なわれたが、それらのうち、本症と注射との関係に触れている部分の要旨は次のとおりである。

1(厚生省研究班)

証人堀誠の証言によると、次の各事実が認められる。

(一) 昭和四九年五月、厚生省は、本症の診断基準と診療方法の研究を目的として、大腿四頭筋拘縮症に関する研究班(班長佐藤孝三・以下、佐藤班という。)を発足させ、更に、同年九月、大腿四頭筋拘縮症の発生予防と治療に関する研究班(班長堀誠・以下、堀班という。)を発足させた。昭和五〇年五月、佐藤班と堀班は、筋拘縮症研究班(以下、原生省研究班という。)に統合されたが、この厚生省研究班には、発生予防部会、診断治療部会及びリハビリテーション部会(後に発生予防部会と診断治療部会の二つに統合)の三部会が設けられた。

(二) 昭和四九年九月、佐藤班は、本症に関するアンケート調査を実施し、この調査結果を、第四八回日本整形外科学会において発表した(文献F―15)が、調査結果の要旨は次のとおりである。

① 調査対象は、指定育成医療機関のうち、整形外科に関する医療担当機関九四八、指定されていないが整形外科を標榜する二五〇床以上の病院六八、その他の病院二一、合計一、〇三七個所である。昭和四九年一二月三一日までに二五五個所(24.5%)から返信を受けた。患者総数は二、四〇四名。

② 男女比は一、四一九名(五九%)対九八五名(四一%)、罹患側は、両側九二八名(38.6%)、片側一、一六〇名(48.1%)で三一六名(13.1%)は左右別不明。

③ 大腿部注射の有無は、有一、八三二名(七六%)、無七〇名(三%)、不明五〇二名(二〇%)。

④ 手術を受けた者九七八名(40.6%)、両側一六七名(一七%)、片側八〇五名(八二%)。

⑤ 手術後の改善度、有効七二%、無効一一%、不明一八%である。

(三) 同年一〇月、佐藤班は報告書(文献F―13)を発表したが、ここで述べられている本症の原因は、次のとおりである。

(1) 筋に変性と瘢痕化を生ずる原因については、新生児期からの観察がないので判然としないが、一応先天性と後天性の二つの原因が考えられている。

(2)① 先天性原因としては、本症の筋変化が先天性筋性斜頸のそれと似ていることから類推して、出産期における筋外傷あるいは筋阻血を原因に考えることができる。その場合にどのような機序がはたらいているかは分らないが、何らかの外力がはたらいているのであろう。

但し、その外力の大きさとは別に、筋あるいは血管自体の先天的脆弱性が存在することも考えられるし、変性に陥つた筋が瘢痕化する時の瘢痕量の多寡にも先天的素質による個人差があるから、同じような出産であつてもあるものは発症し、あるものは発症しないですむということになろう。認むべき外傷や大腿部注射の既往歴のない患児があることは、このような先天的原因を考えさせるし、そのような報告例もある。

② 筋の変性はいろいろの原因で起るが、はつきりした外傷や化膿性筋炎を別にすれば、注射による筋傷害が大きく浮び上つてくる。これまでの報告例でも、大腿部注射の既往歴を有するものが多い。ただ、先天性原因によるものに注射が加わつている場合も考えられるので、注射の既往歴があればすべて注射が原因であると断定することは難しい。

注射による本症の成立には、薬剤の種類、量、頻度、部位、先天性素因等が複雑に関与しているようである。同じ注射をしても同じ結果を生ずるものではない。

(四) 昭和五二年五月、発生予防部会は、研究報告(中間報告)を発表した(文献F―37)が、その要旨は、次のとおりである。

(1) (三角筋拘縮症の疫学調査)

筋拘縮症の発生要因、予防のための具体的方法を知ることを目的とし、症例が多く発見されている地域を選んで疫学調査を行なつた。

① 北海道岩見沢地区において三角筋拘縮症が比較的多数発見されているとの情報に基づき、当地医師会の協力を得て調査を実施した。

方法としては、岩見沢市内で小児を診療している五医療機関に依頼し、現在六ないし一〇歳の小児であつて、乳児期からの診療録が保存されているもの(特に二ないし五歳時の診療記録の整つているもの)を選び、診療内容を調査した。一方、同市医師会が実施した検診結果から患者名及び症状の程度を調査し、上記診療記録のとれた症例と照合し、分類、集計を行なつた。

② 同市医師会の検診は、三ないし六歳児四、五〇〇名、学童六、一〇〇名、中学生三、一〇〇名(合計一万三、七〇〇名)中、第一次スクリーニングにおいて全く健常とされた者を除く五七七名に対して行なわれ、三角筋拘縮症についてAランク(明らかに手術を必要とするもの。少数の大腿四頭筋拘縮症の合併例を含む。以下、同じ。)七〇、Bランク(手術を必要とするかもしれないが、更に精密検診を必要とするもの。)二〇、Cランク(要経過観察)一〇二、正常なもの三七〇であつた。このうち、既往医療歴を調査できた六〇例の内訳は、右Aランク二八、Bランク八、正常二四であつた。

③ 対象児が注射を受けた回数は、一年当りの平均回数でみると、Aランク7.2回、Bランク7.3回、正常6.5回で、三群の間に差はなく、また、一年当りの平均受診日数にも差はなかつた。

④ 今回の調査結果から見ても、筋拘縮症が筋肉注射と何らかの関係があるのではないかと考えられる。

⑤ 同程度の注射回数を受けた者の中で筋拘縮症症状の著明なものと然らざるものとが見出されていることは、本症の発生機序に体質的素因の関係する可能性も示唆される。

(2) (新生児、未熟児の筋注に関する実態調査)

① 大腿四頭筋拘縮症の発生は、乳幼児早期に大腿部への筋注を受けた者に頻度が高く、かつ重症化の傾向が強いことが指摘されている。そこで大腿四頭筋拘縮症が社会的問題化してきた昭和四九年一〇月から昭和五〇年三月までの間に、新生児、未熟児に対する筋注の実態につき、アンケートによる調査を行なつた。

② 調査対象は、A群(日本小児科学会東海地方会所属の公的病院小児科・主として愛知、岐阜、三重)七三施設、B群(同じく東海三県下の公的病院産科)一二六施設、C群(主として愛知県の個人病医院産科)四五七施設である。回収率は、A群六六%、B群五〇%、C群五二%である。

③ 筋注の頻度は、筋注が以前より減少したとするものはA群約二四%、B群約三二%、C群約五四%でC群に高く、減少するも支障なしとするのは、A群一三%、B群二九%、C群四五%であつた。これは、患者の重症度の差によるものであろうが、筋注の必要性も検討を要する問題である。

④ 各施設とも大腿部筋注は減少したが、代つて臀筋部への筋注が増加しつつある。中でもA群での増加は、注射部位の変更、重症患者を取扱う機会が多いこと、新生児、未熟児の細菌感染症に対し有効な薬剤の剤型として注射剤では筋注が多いことが考えられた。

⑤ 筋注後の局所異常を経験した施設は、A群では六三%、B群で三七%、C群で三四%であつた。これはA群では重症者が多く、かつ治療期間が遷延する者が多いためと考えられた。

(3) (筋注剤の組織障害性とその軽減対策)

① 筋注剤は本来非生理的なものであり、程度の差こそあれ組織障害性が認められる。

従つて、予防対策の第一は、止むを得ない場合を除き、筋注を避けることであるが、しかし、やむを得ず筋注を行なわなくてはならない場合もあるので、現状の筋注剤をいかに工夫すれば少しでも組織障害性が軽減されるものかを検討した。

② 実験成績から、現在の筋注製剤をやむを得ず使用する場合には、一つの方法として、稀釈して数か所に分散注射すれば組織障害性が軽減されるのではないかと推察される。

この際、稀釈による薬効の変化、吸収時間の変動等については不明の点が多く、今後の研究にまたねばならない。

(4) (動物実験)

① 現在、大腿四頭筋、三角筋等の拘縮症が多発しているので、小児科領域で頻用されている若干の注射剤の組織障害性について検討を加えた。

② 方法は、成熟家兎を用い、脊椎直立筋(仙棘筋)、大腿外側広筋に注射液を0.5mlずつ二六G×1/2ディスポシリンジで注射し、三日後及び七日後に屠殺して注射部位を切開し、出血、変性壊死等を観察した。

更に肉眼的溶血試験((−)溶血なし、(+)弱溶血、強溶血)の成績を対比した。

③ 結果として、筋注剤の溶血性の強いものに組織障害性の強いものが多いことが観察された。しかしながら、溶血性の弱いものでも組織障害性が皆無とは言えない。その反対に、薬剤の中には溶血性は認められても組織障害性が低いものもあり、最終的には、薬剤の組織障害性は動物実験の成績によらなければならないと考える。

(五) 発生予防部会では、その後も動物実験を続けた(但し、その結果が公表されているか否かは、本件証拠上明らかでない。)。

(1) 昭和五三年度は、スルピリン、クロラムフェニコール及び溶血性の弱い薬剤であるイノリンの三種類について、長期(一か月、三か月、六か月)の組織障害性の変化を検討した。

(2) 昭和五四年度以降は、注射の連続投与部位を毎回変え、または同一部位に薬剤を増量して投与する等の実験を続けているが、昭和五六年現在、動物実験の結果として機能障害を発生した家兎は存在しない。

2(日本医師会等)

(一) 日本医師会の大腿四頭筋問題検討委員会(委員長・坂上正道)は、昭和四九年九月三日、会長あての答申を行なつた。

この答申の要旨は、次のとおりである。

(1) (本症の発生例とこれに関連する事項)

周知の如く、本症は全国各地に発生しているが、その発端となつた山梨県鰍沢町においては、「山梨県大腿四頭筋拘縮症対策委員会」が発足し、患者の発見、治療法の検討を行なつている。

その後の調査によると、本症発生例において用いられた注射剤は、クロラムフェニコール・ゾル、スルピリン剤が主体であつた。また、その第一次調査による患者一四八人のうちで約三分の二は特定の医師に集中しているが、残りは種々の医療施設に分散している。

小児の筋注に関する実態については、第二九回臨床小児医学懇話会の資料がある。それによると、小児科医に対して行なつた筋注に関するアンケート調査の結果では、医師が行なつている注射部位は、臀部が最も多く、次いで上腕部(そのうち三角筋部が半数以上)、大腿部(そのうち大腿前面は二四%)であつた。一人の医師が扱う患者数が多くなるほど筋注を行なう例がやや多くなる傾向にある、常用する筋注剤では、クロラムフェニコール、スルピリン剤の使用頻度が高かつた。

(2) (本症発生の要因について)

本症には、先天的なもの(先天性筋異形成症と呼ばれるもの)と注射による後天的なものとの二種類があると考えられる。

わが国においても、また諸外国においても、当初は先天性という報告が多かつたが、その後頻回に筋肉注射を受けた小児に発生することが報告され、現在では、大部分が注射によるものであると考えられている。しかし、この両者を見分けることは、臨床的にもまた組織学的にも容易ではない。

このように筋肉注射との因果関係がにわかに注目をあびているが、従来、筋肉注射の局所反応について、これを薬理学的にあるいは組織学的にも系統だてて研究した報告はない。筋肉の瘢痕、線維化の原因としては、化学物質による筋の炎症があげられるが、その他の原因として注射剤の浸透圧、濃度、PH等も問題であり、また、添加物や安定剤等による影響も考慮される。一方、大量の液を頻回に筋の小範囲に注入するために、圧迫による阻血性壊死が起ることも考えられる。

薬剤の溶血性は、細胞毒作用の一つの指標であると考えられており、その溶血試験を各種の注射剤について行なうと、溶血性の強い薬剤、即ち細胞毒性が強いと考えられるものに筋注用注射剤が最も多く、この関係は家兎を用いた実験における組織変化でも認められた。溶血性のない注射剤によつて治癒不能な重症例が発生したことは、今日まで耳にしない。

しかしながら、溶血性と局所反応の程度が完全に一致するか否かについては、なお今後の慎重な検討をまつべき問題である。

(二) 昭和四九年と推認される第二九回臨床小児医学懇話会において、「乳幼児筋注とその障害・大腿四頭筋拘縮症をめぐつて」と題する討論が行なわれた(その内容の一部は、前記日本医師会大腿四頭筋問題検討委員会答申で引用された。文献F―11)。

この懇話会では、まず、都立駒込病院小児科の巷野悟郎から、注射に関するアンケート調査結果の報告(文献F―12①)及び国立甲府病院整形外科の太田道夫から山梨県鰍沢町周辺の集団発生についての調査結果の報告(文献A―85)があつた後、質疑討論が行なわれた。その討論等の要旨は、次のとおりである(文献F―12)。

(1) (症状及び診断)

「外振り様歩行」により概診はつくが、膝関節屈曲障害、正座不能等により診断する。特に診断的価値の高いものは、尻上り現象である。

(2) (原因)

多くはスルピリン、抗生物質(ペニシリン、クロラムフェニコール・ゾル等)の筋注により筋の壊死を招き、その瘢痕化を起すようである。これが薬剤の基剤によるものかまたは素因を持つているのかは不確かであり、今後の研究を待つほかはない。

(3) (治療及び予後)

症状の程度により徒手矯正、観血的療法を行ない、全般に予後は良好である。

(4) (ピラビタールの問題)

メチロンは非常に水溶性が高いのに対し、ピラビタールは水に溶け難く、そのためにメチロンによる障害が多く出たものと考えられるが、使用頻度から考えると、メチロンよりもピラビタールの方がより多く障害が起ると推定される。

(5) (問題点の指摘)

大腿四頭筋拘縮症なる疾患が戦前戦後しばらくの間見られなかつたに拘らず、最近頻発してきた背景に、戦後ペニシリンその他各種の抗生物質、その他種々の注射液が続出し、しかも日本における注射量は英国の五〇倍といわれている。これは、まさに注射の多用が一因であつて、今や注射に対して反省すべき時期に来ていると思われる。

3(日本小児科学会)

(一) 昭和五〇年五月一六日から一八日にわたる第七八回日本小児科学会は、同学会においても本症の問題に取組むことを決議した(文献F―44)。

この決議に基づいて、日本小児科学会筋拘縮症委員会が発足した。

この学会で大阪日赤病院小児科の亀山順治ら(自主検診団)は、京都、舞鶴、高松、徳島における調査結果を報告している(甲第二号証)が、その要旨は、次のとおりである。

(1) 京都、舞鶴、高松、徳島の四都市で、総数一、四八六名を対象に本症と注射との関係を考察した。

(2) 大腿部注射の本数と本症の発生頻度との関係を見ると、本数が一ないし一〇本では四%、一一ないし二〇本では六%、二一ないし四〇本で八%、四一ないし八〇本で一五%、八一ないし二〇〇本で一八%、二〇〇本以上では三〇%と頻度が増加し、大腿部への注射本数が多いほど本症の発生頻度が高くなることを示している。

また、注射歴のない者総数四四一名の検査を行なう中で本症と診断されたものは発見されなかつた。

(3) 注射開始時期と本症及び要観察者の発生頻度との関係を見ると、初回注射時期が〇ないし一か月では本症が一八%、要観察者四九%、六か月ないし一年では本症一〇%、要観察者三六%、一年ないし二年では本症八%、要観察者二八%であり、大腿部に注射を打たれ始める時期が早いほど本症または要観察者になる可能性が高いことを示している。

(4) 未熟児と成熟児とで本症の発生頻度を比較すると、未熟児では二五%、成熟児では九%と明らかに未熟児での本症の発生頻度が高いことを示している。

(5) 以上の結果から、本症は、殆んどすべてが大腿部への注射が原因であると考えられ、先天性短縮症は殆んどないと言える。

(二) 昭和五一年二月一九日、筋拘縮症委員会は、次のとおりの提言を発表した(文献F―18)。

(注射に関する提言(1))

近年わが国で社会問題化している筋拘縮症(大腿四頭筋・三角筋・臀筋など)の成因について、その大部分は筋肉注射が原因であることが明らかになつた。しかしいまだに注射が安易に行なわれている場合がある。

そこで本委員会は、筋拘縮症の今後の対策として、各方面における実態調査をもとにして下記事項を小児の医療にたずさわる各位に提言するものである。

① 注射は親の要求によつて行なうものでないこと。

注射は医師の医学的判断のもとに行なうべきものである。親の要求に応じて安易に行なうことは医療の本質に反するものである。

② 経口投与で十分ならば注射すべきでないこと。

注射が優れているという誤つた考え方を是正しなければならない。

③ いわゆる「カゼ症候群」に対して注射は極力避けること。

カゼ症候群の多くはウイルスによる感染症であるから本質的な治療法はない。しかるに筋肉注射の大部分はカゼ症候群に集中し、解熱剤・抗ヒスタミン剤・抗生剤が群を抜いている。本症に対する注射は極力さけられたい。

④ 抗生剤と他剤の混注は行なわないこと。

抗生剤の筋肉注射、ことに他剤との混注は筋拘縮症発生の危険が大である。クロラムフェニコールについては既にその使用基準が厳しく制限されているが、その他の抗生剤についても一層の注意を喚起したい。

⑤ 大量皮下注射は避けること。

今日なお大量皮下注射が輸液療法として安易に行なわれている。大量輸液は静脈内注射によつて行なわれるべきである。とくに大量皮下注射にビタミン剤・抗生剤などを加えることは、広範囲な筋障害を発生させることがあるので注意されたい。

(三) 昭和五一年七月一日、筋拘縮症委員会は、同年二月一九日の「注射に関する提言(Ⅰ)」に続いて、更に次の提言を発表した(文献F―22)。

(注射に関する提言(Ⅱ))

昭和四八年、大腿四頭筋拘縮症が社会問題化されて以来、大腿部筋注の危険性についての認識は高まつたが、その半面・肩・上腕部・臀部などの筋肉注射は安全であると安易に受けとられている傾向がある。さらに最近では三角筋拘縮症、臀筋拘縮症などの発生も相次いでいる。

本委員会は、筋拘縮症の発生予防のため、筋肉注射に関し、さらに以下の提言を行なうものである。

① 注射に安全な部位はない。

大腿部以外の筋注でも、筋拘縮症の発生がある。従つて、筋肉注射に安全な部位は存在しない。

② 筋肉注射に安全な年齢はない。

筋拘縮症の発生は、新生児、乳・幼児の筋注に多いと思われているが、年長児、成人の筋注でも発生がみられている。従つて、筋肉注射に安全な年齢はない。

③ 筋肉注射の適応は通常の場合においては極めて少ない。

筋肉注射は、それ以外では薬効が得られない場合や、緊急の場合などに限られるものであり、適応はおのずから厳選されなければならない。

④ 筋肉注射を必要とするときは原則として保護者または本人の納得を得てから行なう。

筋肉注射を行なうときは、その必要性と副作用などを、保護者または本人に十分説明する必要がある。

(四) 昭和五三年六月一日、日本小児科学会雑誌(文献F―44)の誌上において、同学会筋拘縮症委員会は、「今日における注射による筋拘縮症の多発が注射の濫用に基づくことは、ほぼまぎれもない事実である。われわれは、本症多発の現実を直視し、医師としての反省と責任を新たにしなければならない。このたび、筋拘縮症に関する提言の主旨を周知徹底させて、再び濫用をくり返さないために、提言の各項について、その判断となつた資料を提示して、解説を加えた。」と述べて、前記注射に関する提言(Ⅰ)及び(Ⅱ)の解説を発表した。

(五) (米沢報告)

昭和五六年五月一五日から一七日にわたる第八四回日本小児科学会総会において、和泉市立病院小児科の米沢澄子らは、大阪府下における本症のアンケート調査結果を報告した(文献A―98)。

米沢らは、昭和四九年にも同様な調査結果を報告しているが、その後六年を経た後の実態を調査する目的で二度目の調査を行なつたものであつて、その報告の要旨は次のとおりである。

(1) 昭和四九年度に調査したのと同じ幼稚園、保育園で二回問診アンケートと診断を行ない、注射情況と被害実態を調査し前回の結果と比較した。

対象は九〇六名、アンケート回収率は、一次アンケート97.7%、二次アンケート中注射歴のあるもの92.7%、ないもの88.1%である。

(2) 結果は、次のとおりである。

① 対象の年齢構成は、両調査で全く相似した集団であつた。

② 本症と診断されたものなし(昭和四九年度調査では、大腿四頭筋拘縮症一一〇名、要観察四八名、皮膚障害八名)。但し、要観察二名、注射皮膚障害三名が確認された。

③ 問診で注射歴ありのものは38.8%と減少し(前回は90.6%)、注射本数の点でも減少は明らかであつた。

④ 注射時の疾患は、風邪症候群が46.6%と群を抜いて多く、風邪に注射をする傾向は、前回と変りがなかつた。

⑤ 注射剤では、解熱剤が67.3%と群を抜き、前回と同様の傾向を示した。しかし、抗生剤は、前回の二位から六位へと転落していた。

(3) 注射に関する提言、提言の解説は、注射を減少せしめるのに有効であつたと思われるが、まだまだ濫注射も多く、提言の浸透度は不十分である。解熱剤の多用や患者の求めで容易に医療内容を変える医師の多いことは、患者の評判を考えてのことであり、抗生剤の注射が減少したことは、近時の経口抗生剤の収益増大に基づく要因が大きいものと考えられる。

(六) (筋拘縮症委員会報告書)

自主検診団は、昭和四九年から全国的に本症の集団検診を行ない、本症の実態調査、研究等を重ね、その資料の一部は、日本小児科学会筋拘縮症委員会に提供されてきた。そして、この両者の協力による研究調査結果は、昭和五七年一二月二日、同学会筋拘縮症委員会の最終答申である「筋拘縮症に関する報告書」(文献A―99)に集大成された。

この報告書は、まず、冒頭で、「病気を治療するための筋肉注射は、それなりに有効な治療手技であるにしても、薬液という身体にとつては非生理的な異物を緻密な筋肉組織の中に注入するのであるから、容易に障害の生じることは想像に難くはないであろう。また、たとえその薬液の化学組織が生体にとつて障害がなかつたとしても、注入に伴う圧力や針による傷等の物理的障害を避けることはできない。従つて、筋肉注射は、それによつて起る筋肉障害と筋肉注射の治療効果との比較において行なわなければならないのは当然である。それにも拘らず、注射による治療効果に目を奪われて日常診療の中で、とりわけかぜ症候群に対して、いたずらに解熱剤や特定の抗生剤の注射が多用されていたことについて、我々医師は深く反省する必要がある。近年、注射による筋肉障害の多発によつて、筋肉注射が批判されてから、日常診療での筋肉注射の頻度は減少したと考えられる。」と述べ、以下、本症の発生状況、原因、治療その他について詳細な検討を加えている。

そのうち、本症発症の原因等に関する部分の要旨は、次のとおりである。(原因)

(1) 実態調査の結果、次の事実が明らかになつた。

① 筋拘縮症の患者のほとんどに明確な注射歴のあることが確認され、特にカルテ調査では、本症患児の一〇〇%に注射歴が証明されている。

② 注射は、本症発生以前に行なわれたものである。

③ 医療機関における注射部位の好みによつて、集団発生した筋拘縮症の種類に地域的な著しい差異がある。

④ どの実態調査でも、患者数に年次推移が認められる(流行現象)。

(2) 注射行為が本症の発生原因であるか否かを判定する最良の方法の一つは、本症を発症している者と発症していない者との間で注射回数を比較することである。この点について検討が行なわれた調査のうちで最も古いものは、昭和四五年に福井県今立町の集団発生に際して鯖江医師会によつて行なわれたものである。これによると、本症の患児群では、注射本数が非発症者に比し、平均で2.6倍、薬物によつては、6.7倍にもなつていた(文献A―73)。

自主検診団の全国調査では、注射歴のある受診者を注射回数別に分けて拘縮症が発症した割合を調べているが、それによると、注射回数の増加とともに有症者率が著明に増加することが明らかにされている。

厚生省が岩見沢市で行なつた調査(文献F―37)でも、注射薬七群中五群が患児群に有意に高率であることが確認されている。他の二群には有意差が認められなかつたので、全体としては患児群に注射が多いことになる。

一方、某地域で行なわれた本症患児二一六名のカルテ調査(文献A―95)では、注射回数の年次増加等とともに患児数もまた年次増加する傾向のあることが認められている。このように、症状の有無による注射回数の差はもとより、注射回数の年次推移と患児発生数の推移とに関連性があることからみても、疫学的に注射が原因であると断定し得るものである。

しかしながら、注射回数が少なくても発症している症例のあることもまた事実であり、注射回数以外にも、薬剤の障害性、注射部位、一回の注射量、注射時の年齢等の要因によつても発症率が高められる。従つて、注射時の条件如何によつては、注射回数が少なくても発症する可能性のあることに留意しなくてはならない。

(3) このように、我が国で多発した筋拘縮症の原因が注射に基づいていることは明らかである。しかしながら、本症の原因として、先天的要因や体質的要因をあげている報告もあるので、これらに対する見解を明らかにしたい。

① (先天性拘縮症について)

医学的に先天性の異常であるというためには、その異常が出生時から存在していたことが証明されなくてはならない。

内臓奇型の如く出生後年月を経て初めて発見されたものでも、ほぼ確実に出生時からの異常であると断定できるものもある。しかし、運動器官を構成する筋の異常は、出生直後から運動機能障害として現われるから、先天性の筋拘縮症があれば、出生時から診断できるであろう。

今日までに本症の原因が先天性の可能性があるとして報告されてきた代表的論文二八編を調査した結果では、出生時から本症が存在していたことを医学的に確認した例はない。そして、これらの報告で、先天性と判断した根拠を集約すると、該部への外傷、感染、手術、全身的な筋疾患等の病歴が明らかではなかつたということに基づいて、先天性の可能性を推論しているに過ぎないのである。

更に、先天性の理由として、本症と筋性斜頸の筋病変が類似していることをもつて、先天性ではないかとする推察もある(文献E―1)。しかし、筋性斜頸自体、先天性と断定されたものではなく、科学的根拠がないものと言わざるを得ない。

また、遺伝的な疾患は、常に一定の発生頻度を示すが、主として環境因子に支配される疾病には流行現象があるのが普通である。我が国の筋拘縮症に関する実態調査の結果からすると、本邦で多発した本症が先天性のものでも遺伝的な疾患でもないことは明らかである。

② (体質的素因について)

本症の原因が注射であることは、疑う余地もないところであるが、注射回数が同じ程度であつても、発症するものもあれば、発症していないものもあり、その発症の程度もまた様々である。このような事情に対して、厚生省研究班発生予防部会は、本症の原因が注射であることを認めながらも、「本症の発生機序に体質的素因の関係する可能性も示唆される。」と発表している(文献F―37)。しかし、注射障害に関連する諸要因、すなわち、薬剤の障害性、一回の注射量、注射回数、注射時の年齢、注入速度、注射部位における筋肉内の解剖学的特異性(筋間中隔の存在、矢羽根構造等)等が本症の発症に重要な役割を果していることは周知の事実であり、このことは、林らの家兎を用いた実験(文献G―9)によつても裏付けられている。厚生省の発表は、注射薬剤、量、回数、人体内での注入部位、年齢等注射に関係した諸要因を一定にして発症の有無を比較したものではなく、注射回数も「同程度」というだけのものであり、これをもつて体質的素因の可能性を示唆することは根拠に乏しいと言わざるを得ない。

4(日本薬学会等)

(一) 昭和四九年四月、日本薬学会九四年会において、東北大学法医学教室の赤石英は、「薬剤に関する医療事故について」と題する特別講演を行なつた(文献F―14)。

この講演で、赤石は、大腿四頭筋拘縮症の問題を取り上げ、これに関連して、注射の組織障害性の検討結果を報告した。その要旨は、文献表ⅡF―14に記載のとおりである。

(二) この赤石らの報告は、医学・薬学界及び製薬業界に大きな衝撃を与えたようである。

この間の状況について、札幌市医師会学術部長の松島達明は、雑誌への投稿で「本症が注射に起因するとの説は既に昭和二二年ころから散発的に報告されていた。従来の調査では、クロラムフェニコール・ゾルやスルピリン含有の感冒剤注射により発生し易いことは指摘されていたが、注射剤のいかなる物理化学的性状が原因となるものかについては、殆んど検討されていなかつた。ところが、赤石英教授は、本症は注射剤の非生理性に原因するもので、特にPH浸透圧、溶血性に問題があると報告し、製薬業界にセンセーションをまき起した。」と述べている(乙B第九二号証)。

(三) (山村報告)

昭和五一年、第一七回日本神経学会総会において、新潟大脳研究所の山村定光は、クロラムフェニコール筋注による動物実験結果を報告した。その要旨は、文献表ⅡG―3のとおりである。

5(日本整形外科学会)

(一) 昭和五〇年、第四八回日本整形外科学会総会において、筋拘縮症に関する討論が行なわれた(乙B第七四号証の四の二〇)。

(1) まず、東大整形外科の関寛之らは、昭和四八年一二月に山梨県で発見された大腿四頭筋短縮症の集団的発生につき、その調査結果を報告したが、その要旨は、次のとおりである。

① 受診者総数は一一〇五九名で、本症と診断したものは二、二五九名、筋短縮の症状はないが大腿部に皮膚硬結、陥凹、皮下索状物があるものを含めると、四、九四一名に大腿部注射による障害を認めた。

本症のほかに、三角筋(四七名)、臀筋(二六名)、上腕三頭筋(一二名)の短縮症が発見された。

② 大腿部注射を受けた回数が多ければ、本症の発症率も高くなるという正の相関があり、筋注は、部位を問わず厳密な適応のもとに行なうべきである。

③ 本症の性、肢別の内訳は、1.4対1で男子に多く、両側障害例は五八%あり、左右の片寄りはない。

④ 病型は、直筋型七九%、中間広筋型四%、混合型一七%で、症度は、根岸らの分類に従えば、重症二三%、中症二五%、軽症五二%であつた。関節運動制限は必ずしもADLの障害度を反映しないため、正座、歩行走行、関節可動域等を総合して症度を判定することが適当である。

⑤ 患者数の推移を出生年度別にみると、昭和三七年以降に急増しており、注射液の生産高の推移とよく一致する。昭和三六年の国民皆保険以来促進された医療営利化に伴つて本症が作られてきたことを強く示唆する。

⑥ 大腿部注射を受けた際の原疾患をみると、風邪六八%を筆頭に、胃腸障害、扁桃炎、発熱等必ずしも注射による治療を必要としないものが多数みられた。また、未熟児が本症患者には有意に高頻度にみられ、未熟児の医育に新たに注意を払う必要を示唆する。

以上が関らの報告の要旨であるが、これに対して、国立療養所西多賀病院の保坂武雄から、「四頭筋拘縮症、特に直筋型が多いことの大きな要素として、この筋の構造を注目したい。起始腱並びに付着腱は大腿部の中央から下三分の一の部分で特に接近している。起始腱はこの部分では筋肉内に入り込んでいる。このため、筋肉に障害を与えこれを瘢痕化させる薬剤が注入されると、容易に腱と腱とが結ばれて拘縮の原因となる。」との発言があつた。

(2) 大阪大学整形外科の亀井正幸らは、本症の五九例についての検討結果を報告した(文献A―87)が、その要旨は、次のとおりである。

① 本症の原因を考えるとき、その解剖学的特徴を忘れてはならない。即ち、大腿直筋は中枢側の腱がかなり長く末梢まで及んだ羽状筋であり、変性が起ると容易に末梢側の腱との間に結合織性の連絡が起る。また、この筋は二関節筋で、乳児では伸展される機会が少なく、血行も少ないため、注射により変性を起し易く、直筋型の短縮症が多くなる、これに反して、歩行開始後は、注射の影響は少なくなるが、大腿の注射では、直筋のみならず広筋にも悪影響を及ぼし、混合型になる。

我々の調べた注射歴でも、この事実を裏づける傾向を認めたが、注射歴の全くない者も五人あつた。

② 組織学的所見で、注射による瘢痕化と思われる部分では、変性した筋線維束と膠原線維で置きかわつた部分とが見られる。一方、注射歴のないものでも、筋線維に変性所見が認められたことから、先天性の大腿直筋短縮症の存在も否定できない。

(二) 昭和五二年、第五〇回日本整形外科学会総会において、佐野精司らは、カニクイザルを用いた実験結果を報告した。この報告の内容は文献表Ⅱ、G―4のとおりであるが、この報告に対し、光安知夫が「私どものラットの実験では、注射後八週から一二週目にて、すべての筋の再生が生じている。また、多くの報告でも筋の再生が生じている。サルに線維化が生じたのであれば、それをどのように考えられるか。人間でも注射を受けた全例に生じていないことも考えて、個体差、種属差、また再生能力の問題についてどうか。」と質問したが、この質問に対して、佐野は、次のとおり答えた。

① 他の動物で破砕損傷等により骨格筋の再生が起ることはよく知られている。しかし、サルの筋注による実験で、光顕レベルではあるが、エオシンによく染まるミヨチューブ等の出現は見られなかつた。従つて、筋拘縮の発生に際し、個体差、種属差のあることは、当然考えられることと思う。

② 細胞浸潤としては、リンパ球と組織球が主である。

6(その他の集団検診等)

(一) (斉藤報告)

京大小児科の斉藤彰博ら(自主検診団)は、京都府竹野郡網野町における調査結果を報告している(文献B―18)が、その要旨は、次のとおりである。

(1) 受診者は、一〇か月から二一歳までの二三三名で、主訴、発症状況、注射歴等の問診の後、診察を行なつた。

(2) 検診結果は、次のとおりである。

① 三角筋短縮症の罹患者九二名、要観察者一〇名、皮膚障害三三名

② 大腿四頭筋拘縮症の罹患者四名、要観察者八名、皮膚障害一二名

③ 臀筋拘縮症の罹患者三名

④ その他九名

(3) 初発年齢について、三角筋拘縮症と大腿四頭筋拘縮症とで比較すると、大腿四頭筋拘縮症の場合は二ないし三歳にピークがあるが、三角筋拘縮症の場合は三歳以後七ないし八歳に及んでも発生率が高い。三角筋拘縮症は、大腿四頭筋拘縮症に比べ、遅い年齢にも発症する傾向があることが分る。

(4) 注射本数と発生頻度との関係について、三角筋拘縮症と大腿四頭筋拘縮症とで比較すると、両者とも注射本数の増加に比例して発生頻度が高くなる傾向があるが、同じ本数でも三角筋拘縮症の方が発生頻度が高い。

(5) 初回注射時期と発生頻度との関係について、三角筋拘縮症と大腿四頭筋拘縮症とで比較すると、三角筋拘縮症は、大腿四頭筋拘縮症よりも初回注射時期が遅くても発生頻度が高い。

(6) 初回注射時期と本数との関係について、三角筋短縮症罹患者と三角筋部に注射を受けたことのある正常者とで比較すると、罹患者は、正常者に比べ、初回注射時期が早期で注射本数の多い者に多数見られる傾向があり、正常者は、初回注射時期が遅く注射本数の少ない者に多い。また、注射本数が二〇本以下と比較的少ない本数でも半数以上の者が発症しており、このことは、三角筋部への注射の危険性を物語つている。

(二) (若松報告)

東北大整形外科の若松英吉らは、宮城県全学童生徒を対象とした本症の調査結果を報告している(文献A―93)が、その要旨は、次のとおりである。

(1) (調査対象と方法)

① (第一次調査)

昭和四九年一二月一日現在在学中の宮城県全学童生徒(小学一年ないし中学三年)二六万三、七二九名を対象とした。

第一次受検者数は二五万三三四二名で受検率九六%である。

調査は、肩挙上、肘屈曲、脊柱前屈、足底屈、正座、膝屈曲、歩行異常の七項目について行なつた。

② (第二次調査)

第一次調査により、正座の障害、膝屈曲障害、跛行の三項目中の一項目以上に障害の認められた一、〇〇六名の学童生徒を対象に第二次調査を行なつた。

第二次調査では、対象者に対する整形外科専門医の直接検診と保護者に対するアンケート調査を行なつた。

評価は、A(特に処置を必要としない)、B(経過観察を必要とする)及びC(更に精査を必要とする)の三段階に分けた。昭和五〇年七月三一日までに対象者中九〇二名が受診し、受検率は89.7%であつた。

(2) (調査結果)

九〇二名を直接検診した結果は、大腿四頭筋短縮症二四六名、先天性股関節脱臼後遺障害二一四名、脳性小児麻痺六八名等が多い。

このうち、短縮症に関する調査分析結果は、次のとおりである。

① (発生率)

二四六名中、男子は一七一名(69.5%)、女子は七五名(30.5%)であり、評価別ではA七一名(28.9%)、B一一二名(45.5%)、C六三名(25.5%)である。

全学童生徒数に対する発生率は、0.1083%(一〇〇〇人に一人)となり、Cは四、〇〇〇人に一人となる。

② 〔地域発生差〕

宮城県一七保健所管轄別に発生頻度を見ると、対一万学童当り二〇人以上の地域や五人以下の地域がある。また、地域によつては、左側発生者の多いところと右側発生者の多いところとがある(総数では、左右差が認められない。)。

③ 〔注射歴〕

二四六名中、保護者のアンケートから記載の確かな二二四名(91.1%)について、過去の疾病と注射歴を調査した。その結果、明らかな注射歴が二一六名にあつたが、八名(3.6%)にはなかつた。主な注射部位(重複を含む)は、大腿部が一八三名で多く、その他は、臀部七七、肩・上腕部三一、不明一〇である。主に注射を受けた年齢は、〇歳から三歳の間に集中し、疾患は、感冒をはじめとする呼吸器疾患が多かつた。

④ 〔出生時体重〕

二四六名中、出生時体重の明らかな二三三名について、五〇〇グラム単位毎に分け、昭和四九年度宮城県一般の体重別分布と比較すると、短縮症児では、より低体重群に最高頻度がある。即ち、短縮症は、出生時体重から見て未熟児により多く出現する傾向がうかがわれる。

⑤ 〔患児の身長と体重〕

短縮症児の年齢別平均身長と四九年度宮城県一般学童生徒のそれとを比較すると、短縮症児の身長は、一二歳までは一般平均に劣り、一三歳で追いつく。また、年齢別平均体重について、同様に比較すると、身長の場合と同じく一二歳から一三歳において変化する。このことは、患児の成長が一般とやや異なる傾向にあることを示すものであろう。

⑥ 〔年齢別発生数〕

八歳から一三歳の間に比較的発生者数が多く、特に、一一歳、一二歳にピークを示す。一六歳は、高校進学のために未受検者が多く、統計的には除外して考えたい。

尻上りの程度について見ると、尻上り現象の強い者の最頻値は一一歳に見られた。一三歳以降は、尻上り現象の強い者は減少し、一定数となる傾向が認められる。

(三) (久永、森谷報告)

名古屋大学医学部の久永直見らは、愛知県においてカルテを確保することのできた六〇例中の三九例について分析を加えた結果を報告し(文献A―94)、森谷光夫は、右六〇例中の四一例について分析を加えた結果を報告している(文献A―96)。

これらの報告の要旨は、次のとおりである(但し、久永報告中のX病院及び森谷報告中のグループⅠは、いずれも本件原告患児らを含む被告奥田の患者のカルテ分析であるから、これについては、ここでは除外し、後記第五章で検討することとする。)。

(1) (久永直見の報告・文献A―94)

① 現在(昭和五一年)までに自主検診団が把握した全国の患者数は七、三〇〇名に上り、愛知県における患者の親の会である「愛知あゆみ会」では一七七名を確認している。

愛知での検診結果では、患者が大腿部への注射を受けた医療機関は六四か所で、愛知、岐阜、三重を主に各地に分布していた。

② カルテの提出された症例は六〇例であつたが、このうち二一例は、カルテに部分的な欠落があり、カルテが完全に保存されていたのは三九例であつた。医療機関別では、X医院二〇名、Y医院一三名、その他一三名であつた。

③ カルテの分析の結果は、次のとおりである。

Y医院では、注射剤は、オベロンが43.9%、デラマイシ、マイシリンが39.3%、その他一二種類が用いられ、多くの場合、抗生物質とオベロンを混合注射し、連続する場合は左右交互にしていた。しかし、注射本数についての左右の別が不明であるため、尻上り角度についての影響を見ることはできなかつた。

(2) (森谷光夫の報告・文献A―96)

① カルテ分析を加えた四一例の内訳は、グループⅠ(久永報告のX医院)一八例、グループⅡ(久永報告のY医院)一三例、グループⅢ(その他)一〇例である。

② 分析結果は、次のとおりである。

(イ) グループⅡ(GⅡ)では、多くの場合、抗生物質(主にテラマイシン)とオベロンが左右区別なく、連続する場合は左右交互に混合注射されており、総本数は、一六本から一〇三本まで平均四六本であつた。

グループⅢ(GⅢ)では、種々の注射薬が左右区別なく、筋注、時に皮下注されており、総本数は二本から四〇一本まで平均八一本であつた。

(ロ) 罹患側は、GⅡでは左側二例、両側一一例、GⅢでは右側三例、両側七例であつた。

(ハ) 病型は、GⅡでは直筋型が一三例二一肢、混合型が三例三股、GⅢでは直筋型が九例一四肢、混合型が二例三肢であつた。広筋型は、いずれも見られなかつた。重症度は、いずれも中症から重症に分布していた。

(四) (荻原報告)

北九州市立小倉病院整形外科の荻原博嗣らは、熊本県天草郡五和町における調査結果を報告している(文献B―21)が、その要旨は、次のとおりである。

(1) 天草郡五和町では、昭和五三年ころから学童生徒の筋肉障害大量発生が問題となり、昭和五四年一月及び昭和五五年二月の二回にわたり、検診を行なつた。

五和町内の三小学校及び二中学校の学童生徒を主とする五歳から一八歳までの二〇三名が受診したが、このうち診療カルテの閲覧ができた三二名については、注射の種類・本数、病名について分析を行なつた。

(2) 検診結果は、次のとおりである。

① 筋拘縮症の多発傾向が認められた。内訳は、二〇三名中、大腿四頭筋拘縮症二〇名、同要観察二九名、臀筋拘縮症要観察九名、三角筋拘縮症五九名、上腕三頭筋拘縮症二名、肩・上腕部要観察二一名、他疾患四名で正常は七一名であつた。

このうち、三角筋拘縮症は、男二七名、女三三名で、障害側は、右のみ七名、左のみ二六名、両側二六名であつた。

② 五和町は、中央の山地で境されて東西の生活圏に分かれているが、筋拘縮症の発生は、一例を除き、西側地域に限られている。更に、大腿四頭筋拘縮症は、西側地域の北側に集中し、三角筋拘縮症は、西側地域の南側に多発している。

一方、有症者に対する問診調査の結果では、肩に筋注を多用したB医院の周辺で顕著な三角筋拘縮症の発生が認められ、A医院の周辺には大腿四頭筋拘縮症の多発が認められ、この地域を診療圏とするA、B各医院の注射内容と患者発生分布の相関は濃厚である。

六小括

以上本章における検討結果をまとめると、注射と本症の因果関係について、次のとおり要約することができる。

1注射剤と本症との間の条件関係は、病理学的にも、薬理学的にも、また疫学的にも合理的に説明することができる。

2注射剤によつて筋その他の生体の組織が破壊されても、通常は組織の再生によつて修復されるが、破壊の程度が大きい場合または組織の破壊からの修復過程で形成される瘢痕組織が大きい場合等には、組織の再生が不良ないし不能となり、最終的に筋組織が瘢痕組織または脂肪組織と置換またはこれらと癒着して関節運動を制限するに至ることがあり、その制限の程度が大きい場合に筋拘縮症が発症すると考えられる。しかし、このような発症機序の全貌が科学的に完全に解明されているわけではない。

3本症の発症に関し、筋肉注射剤の溶血性の強いことが最も重要な要因であると考えられ、注射針刺入による物理的影響についてはそれ程重視する必要はない。この溶血性を含めて筋組織に障害を与えるような性状を筋組織障害性と呼ぶことができる。

4注射量の多寡は、溶血性の弱い注射剤では障害の発症及び程度に影響を与えるが、溶血性の強いものでは、その関係を確定することはできない。しかし、標準投与量より常に過量でなければ発症しないと断定することは困難である。注射回数との関連性については、溶血性陰性の注射剤では本症発症率と比例関係にある。溶血性陽性のものとの関係は必らずしも明確でないが、一回注射を含む小本数注射で発症する可能性も否定することはできない。いずれにしても、本症は溶血性の強い注射剤に関する限りは、これを要素とする筋組織障害性を主因として、これと注射の時期、回数、量、部位、個体差が複雑にからみ合つて発症するものと考えられる。

5本症の患者で注射既往が明らかになつている場合でも、特に未熟児出産ないし平均体重以下での出産である場合には、必ずしも判明している当該注射が本症の原因注射であるとは限らないが、判明している注射既往が溶血性の強い筋肉注射剤で、しかも、複数回投与されている場合には、当該注射が原因注射となる蓋然性が極めて高いと考えられる。従つて、このような場合には当該注射剤が原因注射剤であると推定して差支えない。

第五章  原告患児らの症状、注射状況等

一原告毅

〈証拠〉を綜合すると、原告毅は、左大腿四頭筋拘縮症(直筋型)に罹患しており、これに至る経緯、症状等は次のとおりであることが認められ、他にこの認定を覆えすに足りる証拠はない。

1 原告毅は、昭和四四年一二月三〇日に瑞穂区所在の水野病院で出生(出時時体重三、五五〇グラム)したが、その後、下痢等の症状を起すことが度々あつたため、昭和四六年五月ころまでは同区所在の加藤医院へ通院して診療を受けていた。

しかし、同医院の混雑が甚しかつたことから、毅の母親である原告猪飼靖子は、同医院よりも遠いけれども比較的混雑が少なく、夜間でも診療を行なつていた奥田医院に毅の通院先を変えることにした。そして、毅は、同年五月一三日を初診(初診時体重10.5kg)として、同年一〇月一九日までの間、合計二八回にわたり、被告奥田から診療を受けた。毅が被告奥田から注射を受けたのは合計一八回であり、そのうち大腿部に受けたのは合計一六回であつて、その際の注射剤名、注射部位、量、体温等は、別紙注射状況表1に記載のとおりである(なお、注射状況等に関する主張のうち、個々の具体的な主張事実は、間接事実であると解するのが相当であり、この点は、以下の他の原告患児らの注射状況等についても同様である。従つて、原告患児らの注射状況等に関する被告奥田の自白は拘束力を有しないところ、被告奥田本人尋問の結果((第二回))によると、原告毅の昭和四六年六月二六日午後九時三〇分及び同月二九日午後九時一〇分の各診療時の注射は、いずれも臀部にされたものと認められる。)

2 ところが、被告奥田は、毅の両大腿部に右のような筋肉注射を多用し、また、当時毅と一緒に奥田医院に通院して被告奥田から筋肉注射を受けていた毅の姉の注射部位である大腿部が赤く腫れたのに被告奥田が同部への注射をやめようとしなかつたことから、毅の両親は、これに不安を持ち、同年一〇月ころからは奥田医院に通院しなくなつた。なお、毅がその大腿部に筋肉注射を受けたのは被告奥田からのみであり、他の医院等では大腿部ではなく臀部に筋肉注射を受けていた。

3 その後、毅は、昭和四八年三月ころから、歩き方に異常が見られ、つまずくと必ず転ぶような状態となつてきたため、毅の両親が同年八月に名古屋市立大学附属病院整形外科で毅に診察を受けさせたところ、間もなく、大腿四頭筋拘縮症罹患と診断された。このため、同年一〇月二日に同病院に入院し、同月九日、左大腿直筋起始部切離の手術を受けるとともに左脚をギプス固定され、同年一一月一日退院した。

4 しかし、毅は、その後も障害が残り、尻上り角度は、後記尻上り角度表に記載のとおり昭和五五年三月までやや悪化し続けた後、やや改善に転じたものの依然全快せず、その他の障害では、昭和五六年八月一二日の時点で、起立位腰椎前彎増強出尻、正座位出尻、歩走行時左下肢外振出が認められるほか、外部所見として左大腿中央部の索状物、左膝蓋骨高位0.5cmが認められ、昭和五八年四月二日の時点では、歩走行やや異常、左大腿近位部知覚異常が認められるほか、疲れ易い、走るのが遅い等の訴えがある。なお、昭和五八年四月二日の時点において、左膝の仰臥位股最大屈曲時の膝屈曲制限(以下、膝関節屈曲制限または単に屈曲制限という。)はない。

尻上り角度表

(左)

昭和四九年七月  九〇度

昭和五一年一一月六日  七〇度

昭和五三年三月  五〇度

昭和五五年三月  四二度

昭和五六年八月一二日  五〇度

昭和五八年四月二日  七〇度

二原告めぐみ

〈証拠〉を綜合すると、原告めぐみは、左大腿四頭筋拘縮症(混合型)に罹患しており、これに至る経緯、症状等は次のとおりであることが認められ、他にこの認定を覆すに足りる証拠はない。

1 原告めぐみは、昭和四四年八月五日、名古屋市立大学附属病院で出生(出生時体重三、五五〇グラム)したが、奥田医院が自宅から歩いて三分程度の場所にあり年中無休であつたこと等から、同年九月二八日を初診(初診時体重四、六〇〇グラム)として昭和四八年七月二六日までの間(なお、昭和四五年二月二日の体重は着衣で7.5kg、同年七月二四日の体重は着衣で8.5kg、昭和四六年一月六日の体重は着衣で九kg、同年五月一三日の体重は着衣で一一kgである。)合計六六回、被告奥田から診察を受けた。めぐみが被告奥田から注射を受けたのは合計五三回であり、そのうち、大腿部注射を受けたのは合計四六回、その際の体温、注射剤名、量、部位等は、別紙注射状況表2に記載のとおりである。

2 ところで、めぐみは、被告奥田から診療を受けていた期間中、注射を受けた大腿部が赤く腫れ硬くなることがしばしばあり、注射後、脚部が痛いと言つて歩いたり坐つたりができなくなることもあり、特に昭和四七年三月一三日には大腿部にしこりがあり痛がる旨をカルテに特記される等の状態であつた。そこで、めぐみの母である原告荻本孝子は、被告奥田に対して大腿部には注射をしないように要望したが、これを無視されていたところ、めぐみが満三歳になつたころ、めぐみの歩行に異常(がに股)が認められるようになつたので、その旨を被告奥田に話したが、取り合つてもらえないでいるうち、昭和四八年一〇月に、山梨県における大腿四頭筋拘縮症大量発生の新聞報道に接して、めぐみも被告奥田の筋肉注射により同症に罹患したものと考え、以後、奥田医院でめぐみを受診させないことにした。なお、めぐみは、昭和四八年七月二六日までの間、被告奥田以外から診療を受けていない。

3 その後、めぐみは、昭和四九年六月二五日に名古屋市立大学附属病院整形外科で診察を受けて注射による障害である旨を診断され、同年七月に国立名古屋病院で診察を受けて大腿四頭筋拘縮症罹患と診断されたため、以後、マッサージ等の治療を続けている。

4 しかし、めぐみの左大腿部には障害が残り、尻上り角度は、後記尻上り角度表に記載のとおりであり、膝関節屈曲制限は、後記屈曲角度表に記載のとおりである。その他の障害では、前記認定の歩行異常のほか、昭和五六年八月一二日の時点で、起立位腰椎前彎増強出尻、しやがみこみ異常(前傾姿勢でかがむ。)、正座異常(膝が揃わない。)、歩行時左下肢外振出が、外部所見では、左大腿中央部のへこみ、膝蓋骨高位1.5cmが認められ、昭和五八年四月二日の段階では、正座不能、起立位腰椎前彎増強、歩走行異常が認められるほか、走るのが遅いとの訴えがある。

尻上り角度表

(左)

昭和四九年七月  七〇度

昭和五〇年四月  四五度

昭和五一年五月  三五度

昭和五一年一〇月六日  二八度

昭和五二年五月  一八度

昭和五三年三月  二六度

昭和五四年三月  三五度

昭和五五年三月  三九度

昭和五六年八月一二日  三〇度

昭和五八年四月二日  二〇度

屈曲角度表

(左)

昭和五〇年四月  一四〇度

昭和五一年五月  一三五度

昭和五一年一〇月六日  一四四度

昭和五二年五月  一四〇度

昭和五三年三月  一五〇度

昭和五四年三月  一二三度

昭和五五年三月  一三三度

昭和五六年八月一二日  一五〇度

昭和五八年四月二日  一三〇度

三原告武司

〈証拠〉を綜合すると、原告武司は、左大腿四頭筋拘縮症(直筋型)に罹患しており、これに至る経緯、症状等は次のとおりであることが認められ、他にこの認定を覆すに足りる証拠はない。

1 原告武司は、昭和四五年六月三〇日に岐阜県土岐市所在の駄知病院で出生(妊娠九か月の早産・出生時体重二、三〇〇グラム)し、同病院に約一週間入院した後退院したが、その後、同年一一月初旬ころ、風邪のため二回程度瑞穂区所在の横井小児科で診療を受け、口腔内に塗薬を受けたことがあつた。そのころ、武司の母である原告奥村祐子は、叔母から奥田医院の診療が親切である旨を聞き、同年一一月一〇日を初診(初診時体重着衣で七kg)として、昭和四六年五月二八日までの間、合計四四回(但し、電話のみによる応診を除く。以下、各原告患児につき同じ。なお、その間の体重は、昭和四五年一二月一三日は着衣で八kg、その後は不明である。)にわたり、武司を奥田医院に通院させて被告奥田から診療を受けさせた。武司が被告奥田から注射を受けたのは、合計三九回であり、そのうち大腿部に受けたのは合計三八回であつて、その際の注射剤名、注射部位、量、体温等は、別紙注射状況表3に記載のとおりである(なお、被告奥田本人尋問の結果((第二回))によると、武司の昭和四五年一一月一二日午後八時のグレラン注は左右不明であり、昭和四六年五月二六日午後の八時五〇分の各診療時の注射は、グレラン注、パラキシンとも臀部にされたものであるが、それ以外はすべて大腿部であることが認められる。)。

2 ところで、武司は、被告奥田から診療を受ける際、大声で泣いたり暴れたりすることが少なくなかつたが、右受診期間中、二回程度、注射部位である大腿部(左右の別は不明)が赤く腫れ上り、その際には右のように泣いたりすることが著しく、特に昭和四六年五月一三日夜には、同日午後八時に注射された部位(左右の別は不明)を痛がつて何度も泣く状態だつた。そして、昭和四六年五月二八日には武司の全身に発疹が出たため、原告奥村祐子が被告奥田に対して麻疹ではないかと尋ねたところ、それを否定されて不安を抱き、前記横井小児科で武司を受診させ、その結果、同所で麻疹と診断され、以後奥田医院に武司を通院させるのをやめた。なお、武司がその大腿部に筋肉注射を受けたのは被告奥田からのみであり、横井小児科では大腿部ではなく臀部に筋肉注射を受けていた。

3 ところが、昭和四八年四月ころ、武司の父である原告奥村勝秋の姉(看護婦)から武司の格好がおかしいと指摘されたため、原告奥村祐子は、武司を近所の江崎整形外科で受診させたが特に異常でない旨の診断をされた。しかし、その後も武司に歩容異常が見られたため、原告奥村祐子は、同年九月、近所のはちや整形外科で武司を受診させたところ、注射の打ち過ぎでしこりがあるから早く手術をすべきである旨の診断をされ、その翌日、更に、名古屋大学附属病院で、武司を受診させたところ、同様の診断をされたが、同病院に空床がなかつたことなどから、同年一〇月一六日、前記はちや整形外科で、武司に、その左大腿直筋筋腹部切離の手術を受けさせた。

4 しかし、武司は、その後も障害が残り、尻上り角度は、後記尻上り角度表に記載のとおりであり、その他の障害では、昭和五二年五月ころから正座位出尻、昭和五五年三月ころからしやがみこみ異常が認められ、昭和五六年八月一二日の時点では、起立位腰椎前彎増強、出尻、しやがみこみ異常(前傾姿勢で尻が着かない。)、正座位出尻、歩走行時左下肢外振出が外部所見として、左大腿中央部の索状物、へこみ、手術痕(赤紫色ケロイド状・長さ約一五cm)が認められ、昭和五八年四月二日の時点では、正座困難(どうにか可能)、起立位腰椎前彎増強、歩走行異常、左大腿中央部知覚異常が認められるほか、疲れ易い、転び易い、手術痕が気になる等の訴えがある。なお、昭和五八年四月二日の時点で左膝の屈曲制限はない。

尻上り角度表

(左)

昭和四九年七月  六五度

昭和五〇年四月  六五度

昭和五一年五月  四五度

昭和五一年一一月六日  五〇度

昭和五二年五月  五〇度

昭和五三年三月  四〇度

昭和五四年三月  四八度

昭和五五年三月  三二度

昭和五六年八月一二日  三五度

昭和五八年四月二日  三〇度

四原告裕一

〈証拠〉を綜合すると、原告裕一は、左大腿四頭筋拘縮症(混合型)に罹患しており、これに至る経緯、症状等は次のとおりであることが認められ、他にこの認定を覆すに足りる証拠はない。

なお、裕一は右脚にも、昭和五一年当時には障害が認められていたが、これは、現在では治癒したものと認められる。

1 原告裕一は、昭和四三年一二月一〇日、住所地近くの今泉産婦人科で出生(出生時体重二、八五〇グラム)し、黄疸があつたことから約一〇日間保育器内で育てられた後退院したが、昭和四四年一月二〇日ころ、風邪にかかり近所の加茂小児科で水薬を与えられ、同年一月三〇日ころ、扁桃腺炎のため加茂小児科で肩に一回注射を受けたことがあつた。裕一の母である北岡里子(理容業)は、そのころ、客の一人から被告奥田が名古屋市立大学附属病院の小児科部長をしていた医師だから間違いないと聞き、かつ、奥田医院が夜間も診療していたことなどから、同年二月七日を初診(初診時体重五、〇〇〇グラム)として昭和四五年一二月二七日までの間(なお、昭和四四年五月中旬ころの体重は七、五〇〇グラム、同年八月一日の体重は着衣で八五〇〇グラム、同年一二月二三日の体重は九、五〇〇グラムである。)合計三四回裕一に被告奥田から診療を受けさせた。そのうち、裕一が被告奥田から大腿部に注射を受けたのは合計二七回であり、その際の注射剤名、注射部位、体温等は、別紙注射状況表4に記載のとおりである。

2 ところで、裕一は、被告奥田から診療を受けていた期間中、何回か両大腿部(特に左)の注射部位が赤く腫れ、特に昭和四四年五月二三日前後ころには、左大腿部が針金のように硬くなり、そこへ刺入した注射針が途中から入らなくなり、これを引いても抜けないような状態となつた。また裕一は、注射時にこれを痛がつてひどく泣き、特に昭和四四年九月一二日及び昭和四五年五月二二日にはこれが著しく、その旨がカルテに記載され、また、原告北岡里子自身も昭和四五年七月または八月ころ、被告奥田から肩にグレランと思われる注射を打つてもらつたところ余りの激痛に子供を背負うこともできない状態になつたこと等から、同月一二日から後は裕一を奥田医院に通院させなくなり、その後、後記3の事情もあつて、同年一二月二七日に受診させたのを最後に、通院先を近所の都島医院に変えた。なお、裕一が大腿部に注射を受けたのは被告奥田からのみであり、前記加茂小児科及び都島医院では大腿部には注射を受けていない。

3 原告北岡里子は、昭和四四年五月ないし六月ころに実施された生後六か月検診で裕一の左足が硬くなつており股関節が開かないことを指摘されていたが、生後七か月ころには、裕一の左足が硬くつま先立ちしかできないことに気付き、更に生後一年二か月ころになり歩行を開始したころには、裕一が左足を外側に振り出すようになつたため、昭和四五年九月か一〇月ころ、名古屋市立大学附属病院で同病院整形外科の池田医師らに裕一の診察を受けたところ、同医師らから裕一の病名等についての説明はなかつたが、診察に立会つた同大学医学部生らしい学生らが注射によるものではないかと話しているのを耳にしたことから、同年一二月二七日に奥田医院を訪れた際、その旨を被告奥田に尋ねたところ、同被告からそんなことはないと叱られた。そこで、原告北岡里子は、以後、被告奥田に裕一の診療をさせることをやめ、以後、裕一に対し、他医でマッサージ、ハリ等の治療を試みたが奏効せず、結局、裕一は、昭和四七年五月に名古屋市立大学附属病院で左大腿直筋起始部切離の手術を受けた。なお、裕一の術前尻上り角度は三五度であつた。

4 しかし、裕一は、その後も障害が残り、尻上り角度は、別紙尻上り角度表に記載のとおりであり、その他の障害では、昭和五一年五月ころから正座時の膝の不揃いが認められ、昭和五〇年ころからしやがみこみが円滑にできず、昭和五四年ころからはこれが不能となり、昭和五六年八月一二日の時点では、起立位腰椎前彎増強、出尻、しやがみこみ不能、正座位出尻、歩走行時左下肢外振出が認められるほか、外部所見として、左大腿中央部の索状物、左大腿近位部の手術痕(赤色ケロイド状・長さ約7.5cm)及びへこみ、膝蓋骨高位0.5cmが認められ、昭和五八年四月二日の時点では屈曲制限(左)一四〇度、正座不能、起立位腰椎前彎増強、歩行走行異常、左大腿近位部知覚異常が認められるほか、走るのが遅い、疲れ易い、転び易い、手術痕が気になる等の訴えがある。

尻上り角度表

(左)

昭和四九年七月  五八度

昭和五〇年四月  三五度

昭和五一年五月  三七度

昭和五一年一一月六日  三五度

昭和五二年五月  三七度

昭和五三年三月  三四度

昭和五四年三月  三六度

昭和五六年八月一二日  三〇度

昭和五八年四月二日  二五度

(右)

昭和五一年一一月六日  一〇〇度

屈曲角度表(左)

昭和五八年四月二日  一四〇度

五原告隆仁

〈証拠〉を綜合すると、原告隆仁は、左大腿四頭筋拘縮症(直筋型)に罹患しており、これに至る経緯、症状等は次のとおりであることが認められ、他にこの認定を覆えすに足りる証拠はない。

なお、後記認定のとおり、隆仁は、昭和五六年七月の手術前には、膝関節屈曲制限があつたのであるから、前記第三章の二で認定の本症の分類基準に従えば、混合型に該当し、現に甲第一六一号証によれば、自主検診団により、混合型と診断されていたことが認められるのである。しかしながら、鑑定の結果によれば、隆仁は、手術後には膝関節屈曲制限が消失し、そのために、鑑定人によつて直筋型に罹患しているものと診断されたことが認められるのであるから、右の分類基準に従えば、直筋型に該当すると判断せざるを得ない。

このように、同一の患児の疾病名が変動することは、一見奇異のようでもあるが、前記第三章五で判示のとおり、右の分類基準が外部的臨床症状に基づく分類基準に過ぎないことに鑑みると、右のような隆仁が直筋型に罹患しているとの認定もやむを得ない。

また、隆仁の右脚にも昭和五六年七月ころ当時には尻上り角度の異常が見られたが、現在では問題となるような障害が認められないことからすると、隆仁の右脚はほぼ治癒したものと認められる。

1 原告隆仁は、昭和四三年一一月二六日、名古屋立市大学附属病院で出生(妊娠九か月の早産、出生時体重二、六五〇グラム)したが、下痢をすることが多かつたため、瑞穂区所在の吉川小児科医院、第二日赤病院、名古屋市立大学附属病院で診療を受けた。しかし、同病院で下痢くらいなら近くの病院で診療を受けるようにと指示されたため、隆仁の母である原告内木洋子は、昭和四四年五月八日を初診(初診時体重七、七五〇グラム)として、昭和四六年六月二〇日までの間(なお、昭和四四年七月一二日の体重は八、二五〇グラム、同一二月一五日の体重は10.1kgである。)、合計一一四回、隆仁を奥田医院に通院させて被告奥田から診療を受けさせた。隆仁が被告奥田から注射を受けたのは合計八〇回であり、そのうち大腿部に受けたのは合計七七回であつて、その際の注射剤名、注射部位、量、体温等は、別紙注射状況表5に記載のとおりである(なお、被告奥田本人尋問の結果((第一回))によれば、昭和四五年一二月二九日午後の診療時の注射は、臀部にされたものと認められる。)。

2 ところで、隆仁は、奥田医院に通院し始めて半年目位のころからその大腿部の注射をした部位の赤い腫れがなかなか引かず、昭和四五年四月ころには、左大腿部の伸側にしこりが残るようになり、また、そのころから始まつた歩行の際にも左足を引きずるようにしていたので、原告内木洋子は、昭和四五年九月、瑞穂区所在の野々村医院、更に名古屋市立大学附属病院で隆仁を受診させ、同年一〇月七日には、被告奥田にもこれを訴えたが、いずれも気にすることがないと言われ、特に右大学附属病院では注射によるものではない旨説明されていたので、その後も、従来どおり奥田病院で隆仁を受診させ続けた(なお、カルテには、昭和四六年三月二五日に隆仁の大腿部が赤く腫れて痛がつた旨記載されている。)。しかし、昭和四六年六月に至り、数日にわたる注射の連用にも拘らず隆仁の風邪が治らなかつたことから、原告内木洋子は、同月二〇日を最後として隆仁を奥田医院に通院させることをやめ、以後は、中区所在の佐々木小児科医院で隆仁を受診させた。

ところが、原告内木洋子が出産のため、聖霊病院の産科に入院していた同年七月八日、同病院に見舞に来た隆仁の左足が棒のようになりこれを引きずつていることに気付き、驚いて同病院整形外科で隆仁を受診させたが、その結果、隆仁は、大腿四頭筋拘縮症罹患と診断された。そして、隆仁は、約四か月間、マッサージ等の治療を受けた後、しばらく手術等は見合わせていたが、昭和五六年七月一六日、名古屋市所在の協立病院で、左大腿直筋筋腹部切離の手術を受けるに至つた。

3 しかし、隆仁は、手術後も障害が残り、昭和五八年四月二日の段階で、走行やや異常、左大腿部知覚異常が認められるほか(なお、膝屈曲制限はない。)、歩走行異常、疲れ易い、出尻、手術痕が気になる、術後大腿部の知覚異常の訴えがある。

なお、手術前の障害状況は、尻上り角度は後記尻上り角度表に記載のとおりであり、屈曲制限は後記屈曲角度表に記載のとおりである。そして、手術直前の昭和五六年七月ころには、起立位腰椎前彎増強(腰椎右側彎がある。)、しやがみこみ不能、歩走行時左下肢振出が認められた。

尻上り角度表

(左)

昭和五〇年四月  五九度

昭和五一年五月  五五度

昭和五一年一一月六日  四〇度

昭和五四年八月  三〇度

昭和五六年七月ころ  二五度

昭和五八年四月二日  一〇五度

(右)

昭和五六年七月ころ  一二〇度

昭和五八年四月二日  なし

屈曲角度表

(左)

昭和五〇年四月  一四〇度

昭和五一年五月  一三五度

昭和五一年一一月六日  一四〇度

昭和五四年八月  一二六度

昭和五六年七月ころ  一三〇度

昭和五八年四月二日  なし

六原告守孝

〈証拠〉を綜合すると、原告守孝は、両大腿四頭筋拘縮症(左右いずれも混合型)に罹患しており、これに至る経緯、症状等は次のとおりであることが認められ、他にこの認定を覆えすに足りる証拠はない。

1 原告守孝は、昭和四一年二月二二日、名古屋市昭和区桜山町所在の余語病院で出生(妊娠約九か月の早産・出生時体重不明)したが、その後、同年五月までの間に一回同区所在の山田内科医院で鼻づまりの治療を受けた。ところが、同医院の山田医師が守孝の母である原告中村玲子の相談に乗つてくれなかつたことから、同原告は、同年五月初旬ころ、近所の者に教えられた奥田医院で守孝に診療を受けさせることにし、以後、昭和四三年二月ころまでの間、夏季熱様の発熱や白痢の時等、相当回数にわたつて守孝を通院させ、被告奥田からグレラン注の左大腿部投与を含む診療を受けさせた。

なお、守孝についてはカルテが保存されておらず、被告奥田の診療行為の内容については、原告中村玲子本人尋問の結果の他に証拠はなく、その詳細は不明であるが、本件で認定された他の原告患児らの診療状況等から類推すると、特段の反証のない限り、守孝に対しても他の原告患児らに対するのとほぼ同内容の処置(具体的には、発熱があれば、多くの場合に、左大腿部にグレラン注が投与される。)が講ぜられたものと推認してよく、かつ、その回数も相当回数に及んだものと推認してよい。そして、この推認を覆えすに足りる反証はない。しかし、本件全証拠によつても推認を及ぼすことができるのは右の程度が限界と言うべく、証人久永直見は、原告中村幸雄らの主張する原告守孝の受診時の疾病については他の患児らの場合に照して矛盾はないと証言するが、同証言も原告守孝の具体的な注射状況を認定するには十分でなく、また、原告中村玲子本人尋問の結果も被告奥田本人尋問の結果(第一、二回)に照らすと、その大筋を除いてはたやすく措信できないから、結局、原告らの主張のように詳細に原告守孝の診療状況を認定することはできない。

2 守孝は、生後一年三月ころから歩行を開始したが、最初から転び易い等の歩容異常が見られた。しかし、原告中村玲子は、これを多少不安には思いながらも特に気にすることなく過ごしていたところ、昭和四八年に至り、週刊誌で山梨県における大腿四頭筋拘縮症の大量発生を知り、週刊誌に載つていた検査法を試みたところ、守孝にもその症状が現われていることが分つた。そこで、守孝は、昭和四九年七月以降数回にわたつて名古屋自主検診団の診療を受けたほか、昭和五三年八月一日に愛知県西尾市所在の西尾市民病院で右大腿直筋筋腹部切離手術を、昭和五四年七月三日に同病院で左大腿筋筋腹部切離手術をそれぞれ受けた。なお、守孝の術前の尻上り角度は後記尻上り角度表に、膝関節屈曲制限は後記屈曲角度表にそれぞれ記載のとおりである。

3 しかし、手術後も守孝には障害が残り、尻上り角度、屈曲角度はいずれも右角度表に記載のとおりであり、その他の障害では、昭和五六年八月一二日の時点で、起立位腰椎前彎増強、正座異常(尻が浮く。)、しやがみこみ不能が認められたほか、外部所見として、両大腿部に手術痕等が認められ、昭和五八年四月二日の時点では、正座不能、走行やや異常、両大腿中央部の手術痕と知覚異常、後側彎が認められるほか、疲れ易いとの訴えがある。

尻上り角度表

(左)

昭和五〇年四月  六五度

昭和五一年一一月六日  五〇度

昭和五三年三月  四〇度

昭和五四年三月  五五度

昭和五四年七月術前  四〇度

昭和五五年三月  七七度

昭和五六年三月  七〇度

昭和五六年八月一二日  九〇度

昭和五八年四月二日  一一五度

(右)

昭和五一年一一月六日  五五度

昭和五三年八月術前  四二度

昭和五八年四月二日  一二〇度

屈曲角度表

(左)

昭和五〇年四月  一四〇度

昭和五一年一一月六日  一四九度

昭和五三年三月  一三六度

昭和五四年三月  一二八度

昭和五五年三月  一四〇度

昭和五六年三月  一四七度

昭和五六年八月一二日  一五五度

昭和五八年四月二日  一三〇度

(右)

昭和五一年一一月六日  一四五度

昭和五八年四月二日  一四五度

七原告和樹

〈証拠〉を綜合すると、原告和樹は、両大腿四頭筋拘縮症(直筋型)に罹患しており、これに至る経緯、症状等は次のとおりであることが認められ、他にこの認定を覆えすに足りる証拠はない。

1 原告和樹は、昭和四二年九月一八日、滋賀県所在の能登川病院で出生(出生時体重三、〇〇〇グラム)し、生後約一年間は、病気らしい病気をしなかつたが、昭和四三年一一月五日、流感の疑いで被告奥田から診察を受け、その後、同日を初診(初診時体重不明)として、昭和四九年八月二九日までの間、合計六九回(その間の体重は不明)にわたり奥田医院に通院して被告奥田から診療を受けた。和樹が被告奥田から注射を受けたのは合計五八回であり、そのうち、大腿部に受けたのは合計三七回であつて、その際の注射剤名、注射部位、量、体温等は、別紙注射状況表6に記載のとおりである。

2 ところで、和樹は、被告奥田から注射をされる度にこれを痛がつて泣いていたが、昭和四五年六月二七日には、左大腿部のグレラン注の注射部位が帰宅後直径一〇cmほどに丸く赤紫色に腫れた。そこで、和樹の母親である原告西澤紘子がその旨を電話で被告奥田に伝えたところ、同被告から「血液が漏れたのだろう。見ないと分らん。」とのことであつた。なお、和樹のカルテによると同日の次の診察日が昭和四六年二月一六日と記載されており、この間、和樹が他院で診療を受けたこともないようであるから、右の左大腿部の腫れ自体は、その後治癒したものと思われる。

3 ところが、和樹は、生後三歳または四歳ころ(昭和四五年九月または昭和四六年九月ころ)、原告西澤紘子の母親からびつこのまねをしている旨指摘され、同原告が「びつこのまねはやめなさい。」等と叱ると正常の歩行に戻る状態であつたが、次第に歩行異常が恒常的となり、左靴外側がひどく摩滅するようになつていたところ(なお、カルテには、昭和四八年六月六日にその旨の訴えがあつたとの記載がある。)、原告西澤紘子は、昭和四九年六月二一日ころ、新聞で、原告隆仁とその両親らが大腿四頭筋拘縮症の件でカルテの証拠保全をしたことを読み、同症について初めて知り、かつ、和樹についても尻上り角度に異常があることを知つた。そして、和樹は、同年七月二二日、国立名古屋病院で、また、そのころ、名古屋における自主検診団の診察で、いずれも両大腿直筋拘縮症罹患と診断された。そして、和樹は、その後、針による治療等を続けた後、昭和五八年七月二六日、協立病院において、左大腿部に対する手術(但し、手術内容は不明)を受けた(この手術をうけたことにつき被告武田との間では争いがない。)。

4 和樹の手術前の障害のうち、尻上り角度は、後記尻上り角度表に記載のとおりであり、その他の障害では、昭和五六年八月一二日の時点で、起立位腰椎前彎増強、しやがみこみ異常(やや前傾姿勢になる。)、正座異常(出尻)、歩走行時左下肢外振出が認められたほか、外部所見として左大腿中央部の索状物、膝蓋骨高位1.5cmが認められ、昭和五八年四月二日の時点では、起立位腰椎前彎増強、歩走行異常が認められるほか、疲れ易いとの訴えがあつた。

5 和樹は、手術後、一時症状が改善したが、その後、悪化の傾向にあり、尻上り角度は、右尻上り角度表に記載のとおりであり(但し、左足のみ。)、他の障害では、昭和五八年九月三〇日の時点で膝蓋骨高位1.5cm、起立位腰椎前彎増強、歩走行時跛行様の異常があり、昭和五九年五月一三日の時点で、膝蓋骨高位1.5cm、起立位腰椎前彎増強、歩走行時左下肢外振出の異常があつた。なお、昭和五八年四月二日の時点において、左右両膝の屈曲制限はない。

尻上り角度表

(左)

昭和四九年七月  五八度

昭和五〇年四月  四三度

昭和五一年五月  三五度

昭和五一年一一月六日  二七度

昭和五二年五月  三〇度

昭和五三年三月  二六度

昭和五四年五月  三〇度

昭和五五年三月  二八度

昭和五六年八月一二日  二五度

昭和五八年四月二日  一五度

昭和五八年九月三〇日  一〇五度

昭和五九年五月一三日  四八度

(右)

昭和五一年一一月六日  八五度

昭和五八年四月二日  一二五度

八原告博之

〈証拠〉を綜合すると、原告博之は、左大腿四頭筋拘縮症(直筋型)に罹患していたが、現在ではほぼ治癒に近い状態にあり、これに至る経緯、症状等は次のとおりであることが認められ、他にこの認定を覆えすに足りる証拠はない。

1 原告博之は、昭和四五年四月一四日、名古屋市瑞穂区所在のあさもと産婦人科医院で出生(出生時体重三、一五〇グラム)し、約一週間後に退院したが、その後、同年九月一日ころ、予防接種後の発熱があつた。そこで、博之の母親である原告濱口倭文子は、近所の医師を探した後、夜間のためようやく同区牛巻所在の岡田内科で博之の診療を受けることができたが、そのころ、近所の人から、被告奥田について、「もと名古屋市立大学附属病院の小児科部長で、評判がいい。」「早く治してもらえる。」等と聞き、同月六日、博之が発熱した際、同人を奥田医院に連れて行き、同日を初診(同年八月末日の体重は6.7kg)として、昭和四六年七月二一日までの間、合計二〇回(なお、昭和四六年二月二〇日の体重九kgである。)被告奥田から診療を受けさせた。そのうち、博之が被告奥田から大腿部に注射を受けたのは、合計一六回であるが、その際の注射剤名、注射部位、量、体温等は、別紙注射状況表7に記載のとおりである。

2 博之は、被告奥田から注射を受ける度にひどく痛がり、身をよじつて泣き叫んでいたが、注射部位が赤く腫れることも多く、通院を重ねるうちにその腫れ方が次第に著しくなつた。そして、昭和四五年九月一二日か同月一三日には、博之の左大腿部が注射後、長さ五ないし六cm、幅約三cmに大きくかまぼこ型に腫れ上つて固いしこり状となり、また、そのころ、このしこり状の部分に注射をしようとすると針が刺入せずに弓なりとなる状態であつたことから、原告濱口倭文子は、不安になつて被告奥田に大丈夫かと尋ねたが、被告奥田は、温湿布をすれば自然に治ると答えるのみであつた。そこで原告告濱口倭文子は、その後、しばらくの間、博之の左大腿部を温湿布をしながらもみ続けたが、被告奥田は、その後も、前記のとおり、博之の左大腿部に注射を打ち続けた。

しかし、昭和四六年七月二一日、博之が注射後、ひどく泣き叫んであばれ、その旨がカルテに特記されるほどであつたことに加え、そのころ、たまたま被告奥田から両大腿部に筋肉注射を受けた原告濱口倭文子の長男が、注射後、両足を痛がり、しやがみこんで一時的に歩行不能となつてしまつたことから、原告濱口倭文子は、昭和四六年七月二一日を最後として、以後、博之を奥田医院に通院させることをやめ、渡辺小児科に通院させるようになつた。なお、博之は、渡辺小児科で合計数本の注射を受けたが、これはいずれも左腕に対するものであつて、大腿部へは注射を受けなかつた。

3 ところが、博之が歩行を開始した約一か月後である昭和四六年七月ころ、原告濱口倭文子は、近所の人から、「博之君は蟹さんのように歩くね。」と言われたが、そのころ、博之には、左足を引きずり、まつすぐ前に歩行できないという異常があつた。そして、原告濱口倭文子は、昭和四八年ころ、テレビ番組で大腿四頭筋拘縮症という疾患があることを知り、更に、昭和四九年六月二一日(原告濱口倭文子本人尋問の結果のうち、六月二〇日であるとの部分は記憶違いと思われる。)、原告内木らの被告奥田に対するカルテの証拠保全についての中日新聞の記事を読んで驚き、あわてて、博之を江崎整形外科医院で診察を受けさせたところ、大腿四頭筋短縮症罹患と診断された。そのころ、博之は、左大腿部に固いしこりがあり、歩行時に左足の外分回しの異常があつたが、同年七月、自主検診団の診察を受けたところ、同様の診断を受け、手術を勧められた。しかし、原告濱口倭文子は、すぐに博之に手術を受けさせることは見合わせ、昭和四九年一二月までは江崎整形外科に博之を通院させてマッサージ及び屈伸運動等の治療を受けさせ、その後は、他所でマッサージ等の治療を受けさせてきたが、いずれも効果が上らず、昭和五六年に至り、博之の二次障害である背骨の彎曲が著しくなつてきたので、博之を同年七月九日、協立病院に入院させ、同月一四日、同所で、左大腿直筋筋腹部切離の手術を受けさせた。

4 博之の術前、術後の尻上り角度は、後記尻上り角度表に記載のとおりであり、手術直前の昭和五六年七月一一日の時点では、起立位腰椎前彎増強、正座異常(膝が揃わない。)、歩走行時左下肢左振出の異常が認められたほか、外部所見として、左大腿中央部の索状物、膝蓋骨高位一cmが認められたが、博之は、手術後も障害が残り、昭和五八年四月二日の時点で、左大腿部に手術瘢痕と知覚異常域があるほか、疲れ易い、出尻、大腿部痛との訴えがある。なお、昭和五八年四月二日の時点において左膝屈曲制限はない。

尻上り角度表

(左)

昭和四九年七月  二〇度

昭和五〇年四月  三〇度

昭和五一年五月  三五度

昭和五一年一一月六日  三二度

昭和五二年五月  三〇度

昭和五三年三月  二〇度

昭和五四年三月  三九度

昭和五五年三月  三〇度

昭和五六年七月一一日  三五度

昭和五八年四月二日  一四〇度

九原告広志

〈証拠〉を綜合すると、原告広志は、左大腿四頭筋拘縮症(直筋型)に罹患しており、これに至る経緯、症状等は次のとおりであることが認められ、他にこの認定を覆えすに足りる証拠はない。

1 原告広志は、昭和四三年八月六日、国立名古屋病院で出生(出生時体重二、九三〇グラム)し、約九日間で退院した。広志の母親である原告濵嶋成子は、そのころ、現住所地に転居したが、近所の者から、被告奥田が小児科の専門医で、もと名古屋市立大学附属病院の小児科に勤務していた旨を聞き、また、当時、原告濵嶋茂善と同濵嶋成子が共働きをしていた関係から、朝早くから深夜まで診療に応じてくれる奥田医院が便利であると考え、昭和四三年一〇月三〇日を初診(初診時体重六kg)として、昭和四七年八月一六日までの間(なお、その間の体重は、昭和四四年二月七日には着衣で八kg、昭和四四年六月一一日には着衣で一〇kgである。)、合計九〇回にわたり、広志を奥田医院に通院させて被告奥田から診療を受けさせた。そのうち、広志が被告奥田から大腿部に注射を受けたのは、合計八七回であり、その際の注射剤名、注射部位、量、体温等は、別紙注射状況表8に記載のとおりである。

2 ところで、奥田医院に通院している間、広志の大腿部の注射部位の筋肉が腫れてこちこちに硬くなり、注射針が刺入できなくなることがしばしばあつたので、原告濵嶋成子は、被告奥田に対して注射をやめて欲しいと頼んだが聞き入れられなかつた。そのうち、昭和四七年八月一六日に至り、当時、たまたま日本医師会が保険証による診療を拒否しており、そのために、健康保険組合から個人負担分を超える治療費の払戻を受ける必要上、医師から領収書の交付を受けなければならなくなり、原告濵嶋成子が広志の診療について被告奥田に対して領収書の交付を求めたところ、これを拒否されたため、同日を最後として、同原告は、広志を奥田医院に通院させるのをやめた。

なお、広志は、昭和四四年六月八日、九日と千種区所在の江口医院で、同年七月二九日、昭和区所在の横井医院でそれぞれ診療を受け、同年八月四日からしばらくの間は、名古屋大学附属病院小児科に通院して同所で診療を受け、昭和四六年一一月ころには名古屋市立大学附属病院に通院して同所で診療を受けたが、そのいずれにおいても、大腿部への注射をされなかつた。

3 ところが、原告濵嶋成子は、広志が歩行を開始した当初(昭和四四年末ころ・一歳三か月)から左足を引きずつて歩くことに気付いていたが、そのころ、当時広志が通園していた保育園の保母からも同様の歩行異常の指摘を受けた。そして、この歩行異常が次第にひどくなつたため、広志は、二歳のころに昭和保健所で診察を受けたが異常なしと診断されたものの、三歳のころには、走つた時に外分回しも現われるようになつた。そこで、肢体不自由児の巡回相談や整形外科医で診察を受けたが、やはり異常なしと診断された。そのため、原告濵嶋成子は、広志の歩行異常は癖であると考えていたところ、昭和四九年に至り、中日新聞の記事で山梨県における大腿四頭筋拘縮症の大量発生を知り、中日新聞に照会して紹介された清水保一から更に紹介されて、同年五月一日、広志を国立名古屋病院整形外科で受診させたところ、注射が原因の障害で重症である旨の診断を受け、直ちに手術を受けるよう勧められた。そして、広志は、昭和四九年一〇月二四日、名古屋大学附属病院に入院し、同月二九日、左大腿直筋起始部切離の手術を受けた。

4 広志は、手術後も障害が残り、尻上り角度は、後記尻上り角度表に記載のとおりであり、他の障害では、昭和五六年八月一二日の時点で、起立位腰椎前彎増強、出尻、しやがみこみ異常(前傾姿勢で可能)、正座異常(出尻)、歩走行時左下肢外振出の異常があり、外部所見では、左大腿近位部の手術痕、左大腿中央部の索状物、膝蓋骨高位二cmが認められ、昭和五八年四月二日の時点では、起立位腰椎前彎増強、歩走行異常、左大腿近位部知覚異常域があるという異常があるほか、転び易い、出尻、注射跡が気になる。手術後のしびれ等の訴えがある。なお、昭和五八年四月二日の時点において、左膝の屈曲制限はない。

尻上り角度表

(左)

昭和四九年七月  三〇度

昭和五〇年四月  四〇度

昭和五一年一一月六日  三五度

昭和五二年五月  四〇度

昭和五三年三月  三八度

昭和五四年三月  三四度

昭和五五年三月  三七度

昭和五六年八月一二日  三〇度

昭和五八年四月二日  二五度

一〇原告寿孝

〈証拠〉を綜合すると、原告寿孝は、左大腿四頭筋拘縮症(混合型)に罹患しており、これに至る経緯、症状等は次のとおりであることが認められ、他にこの認定を覆えすに足りる証拠はない。

1 寿孝は、昭和四四年四月二八日、瑞穂区所在の水野医院で出生(出生時体重三、三五〇グラム)した。ところで、寿孝の父である原告福島耕吉は、子供のころ、名古屋市立大学附属病院で被告奥田から診療を受けたことがあつたことから、寿孝の兄や姉も近所で開業していた被告奥田から診療を受けていた。そこで、寿孝が風邪を引いた際、寿孝の母である福島峯子は、寿孝も被告奥田の診療を受けさせようと考え、昭和四四年七月三一日を初診日として、昭和四九年二月一六日までの間(なお、その間の体重は、昭和四四年九月一日は八kg、その後は不明である。)、合計五一回にわたり、寿孝を奥田医院に通院させて被告奥田から診療を受けさせた。寿孝が被告奥田から注射を受けたのは合計四二回であり、そのうち、大腿部に受けたのは合計三六回であつて、その際の注射剤名、注射部位、量、体温等は、別紙注射状況表9に記載のとおりである。

2 ところで、寿孝は、被告奥田から注射を受ける際にひどく痛がつて泣き叫んだりしたが、その注射部位が赤く腫れたことも何度かあり、また、注射針が曲つたり、大腿部に刺つたまま注射筒から抜けたこともあり、特に昭和四六年九月一一日には、帰宅後、左大腿部が赤くしこり状に腫れ上り、これをひどく痛がつた。そのため、原告福島峯子が被告奥田にその旨を電話で伝えたが、被告奥田の指示に従つて寿孝の左大腿部を温湿布でもむと、翌日には痛みは治つた。

3 ところが、寿孝は、よちよち歩きを始めたころ(但し、時期は不明である。)から、歩く際に尻を振るようにしていたため、近所の者から「アヒルみたい。」と言われていたが、満三歳の誕生日である昭和四七年四月二八日、正座ができず、無理に正座させようとするとひどく痛がることが明らかとなつた。そこで、原告福島峯子は、寿孝を近所の高橋外科医院で受診させたが、異常なしと診断された。しかし、原告福島峯子は、同年八月一七日、名古屋市立大学附属病院で寿孝に診察を受けさせたところ、注射が原因であろうと診断され、以後、奥田医院に寿孝を通院させるのを中止した。

なお、寿孝は、その後、昭和四八年七月一四日から再び奥田医院に通院し始めたが、同日以後の診療では、大腿部に注射を受けていない。

4 名古屋市立大学附属病院で診察を受けた後、寿孝は、西区所在の鈴木整体研究所等でマッサージ等の治療を続けたが、効果が上らないでいたところ、昭和四九年四月ころに至り、原告福島峯子は、テレビ番組で山梨県における大腿四頭筋拘縮症の大量発生を知り、寿孝も同症の患者であることを知つた。そして、寿孝は、昭和四九年七月に自主検診団の診察を受けて、大腿四頭筋拘縮症罹患と診断され、その後、同年一一月八日、名古屋大学附属病院で左大腿直筋起始部切離の手術を受け、更に、昭和五九年七月に左大腿部に再手術を受けた(但し、入院先は不明)。

5 寿孝は、第一回目の手術後も障害が残り、尻上り角度は後記尻上り角度表に記載のとおりであり、膝関節屈曲制限は後記屈曲角度表に記載のとおりであるが、その他の障害では、昭和五六年八月一二日の時点では、起立位腰椎前彎増強、出尻、しやがみこみ不能、正座不能、歩走行時左下肢外振出の異常があるほか、外部所見では、手術痕、手術部位のへこみ、左大腿中央部の索状物、筋萎縮、膝蓋骨高位一cmが認められ、昭和五八年四月二日の時点では、起立位腰椎前彎増強、正座不能、歩走行異常、左大腿近位部知覚異常という異常があるほか、疲れ易い、出尻、手術痕が気になる、痛み、手術後のしびれ等の訴えがある。

尻上り角度表

(左)

昭和四九年七月  一〇度

昭和五〇年四月  四五度

昭和五一年五月  四五度

昭和五一年一一月六日  三二度

昭和五二年五月  三六度

昭和五三年三月  二八度

昭和五四年三月  三八度

昭和五五年三月  二四度

昭和五六年八月一二日  二五度

昭和五八年四月二日  二五度

屈曲角度表

(左)

昭和五〇年四月  一三〇度

昭和五一年五月  一三四度

昭和五一年一一月六日  一四五度

昭和五二年五月  一三八度

昭和五三年三月  一五〇度

昭和五四年三月  一四四度

昭和五五年三月  一三二度

昭和五六年八月一二日  一三〇度

昭和五八年四月二日  一二五度

一一原告正文

〈証拠〉を綜合すると、原告正文は、左大腿四頭筋拘縮症(混合型、但し鑑定では直筋型とされている。)に罹患していたが、現在ではほぼ治癒しており、これに至る経緯、症状等は次のとおりであることが認められ、他にこの認定を覆えすに足りる証拠はない。

1 正文は、昭和四三年一二月二日、名古屋市瑞穂区所在の余語病院で出生(出生時体重三、七〇〇グラム)した。ところで、正文の兄である諸岡弘文が病気になつた際、名古屋市立大学附属病院で奥田医院を紹介され、被告奥田から治療を受けた弘文の経過がよかつたことから、正文の母である原告諸岡秋子は、正文が熱を出した際、正文も被告奥田から診察を受けさせようと考え、昭和四四年三月二九日を初診(初診時体重不明)として、昭和四五年八月二一日までの間(その間の体重は、昭和四四年七月一二日は9.4kg、同年一〇月二四日は9.7kg、その後は不明である。)、合計四四回にわたり、正文を奥田医院に通院させて被告奥田から診療を受けさせた。そのうち、正文が被告奥田から大腿部に注射を受けたのは合計三九回であり、その際の注射剤名、注射部位、量、体温等は、別紙注射状況10に記載のとおりである。

2 正文は、奥田医院に通院していた間、注射部位が赤く腫れることが何度かあつたが、目立つほどのものではなかつたところ、昭和四五年八月二〇日、帰宅後に左大腿の注射部位が赤くひどく腫れ上りひどく痛がつて泣いた。そこで、原告諸岡秋子がその旨を被告奥田に電話で伝えたところ、被告奥田は、よくもむようにと指示するのみであつた。ところが、翌日、正文が被告奥田から診察を受けた際、前日に正文の左大腿部がひどく腫れ、その腫れがまだ残つて熱感があつたのにも拘らず、被告奥田が正文の左大腿部に更に筋肉注射をしたため、原告諸岡秋子は、被告奥田の診療態度に不信を抱き、以後、正文を奥田医院に通院させるのをやめた。

その後、正文は、近所の橋本医院に通院し、昭和四六年七月に三重県四日市市に転居後は、岡本小児科に通院したが、そのいずれにおいても、大腿部への注射を受けていない。

3 ところで、正文が歩行を開始したのが昭和四四年一〇月ころであるところ、正文が二歳四か月のころ、原告諸岡秋子は、正文のおむつを替える際に、正文の左大腿部にしこりがあることに気付に、また、正文の祖父から正文の歩き方がおかしいのではないかと指摘されて、原告諸岡義雄は、正文が左足を外側に回して歩き、階段を横歩きでしか昇降できないという異常に気付いた。そこで、原告諸岡秋子は、昭和四七年九月、三歳児検診で、正文の足の異常について相談したが、癖ではないかと言われた。ところが、昭和四八年ころ、原告諸岡義雄は、正文と弘文がレスリングをしているのを見ていて、正文の尻がポコッと上るのを発見して驚き、正文を上から押えつけて脚を持ち上げてみて、正文に尻上り現象があることを確認した。そこで、原告諸岡秋子は、昭和四八年六月五日、近所の小児科医の紹介で、三重大学附属塩浜病院で正文を受診させたところ、注射による大腿四頭筋拘縮症と診断され、手術を勧められた。そして、正文は、同年七月二五日、同所で左大腿直筋起始部切離の手術を受け、その後、マッサージ等の治療を続けたが、福岡県甘木市に転居後、全身の健康状態は極めて良好になつたものの、左大腿部の障害は改善されなかつたため、昭和五七年七月二二日、北九州市立小倉病院で左大腿直筋筋腹部切離の再手術を受け、同所で担当医師から、正文の疾患は直筋型ではなく混合型である旨の診断を受けた。

4 正文の障害は、現在ではほぼ治癒しており、昭和五八年四月二日の時点で、左大腿近位部と中央部に手術痕及び知覚異常域があるのみで、尻上り角度、左膝屈曲制限とも〇となつているが、再手術以前については、尻上り角度及び屈曲制限は、後記尻上り角度表、屈曲角度表に記載のとおりであるほか、起立位腰椎前彎増強、出尻、正座異常(膝が揃わない。)、歩走行時左下肢外振出の異常があり、外部所見では、左大腿近位部の手術痕、左大腿中央部の索状物、膝蓋骨高位0.5cmが認められた。

なお、正文は、右大腿部中央にも陥凹があり、昭和五一年四月二〇日の時点では、右脚にも障害が認められたが、その後、この障害が認められないことからすると、この右脚の障害は、治癒したものと認められる。

尻上り角度表

(左)

昭和四九年七月  八〇度

昭和五〇年四月  四〇度

昭和五二年八月  四〇度

昭和五三年六月  二四度

昭和五五年六月  三〇度

昭和五六年五月  三〇度

昭和五七年七月九日  二五度

昭和五八年四月二日  なし

(右)

昭和五〇年四月二〇日  一二〇度

屈曲角度表

(左)

昭和五七年七月九日  一四〇度

昭和五八年四月二日  なし

第六章  具体的因果関係

一総説

1前記第五章で認定のとおり、原告正文を除くその余の原告患児らは、現在もその左大腿部が本症に罹患しており、原告正文は、かつてその左大腿部が本症に罹患していたものと認められるのであるが、右各患児の左大腿部のどの部分に線維化ないし瘢痕化が生じたのかを直接に証明する証拠はない。

そこで、各患児の外部的症状及び手術部位等から障害部位を推認できるか否かについて検討すると、前記第三、第四章で取上げた研究報告を綜合すれば、直筋型と混合型の判定は外部的臨床所見(特に関節運動制限)の別による判定に過ぎないことが認められることから、そのような診断をうけたことだけから直ちに障害部位を確定することはできず、従つて、手術歴のない原告めぐみについては、その障害部位を明確に認定することは困難であるが、手術部位が判明している患児については、当該手術により一時的にせよ症状の改善が認められている場合には、当該手術を加えられた筋のみではないにしても少くともその筋に瘢痕化等があつたことを推認できると考えられる。この観点から前記第五章で認定の各事実に検討を加えると、原告毅(直筋型・直筋起始部切離)は大腿直筋に、原告武司(直筋型・直筋筋腹部切離)は大腿直筋に、原告裕一(混合型・直筋起始部切離)は大腿直筋に、原告隆仁(直筋型・直筋筋腹部切離)は大腿直筋に、原告守孝(混合型・直筋筋腹部切離)は大腿直筋に、原告和樹(直筋型・手術内容不明)は大腿四頭筋の一部に、原告博之(直筋型・直筋筋腹部切離)は大腿直筋に、原告広志(直筋型・直筋起始部切離)は大腿直筋に、原告寿孝(混合型・直筋起始部切離)は大腿直筋に、原告正文(混合型・直筋起始部及び筋腹部各切離)は大腿直筋にそれぞれ障害を有していたものと推認される。ただ、右各部位以外の左大腿組織に障害がなかつたことまでは認めるに足りる証拠はないのであるが、結局、少くとも前記各部位には瘢痕化等何らかの障害があつたことを推認できるところである。

2そして、原告患児らの前記認定の注射状況及び母親らの記憶からすると、このような左大腿部組織の障害を惹起させたかもしれない侵襲としては、被告奥田の投与したグレラン注またはレスミンの筋肉注射以外に考えることはできない。

即ち、原告患児らの母親らはその本人尋問において、いずれも被告奥田の注射以外に原告患児らが大腿部に注射を受けたことはない旨供述しているところであるし(なお、母親らの記憶の正確性については、前記第四章四1で検討したとおりであるが、同項で既に判示のとおり、特定医で多数回の注射を受けた後に発症している場合には、それ以前の注射による発症の可能性よりもこの特定医での注射による発症の可能性を肯定すべきであり、従つて、仮りに原告患児の母親らの供述内容に若干不正確なところがあつたとしても、この点は、比較的軽視してよいと考えられ、他にこれら供述の信用性を左右するに足りる証拠はない。)、一方、原告患児らが先天的に本症に罹患していたことを認めるべき証拠もないところである。また、原告武司が未熟児出生であることは前記第五章三1に認定のとおりであるが、原告奥村祐子本人尋問の結果によれば、武司は保育器に入らなかつたことが認められ、このことから、武司の出生時の全身状態等は健常児と大きな差がなかつたものと推認され、他にこの推認を覆えすに足りる証拠はなく、また、原告諸岡秋子本人尋問の結果によると、原告正文は、出生直後筋性斜頸に罹患しており、約二か月間のマッサージにより、生後約三か月でこれを治癒させたことが認められるが、このことのみで正文の本症罹患が先天性のものであると推認することはできない。

3以上の事実を前提とすると、仮りにグレラン注及びレスミンの溶血性またはこれらの注射剤の成分の溶血性が強いとすれば、原告患児らは、いずれもこれらの注射によつて本症に罹患したものと認定して差支えないことは前記第四章四のとおりである。

そこで、この観点から原告患児らの本症罹患とグレラン注との具体的因果関係について検討を加える。

二グレラン注との具体的因果関係

1(原因注射となり得る可能性の検討)

まず、グレラン注及びレスミンが本症の原因注射となり得る程度の溶血性等の特質を有しているか否か等について検討する。

(一) (グレラン注の成分)

〈証拠〉によると次の(1)(2)の事実が認められる。

(1) 昭和二五年七月二五日付及び昭和三四年三月二〇日付許可(許可の内容については後記第七章三2(二)で検討する。)にかかるグレラン注(品名は、グレラン注射液)は、一アンプル二cc中にピラビタール0.2g、アミノピリン0.1g及びウレタン0.25gを含有していた。

(2) 昭和三五年二月一六日製造許可事項の変更許可にかかるグレラン注は、一アンプル二cc中にピラビタール0.2g、アミノピリン0.1g、ウレタン0.15g、サリチル酸アミド・O・酢酸ナトリウム0.3g、オキシメタンスルフォン酸ナトリウム0.01gを含有していた。

(二) (グレラン注の組織障害性等)

(1) グレラン注に関する溶血性試験等の結果は、次のとおりである。

① 森忠男(文献H―9)は、健康人の人血を用い、赤血球が浮遊している溶液に起る血色素を肉眼的に観察(一〇度Cで二四時間放置)した結果、グレラン注が完全溶血(赤インクの如く透明になり沈渣なし)を示したと報告している。なお、森が用いたグレラン注は、森の報告が昭和二八年であることからすると、昭和二五年七月二五日付許可にかかるものであると推認される。

② 赤石(文献F―14)は、グレラン注にチトラート加ヒト全血を混和したのち遠心し、これを肉眼的に観察した溶血試験で(濃暗赤褐色に変色)の反応を示し、極めて溶血性が強いものであると報告しているほか、証人赤石英は同人の行なつた動物実験に関する限り、溶血試験の注射液で組織障害性の認められなかつたものはないと証言している。赤石の用いたグレラン注はその実験時期からして、昭和三五年二月一六日付製造許可事項の変更許可にかかるものと推認される。

(2) グレラン注またはその成分に関する組織障害性についての動物実験結果は、次のとおりである。

① 新谷(文献I―10)は、一〇%ウレタン溶液一回注射後五時間でウサギの仙棘筋が褐色変性したと報告している。これを証人久永直見の証言、甲第九二、第九三号証(証人久永直見)によつて敷えんすると、昭和三五年二月一六日付製造許可事項変更許可後のグレラン注のウレタン濃度に近い一〇%のウレタン溶液を右仙棘筋に注射し、五時間後、四八時間後に筋肉の変性をみると、いずれも褐色に変性し、小さな壊死を起していることが認められ、ウレタンの組織障害性がかなり強いことを示している。

② 証人赤石英は、兎の大腿筋を用いたグレラン注0.5ml投与実験で、一回注射例でも五回注射例でも著しい筋の褐色変性が見られ、五回注射例の組織所見では筋の壊死が見られたこと、但し、一回注射例と五回注射例とで障害の程度の比較は行なつていないものの、実験結果写真を比較すると、肉眼的には、変色部の色に差はないが、その範囲が五回注射例の方がやや広いように思われること、なお、赤色は、変色部では出血ではなく筋の変性であること、以上を証言している。

(3) その一方、原告患児らのうち、原告毅、同めぐみ、同裕一、同守孝、同博之の五名は左大腿部にはグレラン注の投与しかうけておらず、他の注射剤による注射の事実がないのに、左下肢に本症の発症をみており、このことは、右原告患児らに、注射以外に本症罹患を首肯させるような原因を発見できない限り、グレラン注の組織障害性がその原因となつていることを強く示すものである。

(4)第四章四2(四)、第五章で認定のとおり、原告守孝を除くその余の原告患児らは、右大腿部にペニシリン、パラキシンを注射されており、このうち、原告裕一、同隆仁、同和樹、同正文はその後右大腿部につき本症に罹患したのであるが、いずれもその症状が軽微で、しかも現在では治癒ないし相当程度緩解しているところ、右ペニシリン、パラキシンの溶血性はグレラン注よりはるかに低い(±)である。従つて、この事実もグレラン注と本症とのつながりを示すものとみることができる。

(5) これまで多数報告されている全国各地からの症例報告中にも、グレラン注の既往を有する者は、被告奥田にこれを投与された患児以外には現在のところ見出されていない。

この事実は、後記認定のようなグレラン注の全国販売量からすると、グレラン注の組織障害性を判定するうえでの消極資料になると考えられるし、またその一方で、被告奥田のグレラン注の投与方法に他医と異る特殊な状況があつたかを窺わせるものである。

しかし、次のことからすると、右の事実も直ちにグレラン注と本症との具体的因果関係を否定する根拠にならないと言うことができる。

(イ) 前記第四章で認定のとおり、本症の原因注射として報告されている注射歴より以前に、またはそれ以外に(特に出生直後に)注射されていたり、親らが注射の事実を失念しているということは決して稀ではないのであるから、そもそも原因注射とされているものが、実際の原因注射となつているか否かはかなり疑しいこと。

(ロ) 日本小児科学会筋拘縮症委員会の報告書(文献A―99)で引用している自主検診団の調査結果によると、北海道、佐賀、長崎、鹿児島を除く二七五八名の本症罹患患児のうち注射薬が判明しているのは、抗生物質三七四、下(解)熱剤一七五、その他一二二に過ぎず、しかも下(解)熱剤一七五の内訳はスルピリン三七、不詳一三八というのであるから、むしろ原因注射の不明例が圧倒的に多いのであり、このような不明例の中にグレラン注が混つている可能性は否定できないこと。

(ハ) 後記のとおり、グレラン注は本来鎮痛を主効能とするものであつたから、小児に対する使用は成人のそれに比べて相対的に少なく、このことは乙C第一〇号証の一ないし四〇、第一六号証の一、二、第一八号証からも窺われるところである。このように症例報告中にしばしば登場する薬剤に比べ、小児臨床の現場で使用される割合が少ないことも、グレラン注を原因注射とする報告がほかにないことの一因と考えられる。

これらのことからすると、被告奥田のところで発症した患児のほかにグレラン注の既往が判明している本症症例の報告例がないことは、必ずしもグレラン注による症例の客観的な不存在を推認させるものではなく、従つて、右既往の判明している症例がなくても、グレラン注により本症が発症することがないとは断定できないものと言うべきである。

結局、本件では、グレラン注射剤の化学的性状その他から本症発生の可能性等について考察すべきであると解するのが相当である。

(三) (レスミンの組織障害性等)

別紙注射状況表〔略語〕欄二のとおり、レスミンについては、その商品名を特定することができないが、いずれにしても塩酸ジフェンヒドラミンを主成分とする抗ヒスタミン剤である点には変りはないから、この主成分に関する点では、他の商品名のものについての実験結果等をも参考にしても差支えないと考えられる。しかし、松島(文献H―25)の示唆するように、各製品毎に補助剤等が異つていることも十分に考えられる。

そこで、この点に留意しつつ、一般的に塩酸ジフェンヒドラミン剤の溶血性等について更に検討することとする。

(1) 塩酸ジフェンヒドラミン剤に関する溶血性試験の結果は、次のとおりである。

① 証人赤石英は、レスタミンの溶血性を(赤色・混濁)と報告しているが、後に、レスミン一%及び1.5%のいずれも(赤色・澄明)と証言している(文献F―14)。

② 松島(文献H―25)は、レスタミンコーワの溶血性を五分経過後では(−)、三〇分経過時で最大溶血と報告している。

(2) 証人赤石英は、レスミン一%(商品名等は不明)に関する兎を用いた動物実験結果について、次のように証言している。

① ペニシリン・ゾルとクロラムフェニコール・ゾルを注射した部位ではどこに注射をしたのか分らないほど筋の変化が弱い。

② レスミン一%の注射部位の変化は著明で、赤色をしている。

なお、赤石の実験結果を示す写真を見ると、肉眼的には、グレランよりも変性部位が明るい赤色を呈している。

(3) 筋拘縮症患者に抗ヒスタミン剤の注射既往を有する者が多いことは、阪本(文献A―63)その他の報告があり、特に三角筋拘縮症に関連して、レスタミンコーワ等の塩酸ジフェンヒドラミン剤の注射歴の存在が、多くの研究者から指摘されている(前記第三章四43)。特に、大吉(文献B―12)は、抗ヒスタミン剤による筋の線維化等を推定している。

仮りにこれらの報告例の注射歴が原因注射であるとすれば、塩酸ジフェンヒドラミン剤は、現実にヒトの筋拘縮症を惹起する可能性の高い薬剤であるということができる。この点で、本件証拠上、被告奥田の下における患者以外にグレラン注射ないしピラビタール剤の注射歴を有する筋拘縮症の患者例の報告がないのと事情は著しく異なる。

(四) (拘縮発生可能性の比較)

(1) 溶血性のみの比較では、レスミンよりもグレラン注の方が強く、従つて、グレラン注の方が拘縮を起し易いようにも考えられるが、西島(文献G―7)の実験結果によれば、赤石の方法による溶血性との各注射剤間で拘縮発生率に差が認められていないことからすると、このレスミンとグレラン注の溶血性の単純な比較だけでは、どちらが拘縮を惹起する可能性がより高いかをにわかに判定することはできない。

(2) 動物の筋肉の変性の程度でも、レスミンとグレラン注とで変性の程度に優劣があることを認めるに足りる証拠はない。〈証拠〉によると、赤石は、兎の大腿筋にグレランとレスミンを一回注射して一週間後に局所を観察したが、いずれも当該部分に著明な変色をきたしていたものの、その程度についてはそれ程大きな差のなかつたことが認められる。従つて、この観点から、レスミンとグレラン注のどちらが拘縮を惹起し易いかを判別することはできない。

(3) 既に認定のように、報告されている本症患児の注射歴からすると、レスミンその他の抗ヒスタミン剤が非常に多いのに対し、グレラン注の報告は、少くとも本件証拠上は被告奥田の下における患者以外にはないのであるが、弁論の全趣旨から、グレラン注の年次総生産高が事実欄第二章三B被告グレランの主張1(四)の表に記載のとおりであると認められることからすると、これは、見方によつてはかなり奇異なことであり(但し、本章二1(二)(5)参照)、研究者の中にも、使用頻度からすると、解熱剤ではスルピリンよりもピラビタールの方が多いのに、本症患者がない点について、ピラビタールが水に溶けにくいことを指摘する者もある(前記第四章五2(二)(4))。

いずれにしても、仮りにこれ迄の症例報告の中で指摘されている注射歴がそのまま原因注射であるとすれば、一般的にレスミンの注射による発症の可能性の方がグレラン注よりもはるかに高いと言うことになる。

(五) (原因注射となり得る可能性についてのまとめ)

(1) 前記諸事実を彼此較量すると、グレラン注、レスミンのいずれも強い溶血性とこれに伴なう組織障害性を有しており、グレラン注は単独でも本症罹患の原因注射に十分なり得る。

(2) グレラン注がレスミンよりも本症を発症させる可能性が高いとは必らずしも断定できない。

2(府川実験について)

被告グレランの研究開発本部薬理病理室の研究員である府川和永は、「乳幼児の大腿四頭筋拘縮症に関するグレラン注の後臨床試験」と題する動物実験(文献G―11・以下、府川実験という。)を行なつているが、その内容及び結果は文献表Ⅱ・G―11に記載のとおりである。

被告グレランは、府川実験の結果を根拠として、「グレラン注を厚生大臣の許可条項である能書記載の用法、用量に従い、医療の常識どおり筋注の都度注射部位を変更して施用する限りにおいては、筋肉組織に対する障害性は極めて軽微で、原告らの主張する強い催炎性はなく、まして、筋拘縮症のような筋機能障害に連なるものとは全く言えないことが明らかになつた。」と主張している。

そこで、府川実験が被告グレランの右主張を根拠づけ得るものであるか否かについて検討する。

(一) (実験方法の妥当性)

(1) 府川実験における兎の股関節伸展性の計測法は、兎を仰臥位に前肢及び頭部を保定し、膝関節伸展位で両後肢を平行に保ち、左右同等の力で股関節を最大に伸展させ、無理なく安定したところで左右それぞれの股関節伸展角を分度器を用いて計測するというものである。このような計測方法が採られた理由は、兎においては膝関節は屈曲位が常態であることから、ヒトにおける測定方法をとらず、股関節伸展角度の測定を採用したもののようである。

証人宮田雄祐の証言並びに前記第三章二2で認定の本症の機能障害に関する知見によれば、この方法では、ヒトの場合における直筋型に準じる場合にのみ変化が現われること、兎の膝関節が本来屈曲位を常態としているのにこれを伸展位に保つて計測するため、大腿部の筋その他の組織にたわみが生じ、従つて、相当大きな拘縮が起きている場合でなければ変化が現れ難いという重大な欠陥があること、また、ヒトにおいてさえ、股関節伸展角度の測定では、骨盤が浮いて遊び角度が生ずるため軽症例の診断が困難であることが認められ、これらの点からすると、そもそも、股関節伸展角の測定は、重症の主として直筋型の拘縮症にのみ有用性があるものと考えられる。

以上からすると、府川実験における関節伸展角度測定法には、その拾い上げることのできる変化に限界があることは明らかであり、従つて、この測定法で得た測定値のみから拘縮発生の有無を判定することはかなり危険である。

(2) また、股関節伸展角度の測定時期についても問題がある。

即ち、府川実験では、注射完了後六週目から筋展性試験(測定)を行つているのであるが、このことについて証人府川和永は、角度測定の際に必要な麻酔剤(ペントバルビタール・ナトリウム)の静注を繰返すことが困難であると考えられたこと、西島の実験(文献G―7)において見られた拘縮型と改善型との区別が注射完了後六週以後で固定すると考えられたことから、完全拘縮の有無の確認のためには六週後の測定のみで足りると判断したことがその理由である旨証言している。

しかしながら、前記第四章で検討したとおり、兎の再生力はヒトのそれよりも大きいと考えられ、従つて、本症との関連では一時的にせよ兎に拘縮が起り得るか否かが重要であると考えられるところ、西島の実験では、注射完了後全過程を通じて変化の認められない正常型(Ⅰ型)、注射完了後一週後には拘縮を示すが一か月後までには正常に復する早期改善型(Ⅱ型)、注射完了後一か月後には拘縮を示すが三か月後までには正常に復する改善型(Ⅲ型)及び注射完了後全過程を通じて拘縮の認められる拘縮型(Ⅳ型)の存在が確認されており、伊藤位一の実験(文献G―10)でも注射完了後一八日目で拘縮があつても三六日目では拘縮が判定できなくなる例のあることが認められているのであるから、このように一過性でも拘縮が発生するか否かが観察されなければならず、そのためには、注射完了後三週ないし四週目での角度測定は必須であると考えられる。しかるに、府川実験では、注射完了後六週目以前の観察が全くなされていないのであるから、この点においても府川実験には欠陥が存するものと言わざるを得ない。

(二) (実験結果の妥当性)

府川実験の結果は、「三倍標準量注射群残存一八例の股関節伸展角差はマイナス二ないしプラス一度の範囲で変動したが、この伸展角差は機能上の差があるとは認められず、生理的に正常なものと判断した。」となつている。

しかし、この結論は、その前提となる成績の分析においても、判断においても問題がある。即ち、府川の分析方法は、注射側(r)の測定角度から対照側(l)の測定角度を差し引いた差(rマイナスl)によつて求められた数値を基礎としているのであるが、そもそも、兎に対するグレラン注の注射開始前においてrとlとが同値であつたことを認めるに足りる証拠はなく、従つて、単にrとlとを比較したのみでは、確実な拘縮発生有無の分析とはなり得ないのである。

また、実験結果として差が出ていることと、その差が生理的に異常でないこととは別の問題であり、府川の実験では、この点が混同されているという誤りがある。本症の患児でADL障害がないかまたは極めて小さい例が少なくないことは前記第三章四の諸報告にみられるとおりであるから、拘縮の発生自体とその程度とは区別すべきであつて単に得られた結果に生理的機能の異常が示されていないことのみをもつて拘縮が発生していないとは判断できないのである。

(三) (府川実験についてのまとめ)

以上の各観点からすると、本実験が赤石や久永の報告に対抗する形で意図された点は措くとしても、この実験報告が被告グレランの主張を十分に裏付けるものと言えないことは明らかである。

3(原因注射剤の特定)

前記第五章で認定のとおり、原告患児らの中にはその左大腿部にグレラン注のみを注射された者とグレラン注及びレスミンの両方を注射された者があり、そして、本章二1で認定のとおり、グレラン注及びレスミンは、いずれも本症を容易に惹起させることができる程に強い溶血性を有する注射剤である。

しかるところ、注射回数頻度が増えれば、本症罹患の確率も高くなることは第四章四2で認定のとおりである。そこで、各原告患児らについて、前記第五章、後記第七章二で認定の本症に罹患したと考えられる時点以前の注射総本数とこれを投与された頻度を検討し、更にグレラン注とレスミンの両方を左大腿部に注射されている原告患児らについてはレスミンの影響度を考えることにより、原告患児らがグレラン注の投与を原因として本症に罹患したものと認められ得るか否かにつき検討することとする(なお、注射本数に関しては、本件証拠上注射状況を確定できない原告守孝を除く。)。

(一) (注射本数からの検討)

(1) 前記第五章で認定の各事実によれば、原告患児らの左下肢に本症の症状を窺わせる異常がみられた時期までに左大腿部にうけた注射の総本数及びその状況等は、次のとおりである。

(イ) 原告毅

グレラン注合計一〇本

但し、昭和四六年五月一三日及び同月一四日に合計二本連続注射後、同年六月二三日から同年七月二日までほぼ連日合計八本連続注射。

(ロ) 原告めぐみ

グレラン注合計四一本

但し、昭和四五年七月二四日から同月二九日まで連日合計六本連続注射、同年八月一四日及び一五日に合計二本連続注射、昭和四六年一月六日から同月一三日までほぼ連日合計六本連続注射、同月二三日及び二四日に合計二本連続注射、同年一二月二六日から昭和四七年一月二日までほぼ連日合計七本連続注射。

(ハ) 原告武司

グレラン注合計二八本または二九本(昭和四五年一一月一二日グレラン注は左右不明)

レスミン一本

但し、グレラン注については、昭和四五年一一月二七日及び二八日に合計二本連続注射(同年一二月一三日から同月一九日まで連日合計七本連続注射、昭和四六年一月三一日から同年二月二日まで連日合計三本連続注射、同年四月一七日から同月二三日までほぼ連日合計五本連続注射、同年五月一三日から同月一五日まで連日合計三本連続注射、同月二一日から同月二七日までほぼ連日合計五本連続注射。

(ニ) 原告裕一

グレラン注合計二本または六本(生後六か月検診の実施時期が昭和四四年五月であるとすると二本、同年六月であるとすると六本)

但し、昭和四四年五月二一日から同月二三日まで連日合計三本連続注射。

(ホ) 原告隆仁

グレラン注合計二五本

但し、昭和四四年五月一二日及び一三日に合計二本連続注射、同月二三日から二六日までほぼ連日合計三本連続注射、同年九月二〇日から同月二三日までの間ほぼ連日合計四本連続注射、同年一二月一五日から同月二一日までほぼ連日合計五本連続注射、同月二九日から昭和四五年一月三日までほぼ連日合計三本連続注射。

(ヘ) 原告和樹

グレラン注一〇本ないし一一本(症状発現が昭和四五年九月ころとすると一〇本、昭和四六年九月ころとすると一一本)

但し、昭和四四年一月二七日から二九日まで連日合計三本連続注射、同年一〇月五日及び六日に連日合計二本連続注射、昭和四五年六月二六日及び二七日に連日合計二本連続注射。

(ト) 原告博之

グレラン注合計一三本

但し、昭和四五年九月六日から同月一三日までほぼ連日合計六本連続注射、昭和四六年二月二〇日から同月二五日までほぼ連日合計四本連続注射

(チ) 原告広志

グレラン注合計三六本

レスミン合計一七本

但し、グレラン注については、昭和四四年二月七日から同月一〇日までほぼ連日合計三本連続注射、同年四月八日から同月一三日までほぼ連日合計五本連続注射、同年六月一一日から同月一五日まで連日合計五本連続注射、同年七月二九日から同年八月四日まで連日合計七本連続注射、同月一四日から同月二一日までほぼ連日合計六本連続注射。レスミンについては、昭和四三年一〇月三一日から同年一一月二日まで連日合計三本連続注射、昭和四四年二月九日及び一〇日に合計二本連続注射。

(リ) 原告寿孝

グレラン注合計一三本

レスミン合計二本

但し、グレラン注については、昭和四四年九月二〇日及び同月二二日に合計二本連続注射、昭和四五年一月二〇日及び同月二二日に合計二本連続注射、同年二月二〇日から同月二二日まで連日合計三本連続注射、同年三月七日から同月一一日まで隔日合計三本連続注射。レスミンについては、昭和四五年九月二〇日及び同月二二日に合計二本連続注射。

(ヌ) 原告正文

グレラン注合計二九本

レスミン合計六本

但し、グレラン注については、昭和四五年五月一八日及び一九日に合計二本連続注射、同年六月一二日及び一三日に合計二本連続注射、同年七月一日から同月三日まで連日合計三本連続注射、同月二二日及び二三日に合計二本連続注射、同年八月一五日から同月二一日までほぼ連日合計四本連続注射。

(2) 久永の報告書(文献A―100)によれば、被告奥田からその大腿部に一本のグレラン注を注射され、他に注射歴のない本症患児が原告患児以外にあることが認められる(但し、甲第三二五号証によると、当該患児についての被告奥田のカルテは既に廃棄されており、その注射歴は母親の記憶に基づくものであると認められる。)。

(3) 以上によれば、本件証拠上、原告患児らを含め、グレラン注の既往が判明している本症患児の本症発症ないし症状発現が明らかとなるまでの注射本数には相当のバラつきがあるとはいえ、最低が一本であること、二日以上にわたつてグレラン注を連日またはほぼ連日連続投与した場合の各連続注射毎の連用注射本数は二本ないし八本(平均約四本)であることが認められ、また甲第七五号証(証人久永直見)によると、久永が調査したところでは、被告奥田のところでグレラン注の投与をうけて本症に罹患し、かつカルテ内容が明白になつている患児の最小注射本数は七本であることが認められる。これらの事実と、溶血性陽性の注射剤に関する本症の発症と注射回数の関係が前記第四章四(三)のとおりであることからすると、左大腿部にグレラン注のみを投与され左下肢に本症を罹患した原告患児らについては、そのグレラン注がこの原因注射であると認められ、それも、当初の少本数で本症に罹患した可能性が少なくなく、また、その連用により罹患あるいは不可逆的に症状が悪化したと仮定しても、そのためには、これまた比較的少本数の連用で右症状に達した可能性を否定できないと考えられる。

(二) (レスミンによる影響の程度)

右に認定のとおり、原告患児らのうち、本症の症状が明らかになる以前にグレラン注及びレスミン双方の注射既往を有する者は、原告武司、同広志、同寿孝及び同正文の四名である。

そこで、これら原告患児の本症発症に対するレスミンの注射による影響の有無について検討を加える。

(1) 溶血性の強い注射剤では一回注射を含む比較的少本数の注射で本症を惹起させることがあること、注射量が多いことにより本症の症状が増悪すること、複数回の注射により筋管等が形成途中で破壊され筋の再生に支障を与える可能性が高まることは前記第四章で認定のとおりであり、被告奥田の患者で本症罹患前にグレラン注一本の注射歴しかない本症患児のあること、グレラン注が強い溶血性・組織障害性を有する注射剤であることは、既に認定してきたとおりであるから、グレラン注の一回注射により本症が惹起されることのあることは理論的にも現実的にもこれを肯定できるものと認められる。

(2) ところで、原告武司、同広志、同寿孝及び正文は、前記第五章で認定のとおり、いずれも、被告奥田からその左大腿部に最初に注射されたのがグレラン注なのであるから、右の意味で最初のグレラン注の注射により本症に罹患した可能性は理論的にはこれを否定することができないのであるが、他方、本章二1で認定のとおり、レスミン注も強い溶血性を有する注射剤であるから、これまた一回注射により本症を惹起させることのあることを否定できない。

そこで、右患児らの当初ころの注射状況を見ると、原告武司では、昭和四五年一一月一〇日にグレラン注(1.2cc)一本、同月一一日にレスミン(0.25cc)一本、同月一二日にグレラン注(1.2cc)一本と連続注射されており、原告広志では、昭和四三年一〇月三〇日にグレラン注(一cc)一本、同月三一日、同年一一月一日、同月二日にレスミン(0.25cc)各一本と連続注射されており、原告寿孝では、昭和四四年九月一日にグレラン注(1.6cc)一本注射後、同月二〇日にグレラン注(1.6cc)及びレスミン(0.25cc)各一本、同月二二日にグレラン注(1.6cc)一本と連続注射されており、原告正文では、昭和四四年四月二三日にグレラン注(1.6cc)一本、同月二五日にレスミン(0.25cc)一本と連続注射されているのであるから、レスミンとグレラン注とが複合的な原因となつてこれら患児にそれぞれ本症を発症させた可能性もまたこれを完全に否定することはできないのである。

このようにみてくると、これら四名の原告患児らがグレラン注のみによつて本症に罹患したことを確定することはできないが、その一方、最初の一本ないしはその後のグレラン注によつて本症に罹患したことを否定することもまた困難であるといわねばならない。

(三) (久永直見の見解)

(1) 名古屋大学衛生学教室の久永直見は、被告奥田から注射をうけ、かつ他医での注射歴のない本症患児合計二〇名のカルテによる分析結果を報告し(文献A―94)、さらに右報告後発見された患児一名を加えた二一例(この中には、原告守孝を除く原告患児一〇名が入つている。)の分析結果について証言している(なお、同様の分析結果は森谷光夫からも報告されている。文献A―96)。

久永は、その結論として、被告奥田の下における患児では、左大腿部にグレラン注とレスミン、右大腿部にパラキシンとペニシリンがそれぞれ打ち分けられているが、右に打たれた注射本数の方が多いこと、グレラン注、レスミン群の方がパラキシン、ペニシリン群よりも拘縮の程度が強いこと、グレラン注とレスミンの合計が二九本以下注射群と三〇本以上注射群とでは後者の方が尻上り角度が六〇度以下になることが多いこと、グレラン注二六本以下注射群と二七本以上注射群とでは後者の方が尻上り角度六〇度以下になることが多いこと、注射本数の増加に従つて尻上り角度が減少し、重症化の傾向にあること、以上のことが統計学的に認められるとし、更に、グレラン注とレスミンとではグレラン注の方が拘縮を惹起させる影響力が大きいこと、被告奥田のところでは右大腿部のペニシリン、パラキシン及び左大腿部のレスミンともハルナックの薬用基準を超えていることなどからして、グレラン注の「量」が本症罹患の原因ではなく、グレラン注のような筋障害性の強いものであれば通常量の使用でも本症は十分起り得ると考えている旨証言している。

(2) 久永がグレラン注とレスミンの影響力について右のように考えた根拠として、同人は、統計学的な処理からは推論できないが、赤石の実験結果に加え、前記二一例中ではグレラン注のみで発症したものが六例あること、レスミンの本数がグレラン注より少ないこと、グレラン注一二本で重症化し手術を要するに至つた例があることをあげている。

(3) ただ、久永の統計分析は、その方法においては必ずしも不当ではないにしても、前提になる資料の設定において問題がないわけでなく、従つて、この分析結果をそのまま採用することはできない。即ち、久永は、各患児について注射総本数の比較による検討を試みているのであるが、本章二3で認定のとおり、原告患児らに本症に特有の症状が著明となつたことが証拠上明らかとなつた時期までの注射総本数については、比較的少ないものがあり、しかも、親が原告患児らに右症状の現れていることに気付いたのが実際の症状発現時期より遅れた疑いも十分にあると考えられるのであるから、右認定にかかる注射本数から更に相当本数を差し引いた注射本数の時点で原告患児らが不可逆的な大腿組織の変化を被むつていたものと推測するのが合理的であり、その後の注射は、本症の罹患それ自体とは関係がないのであるから、発症に関してはこれを考慮に入れるのは相当でなく、従つて、この意味において、久永が注射の総本数を分析の基礎においたことには疑問がある。

(4) 以上からすると、久永の分析報告は、グレラン注が原告患児らに対する原因注射であることを裏付けるものである。しかし、レスミンとの関係では、原告武司、同広志、同寿孝及び同正文の本症罹患につきレスミンが影響している可能性を全面的に否定する根拠にはならないものと考えられる。

4(被告奥田の頻回大量注射について)

被告奥田を除くその余の被告らは、原告患児らが仮りにグレラン注によつて本症に罹患したものであるとしても、被告奥田が通常の薬用量による普通の頻度で、その適応に従つてグレラン注を投与していれば本症が発症することはあり得ないのであるから、原告患児らの本症罹患の原因は被告奥田による大量かつ頻回のグレラン注の注射によるものであつて、グレラン注自体とは因果関係がないと主張している。これは、これを主張する被告らの責任の有無に関する主張であるが、同時に具体的因果関係に係わる問題でもあり、責任の前提として、グレラン注の頻回多量注射こそが原告患児らの本症発症の必要条件となつていたか否かを検討しなければならない。

(一) この点については、注射と本症発症の一般的因果関係の問題としては、前記第四章四で検討をすませたのであるが、一般的には注射回数及び量の多いことが本症発症の確率を高め、障害の程度を増悪させるとしても、強い溶血性を有する注射剤では、一回注射を含む少数回注射で、かつ標準投与量ないしはこれをそれ程超えない量で、少なくとも西島のⅢ型に相当する本症を発症させる可能性が認められ、かつ、グレラン注が極めて強い溶血性をもち、現にグレラン注の一回注射(但し、標準量の四倍量と推測される)後に本症に罹患した患児の例のあることを認定したところである。

そして、本症発症の可能性に関する限り、溶血性の極めて強いグレラン注においては、右一般的因果関係として認定した知見の枠外にあるとは考えられないから、原告患児らの本症罹患が、大量かつ頻回のグレラン注投与を必要条件としたとは認められない。

(二) 注射回数についてこれをみれば、前記第五章で認定の注射状況と原告患児らに本症の発症を窺わせる外部的徴憑の発現した時期との関係では、原告裕一は、グレラン注一cc二回注射で本症に罹患した可能性を完全に否定することはできず、最大でも1.4cc六回注射を併せた合計六本であり、原告博之は、グレラン注1.2cc七回注射で本症に罹患した可能性を完全に否定することはできず、最大でも1.8cc四回注射を併せた合計一一本であり、他の原告患児らでも、極めて少本数で本症に罹患した可能性を完全には否定し切れないところである。

(三) ただ、一回注射量の点であるが、被告奥田は後記第七章五1で認定のように、原則としてハルナックの計算方式による薬用量の四倍量を原告患児らに投与してきたのである。そして、このような量の大きさを軽視することは相当でなく、これによつて、本症発症の確率が一段と増加したと考えられるのであるが、この点についても四倍量であることが発症の必要条件とまで言い切るに足りる証拠はない。

しかるところ、グレラン注の大量注射によつてのみ、はじめて原告患児らが本症に罹患したと言うのであれば、溶血性の強い注射剤と本症との条件関係が前記のとおりであると認められる以上、その立証責任はこれを主張するものにあると解すべきところ、これまでの認定事実を綜合してもそのような立証があつたとは言えないばかりか、却つて、原告武司の最大一回注射量は1.8cc(3.6倍)、原告裕一の第五章で認定の外部的症状発現までの最大一回注射量は1.4cc(2.8倍)、原告博之、原告広志の外部的症状発現までの最大一回注射量はいずれも1.8cc(3.6倍)であることは、前記第五章で認定の注射状況等から明らかであり、少なくともグレラン注の四倍量注射が本症の必須的要件ではないことが示唆されているのである。加えて、証人久永直見は、甲第二号証における保坂武雄の「直筋の骨盤よりの腱は、始め直筋の筋線維の前を通り、そのあと筋肉の中を走つた大腿の下三分の一位まで達している。一方膝蓋骨についている腱は、直筋の筋肉の後面を板状になつて骨盤に近い所まで達している。乳児では、筋線維は約二cm程度でこの上下の腱の間に斜についている。かつ腱と腱との直線距離は大腿下三分の一の部分では0.5cm以下の所もある。」との解剖学的説明に基づいて、グレラン注の一歳児の標準使用量0.5ccでも、こういう部分に入れば本症は十分に起り得ると考えている旨証言している。

(四)  こうしてみると、一般的因果関係としても判断したように、本症発症の可能性という点に関する限り

(1)  原告患児らの本症罹患が、頻回のグレラン注投与を必要条件としたとは認められない。

(2)  小児標準投与量の四倍量という量の大きさを看過することは相当でなく、これによつて、発症の確率は一段と高まると考えられるが、標準量をこえる注射量によつてのみ、本症が発症すると結論することはできない。

と認められ、この点についての右被告らの主張は理由がない。

5(発症率の問題)

(一) 被告奥田本人尋問の結果(第一、二回)によると、被告奥田がグレラン注を注射した総患者数は、推定概数で少なくとも約七千名であり、原告患児らと同程度の注射頻度等で、かつカルテの残つていた患者は二六六名であるというのであるが、証人久永直見の証言、甲第七四号証(証人久永直見)によると、同人が調査したところでは、被告奥田のところで本症に罹患したと考えられる患児(但し、厚生省診断区分Aに該当するもの)は二七名(但し、甲第三二五号証から認められる患児一名がこの中に入つているか否かは不明である。)であり、これは、右注射人員総数に対する割合では約0.38%、同程度注射の二六六名に対する割合は約9.74%である。

(二) 一方、前記第四章五6(二)で認定のとおり、最も母集団の確実な宮城県における全学童生徒を対象とした統計調査の結果では、本症の発症率は0.1083%とされているのであるから、単純にこれと比較しても、被告奥田からの注射既往を有するものの本症発症率は異常に高値であるというべく、このことは注射と本症の一般的因果関係、さらにはグレラン注及びレスミンとの具体的因果関係を裏付けるものであるが、その反面、グレラン注及びレスミンが仮に一回注射ないしはそれに近い少本数で本症を惹起する可能性を有するとすると、右0.38%ないし9.74%との数字は、低きに過ぎるの感を免れない。

(三) そこで、検討すると、この点に関しては、次の諸点が考慮されるべきである。

(1) (自然治癒)

原告患児らでも右下肢の本症について治癒または相当程度緩解した者があることは本章二1(二)(4)で認定のとおりであるが、前記第三章四で認定の多くの症例報告等でも自然治癒の少なくないことが指摘されており、また、右で認定のとおり、一般的な病理学的見解及び動物実験では筋が(ヒトでは長期間を要するとしても)再生するのが原則とされており、西島の実験(文献G―7)でも、溶血性の強い注射剤では殆んど全例に拘縮が生じておりながらこれが完全拘縮として永続する例は数例に過ぎず、大半は自然治癒ないし筋が再生することを示している。

従つて、現時点で患児となつてはいなくても、かつて本症に罹患し、その後自然治癒した例が相当数存在した可能性は十分に考えられる。

(2) (無自覚等)

前記宮城県における調査結果でも本症の患児で調査時以前に医師の診察を受けていない者が五四%であつたとされており、本症に罹患していても自覚のない者または他覚症状の顕著でない者は相当あると考えられる。

また、症状の軽い例では、自主検診団の検診その他の検診を受けていない者が少なくないことが十分に推測される。

(3) 〈証拠〉によると、右患児二七名というのは、同人が被告奥田のところから入手した合計二九名のカルテの中の患児に原告守孝を加えたかに窺われることからすると、右患児数は被告奥田のもとで本症に罹患したことが確実なものに絞つた数であり、現に右証拠によると、この他に、厚生省診断区分Bの患児のあることが認められることからすると、判定の仕方如何によつては、被告奥田のもとで発生した患児はこれより増加するものと推測できる。

(四) 以上からすると、現に著明な症状を呈する患児が少ないことは、必ずしも本症罹患者総数の少ないことを推測させるものでないことは明らかである。

従つて、前記のような発症割合の単純な比較では、グレラン注及びレスミンによる本症罹患の推定を覆えすことはできない。

三小括

1グレラン注及びレスミンは、いずれも強い溶血性・組織障害性を有する注射剤であり、極めて少数回の注射で本症を発症させる可能性があるが、グレラン注とレスミンとでその優劣を確定するに足りる証拠はない。

2注射は、注射剤及び注射針刺入の双方を不可欠の要件とするものであつて、かつ、本症の少数本注射により本症の発症する可能性は溶血性の強い注射剤ほど高いのであるから、結局、グレラン注の溶血性が強いことと被告奥田が原告患児らに注射をしたこととは、いずれも本症発症の必要条件となつている。

3原告武司、同広志、同寿孝及び同正文は被告奥田から投与されたグレラン注及びレスミンのいずれかにより、あるいは双方が複合して本症に罹患したものと認められるが、そのいずれが原因注射であるかは確定できない。その余の原告患児らはいずれも被告奥田から投与されたグレラン注により本症に罹患したものと認定されるところ、この認定を覆えすに足りる証拠はない。

第七章  被告らの責任

一総説

1被告グレランがグレラン注を製造し、これを被告武田に一括販売したこと、被告武田が一括購入したグレラン注の容器や添付文書に「販売武田薬品工業株式会社」と表示してこれを販売してきたこと、以上の各事実については、第二章に記載のとおり、原告らと被告グレラン及び同武田との間で争いがない。

また、被告奥田が原告患児らの左大腿部にグレラン注を筋肉注射したこと及びその際の注射本数、量等の状況は前記第五章で、原告患児らが被告奥田のグレラン注の、またはグレラン注とレスミンの左大腿前面筋肉注射によつて本症に罹患するに至つたものであることは前記第六章でそれぞれ認定のとおりである。

なお、厚生大臣が被告グレランに対しグレラン注(またはグレラン注射液)の製造について許可を与えたか否か、また、仮りに何らかの許可を与えているとしてその許可の内容が如何なるものであつたか等については、後記本章三2(二)で検討する。

2(一) 本症がその大多数において注射を原因として発症するものであることは既に認定してきたとおりであるが、前記第三章四及び第四章五で認定の症例報告等に照すと、このことは、人体の全関節筋における筋拘縮症にも妥当するものと推認される。そして、グレラン注及びレスミンのような溶血性の強い注射剤では、少数回の注射が原因となつて大腿四頭筋拘縮症が発症することのあることは、前記第四章で認定のとおりであり、このことは、同様にあらゆる筋拘縮症にも妥当するものと推認される。特に、三角筋拘縮症の患者で判明している既往注射本数が一般に大腿四頭筋拘縮症の患者のそれよりも少ないことが指摘されていることは、前記第四章五6(一)、(四)のとおりであり、前記第四章四1のとおり、右指摘されている既往注射を直ちに原因注射と断定することはできないにしても、少くとも筋拘縮症との関係で危険な注射は大腿部注射だけではないと言うことは可能であつて、このことは、前記日本小児科学会の注射に関する提言及びその解説等でも指摘され、強く警告されているところである。また、このことは、臀筋拘縮症についても同様であつて、乙B第七四号証の四の四五によれば、同症は他の筋拘縮症と比較すると稀なものであるとされてはいるが、大腿に代えて臀部に安易に筋肉注射をするのは避けるべきであること、大腿骨の臀筋面に付着する深層線維が障害されると重度の外転拘縮を呈することが認められる。このほか、上腕三頭筋、腹直筋等にも拘縮症例が報告されていることは、前記第三章四で認定のとおりである。

(二) 以上のことからすると、本症を回避するために大腿部に代えて他の関節筋に注射をすることは、一般的には肯定できず、等しく全筋拘縮症の発生を抑止するためには、前記小児科学会の注射に関する提言、提言の解説、筋拘縮症に関する報告書(文献A―99)に警告されているように、乳幼児に対しては筋肉注射、皮下注射(特に大量皮下注射等)を問わず、一般に注射(特に筋肉注射で溶血性の強いもの)の使用を患者の治療の必要性及び可能な治療手段とのバランスを考慮したうえで、必要最少限度に限定する以外に有効適切な方法がないと言うことができる。

(三) 従つて、被告らのとるべき作為は、一般に注射の使用を必要最少限度に限定し、限定させるための具体的な行為であると認められるが、ただ、被告らの予見すべき事実は、本件の請求があくまでも原告患児らの左大腿部に発症した本症に関するものである以上、「乳幼児期の大腿部注射を原因として本症が発症する可能性があり、かつ、グレラン注もこれらの注射に含まれる可能性があること」をもつて足り、本症を除く各種筋拘縮症とその原因について迄予見の対象にする必要はない。

二責任判断の基準時

1(基準時設定の根拠)

前記第五章で認定のとおり、原告患児らは、被告奥田からいずれもその左大腿部に多数回グレラン注の筋肉注射を受けていることが認められるのであるが、前記第六章二のとおりグレラン注は、赤石による溶血性と各種注射剤の中でも最も溶血性の強い注射剤であることが認められるところ、前記第四章四で認定のとおり、このような溶血性の強い注射剤にあつては、標準少数回注射でも西島のⅢ型の拘縮性を惹起させ、これが五倍量になると完全拘縮を惹起させる可能性があるのであり、現にグレラン注一回注射による本症罹患例の報告もある(文献A―100)。従つて、原告患児らが被告奥田による最初のグレラン注左大腿部注射によつて本症に罹患した可能性は、これを完全に否定し去ることができないと言わざるを得ない。

しかしながら、他面において、西島のⅢ型の拘縮は、一定期間経過後に自然治癒することを期待できる症型であるから、仮りに最初の一回注射によつて本症に罹患したとしてもその後の自然治癒の可能性もまたこれを否定することはできず(殊に、乙B第七四号証の一、二、三によれば、桜井実が、完全拘縮型、換言すれば不可逆的変化を被つた拘縮例のみを本症と認むべき旨の見解を示していることが認められる。)、従つて、何回目かのグレラン注の注射一本によつて、あるいはそれまでの何本かによる累積効果によつて、筋の再生の可能性が絶たれ、その結果として原告患児らが本症に罹患した可能性もまた十分考えられるところである。

そこで、本件における被告らの責任の有無を確定するための判断基準時は前記第五章で認定した原告患児らの注射状況及び症状発現時期から、各左大腿組織が不可逆的変化を被つて再生の可能性が絶たれた蓋然性の比較的大きな時期を推認し、この時期をもつて基準時とすることで甘んじなければならない。

2(各患児についての基準時)

右に判示したところを前提とし、前記第五章で認定した各事実に基づいて検討すると、原告患児らの各基準時は、次のとおりに設定するのが合理的である(年月日順)。

(一) 原告守孝・昭和四二年五月

原告守孝の注射状況の詳細等を確定することは不可能であるが、守孝は、遅くとも昭和四二年五月(生後一年三か月)ころには、転び易い等の本症の徴憑と考えられる外部的症状が現われていたのであるから、この時点で既に左大腿部に不可逆的な変化を被つていたものと推認すべく、従つて、昭和四二年五月をもつて、守孝の基準時とするのが合理的である。

(二) 原告裕一・昭和四四年五月二七日

原告裕一は、生後六か月検診の際には股関節が開かないと指摘され、生後七か月目には、つま先立ちしかできない等の本症の徴憑と考えられる外部的症状が現われていたのであるから、この時点で既に左大腿部に不可逆的な変化を被つていたものと推認すべく、従つて、生後満六か月(昭和四四年六月一〇日)の直近の最終注射日である同年五月二七日をもつて、裕一の基準時とするのが合理的である。

(三) 原告広志・昭和四四年八月二一日

原告広志は、昭和四四年一二月ころには、左足を引きずる等の本症の徴憑と考えられる外部的症状が現われていたのであるから、この時点で既に左大腿部に不可逆的な変化を被つていたものと推認すべく、従つて、その直近のグレラン注最終注射日である昭和四四年八月二一日をもつて、広志の基準時とするのが合理的である。

(四) 原告隆仁・昭和四五年二月一一日

原告隆仁は、遅くとも昭和四五年四月ころには、左足を引きずる等の本症の徴憑と考えられる外部的症状が現われていたのであるから、この時点で既に左大腿部に不可逆的な変化を被つていたものと推認すべく、従つて、その直近の最終注射日である昭和四五年二月一一日(なお、同年三月三一日には既に不可逆的変化を被つていた蓋然性が比較的大きい。)をもつて、隆仁の基準時とするのが合理的である。

(五) 原告寿孝・昭和四五年三月一一日

原告寿孝がよちよち歩きを始めた時期を確定することは不可能であるが、満一歳である昭和四五年四月ころには既によちよち歩きを開始していた可能性が少なくないと認められるところ、寿孝は、よちよち歩きを開始した時には尻振歩行等の本症の徴憑と考えられる外部的症状が現われていたのであるから、この時点で既に左大腿部に不可逆的な変化を被つていたものと推認すべく、従つて、その直近の最終注射日である昭和四五年三月一一日をもつて、寿孝の基準時とするのが合理的である。

(六) 原告正文・昭和四五年八月二一日

原告正文は、グレラン注左大腿部注射の最終日である昭和四五年八月二一日の後である昭和四六年三月ころに、横歩きでしか階段昇降ができない等の本症の徴憑と考えられる外部的症状が認められたのであるから、遅くともこの時点では既に左大腿部に不可逆的な変化を被つていたものと推認するのが合理的であるが、右最終注射日以前の特定の時点で不可逆的変化を被つていたものと確定し、または、その高度の蓋然性を推定するのに足りる証拠はないから、この最終注射日である昭和四五年八月二一日をもつて、正文の基準時とするのが合理的である。

(七) 原告和樹・昭和四六年二月一六日

原告和樹は、満三歳または満四歳ころの時点で歩行異常等の本症の徴憑と考えられる外部的症状が現われていたのであるが、右症状の出現時期を特定することは、証拠上不可能であるにしても、遅くとも満四歳時である昭和四六年九月ころには既に左大腿部に不可逆的な変化を被つていたものと推認するのが合理的であり、従つて、その直近の最終注射日である昭和四六年二月一六日をもつて、和樹の基準時とするのが合理的である。

(八) 原告博之・昭和四六年二月二五日

原告博之は、遅くとも昭和四六年七月ころには、蟹のように歩く等の本症の徴憑と考えられる外部的症状が現われていたのであるから、この時点で(なお、博之は、同年六月二六日及び二九日にも大腿部にグレラン注を注射されているが、このころには、既に症状が固定していた蓋然性が比較的大きいと考えられる。)既に左大腿部に不可逆的な変化を被つていたものと推認するのが合理的であり、従つて、その直近の最終注射日である昭和四六年二月二五日をもつて、博之の基準時とするのが合理的である。

なお、博之は、昭和四五年九月には、左大腿部がかまぼこ型に固いしこりになつたことが認められるから、この時点で既に本症に罹患した可能性も否定できないが、その後、自然治癒した可能性もまた、否定できない。そして、その後の昭和四六年二月二〇日から二五日にかけての連続四本注射により筋の再生の可能性が絶たれたとも推測され得ないわけではないから、結局、合理的に不可逆的変化の発生時期を推認するとすれば、右のように、同年二月二五日とするのが相当である。

(九) 原告武司・昭和四六年五月二七日

原告武司は、グレラン注左大腿部注射の最終日である昭和四六年五月二七日の後である昭和四八年四月ころ、歩容異常等の本症の徴憑と考えられる外部的症状が現われていたのであるから、遅くともこの時点では既に左大腿部に不可逆的な変化を被つていたものと推認するのが合理的であるが、右最終注射日以前の特定の時点で不可逆的変化を被つていたものと確定し、または、その高度の蓋然性を推定するのに足りる証拠はないから、この最終注射日である昭和四六年五月二七日をもつて、武司の基準時とするのが合理的である。

(一〇) 原告毅・昭和四六年七月二日

原告毅は、グレラン注左大腿部注射の最終日である昭和四六年七月二日の後である昭和四八年三月ころに、つまずくと必ず転ぶ等の本症の徴憑と考えられる外部的症状が現われていたのであるから、この時点で既に左大腿部に不可逆的な変化を被つていたものと推認するのが合理的であるが、右最終注射日以前の特定の時点で不可逆的変化を被つていたものと確定し、または、その高度の蓋然性を推定するのに足りる証拠はないから、この最終注射日である昭和四六年七月二日をもつて、毅の基準時とするのが合理的である。

(一一) 原告めぐみ・昭和四六年一二月末日

原告めぐみは、グレラン注左大腿部注射の最終日である昭和四七年三月二五日の後である昭和四七年八月(満三歳)ころに、蟹股等の徴憑と考えられる外部的症状が現われたのであるが、昭和四六年一二月末日迄に合計三六本(但し、昭和四五年五月、七月、昭和四六年一月及び一二月に、それぞれ合計五本以上の連続注射)を受けていること、乙D第二号証によれば、昭和四七年三月一三日には左大腿部にしこりがあり、痛がるため、右大腿部に注射されたことが認められること、三月一三日以前の昭和四七年中の左大腿部注射日は、一月一日、一月二日、三月一二日であること等の諸事情に鑑みると、遅くとも昭和四六年中には本症に罹患し、左大腿部に不可逆的変化を被つていたものと推認すべき合理性を肯定できるから、結局、昭和四六年一二月末日をもつて、めぐみの基準時とするのが合理的である。

三注射及びグレラン注について

1(注射の有用性についての一般的検討)

(一) (注射療法の有用性)

〈証拠〉を綜合すると、次の各事実が認められる。

(1) 注射による薬物療法の可能性は、ハーベイ(一六一六年)の血液循環説により示唆されていたが、一六六五年、クリストファー・ウレンにより犬への静脈注射が初めて行なわれ、ヒトの静脈内注射は、テイラーにより試みられた。しかし、無菌操作の知識がないこと等の原因により、ヒトへの注射は不評であり、その後約二世紀の間は、ヒトへの注射は殆んど行なわれなかつた。

一八世紀に至り、皮下投与の様々な試みが行なわれ、ジェンナーは、天然痘に対する免疫法を行なうために皮内投与を行ない、一八四四年、アレクサンダー・ウッドは初めて皮下注射器を開発し、一八五三年、プラバッツは一種のピストン式注射器を提案し、その後種々の改良が加えられて今日の注射器が完成されるに至つた。しかし、一八六〇年までは注射療法(滅菌しない器具及び溶液)による細菌感染が絶えず起り、パスツールらによる無菌的操作の重要性についての指摘も余り浸透せず、滅菌の重要性が注目されるようになつたのは、一八九〇年代に至つてからであり、そのころになつてアンプルによる滅菌注射液の保存が可能となつた。その後、注射溶液中の発熱物質の除去により注射時の発熱が防止できるようになり、また、種々の合成物質による化学療法の可能性が開拓され、注射経路としても皮内注射、皮下注射、筋肉内注射、静脈内注射、動脈内注射等が開発され、今日のように広く注射療法が行なわれるようになつた。

日本においては、安政五年(一八五八年)緒方洪庵により静脈内注射が紹介されていたが、その後、ポンペ、ボールドウィンらにより注射療法が導入された。そして、明治時代においては、新薬として皮下注射薬、筋肉内注射薬が、大正時代に至り、静脈内注射薬(クロールカルシウム液)がそれぞれ発売されるようになつたが、主に行なわれていたのは皮下注射及び筋肉内注射であり、静脈内注射が行なわれたのは皮下注射及び筋肉内注射が困難な場合等に過ぎなかつた。特に、明治初期には、鎮痛剤の投与経路として皮下注射の有用性が軍隊によつて認められ、多用されており、陸軍では、鎮痛剤としてアヘン・アルカロイド系の薬剤であるモルヒネ水が常用薬とされていた。

ところが、明治末期ころから皮下注射による注射局所組織障害が問題となり始め、櫻根孝之進(文献H1―1、H1―2)、光田健輔(文献H―2)、汲田元之丞(文献H―5)らにより水銀剤や蒼鉛剤の局所障害性が指摘され、また、皮下注射では大量の薬剤注入が困難である等の事情もあつて、特に局所障害性の強い注射剤は、次第に皮下注射ではなく、筋肉注射として行なわれるべきであるとされるようになつた。なお、この当時、注射部位の適否についてかなりの議論があつたようである。しかし、少くとも明治から大正にかけては、筋肉内注射による組織障害についての認識は殆んどなく、むしろ、皮下注射により局所に刺激が与えられ、劇痛その他組織障害を起す薬剤は、筋肉内注射によりその幣害を避けられるものであるというのが圧倒的多数の見解であつた。そして、大正末期ころからは、小児科領域でも広く筋肉内注射が行なわれるようになつた。

(2) 注射療法は、右のような経過で次第に確立されてきたのであるが、今日、注射療法の必要性については、次のような見解が一般的である。

(イ) (患者側の必要性)

患者が重篤な状態にあつて、薬物の経口投与が不可能な場合には、注射によつて薬剤を直接体内に吸収させる必要がある。このことは、内服が不可能な乳幼児でも同様である。また、患者の病状により速効的効果が要求される場合には、経口投与ではこの効果が期待できないから注射を行なう必要がある。そして、この必要性(特に乳幼児における必要性)については、前記第四章五1で認定の厚生省研究班によるアンケート調査結果によつても現実的なものであることがある程度まで確認されている。

(ロ) (薬剤側の必要性)

経口投与によつては、消化管で薬剤が分解されて無効となる場合があり、また、消化管から吸収されても薬剤が門脈を経て肝へ達した際に薬物代謝酵素の作用を受けてその薬効を失う場合がある。更に、経口投与では吸収率が著しく劣る薬剤や強い胃腸障害を起す薬剤がある。従つて、このような場合(特に坐薬等の腸溶剤等の剤型でも薬効が得られない場合)には注射剤型が必要となる。

この点に関して、厚生省研究班による検討の結果(文献F―37)では、解熱剤(アミノピリン)の坐薬投与後の効果には個人差が大きく、薬効の持続の困難が示唆されており、薬物により剤型選択の困難があることが窺知される。

(3) また、注射療法における各投与経路毎の得失については、次のような見解が一般的である。

(イ) (血中濃度の持続時間)

静脈注射では、薬剤が直接血中に注入されるため速やかに体内各所に薬剤が分散し、一定の血中濃度を保つことが困難である。皮下注射では、注射後三ないし二〇分で吸収が始まり、三〇ないし六〇分で吸収が終る。筋肉注射では一〇ないし三〇分で吸収が終る。従つて、少くともこの時間内では、薬物の血中濃度を保つことができる。

しかしながら、右のいずれの投与経路によつても内服薬よりは血中濃度の維持がはるかに困難であり、注射によつて薬剤の血中濃度を維持するためには、頻回の注射を必要とする。但し、水性懸濁液、油性懸濁液、油性溶液等の持続性注射剤を除いては、外来において来院時のみに散発的に注射しても効果はない(なお、油性溶液の組織障害性に関する動物実験は、前記第四章三4(一)で認定のとおりであり、油類等の種類によつては、著しい組織障害を見せるものがあることを示している。従つて、油性液化等を合理化するためには、持続性上の必要と注射剤型を必要とする程度との比較が必要であり、後者が優つて初めて有用性ありと認められる。)。

(ロ) (投与経路の確保)

静脈注射は、未熟児または乳幼児等のように血管が細い場合、繰返し注射をしたために血管及びその周囲の組織に硬結を生ずる等して注射針の血管への刺入が困難となつた場合、肥満その他の原因で血管の確保が困難な場合等には、これを行なうことができない。

これに対し、皮下注射及び筋肉内注射は、静脈注射における血管の確保の困難という問題は生じない(なお、日本小児科学会及び自主検診団が大量皮下注射の危険性、不要性を訴えていることは、前記第四章五3で認定のとおりであるが、未熟児または乳幼児等の脱水症状に対する輸液が必要な際に、血管の確保が不可能な場合には、大量皮下注射もやむを得ないこともあると考えられる。)。

(ハ) (所要時間)

静脈注射では、森忠男(文献H―9)の報告にも指摘されているように、溶血性の強い溶液をそのまま血管内に注入すると血液の溶血という現象が生ずる危険があり、これを避けるためには溶液の希釈が必要となるため、注射液の量が増加し、また、急激な注射液の血中投与によりショック等の副作用が生ずる危険もあるため、ある程度まで注射液の注入に時間を要することになる。

これに対し、皮下注射、筋肉注射では、注射所要時間自体は余り問題とならない。ただ、皮下注射、筋肉注射では、前記第三、第四章で認定のとおり、筋組織に対する障害が人体各所の筋に生ずる虞れがあるほか、赤石英(文献F―7、F―14、F―33)や桜井実(文献H―18、H―19)らが指摘するように、皮下硬結、神経麻痺等の障害を生ずる危険性もあり、これを避けるためには、安全な手技で注射を行なう必要があり、特に希釈分割皮下注射、希釈分割筋肉内注射を行なう場合には、ある程度まで注射に時間を要することは免れない。しかし、緊急の際に速効性を最重要視すべき場合には、皮下注射、筋肉注射は、極めて大きな有用性を有する投与経路である。

(ニ) (注射針による組織損傷)

静脈注射では、血管に注射針を刺入するため、血管壁の破壊が不可避であり、これが原因となつて血栓の形成等の障害が生ずる危険がある。また、筋肉注射では、比較的硬い組織に注射針が刺入されるため、注射針が折れることがあり、それが原因となつて注射局所の組織が破壊される危険性がある。これに対し、皮下注射では、右のような危険性は、比較的少ない。

以上の各事実が認められるほか、前記第四章五1ないし5で認定の昭和四八年以降における厚生省、日本医師会、日本小児科学会、日本整形外科学会、日本薬学会の各対応を見ると、本症の大量発生が社会問題化し、注射の危険性が問題化した後においてさえ、注射を全廃すべきであるとの見解は、少くとも多数説ではなく、大方の見解に従えば、安全な注射部位に正しい手技で慎重に注射すべきであるというのが医療上の了解事項となつているものと推認される。なお、乙D第一一号証によれば、赤石英が「注射の功罪」中の「筋肉注射全廃論」の項(文献F―33)で当面の提案として筋注をやめ希釈分割皮下注射を行なうことを推奨していることが認められるが、これが実際的でないことは先に認定のとおりであり、また、前記日本小児科学会の注射に関する提言(Ⅰ)及び(Ⅱ)並びにその解説、筋拘縮症に関する報告書も剤型としての筋肉注射自体を否定し、全廃すべきであるとまでは主張しているわけではなく、むしろ、その有用性を前提としてそのような提言をしているところである。

これらの事実によれば、薬剤の性質上及び投与経路上の必要から注射療法が不可避な場合のあることは否定できず、注射による細菌感染、血管や神経その他の組織損傷、薬物ショック等の副作用ないし幣害を慎重に考慮し、注射を選択すべき必要性、緊急性等を十分に検討して行なう限り、注射療法が今日なお非常に大きな有用性を有することは明らかである。

(二) (注射剤の通有性としての組織障害性)

〈証拠〉を綜合すると、注射療法には前記のような有用性が認められる反面、注射は生体に異物を注入する行為であるから、その刺入行為や注入される薬剤によつて局所に常に何らかの組織障害を伴うものであり、ブドウ糖溶液や生理食塩液ですらそのような害作用がみられること、筋肉注射剤の組織障害性に関する研究の歴史は古く、一九〇三年の医学中央雑誌には、チェー、バッゾリーの「撒里矢児酸水銀、筋肉内注射後ニ起ル局所変化」と題する論文が掲載されており、その中には、サリチル酸水銀を筋肉注射した部位に筋の壊死や筋内の瘢痕形成、空洞形成など本症患者の筋肉組織で認められると同様の病変が記載されていること、その後は既に摘示のロマンスキー(文献I―1)、ハーガン(文献I―6)の各研究や、後に触れる被告武田における新谷ら(文献I―10)、美間ら(文献H―12)の実験報告等いくつかの研究があり、最近では厚生省の局所刺激性に関する研究班が「すべての筋肉注射剤について、動物実験で組織障害性が検討されなくてはならない」と報告していること(文献F―37)、以上の各事実が認められる。また、このような組織障害性の存在自体は前記第四章三4で認定の各動物実験の結果によつても裏付けられ、また、第三章四、第四章五で認定の諸報告からも窺われるところである。

これらの事実からすると、注射における組織障害性は注射剤に通有的なものと認めることができ、しかも、このことについては、少なくとも病理学及び薬学上では相当に以前から知られていたことであると認められるのである。しかし、このことが、一般論としては妥当としても、それでもなお、注射による組織障害性の個別的具体的内容は様々であり、例えば、生理食塩液と溶血性陽性の薬剤のもたらす筋組織に対する障害については、その機序が異ると考えられており(前記第四章三5)、このように、それによつて惹起される生体組織の反応の種類、程度は千差万別で、しかも、この障害性に起因して、本症のような機能障害を惹起する虞れもあるというような知見については、医療上の専門的知識を有する医師といえども、その知識の量、推論能力にはおのずから限界があることから、当然に認識理解できたと言うことはできず、この点は後に判断するところである。勿論、一般の医師の間でも、乙B第七七号証の三の七に照せば、注射により、発赤、硬結、化膿、神経麻痺というような症状をきたすことのあることについては知識をもつていたと考えられるものの、本件で問題となるのは、筋組織の線維化瘢痕化等から機能障害という重篤な症状をきたすような原因となる組織障害性であつて、かかる障害性の存在及びこれと本症との因果関係は、一部の専門家には知られていたとしても、一般臨床医らには知られたものではなかつたのであり、これらの点が次第に解明されてきた経緯は、前記第三章四、第四章五で認定してきたとおりであつて、本症との関連でこの障害性の要因として溶血性を指摘したのは、昭和四九年の赤石報告(文献F―14)をもつて嚆矢とするというのが実情である。

この点について、被告武田は、自動車が通常有する危険性を例として挙げ、医療の専門家である医師であれば知りえた性状であると主張するのであるが、注射剤の右組織障害性は、特定の自動車に固有の欠陥ではないが、同時に大方の自動車運転者には知られていない危険性とも言うべきものである。このことは第三、第四、第六章における本症発症の原因についての検討からも明らかなところであつて、右のような被告武田のあげる例は、本件に適切ではない。要するに、本件で問題とすべきことは、注射剤の一般的通有性として一般に了解されている範囲を超えた組織障害性であり、その限りで注射剤の組織障害性が一般的通有性であること自体は、本件各被告らの責任を当然に阻却するものでないことは明らかである。

2(グレラン注について)

(一) (グレラン注の製造・販売の経緯)

〈証拠〉を綜合すると、次の各事実が認められ、他にこの認定を覆えすに足りる証拠はない。

(1) 昭和初期当時の医療界においては、鎮痛剤として専ら麻薬性鎮痛剤である阿片アルカロイド製剤(モルヒネ等)が用いられていたが、これは、連用によつて漸次その薬効に慣れ大量でなければ奏効しなくなり、患者がこれに耽溺するようになる慢性モルヒネ中毒等の重大な中毒現象が随伴するばかりでなく、効果持続時間に限界があり、あるいは意識不明、知覚不能の副作用がある等の欠点を有していた。そのため、非アルカロイド性の鎮痛剤の需要が増加し、アンチピリン、アミノピリン等が非アルカロイド性の鎮痛剤として広く用いられるようになつたが、これも鎖痛効果が比較的少ないという欠点があつた。

(2) ところで、大正六年、エミール・ビュルギーは、「二種以上の作用類似の薬品を併用する場合、薬物の生体内における作用点が同一のときはその作用は各薬物の加算に過ぎない。その作用点を異にする場合は更に作用は強大となり累積的効果を現わす。」との説(ビュルギーの薬剤併用律)を発表していたが、大正一〇年、シュタルケンシュタインは、ビュルギーの併用律を適用し、一モルのバルビタールに二モルのピラミドン(アミノピリン)を配合して強力な非アルカロイド性鎮痛薬ピラビタールを創製した。

このピラビタール剤は、シェーリング社から商品名ベラモンとして日本に輸入された一方、日本の製薬会社でも製造販売され広く臨床に供されるようになり、昭和五年当時には、被告グレランの前身である柳澤薬品商会から「グレラン」の商品名で製造発売され、被告武田の前身と推認される武田長兵衛商店から一括販売されて臨床の用に供され、臨床治験例も多く報告されるに至つた。なお、当時のグレランの剤型は、粉末、錠剤及び注射(二cc)であつた。

これら臨床治験は、主として被告グレランからの製品の提供及び依頼に基づくもののようであるが、その大半においては、グレランの有用性を認めており、副作用が現われたとの報告としては、本件証拠上は、後記2(三)(4)(ニ)に記載したもの位である。なお、これらの治験例から、グレラン注には次のとおりの適応があるとされてきたことが推認される。

(イ) (内科関係等)

感冒に伴う頭痛、肋膜・肺炎性胸痛、肋間神経痛、胆石による腹部疼痛、腰痛、脊髄癆の下肢疼痛、胃痙攣、胃潰瘍に伴う胃痛、肩こり、頭痛、偏頭痛、多発性関節リウマチ、筋ロイマチス、坐骨神経痛、肋間神経痛、肩胛部神経痛、上搏神経痛その他神経痛ロイマチス性疾患、破傷風に伴う腰痛及び諸関節痛、ヒステリー性疼痛、眼球痛その他

(ロ) (外科関係等)

外科手術前疼痛、胃癌、胃下垂症、胆のう切除、虫様突起切除、盲腸移動症、盲腸周囲炎、肛門脱出、肛門周囲膿瘍等の手術時の疼痛、肋骨骨折による劇痛その他

(ハ) (産科・婦人科関係等)

子宮全摘出、人工流産、内膜掻抓、子宮内容物除去等手術の術中、術後の疼痛、月経前、月経時の疼痛、偏頭痛、輸卵管炎、子宮付属器炎、流産等に伴う激しい下腹部痛その他

(ニ) (眼科、耳鼻科、歯科関係等)

眼科手術後の眼痛、外聴道炎疼痛、副鼻腔蓄膿症、急慢性化膿性中耳炎手術の術中、術後疼痛、急性歯髄炎、歯芽周囲組織炎、歯科的外科手術後の疼痛

(ホ) (その他)

モルヒネ中毒患者の禁断症状の緩和及び離脱、コカイン急性中毒症の予防、急性アルコール中毒、レントゲン宿酔(頭痛他)その他

(3) 昭和二五年三月、柳澤薬品商会はグレラン製薬株式会社(被告グレラン)と改組されたが、その後も、「グレラン注射液」「グレラン注」の商品名でこれら注射剤を製造したうえ、これを被告武田に対して一括販売し、被告武田は、販売元としてこれを医療現場へ販売し続けた。なお、乙C第四号証の一、二によれば、昭和二六年五月ころ当時におけるグレラン注射液の添付文書には製造発売元として被告グレランの商号のみが記載されていたところ、昭和二九年一月ころ以降の添付文書には販売者として被告武田の商号も記載されるに至つたことが認められることから、昭和二九年までの間、被告武田によるグレラン注射液の販売がある期間中断したのか否かが問題となるが、昭和二三年薬事法上は、添付文書(表示書)に販売者の記載を要しなかつたこと(同法四一条二号)、昭和二六年五月ころ当時の添付文書の記載は「製造発売元」としての被告グレランの商号のみであるところ、乙C第一六号証の一、二によると、昭和五年ころのグレラン注射液の広告文には、「販売元武田長兵衛商店、関東特約店小西新兵衛商店、発売元柳澤薬品商会」との記載があることが認められ、発売元に関する記載の趣旨が昭和二六年五月当時の添付書のそれと同一であるとすると、同文書には、単に販売者の記載が欠けていたものとも考えられる。そして、昭和四八年当時、武田長兵衛及び小西新兵衛が被告武田の代表取締役に就任していたことは、本件記録上明らかであるから、以上の諸点に鑑みると、昭和五年ころ以来、被告武田(及びその前身商人)は、中断することなく、グレラン注(グレラン注射液)の販売者となつていたものと推認され、この推認を覆えすに足りる証拠はない。

また、被告奥田本人尋問(第一回)の結果によれば、被告奥田は、昭和三一年の開業当初は大互薬品、その後は主として白石薬品工業株式会社及びスズケン株式会社等の薬品問屋を介してグレラン注を購入し、これを臨床上用いていたが、昭和五〇年以前に何度かグレラン注の購入が困難となつた時期があり、その際には、被告グレランの名古屋営業所にも問合わせをしたこともあることが認められる。

(4) ところが、昭和五〇年七月、厚生省は、グレラン注の一成分であるウレタンに発癌性のあることを認め、ウレタン含有医薬品に対する全面的な規制を行なつた。そのため、グレラン注の製造・販売は中止され、既に市場に出ていたグレラン注も回収されて、グレラン注は、一部の試験資料が被告グレランの研究室に保存されたほかは、すべて焼却処分された。なお、この保存された試験資料によつて府川実験が行なわれたものであることは、前記第六章二2で判示のとおりである。

(二) (グレラン注の製造許可)

厚生大臣が被告グレランに対しグレラン注について昭和三五年二月一六日に製造許可事項の変更についての許可をしたことは原告らと被告国との間で争いがないが、被告国は、原告らの主張するその余の日付の製造許可の有無は不明である旨を主張している。

そこで検討すると、甲第三一五号証によれば、昭和三四年九月二六日申請にかかる被告グレランの医薬品製造許可事項変更許可申請に対し、昭和三五年二月一六日、厚生大臣が変更許可を与えた変更事項は、品目を「グレラン注射液」から「グレラン注」へ変更すること、既許可成分であるピラビタール、アミノピリン及びウレタンに、新たにサリチル酸アミドC酢酸ナトリウム及びオキシメタンスルフォン酸ナトリウムを加え、これに伴いウレタンが二五〇mgから一五〇mgになつたことの二点であつたことが認められるが、原告ら主張のその余の製造許可については、これが製造の許可として行なわれたことを認めるに足りる証拠はない。しかし、あえて推測を加えるとすれば、前記第六章二1(一)(1)で認定のグレラン注(グレラン注射液)の含有成分の変遷、前記本章三2(一)で認定のグレラン注射液の製造の経緯並びに弁論の全趣旨を綜合すると、昭和二五年三月一三日付許可は、柳澤薬品商会から被告グレランへの改組(株式会社設立)に伴う製造者名の変更、同年七月二七日付許可は、グレラン注射液の含有主成分をピラビタール三〇〇mgからピラビタール二〇〇mg及びアミノピリン一〇〇mgとする主成分配合比の変更、同年七月二五日付及び昭和三四年三月二〇日付各許可は、その他の重要でない事項の変更の各申請に対し、薬事法施行規則(昭和二三年厚生省令第三七号)二四条に基づいて与えられた変更許可のようにも考えられるが、いずれにしても、これらを確定するに足りる証拠はない。

なお、昭和五年ころ、柳澤薬品商会から注射剤型の「グレラン」が製造、発売されていたことは先に認定のとおりであるところ、これについて、当時の厚生省その他の官庁から製造許可が与えられていたか否かは、本件証拠上、不明であるが、昭和五年当時施行されていた明治二二年三月一五日法律第一〇号「薬品営業竝薬品取扱規則」では、薬品の製造に関し、二三条で「製造者トハ単ニ薬品ヲ製造シ自製ノ薬品ヲ販売スル者ヲ云フ」と、二四条で「製造者ハ地方庁ノ免許鑑礼ヲ受クヘシ」と、二五条で「毒薬劇薬ハ適当ノ容器ニ納メ之ヲ封緘スヘシ其容器ヲ開キテ零売スルコトヲ得ス」と規定されていたのみであることからすると、おそらく、昭和五年当時には、個々の薬品の製造開始には許認可が必要でなかつたものと推測される。

(三) (グレラン注の有用性)

グレランが昭和五年ころの柳澤薬品商会によつて製造開始されて以来、内服薬、注射薬(静脈注射及び筋肉注射)として製造・販売されてきたことは先に認定のとおりである。

ところで、原告らは、グレラン注が有用性を有しないものであることを理由として、その存在自体が許されないものである旨を主張している。そこで、筋注剤としてのグレラン注の有用性について検討することとする。

(1) (一般的検討)

一般に、医薬品の有用性の有無は、当該医薬品の有効性と安全性との均衡の有無によつて判断されるべきであることは先にも判示のとおりであるが、この理は、薬剤自体及びその投与経路の双方の有用性に妥当するものと考えられる。そして、薬剤における有効性の要件としては、当該薬剤の使用による一定の症状軽減その他の薬効が客観的に認められることが、投与経路における有効性の要件としては、当該薬剤の薬効との関連で当該投与経路の必要性があることがそれぞれ必要であると考えられ、また、安全性の評価のためには、当該薬剤の適用または当該投与経路の選択によつて生ずる副作用ないし幣害の程度と当該薬剤の薬効の程度、使用の必要性(当該薬剤固有の薬効の評価)との均衡の有無が検討されるべきである。

ところで、注射には一定の危険性が随伴するものであることは、先に判示のとおりであるから、グレラン注の有用性は、注射剤であること自体から由来する一定の制限の下に認められるものであると考えられるが、この理は、グレラン注の成分及び筋肉注射剤型の有用性にも妥当し、それぞれ、有効性と安全性の均衡が得られる限界の範囲内という制限付きで有用性の有無が判定されるべきであると言うべく、その意味で、有用性の評価は、相対的となることを免れない。また、仮りにグレラン注の有用性が客観的には完全に否定されるものであるとしても、グレラン注が現実に使用されている各時点においてグレラン注の有用性否定要因が認識され得べき状態になければ、当該時点におけるグレラン注の有用性は、一般には否定されないのであるから、グレラン注に起因する損害に対する責任の有無の判定に際しては、単に客観的にグレラン注の有用性の有無が判断されるのみでは足りず、当該判断基準時における有用性評価がどのようなものであつたかを検討する必要があり、その意味で、有用性の評価は、時間的にも相対的となることを免れない。

そこで、ここでは、グレラン注の客観的な有用性の有無についてのみ検討を加え、当該判断基準時における有用性評価の検討は、結果回避義務との関連で後にこれを行なうこととする。

(2) (グレラン注の用途)

グレラン注が、その製造を中止した昭和五〇年七月当時まで、どのような用途で用いられていたのかは、その細部にわたつてまでは本件証拠上も明らかではないが、本章三2(一)で認定の各治験例、甲第三一一号証により認められる新潟医大における用例、証人北原哲夫の証言により認められる東京逓信病院における用例、証人高橋晄正の証言により認められる東大医学部附属病院における用例からすると、前記三2(一)(2)(イ)(ロ)(ハ)のような適応の中でも主として外科的手術後の中等度の疼痛、感冒等による発熱に対して用いられたが、手術後の疼痛に関しては重度のものには効果がなく、麻薬性の鎮痛剤(モルヒネ等)に薬効が及ばなかつたことが推認される。

これらグレラン注の薬効に対しては多数の臨床医家から積極的な評価が寄せられているが、ただ、これらはグレラン注使用時の観察による主観的評価に基づくものであつて、二重盲検法その他の客観的な評価によるものではなく、証人高橋晄正の証言によれば、日本において二重盲検法等の客観的な薬効評価手法が取入れられたのは比較的最近のことであり、従前の治験例等による薬効評価は必ずしも確実なものとは言えないことが認められ、このことに鑑みると、グレラン注に関する治験例に基づく有用性評価の確度は、ある程度割引いて考えられるべきである。

(3) (グレラン注の成分の理論上の薬効)

グレラン注には、有効成分としてアミノピリン及びピラビタールが含まれているのであるが、乙C第一四号証によれば、これら成分の理論上の薬効は、次のとおりであることが認められる。

(イ) (アミノピリン)

アミノピリンは、無色または白色の結晶あるいは白色結晶性粉末で、空気中では安定であるが、光によつて変化する。アミノピリン一gは、水一八cc、アルコール二cc、クロロホルム一ccまたはエーテル一ccに溶解し、アミノピリンの水溶液は、微にアルカリ性である。

アミノピリンは、解熱剤アンチピリンから誘導される物質であるが、その効力はアンチピリンの約三倍である。熱の降下はアンチピリンよりも緩慢で作用後の熱の上昇も徐々である。アンチピリンと同様に用いられるが、殊にインフルエンザ、チフス、結核性熱に用いられ、また、鎮痛薬としての用途も広い。なお、日本薬局方には、第三改正以後収載された。

(ロ) (ピラビタール)

ピラビタールは、アミノピリン二分子量及びバルビタール一分子量からなる分子化合体(白色または淡黄色の結晶性粉末)で、わずかに苦味がある。ピラビタール一gは、アルコール約2.5cc、熱湯約一一cc、またはエーテル一六ccに溶解し、クロロホルムには僅かに溶解するが、水には溶解し難い。ピラビタールの水溶液は、ほぼ中性である。

バルビタールは、脳幹の睡眠中枢を直接麻痺すると同時に脳幹の自律神経中枢も麻痺してその機能を鎖静させ、また、呼吸には抑制的に作用して少量投与では鎮静させ大量投与では麻痺する。習慣性や蓄積作用を有するという欠点がある。一方、アミノピリンの視丘性鎮痛作用は、バルビタールの脳間性鎮静作用により増強され、また、アミノピリンの大脳皮質に対する刺激作用は、バルビタールの鎮静作用で弱められる。他方、バルビタールの副作用である呼吸抑制、習慣性及び蓄積作用は、弱められ、催眠作用も弱くはなつているがなお残存している。

ピラビタールは、鎮痛催眠剤として用いられ、持続作用も数時間に及ぶが、その作用の強度はモルヒネの比較にならないほど弱い。なお、乙C第一七号証によれば、ピラビタールは、第五改正以降の日本薬局方に収載されたことが認められる。

(4) (グレラン注及びその成分の副作用)

〈証拠〉を綜合すると、グレラン注及びその成分の副作用等については、次のような知見が得られていることが認められる。

(イ) (アミノピリン)

アミノピリンによつて無顆粒球症という重篤な血液疾患が惹起されることは、一九三三年にアメリカで報告されていたが、その後、このアミノピリンに起因する無顆粒球症により少なからぬ死亡例が発生したため、イギリスでは一九三六年に、アメリカでは一九三八年九月八日に、アミノピリンは要指示薬となつた。この無顆粒球症の発生率について、ディスコンブ(一九五二年・文献M―10)は、ほぼ0.8%と推定している。

このアミノピリンによる無顆粒球症に関する情報は、昭和四〇年ころ、WHOから厚生省へもたらされ、以後、日本の製薬業界でもアミノピリンにより無顆粒球症が惹起されることが知られるようになつた。しかし、このような副作用にも拘らず、アミノピリンを禁止すべきであるとの見解はなく、サダスク(文献M―11)によつて紹介されているアメリカ食品薬品局に召集された委員会の勧告でも、アミノピリン及びアミノピリンの誘導体であるデパイロンの広告文、添付文書等に、薬品名にすぐ続けて「この薬品は、致死的な無顆粒球症を惹起するかもしれない。」との警告を付すべきであるとしているのに止まる。また、日本で昭和四六年以降、厚生省により行なわれた医薬品再評価に基づく中央薬事審議会の答申でも、アミノピリンは、感冒の解熱に有効であることが実証され、頭痛、歯痛に有効であると推定されたほか、長期連用は避けるべきであるとの意見が付されたに過ぎず、昭和五一年、その旨が製薬会社等へ通知された。

ところが、その後、アミノピリンがハム、ソーセージ等の発色剤として用いられていた亜硝酸と結合して発癌物質ニトロソアミンを生成することが明らかになり、昭和五二年、アミノピリンの使用は、全面的に規制されることになつた。なお、野村大成ら(文献L―13)は、アミノピリンに強い催奇形性のあることを実験的に証明し、昭和五二年七月、第一七回日本先天異常学会でその旨を報告した。

(ロ) (ピラビタール)

アミノピリンとバルビタールの分子化合体であるピラビタールは長い間副作用の少ない薬剤であると考えられており、最近までの間においては、東京逓信病院の武田栄が昭和二七年に、ピラビタールの製剤は筋硬結をつくりやすいと報告したのが認められる位である(前記第三章四3参照)。

ところが、野村大成ら(文献L―5、L―13)は、被告グレラン製造にかかるピラビタール及びグレラン注等についてマウスを用いた動物実験を行ない、ピラビタールにも強い催奇形成があることを証明し、これを昭和四九年、同五二年に発表した。この点について、野村らは、「一九七五年、野村によりウレタンを含むピラビタール含有注射液が強力な発癌性を示し、それは含有されているウレタンによることが報告された。他方、この注射液の催奇性は、その組成からウレタンを除去しても催奇性誘発の頻度は変らなかつたことにより、主剤であるピラビタールまたはアミノピリンによるものであつて、ウレタンによるものでないことが明らかになつた。」と述べている。従つて、野村らの言う催奇形性とは、発癌性を意味するものであると考えられる。そして、野村らは、ピラビタールのマウスにおける最小奇形誘発量は、ヒトにおける一日の極量三gの約四倍に過ぎないこと、ピラビタールの方がアミノピリン単独よりもはるかに強く奇形と胎仔死亡を誘発すること、バルビタールとアミノピリンを別々に投与しても高率に奇形と胎仔死亡が誘発されること、従つて、ピラビタールによる強い催奇形及び胎仔死亡は分子化合物によるものではなく、バルビタールによるアミノピリンの催奇性及び胎仔死亡の促進効果が推定されること等を報告している。なお、野村によると、グレラン注による胎仔死亡率は、一二四匹中五三匹(42.7%)、奇形率は七一匹中三〇匹(42.2%)である。

他方、医薬品再評価に基づく中央薬事審議会の答申でも、ピラビタール注射液は、有用性を示す根拠がないものと判定され、昭和五一年七月、その旨が製薬会社に通知された。

(ハ) (ウレタン)

外国(特にアメリカ)においては、比較的早くからウレタンの腫瘍誘発性ないし発癌性が指摘されており、昭和二〇年以前に既にネットルシップら(文献M―1)、ヘンソーら(文献M―2、M―3)によつてウレタンによる肺腫瘍誘発が報告され、昭和四六年ころ以降には、ウレタンの発癌性が各国で確認されてその薬局方等にもその旨が記載されるようになつた(文献M―4ないしM―10)。

また、昭和四一年以前から、ウレタンには、連用による慢性毒性として造血系の障害が認められ、顆粒球減少、リンパ球の減少が著明となり再性不能性貧血に陥ることがあることがあるという副作用が判明しており、第七改正日本薬局方解説書(文献L―4)にもその旨の指摘がされていた。しかし、日本においては、ウレタンの発癌性は、一般には比較的最近まで知られていなかつたばかりでなく、昭和四三年当時においてさえ、ウレタンは、慢性骨髄性白血病、多発性骨髄腫、菌性息肉腫等に対する抗腫瘍剤として適応があるものとされているような状況であつた(ただ、昭和三三年に西村がウレタンによる胎仔死と奇形誘発を報告していたようであるが、詳細は不明である。)。

ところが、昭和四九年、国際癌調査機関(IARC)のモノグラフ(文献M―6)により、ウレタンが経口、皮下または腹腔内投与で発癌性を示し、肺腫瘍、リンパ節腫、肝腫、黒色腫、血管腫を惹起することが報告され、また、日本においても、野村大成(文献L―5)がマウスを用いた実験(昭和四三年から四六年にかけて合計一万二、〇〇〇匹のマウスを観察)により、蒸留水に溶解したウレタンが高率の胎仔死と奇形を誘発する放射線類似作用物質、即ち発癌物質であることを証明したため、昭和五〇年七月二四日、厚生省は、中央薬事審議会副作用調査会の意見に基づき、グレラン注を含むウレタン含有医薬品の製造中止・回収措置を製薬会社等に命じ、以後、ウレタンの使用が全面的に規制されることとなつた。なお、野村は、昭和五〇年当時、グレラン注に発癌性のあることを実験的に証明し、グレラン注に含有されるウレタンによるものと推定していたが、後に、グレラン注の発癌性は、ウレタンではなく、主剤であるピラビタール及びアミノピリンが帯有するものであることを実験的に証明した(文献L―13)。

(ニ) (グレラン注射液)

資料としては相当に古いが、昭和一四年の医学中央雑誌にグレラン注射液により熱感があり潰瘍に陥つたとの報告が掲載されており、同一五年には新潟医大の河邊昌伍が、その静脈注射によつて①熱感、②蹣跚感、③静脈炎(静脈の硬変)、④溶血現象の副作用を生じた旨報告している。

(5) (グレラン注の筋肉注射剤型の必要性)

グレラン注の発癌性が明らかとなつた昭和四九年以降までの間、グレラン注が主として手術後等の中等度の疼痛に対する鎮痛剤としてまたは主として感冒による発熱に対する解熱剤として、その有効性が認められてきたことは、先に認定してきたとおりであるが、前記筋注剤型一般における有用性の条件に鑑みると、手術後等の中等度の疼痛に対する鎮痛剤として用いる上では、経口投与が不可能でかつ速効性が要求される場合のあることが推測されるから、ある程度まで筋注剤型によるグレラン注の存在の必要性も肯定できないわけではないが、感冒による発熱に対して用いるのに筋注剤型が必要であるか否かは、これまで認定の各事実からは必ずしも明らかでない。

しかしながら、鎮痛剤として用いる上での筋注剤型の必要性が否定されない以上、剤型自体の問題としては、グレラン注が筋注剤型を採つたこと自体は妥当でないと言い切ることができず、感冒による発熱に対する解熱剤として筋注剤型のグレラン注が必要であつたか否かは、個々の具体的事例毎に当該患者の症状(発熱の原因、薬効を持続させるべき時間の長さ、他の投与経路の存否)等との関連で相対的に判定すべきものである。

なお、ピラビタール注射液の有用性が医薬品再評価の結果昭和五一年に至つて一般的に否定されたことは先に判示のとおりであるが、その根拠が有効性または必要性の否定にあるのか安全性の否定にあるのかは明らかでない(おそらく後者であろうと推測される。)。

(6) (グレラン注の有用性についてのまとめ)

以上によれば、アミノピリン、バルビタール及びその結合体であるピラビタールは、鎮静、解熱について有効性を有するが、他方、アミノピリン、バルビタール、ピラビタール、ウレタンのいずれもが発癌性を含むいくつかの副作用を有することが認められる。そして、現時点において癌が致死的で治療の極めて困難な疾患の最たるものであることは、公知の事実であるから、アミノピリン、バルビタール、ピラビタール、ウレタンが薬剤としての有用性を認められるためには、これら薬剤の薬効の重要性が発癌の危険性を凌駕していること、またはこれら薬剤と同様の薬効を有する薬剤が使用可能な形では他に存在しないこと以上のいずれかの要件を満たす必要があると解するのが相当である。しかし、これまで認定の諸事実に照せば、グレラン注が、これらの要件のいずれについても充足しているとは認められず、却つて、〈証拠〉を綜合すると、グレラン注が昭和五〇年七月に市場から回収された後にも臨床上の支障が起つたことは全くないこと、グレラン注が回収される以前にもグレラン注を使用しなければ治療が困難となるような状況は全く存在しなかつたことが認められるのである。

これらの点に加え、前記第六章で認定のとおり、グレラン注が少数回の注射でも筋拘縮症を惹起させる可能性を有する注射剤であること、新谷茂らの実験(文献I―10)によると、ウレタンが強い筋組織障害性を有する薬剤であることが実験的に証明されていること等を併せ考慮すると、客観的には、グレラン注は、全く有用性のない、むしろ相当に危険性をはらんだ注射剤であつたこと、それにも拘らず、長い間にわたつて比較的副作用の少ない注射剤として臨床上用いられてきたものであることは、明らかである。しかし、グレラン注がこのように全く有用性のない薬剤であることが明らかになつたのは、昭和五〇年以降のことであつて、それまでの間は、一般には、グレラン注に有用性が存するものと考えられ、臨床上多用されてきたのである。

(四) (グレラン注の欠陥性)

右(三)で判示のとおり、グレラン注及びその主要な含有成分のすべてが強い催奇形性ないし発癌性を帯有しているのであるから、グレラン注は、いわゆる製造物責任理論上の設計上の欠陥を有する製造物であるが、この欠陥と本症の発症との間には後記本章五3で判示のとおり因果関係を認めるに足りる証拠はないのであるから、右の欠陥の客観的な存在という事実は、本件における被告グレラン及び同武田の責任とは関連性を持たないと言わざるを得ない。また、前記第三章四、第四及び第六章で判示のとおり、一般に、溶血性の強い注射剤の大腿部(特に前面)への注射により本症が発症し易いことを、一般の医師(特に整形外科以外の臨床医)は知らなかつたことからすると、グレラン注は、用法に関する添付文書の記載の不十分等に基づく指示上の欠陥を有する製造物であるかどうかが問題となる。

しかし、製造物責任理論における欠陥概念は、無過失責任としての製造物責任の領域における責任原因確定の機能を担当する道具概念であつて、不法行為責任の有無が問題となつている本件においては、この欠陥概念をあえて使用して議論を展開する必要はないばかりでなく、右欠陥概念は、これを、実質的内容において、過失の有無の判断の前提事実の中に含ませることが可能であり、かつ、これが過失の有無の判断の必然的な前提作業となつているのであるから、結局、本件では右のような意味でグレラン注の欠陥性を問題にする余地はないと解される。

従つて、原告らのグレラン注は欠陥品であるとの主張は、いずれも本件訴訟では被告グレラン及び被告武田の過失の有無の判断中で検討の対象とすべき部分以外は、特別に判断することを要せず、一方、被告武田のグレラン注には何らの欠陥もないとの主張が当を得たものではないことは、明らかである。また、原告らは、被告グレラン及び同武田に対し、グレラン注の欠陥性を根拠として無過失責任の主張をしているわけではないので、この点については、これ以上判断しない。

四被告奥田の責任

1(予見の有無)

前記第五章で認定の各事実に併せ、〈証拠〉を綜合すると次の各事実が認められ、他にこの認定を覆えすに足りる証拠はない。

(一) 被告奥田は、昭和二二年九月、東京帝国大学医学部を卒業し、約一年間のインターン後、同大学病院の沖中内科に入局し、その直後に医師国家試験に合格して、昭和二四年三月二二日、医師免許を取得したが、当時は無給の研究生であつたところ、実父が老齢であるなど収入を得る必要に迫られ、昭和二五年一二月、有給となる見込のあつた名古屋市立大学小児科へ移つた。

(二) 名古屋市立大学に在籍中の被告奥田は、臨床経験を積むとともに幾つかの学会報告等も行なつたが、昭和三〇年一二月には同小児科教室を出て、翌年一月、現住所で奥田小児科・内科医院を開業し、開業後今日まで、看護婦及び薬剤師を置かず、妻の手伝を受けるほかは被告奥田一人で診療に当つてきた。

ところで、被告奥田は、名古屋市立大学病院小児科に入局していた当時に、解熱剤としてグレラン注を用いること、その薬用量は

グレラン注2cc×体重/10kg

の計算式によつて算出すること等を覚え、これをそのまま開業後も用いてきたほか、グレラン注の適応性や注射頻度についても、昭和二五年当時の名古屋市立大学小児科でのそれをそのまま踏襲したが、注射部位については、開業当初までは患者の臀部を選択していたところ、臀部注射の場合には患者が体をねじつたりすると針折が生ずる等危険であるほか、便が付着して不潔であるのに対し、大腿部注射は体位を固定し易く、患者の顔色等を見ながら注射をすることができる等の利点があること等を考慮して、次第に大腿部注射をする機会が多くなつた。そして、被告奥田は、グレラン注及びレスミン注射部位としては、原則的に患者の左大腿部を選択するとの治療基準の下に原告患児らに対しても別紙注射状況表に記載のとおり、これら注射剤をその左大腿部に注射したほか、来院する小児患者に対し、同部位への注射を続けてきた。

なお、被告奥田が開業以来昭和四七年に後記の事情で大腿部への注射を止める迄の間に同部位ヘグレラン注を注射した患者の総数は、約七千ないし八千名であり、そのうち原告患児らと同様の状況下に、ほぼ同様の頻度、回数等でグレラン注を注射し、年齢的にも相応する患者(乳幼児)の総数は、合計二六六名である。

(三) 被告奥田は、昭和四七年一二月二一日まで、本症という疾患のあることを全く知らなかつたが、同日に至り、来院した患者の母親から本症に関する記事が医療相談という形で新聞に提載されていたことを伝え聞いて、同年一二月一六日付中日新聞に掲載された東京厚生年金病院整形外科森健躬の質問回答欄記事を読み、初めて本症の存在及び本症の原因として注射が疑われていることを知つた。そこで、被告奥田は、手持ちの医学書等を調べたが本症については何ら記載されていなかつた(なお、被告奥田が開業後購読していた医学雑誌は医事新報、愛知医報、名古屋医報の医師会関係誌のみで、学会専門誌は全く購読しておらず、もつぱら開業直前までに得た知識と経験に頼つて診療を続けていた。)ので、名古屋大学と名古屋市立大学の各整形外科教室へ電話で問合わせたところ、名古屋大学には奥田医院の患者で本症に罹患した者はないとのことであつたが、名古屋市立大学からは四人の患者がある旨の回答を得たことから、本症に関する文献、単行本等はないかと尋ねたのに対し、そのような文献はないとの回答であつた。そこで同大学整形外科の三輪昌彦及び池田威の来訪を受けてそれ迄に注射を射つてきた患者の診療録を検討してもらい、意見を請うたところ、両名から、「今のところはつきり分らんけれども、とにかく大腿部へやることだけはやめたほうがいいでしよう。」と教えられ、その後、患者の大腿部への注射は止め、グレラン注を含む筋肉注射は、以後、患者の臀部へ注射することとした。

以上の各事実が認められ、これらの事実に照らすと、被告奥田は、前記責任判断の基準時中最も遅い昭和四六年末(原告めぐみ)の時点では、注射により本症が発症することの予見はもとより、本症の存在についての知識さえ有していなかつたものと認められる。

2(予見可能性)

(一) (通常の情報経路による予見可能性)

(1) 前記第三章四1ないし43で認定の研究、症例報告等に照すと、昭和四六年当時、整形外科医の間では本症が必らずしも稀な疾患ではなく、本症の原因として注射を疑うべきであるとの理解が一般的になりつつあつたが、整形外科以外の領域(殊に小児科医)では、本症の存在自体が殆んど知られていなかつたことが推認される。このことは、それ迄に小児科領域の文献には本症の紹介が殆んどと言つてよい位なかつたし、また前記第四章五3で認定のとおり、昭和四八年に本症が社会問題化した後、日本小児科学会筋拘縮症委員会が本症の存在及び注射の危険性について周知徹底させることが第一の急務であるとして「注射に関する提言」等の発表等に精力を費やしたことからも明らかである。なお、前記第三章四10、同24で認定のとおり、本症に関する小児科領域の文献としては、昭和三七年に「小児の微症状」の第一版が、昭和四一年には同書の第二版がそれぞれ発刊されているほか、昭和四三年には柴垣らの報告が雑誌(文献A―41)に掲載されているのであるが、この「小児の微症状」について、証人久永直見は、一方では、「大体の病院では図書室に備えつけられている本だという具合に聞いております。」と証言しているものの、他方では、「実は、私はこの本があることを名古屋市内のある病院の小児科医から数えてもらつたんですが、そのときに教えてもらつた本は、改訂版の方でした。」とも証言しており、証人森正樹(小児科)は、「この本は本症が問題になる前に買つております。しかしながら、この中の大腿四頭筋拘縮症に関する項目は読んでおりません。いわゆる教科書的な書物ではありません。」と証言し、証人堀誠も同旨の証言をしていることからすると、この「小児の微症状」が小児科領域(特に実地医家)への本症についての情報伝達に寄与した程度には相当の疑問があることを否定できず、また、柴垣栄三郎らの報告が掲載された雑誌「医療」は、証人村上寶久の証言によれば国立病院等の関係者の部内誌であつて、一般の小児科医が購読する可能性の少ないものであることが認められる(この点については、後記本章九2(四)(3)参照。)。

更に、甲第一号証によると、昭和五〇年三月一一日に開催された参議院社会労働委員会において、参考人坂上正道(北里大学医学部教授・日本医師会大腿四頭筋問題検討委員会委員長)は、次のように述べていることが認められる。

① 文献上、小児科の分野に本症の問題が入つてきたのは、昭和四七年四月の泉田の「小児科臨床」の記事が最初である。

② 学会または大学そのものが近代化したのは、この四、五年のことであり、それ以前は、学会同志のコミニュケーションが非常に悪かつた。

③ 医療情報は、質と量が非常に多く、関連領域の知識を雑誌から引き出すことは、人間の力をもつてしてはとうてい不可能なくらいの質と量になつてしまつている。医療情報のシステム自体が重大な問題であると考える。

これらの事実に鑑みると、小児科関係でも若干の文献等が客観的に存在していたからといつて、そのことから直ちに本症に関する情報が小児科領域にまで一般的に普及していたと推認することはできない。そして、本症に関する情報が整形外科の領域の外には殆んど流出しなかつた原因について、学会の閉鎖性、医学各部門の著しい専門分化、医学情報の氾濫による重要な情報選択の困難化等が指摘されていることは、前記坂上正道の参議院社会労働委員会での供述をはじめとする各参考人の供述から認められるほか、日本小児科学会筋拘縮症委員会の報告書(文献A―99)でもわざわざ「情報の伝達」の項を設けて同旨の指摘をしているところである。

(2) 更に、「注射の功罪」(文献F―29、F―32)の中でも、津山直一(東京大学教授)は、「大腿四頭筋については、特異な病態を示すことが昭和二〇年代より整形外科医の間では認識されていたにも拘らず、他科の医師、殊に小児科医等に、幼児に注射を行なうことの結果としてそのような異常が起り得ることをもつと啓発すべきであつたが、それが十分に行なわれず、単に整形外料の領域で報告を反復していたに過ぎないことは、わが国の学会の閉鎖的なあり方による点が少なくないことを反省すべきであろう。」と述べ、砂原茂一(国立療養所東京病院長)は、整形外科領域から他科の臨床家、殊に小児科に対し警告的な働きかけが十分になされなかつた原因について、専門分野のセクショナリズム、医療の閉鎖性及び医学者の社会的責任感の不足を指摘している。また、証人赤石英は、「整形外科の学会と言いましてもいずれも地方会の段階の話でありまして、割合大きな集団で正式に話合をしたのは四八年の中頃群馬でシンポジウムが行なわれています。それだつて整形外科の学会の抄録が出ておるわけでして、それを整形外科領域以外の人が見るのは特別の人じやないと一寸手に入らないと思います。」「自分は、昭和四七年に発表した論文『注射による末梢神経損傷の実態と予防対策』の資料を読んでいる過程で大腿四頭筋拘縮症というものがあるらしいということを知つたのです。」と証言し、前記「注射の功罪」(文献F―33)の中で、「注射による本症の予見可能性は一般臨床医にはなかつたといつて過言ではない。」と述べ、国立小児病院副院長であり厚生省研究班筋拘縮症発生予防部会長であつた証人堀誠は「私は小児病院という特殊な環境におりますから、普通の方より一年あるいは一年半位早かつたかもしれませんが、整形外科の医長の村上医長という方が小児科という雑誌に筋拘縮症に関する論文をお書きになつておられます。それは、昭和四六年です。それで、私はその別冊をいただきまして、そしてこういうものだということを深く認識したわけでございます。」と証言し、国立小児病院整形外科医長であり日本整形外科学会筋拘縮症委員会委員であつた証人村上寶久は、「本症が広く一般に知られるようになつたのは、昭和四八年だと思います。整形外科医の中では確かに知る人は知つておりました。ただ当時はその数が限定されていたような気がします。それで広く一般にというのは要するに整形外科医が全員知つているという意味でお話したわけでございます。」と証言し、日本小児科学会筋拘縮症委員会委員、大阪市立大学講師で小児科医でもある証人宮田雄祐は、注射による筋拘縮症の存在を知つた時期について、「それは、昭和四九年以降ということですね。」と証言をし、かつて東大物療内科講師であつた証人高橋晄正は、立岩の報告(文献A―24)に関連して、「特にこの整形外科学会にしよつちゆう行つてみるということをしていなかつたので、それは存じませんでした。東大には一千何百人の医者がいますから、仮りに知合であつてもなかなか話合うわけにはいきませんので。立岩君は個人的には知つておりますが、年に一ぺんとか二、三年に一ぺん会うぐらいですから、特別このごろこういうことが起きたよという形の話は聞いたことはございません。」と証言し、根岸の報告(文献A―51)に関連して「存じません。」と証言しているほか、厚生省研究班発生予防部会員、日本小児科学会筋拘縮症委員会でママあり、国立名古屋病院小児科医長の証人森正樹も「本症を知つたのは、昭和四八年に朝日新聞の記事で知つたと思う。」と証言している。これらの証人は前記第四章五の各研究調査等や、その従事している職務、地位からも明らかなとおり、本症を始めとする筋拘縮症に関する第一線の研究者であり、被告奥田のような一般の開業医よりもはるかに充実した情報収集能力を有しているものと推認されることから、本症との関連で特に注意能力(特に予見能力)が高い研究者であると考えられるが、そのいずれもが右のとおり昭和四六年当時、一般の医師が本症の存在を知ることが極めて困難であつたと述べているのである。

(3) なお、昭和四六年当時までに、本症に関する症例報告等が相当数累積されていたことは前記第三章四1ないし43で認定のとおりであるが、このような症例報告等の累積という事実は見過すことができないとしても、その情報に接近することが期待できない場合、換言すれば、相当高度の調査義務を前提としない限り、手の届くところにそのような資料があつたとは言えないときは、単に予見の前提となる資料が客観的に存在していたという事実を意味するだけで、このことが直ちに予見の可能性に結びつくと解することは困難である。

(4) 添付文書の記載、製薬会社のプロパー等からの情報の伝達も一般医師にとつて重要な情報源であるが、本件全証拠によつても、昭和四六年当時までの間に、グレラン注の添付文書その他製薬会社からの文書に本症に関する記載があつたことを認めるに足りる証拠はなく、また、被告奥田本人尋問(第一回)の結果によれば、被告奥田のところへ通つていたプロパーらから本症に関する情報が伝えられたことがないことが認められ、更に、製薬会社からの情報供給体制について見ると、乙B第七一号証の一、二によれば、製薬会社等が共同して医薬品副作用情報システムを確立し、情報伝達の方法について検討したのは昭和四五年ないし四七年以降のことであると認められることからすると、仮りに被告奥田がプロパーに対して本症に関する問合せをしたとしても、プロパーから有益な情報を得られた可能性は極めて小さいと考えられる。

これらの各事実からすると、一般の内科・小児科の開業医が、通常の業務を遂行する過程の中で、医学雑誌等の購読その他外部から入手できる通常の医学情報の伝達経路に依存する限り、注射を契機として本症が発症することはもとより、本症の存在自体を昭和四六年当時に予見することを期待することは極めて困難であつたと認められ、従つて、ごく一般的な開業医である被告奥田についても、通常の医学情報の伝達経路を前提とする限り、右の予見を期待することは甚だ困難であつたと考えられる(なお、被告奥田が開業後、殆んど医学雑誌の購読等をしなかつたことは前記認定のとおりであるが、仮りに被告奥田が標準的な開業医以上に小児科専門誌等を精読したとしても、右に認定のとおり、そもそも小児科領域における情報自体が極めて限られていたのであるから、この精読等によつても被告奥田が本症に関する情報に接することのできた可能性を肯定することは至難であると考えられる。従つて、被告奥田の場合、医学情報の収集に関してはかなり無関心であつたかに窺われるが、そのことにより、右の結論は左右されないと解される。)。

(二) (被告奥田の個人的情報経路による予見可能性)

そこで、次に遅くとも昭和四六年当時の被告奥田が、前記以外の個人的な情報伝達経路からの情報により、注射により本症が発症することがあるとの予見を得ることが客観的に期待できる状況の中にあつたか否かについて考える。被告奥田が活用することのできた情報伝達経路としては、関係大学研究室や所属医師会等への問合わせ、図書館等での資料調査が考えられ、それ以上の情報収集を一般開業医である被告奥田に期待することは、格別の事情のない限り酷に過ぎると言うべきである。そこで、これら各情報伝達経路による予見可能性につき順次検討する。

(1) (大学研究室等への問合せ)

前記本章四1(二)、(三)で認定の各事実に照すと、被告奥田が問合せ等を期待できたのは、昭和四〇年代当時では、名古屋大学整形外科教室及び名古屋市立大学整形外科教室であると推認され、母校である東大医学部整形外科教室については、前記四2(一)(2)の証人高橋晄正の証言や同被告が同大学の内科出身であることに照すと、問合せ自体も容易でなく、かつ、適切な回答を与えてくれる研究者を選択できる可能性は極めて低いと考えられる。

ところで、まず、名古屋大学整形外科教室における研究状況は、前記第三章四9(文献A―15)、同21(文献A―31、A―40)、同37(文献A―62)で認定のとおりであり、このうち文献A―15は、全身状態不良のときの四頭股筋への注射は、壊死を生じ注意を要すると報告し、同A―21は本症との間には何らかの関係があると考えられると報告し、同A―31は本症と注射との間に何らかの関係があることを、同A―40では手術所見を報告し、同A―62は腸脛靱帯の短縮に関する報告である。同大学の医師らが本症と注射との関係を明確に指摘したのは、本件証拠上は昭和四六年に至つてからのようである(前記第三章四41・文献A―70)。この中で報告者植家毅は「本症が一小児科医で多発している例もあり、乳児に対して安易に抗生剤・解熱剤を注射する医療の現況が本症の発生に大きく関与しているものと考えられます。」と発言している。

また、名古屋市立大学整形外科教室における研究状況は、前記第三章四9(文献A―16)、同42(文献A―74)で認定のとおりで、このうち文献A―16は、本邦における本症報告例(昭和三七年三月時点)は四四例を数えるが、既往歴として大腿部注射をうけたことのあるものが圧倒的に多く二九例であると前提したうえ、原因不明の二例については先天性であると報告したものであり、同A―74では、三輪らが昭和四四年一月から同四七年六月までの間に発見された二六例について予後調査を行なつた結果と一二肢の手術例を報告しているが、その発症原因については、一般に先天性のものと注射による後天性のものとに大別されると述べるに止まつている。

一方、前記第五章五2で認定したとおり、昭和四五年九月ころ、原告隆仁が名古屋市立大学附属病院で診察を受けた際、同病院の医師から、「気にすることはない、注射によるものではない。」等と言われているのである。

以上の各事実に、乙D第一五号証の記載内容、前記認定の名古屋大学等に対する電話応対状況を併せ考慮すると、仮りに被告奥田が問合せをしたとしても、昭和四六年当時でなお、本症が注射により発症するものとの確実な回答を得られた可能性の有無は甚だ微妙であると考えられるものの、昭和四一年当時、名古屋大学整形外科教室からは、本症の存在及びその原因として注射が疑われていること等の情報が、また、名古屋市立大学整形外科教室からは、前記三輪(文献A―74)の報告例で最も早い手術例が昭和四四年の例であることから、遅くとも同年当時には、右同様の情報が得られた可能性があつたと考えられる。なお、被告奥田にこのような問合せをすべき調査義務が一般的にあるか否か、それが具体的に発生していたか否かは後に検討する。

(2) (所属医師会等への問合せ)

被告奥田本人尋問(第二回)の結果によれば、被告奥田は、昭和四九年ころ、当時の名古屋医師会長の中村道太郎(内科・小児科医)から、「大腿四頭筋拘縮症つて一体何ですか。」と尋ねられ、また、同医師会瑞穂区支部長の広瀬清市(内科・小児科医)から「わしも全然知らなんだ。」と言われたことが認められる。これらの事実からすると、昭和四六年当時、仮りに被告奥田が名古屋市医師会に問合せたとしても、何ら本症に関する情報が得られなかつたものと推認される。

なお、被告奥田本人尋問(第一回)の結果によれば、被告奥田は、東大に在籍していた当時、内科学会にしばしば出席し、また、名古屋市立大学小児科に勤務していた当時、名古屋市大医学会に所属していたことが認められるのであるが、前記四2(一)に認定の各事実に照すと、これら学会等から本症に関する情報を得ることは殆んど期待できず、仮りに得られたとしても、結局右認定の名古屋大学及び名古屋市立大学整形外科教室から得られたかもしれない情報より以上の的確な情報を入手することは全く期待できなかつたものと推認される。

(3) (図書館等での資料の調査)

本件全証拠によつても昭和四六年当時、被告奥田の利用できる一般図書館等に本症に関する資料等が備えつけられていたことを認めるに足りる証拠はなく、前記認定の坂上正道の国会答弁からすると、昭和五〇年当時においてさえ、医学情報システムは必らずしも十分には整備されていなかつたことが推認される。また、小児科の領域内では、名古屋大学図書館においても、甲第一一七号証によれば、本症についてわずかに記載のある「小児診療百科」(文献F―5)が昭和四六年八月六日に同大学医学部小児科教室医局員一同から寄贈されたことが認められる程度であり、名古屋市立大学図書館については、本症に関する体系的な文献がどの程度揃つていたかどうか判然としない。ただ、整形外科学会雑誌等の学会機関誌及び一定範囲内の整形外科専門誌はこれらの大学図書館にも備えつけられていたはずであるが、これら図書館に病名のみから雑誌記事を検索するシステムがあつたかどうかは、本件証拠上明らかではなく、一小児科開業医である被告奥田が、特別の手がかりもなく、これら整形外科専門誌から本症を知ることは容易でないと認められる。

いずれにしても、被告奥田が仮りに自ら資料等の調査を試みたとしても、それによつて本症に関する情報を昭和四六年以前当時に得られた可能性は、極めて小さいものと考えざるを得ない。

以上によれば、仮に被告奥田が問合せ等をしたとすれば、名古屋大学からは昭和四一年以降、名古屋市立大学からは昭和四四年以降、本症に関するある程度の情報が得られた可能性を認めることができるが、そのことから直ちに本項(二)冒頭に記載のような予見に至ることができたかどうかは疑問であり、その余の情報媒体に対する問合せや調査からは、本症に関する情報が得られた可能性は極めて小さく、これを期待することは著しく困難であつたと考えられる。

(三) (病理学等の基礎知識からの予見可能性)

次に、被告奥田が病理学等の基礎的知識から注射による本症の発症を一般的に類推して予見できたか否かについて検討を加える。

(1) この点について、原告らは、「被告奥田は、大腿四頭筋の筋肉組織に線維化・瘢痕化がある範囲にわたつて生じたときは、大腿四頭筋に連なる股関節及び膝関節の機能に障害が発生する可能性も予見することができた。」と主張し、更に一般的に、「およそ医師資格を有する者は、炎症の結果として筋肉組織障害が生じ得ること、炎症ないし筋肉組織障害の有無・程度とその原因たる異物の非生理性の程度、異物による刺激の頻度、期間、筋肉の抵抗力の強弱との間には密接な相関関係があること、炎症の結果として生ずる筋肉組織障害のうちには回復不可能なものがあることについての医学的知識を当然に得ているのである。」等と主張している。

しかし、本件で重要なのは、注射により本症の如き機能障害を惹起するような大規模な瘢痕形成を招来する程度の重大な炎症反応が起ることを被告奥田が予見できたか否かである。

即ち、病理学の領域において、一般に注射による炎症から組織の線維化・瘢痕化を経て本症に至ることについては、前記第四章三2、5で認定のとおり、今日なお基本的な点について疑問を呈している研究者もないではないが、現在では多くの研究者は、少くとも注射により再生困難な程度の筋損傷が生じ、これから本症へと発展することについては一般的な了解を示しているものと認めるべく、昭和五五年版の「現代の病理学(各論)」(文献J―11)にも本症の説明として、「小児の大腿の拘縮と膝の屈曲障害を主徴とする異常である。主に抗生物質、解熱剤などの筋肉注射による筋肉の壊死後の瘢痕が原因と考えられる。」と記載されるに至つている。しかしながら、昭和五五年当時以前のどの段階でこのような見解が固まつたのかについては、本件全証拠によつてもこれを確定することができず、本件証拠上現われている昭和四六年以前の病理学の教科書等を見ても、昭和九年の「鳥潟外科総論」(文献J―1)には、本文中に「腱、筋に起つた創傷ならば瘢痕性拘縮を生じ関節が硬くなり機能障害を起すことがある。」と記載されているが、ここでは火傷による両手の機能障害例の図が引用されていて、注射による場合が想定されているとは考えられず、昭和二六年の同書第七版(文献J―2)にも同様の記載があるが、これは第一版(文献J―1)の記載を踏襲したものと考えられ、しかも第七版(文献J―2)には炎症の拡がりやその転帰、瘢痕の変化については触れているものの、本症の発症を推認させるような記述はない。昭和四五年の同書第一九版(文献J―3)では、筋性拘縮について「筋の炎症性刺激のため(筋炎)、または筋の瘢痕性収縮による。」と記載されているが、その原因としては、「火傷、挫傷などによる瘢痕または炎症性瘢痕による収縮の結果であることが多く」と記載されており、注射による拘縮は想定されていないように考えられ、また、鈴江懐らの「病理学総論第一版(昭和三五年)」(文献J―5)でも、酸、アルカリ等の腐蝕性の化学物質により強い炎症が起ることを明らかにしているが、注射による本症惹起の可能性は直接には示していない。更に、昭和二九年の中井博松の「注射と注射薬」(文献H―8)でも、一方では、「同じところに何回も注射を重ねると注射薬の種類によつては往々硬結を残すことがある。更に硬結したところに注射を続けていると、強い痛みを発して、数日後には硬結が反対に軟化してくることがある。この状態になると皮膚の表面は発赤して波動を呈し、無菌性壊疸を起す。」としながら、他方では、「この場合の炎症症状は比較的軽い。」としているのである。結局、一般に注射剤によつても炎症が起ること、炎症反応の結果として瘢痕性拘縮が起ることのあることまでは、一般の病理学上の知識から推論することができるとは考えられるにしても、少くとも昭和四六年当時において、右の各推論から、注射によつて本症の如き機能障害を伴なう重大な瘢痕性拘縮等を惹起し得るような強い炎症反応がもたらされることまで認識することは必ずしも容易でなかつたのである。このような結論を導き出すためには、少くとも、まず、注射剤が組織障害性を帯有していることが認識され、または他の薬学あるいは病理学上の知識が補充されなければならなかつたと考えられる。

(2) そこで、この点について、更に検討すると、証人赤石英は、「医師は、私達が指摘したような注射剤の性状について何も知らされていなかつたのですから、従つて予見可能性はない」と証言しており、この証言に見られるような状況が遅くとも昭和四九年ころまで続いており、同年に行なわれた同人の日本薬学会での特別講演が関係者に大きな衝撃を与えた事実(前記第四章五4(二))はこのことを窺わせるものである。そして、〈証拠〉によれば、グレラン注の能書中には、遅くとも昭和四七年八月までは、グレラン注のPH、浸透圧、溶血性その他局所傷害性に関し、僅かに神経損傷に触れられているほかは、何ら記載がなかつたことが認められ(なお、レスミンについては証拠上明らかでないが、同様に何ら記載がなかつたものと推認される。)、また、本件全証拠によつても、昭和四六年末までの間に被告奥田がグレラン注及びレスミン注の組織障害性(特に溶血性)についての認識を得ていたことを認めることはできないのであるから、被告奥田は、グレラン注による大規模な大腿部組織破壊の可能性について一般的な病理学等の知識の類推から予見することはできなかつたものと認められる。このことは、証人高橋晄正の「的確に筋短縮症という形で膝が曲らなくなるというところまでストレートに行くことができたかというと非常に疑問がありますけれども、外傷なんかで大腿部とかいろんなところの筋肉が挫滅した場合には後で膝が曲らなくなるということがありますから、ひどい炎症が起れば拘縮みたいになるだろうということは一応は考えられますね。しかし、筋肉が炎症を起し化膿を起したからやがてそれが筋短縮症になるだろうということを直接推理できたかどうかということは、非常に疑問がございますね。」との証言からも明らかである。

(3) 原告らは、更に「グレラン注を筋肉注射した場合に激しい疼痛を伴うことは広く認識されていたところであるが、被告奥田は、グレラン注を注射した左足の注射部位について腫脹等の訴えが多いことを認識しており、かつ注射液の浸潤による神経組織または血管組織の破壊のあることを認識していた」と主張しており、被告奥田本人尋問(第一、二回)の結果によれば、被告奥田が右主張のような事実をほぼ認識していたと認められるのであるが、他方、同本人尋問(第一、二回)の結果によれば、被告奥田の患児らにしばしば見られた注射部位の腫脹、硬結等は、温湿布等によりいずれも数日を経ずして触知しない程度にまで消退することが多く、そのために被告奥田は、これを一過性のものと考えていたことが認められるところ、このような見解及び腫脹等に対する対処が必ずしも合理的でないとは言えないことは、前記中井博松の「注射と注射薬」(文献H―8)の記載及び「注射薬と注射の常識」(文献H―7)における「局所刺激の強いものや吸収の困難な薬液の場合、筋注を行なう。」との記載から、肯定せざるを得ず、このほか、甲第一〇四号証によれば、昭和二五年の西川義方の「内科診療の実際」にも、「皮下注射で強い局所的刺激を呈する薬剤は知覚の鈍い筋肉内では障害がなくして吸収されるから、通常筋肉注射により注射する。」との旨の記載があること、山梨県における本症の集団発生が社会問題化した直後の昭和四九年当時においても、一般的な医学総合雑誌と考えられる日本医事新報の読者質問欄(文献F―9)で、注射による硬結、瘢痕形成の可能性については、特定の種類の薬剤(抗生物質)の特異的反応として回答されているのに止まること等を考慮すると、右のような腫脹があることから直ちにグレラン注が強い溶血性等の組織障害性を有し、それによつて本症が発症することまで予見することができたと解することはできない。従つて、この点に関する原告らの主張は失当である。また、原告らは、「被告奥田は、原告患児の母親から原告患児らが足を引きずる等の訴えを受けていたのであるから、遅くとも昭和四四年または四五年には原告患児らの左足の機能障害を現実に認識していた。」とも主張しているが、前記第五章に認定の各事実に併せ被告奥田本人尋問(第一、二回)によれば、何人かの母親からそのような訴えを聞いていた事実が認められるものの、昭和四七年一二月まで被告奥田が本症の存在を知らなかつたことは前記四1(三)で認定のとおりであるところ、前記第三章一2、同第三章四で判示のとおり、本症の診断基準が確定したのは被告奥田が本症の存在を知つた以後であり、かつ、本症という疾患の存在を知らなければ、本症と他の類似症状を呈する疾患との鑑別が必ずしも容易でないことに照すと、右のような足を引きずる等の訴えがあつたからと言つて、そのことから直ちに本症が注射によるものであることを被告奥田が予見することができたと解することはできない。

(4) 結局、被告奥田は、自らの医学知識と臨床上の事実認識のみから乳幼児期の大腿部注射による本症の発症を予見することは不可能であつたと認めざるを得ない。

(四) (調査義務の履行による予見可能性)

右(一)、(二)、(三)の事実関係からすると、被告奥田が昭和四六年以前の段階で本症について知ることのできた可能性として認められるのは、せいぜい名古屋大学医学部及び名古屋市立大学医学部の各整形外科教室へこれを照会した場合のみであるというべく、この限りで予見を可能にする手掛りのあつたことが肯定できるにすぎない。そして、これによつて入手できた情報は、この時点では、本症の存在とこれに注射が何らかの関連性をもつているという程度のものであつたと考えられるし、同時に、被告奥田が一小児科医として、当然にそのような照会を義務づけられるのかが問題となる。

そこで、被告奥田が、原告ら患児ら左下肢の異常につき、医師として調査を開始すべき義務があつたか否か、この調査により、右の予見に到達することができたかどうかについて検討を進める。

(1) 一般に、医学専門家である医師は、いやしくも人の生命及び健康を管理することを業務とするものであり、その職務の重要性に鑑み、国から一定水準以上の医学能力を有すると認定された者に対してのみ独占的に資格を付与されているのであるから、受診者の生命身体に危険を生ずることのないよう常に最善の注意を払いつつ、業務を遂行すべきことは当然である。従つて、患者の主訴以外でも身体に一定の異常が現われていることを認識した場合には、その症状の軽重の程度に応じて、それに相応した医療措置を講ずる義務がある。

そして、それが、自らの専門領域以外の処置を要するものであるときは、他の専門医療機関に問合せたり、他医での診療を患者に勧めるべく、また、それが自らの専門領域内の異常であれば、患者にこれを説明して適切な治療を行なうべきものである。更に、その異常が自らの専門領域内のものでないとしても、それ迄自らが当該患者に行なつてきた治療行為と右異常が何らかの関連があるのではないかと疑われるときは、それが専門領域外とはいえ、自らも資料を調査し、あるいは大学研究室等他の専門医療機関へ照会する等して、その原因の解明に努めるべき義務がある。けだし、疾病治療を目的とした医療行為によるものとはいえ、異常の原因を与えたものが、その拡大を抑え、あるいはこれを消失させて、患者の不安を除去し、かつ、今後の医療に際して、同種事案の再発を防止するため、その原因を探究することは専門家として当然のことだからである。

このように、医師たるものは、少なくとも患者の異常が自己の治療行為との間に関連があるのではないかとの懸念を生じたときは、その原因について速やかに調査を開始するべき義務があると言わねばならない。

(2) しかるところ、原告患児らに本症特有の歩容異常等が発症し始めたのは、先に認定のとおり原告守孝では昭和四二年五月ころ、同広志では昭和四四年末ころ、同裕一では昭和四四年六月ころ、同隆仁では昭和四五年四月ころである。そして、〈証拠〉によれば、被告奥田がこれらの異常の一部に気付いていたこと、特に、昭和四五年一〇月七日には原告内木洋子から同隆仁が六か月前から左足を引きずつている旨の訴えを聞いていたことが認められるところであり、被告奥田もその本人尋問(第二回)において、原告隆仁と原告和樹の両名については足の異常を訴えられた記憶があると述べているところである。

(3)  このように、遅くとも昭和四五年中には、原告患児らの中の数人に本症に特有の歩容異常が著明となり、被告奥田もこれに気付いたのであるから、この時点で大腿四頭筋拘縮症と呼ばれる疾病が存在するという認識はなかつたとはいえ、大腿部に繰返し、非生理的な注射を投与してきたことにより、これまで注射部位に発赤、しこり等の症状がしばしば現れていることを現実に観察しており、これが下股の機能障害に結びつくか否かは別として、医学の専門家として、自らの注射投与により患児らの大腿部に与えた局所刺激が右の歩容異常と何らかのかかわりを持つかどうかについて懸念を抱いたとしても格別不自然ではないのである。とすれば、標準的な医学水準をもつ医師であればこれら歩容異常の原因等について調査することが期待できる状況にあつたというべく、被告奥田は、遅くとも昭和四五年一〇月ころに原告内木洋子から原告隆仁の歩容異常の訴えがあつたころ以後の時点においては、同原告らに対する問診を更に重ね、一方、名古屋大学整形外科教室等に照会し、あるいは自ら文献を調査する等して右症状の原因等を調査すべき義務があつたものと認められる。

(4) 昭和四五年当時、被告奥田が名古屋大学整形外科教室または名古屋市立大学整形外科教室に照会等をすれば本症に関するある程度の情報が得られ、これを基礎に、更に調査を行えば、乳幼児期の大腿部への注射によつて本症が発症することのあることを予見できたというべきである。即ち、昭和四〇年代前半ころまでの名古屋大学及び名古屋市立大学整形外科教室における本症についての研究状況は先に認定のとおりであつて、両大学とも、時日の推移とともに本症の発症原因につき乳幼児期における大腿部注射への疑いを一段と強めていたものと推測され、一方、第三章四でみた研究史によりこれを全国レベルでみると、昭和四五年には、一部研究者の間では、原因となる具体的な注射剤名の調査や治療方法に手が拡げられており、また、ハーゲン(文献E―8)の注射による組織障害性についての所説も国内に紹介されていたと考えられるし、更に小児科医の一部にも関心をもつものが出始めていた状況にあつたから、右両大学から得られた情報は、乳幼児期に大腿部へ注射投与することの危険性を警告するものであつたと認めるべく、そこで、被告奥田がこの情報を基礎に文献の調査(既に、本症と注射との関係ということで標的は絞られており、この絞られた標的に従つて検索を行なう限り、一小児科医にとつても大学図書館等で整形外科関係の主要雑誌等の文献を調査することは全く不可能なわけではなかつたと考えられる。ただ、先に判示のように、昭和四七年当時、被告奥田からの「本症に関する文献、単行本等はないか」との質問に対し、名古屋市立大学整形外科教室からは「そのような文献はない」と回答があつたこと、右図書館等に病名等からの検索システムがあつたことを認めるに足りる証拠はなく、却つて証人美間博之の証言によれば、このような検索のためのカード分類等は、比較的最近まで、個々の研究者毎にその興味の対象となつた疾患を中心にばらばらに行なわれ、私蔵されていたことがあつたのに過ぎないことが認められることからすると、被告奥田としては、過去数年分の日本整形外科学会誌を全部詳細に検討しなければ、本症に関する文献に接することができなかつたであろうと考えられる。しかし、これ迄判示してきたとおり、原告患児らの現実の脚部の異常が顕在化しつつあつた昭和四五年当時においては、被告奥田がこのような厳格な調査義務を負うこともやむを得ないと解さざるを得ない。そして、このような精密な文献検索を行なつたとすると、本症に関する症例報告等に接した可能性は、十分に肯定できる。)、研究や症例発表者への照会等をすることにより、一層詳細に本症についての知見を得ることができたと言わねばならない。そして、その内容は最小限、前記原告患児らの歩容異常は本症に罹患したことを疑わせるものであること、その原因としては、乳幼児期における大腿部への注射であるとする見解が最も有力であること、その注射剤についても、特定のあるいは数種類の範囲のものに限られているわけでないこと、以上のことを示すものであつたと考えられる。

とすれば、被告奥田としては、昭和四五年末ころまでには、乳幼児の大腿部へ注射をすると本症を発症させることがあること、グレラン注もそのような注射の中に入る可能性のあることをそれぞれ予見できたものと認められる。そして、医療の専門家であり、かつ、自ら施した医療行為の結果について危惧を抱くべき立場にたたされた同被告にとつて、その責任の前提としての予見可能性は右の程度の概括的なものをもつて足りると解すべきである。

(5) しかしながら、昭和四四年以前の段階で被告奥田にこれを期待することは、前記原告患児らの状況や被告奥田の有していた専門知識、情報等からすると、同人を標準的な医学水準をもつ医師であると想定する限り困難であつたと認めざるを得ない。

3(結果回避可能性)

前記第六章で認定のとおり、理論的には、グレラン注またはレスミンの一回注射を含む少数回注射でも本症が惹起される可能性は否定できないのであるから、被告奥田が有責に原告患児らに本症を発症させないようにするためには、グレラン注またはレスミンを大腿部に注射する場合を、その注射以外に当該疾病に対する治療手段がない等極めて限られた場合に限定することのほかはあり得ない。

しかるところ、被告奥田の原告守孝を除くその余の原告患児らに対する注射投与状況は別紙注射状況表記載のとおりであるが、これに〈証拠〉を加えて、原告患児らに対するグレラン注限定の可否について検討する(なお、被告奥田の治療行為の妥当性と被告奥田以外の被告らの責任との関連については本章五1で判断する。また、レスミンの限定に関しては、原告らの本件請求が、グレラン注投与による賠償請求である以上判断の必要がないところである。)。

(一) 被告奥田は、原告患児らの主に風邪症候群に属する疾病からくる発熱に対する解熱目的または将来の発熱に対する予防目的でグレラン注を投与してきたのであるが、昭和五〇年以前にはグレラン注の添付文書には効能として解熱作用はあげられていなかつたとはいえ、グレラン注の主成分であるアミノピリン、ピラビタールが解熱効果をもつことはつとに知られていたのであるから、医師の裁量として、解熱目的でグレラン注を用いたこと自体は、被告奥田の責任に関する限りは特に問題とすべき点はない(なお、証人高橋晄正は、東大物療内科在籍当時、アミノピリンの危険性を考慮して、その使用を必要最小限にしていた旨を証言しているが、他方では、当時、一般には右の危険性を問題とする者が殆んどなく、アミノピリンが広く解熱等に用いられていたことも事実である旨を証言しているところである。)。しかし、熱性けいれんを頻発するとか、全身衰弱が激しいというような重篤な症状の場合は格別、別紙注射状況表に記載のような疾病の発熱に対して、もつぱら注射をもつて対処することについては、本症発症の危険性は別にしても、専門家の間では疑問を呈する向きが多い。即ち、小児は成人に比べ発熱に対する抵抗力が強く、また発熱それ自体が生体の防禦反応でもあるからむやみに下げるべきではなく、暫時経過を見ることも必要とされているのであり、一方、注射と切り離せない注射時における疼痛や局所の障害との関係でも、小児治療を困難にさせることがあり、なるべく、経口剤を優先させるべきことが勧められているのであつて、前記日本小児科学会が発表した「注射に関する提言(1)」もこのことを明白に指摘しているところである。まして、将来の発熱に備えて予め、注射を行なつておくというような医療措置については、むしろ被告奥田の独自の見解であると言うべく、その危険性を心配する考えはあつても、本件証拠上その合理性を見出すことはできないところである。

(二) このような点からすると、被告奥田の原告患児らに対する注射投与のすべてを、医学的合理性のないものとして排斥することは相当でないにしても、本症発症の危険性をあえておかしてまで、原告患児らに対しグレラン注を注射しなければならなかつた医学的必然性は本件証拠上見出すことはできない。

たしかに、本症が社会問題化した以後に発表された日本小児科学会の本症に関する報告書等によると、昭和四〇年代においては、乳幼児に対しそれ程抵抗もなく注射を行なうことが、特に一般開業医の間で広くみられ、患児の親の側にもそれを期待する風潮のあつたことが窺われるが、このような事実も被告奥田の前記のような注射投与をやむを得ないものとして肯定することのできないことは当然である。

従つて、被告奥田は、原告患児らに対し、左大腿部への注射を避けて診療行為を行なうことができたはずであり、かつ、これによつて、原告患児らの本症罹患を回避することが可能であつたと言わねばならない。

4(義務違反)

以上のように、被告奥田については、昭和四五年中には、本症に関して調査をする義務が認められ、更に、この調査によつて得られた本症と注射に関する知見に基づきグレラン注の大腿部注射を限定することが可能であつた。しかるに、被告奥田がこの調査義務を右時期までに履行したことを認めるべき証拠はなく、同被告が名古屋大学や名古屋市立大学へ照会したのは先に認定のように昭和四七年の年末ころのことであつた。このため被告奥田は昭和四七年の年末まで乳幼児の左大腿部ヘグレラン注を射ち続け、このため昭和四六年以降の注射によつて、原告和樹、同博之、同武司、同毅、同めぐみの五人が本症による罹患に至つたものと認められる。

5(被告奥田の責任についてのまとめ)

以上によれば、被告奥田は、原告患児らの左下肢の異常に気付いた昭和四五年の時点において、右異常の原因につき、医師としての調査義務を尽していれば、同年中には原告患児らへの大腿部注射により本症の発症することがあり、従つて、これを避けるべきことを予見し、かつ、それが可能であつたと認められるのに、被告奥田は右調査を行なわず、そのため、右大腿部注射を昭和四七年末ころまで続行した過失により、原告和樹、同博之、同武司、同毅、同めぐみの五人を本症に罹患させるに至らしめたものである。

従つて、被告奥田は右原告患児らに対し、この罹患によつて被つた損害を民法七〇九条に基づき賠償する責任がある。しかし、右五人を除くその余の原告患児らに対しては責任を負わないものと認められる。

五被告グレラン、同武田、同国の責任総論

1(被告奥田の診療行為の妥当性)

(一) 被告国、同グレラン及び同武田は、原告患児らの本症罹患は、被告奥田による大量、頻回かつ適応無視のグレラン注の大腿部注射によるものであつて、右被告らの行為との間に因果関係がなく、また、右のような注射状況を予見することも不可能であつたのであるから、原告患児らの本症罹患に対して責任を負うものではない旨を主張している。

そこで、被告奥田のグレラン注の注射状況と本症発症の関連について検討する。

(二) 被告奥田本人尋問の結果(第一、二回)によると、同被告は、本章四1(二)で判示の計算式の効用を自らの臨床使用経験等で確認してこれを用い続け、原告患児らに対しても大略この計算式を用いて算出した用量でグレラン注を注射し続けたことが認められるのであるが、証人北原哲夫及び同野上寿の各証言、甲第三一一号証の河邊昌伍の見解によれば、特定の注射剤の使用に際して、所期の薬効が得られない場合には、一定程度まで注射量を増加させることは、薬学の見地からも是認でき、かつ、実際に広く臨床の場で実施されていることが認められる(なお、乙D第一二号証によれば、昭和四七年八月改定のグレラン注の能書には、「年令・症状により適宜増減することができる。」と記載されていることが認められる。)。ただ、本件責任判断の基準時の最終時点である昭和四六年以前の時点において、注射局所の急性毒性に関連して増量限界値が記載された解熱用注射剤添付文書の存在したことを認めるに足りる証拠はないから、その意味で、一般の臨床医は、増量限界値を知らされていなかつたと言うことができるが、被告奥田が、このような計算式を用いたのは、グレラン注の使用による副作用発現限界または増量限界としての極量の算出のためでないことは、被告奥田がこれを注射剤の種類と関係なく一般的な薬用量基準として適用していたことからも優に推測されるところである。そして、被告奥田は、グレラン注による局所作用については、個別的に、例えば注射局所の発赤、腫脹等に対しては蒸しタオルでよくもむ等により対処し、その結果、大部分の患者では、目に見える局所作用は消失していたようである。

ところで、〈証拠〉によると、被告奥田の右計算式は、年齢比によるヤングの式、体重比によるクラークの式、体表面積によるアウグスベルガーの式(第Ⅰ式、第Ⅱ式)またはハルナックの式により算出される小児薬用量のいずれと比較しても著しく過大な用量を導き出すものであり、体重一〇kg以上の小児の場合、常に成人薬用量に達してしまうものである。即ち、グレラン注の小児薬用量は、体重一〇kgの一歳児を想定すると、ヤングの式では0.15cc、クラークの式では0.29cc、アウグスベルガーの第Ⅱ式では0.5cc、ハルナックの式では0.5ccとそれぞれ算出されるものであるところ、被告奥田の計算式では、成人用量と等しい二ccと算出され、実にアウグスベルガーまたはハルナックの薬用量の四倍という過大量となるのである。これらの点からすると、注射薬用量の決定については、ある程度柔軟に考える余地があるものの、被告奥田のグレラン注投与量については著しく妥当性を欠くものであつたと評価せざるを得ない。

(三) 次に、被告奥田がグレラン注を解熱目的で頻回に投与した点であるが、〈証拠〉を綜合すると次の(1)の事実が認められる。

(1) 被告奥田は、その患者に対し、患者の症状等から解熱剤投与の必要があると判断した場合には、グレラン注の筋肉注射、グレランまたはアミノピリンの内服薬(グレランの成分は、グレラン注の主成分とほぼ同じ。)を投与していたが、患者の発熱が比較的高くこれが持続する可能性が大きい場合、患者が帰宅後も投与の必要がある場合等には内服薬を投与し、発熱がそう高くなくても短時間で解熱させる必要があると被告奥田が判断し、または患者に付添つて来院した親等からその旨の要望があつた場合、平熱でもこの後発熱が予想され、これを防止する必要があると被告奥田が判断した場合等には、内服薬の投与と共にまたは内服薬なしにグレラン注の大腿部注射を行なつていた。

このような解熱の目的でグレラン注を用いることそれ自体はグレラン注の本来の使用目的から外れるものではないことは先に本章三2(三)(2)、(3)及び同四3(一)で判示のとおりであり、また、府川実験(文献G―11)でも、解熱剤スルピリンの解熱効果との比較試験によつて、グレラン注0.43ml/10kgの解熱効果がスルピリン0.45ml/10kgの解熱効果に相当するとの結果が得られており、更に甲第一三八号証によれば、昭和五〇年五月改訂のグレラン注の能書にはその効能として、鎮痛に加え、「緊急に解熱を必要とする場合」と表示されるに至つたことが認められるのである。

(2) しかしながら、前記本章四3(一)で判断したとおり、小児に対する投薬に関してはできるだけ注射投与を避け、内服(経口)投与を優先するのが小児治療の基本原則であり、しかも、小児の発熱は、自然回復による解熱が強く期待され得る場合が多く、患者の親等の要望に従つて安易に注射を行なうべきでないのであるから、原告患児らに対するカルテや被告奥田本人尋問の結果(第一回)から認められる原告患児らの右注射時の疾病に照すと、その必要性の有無の判断には合理性を欠くものがあつたと評価せざるを得ない。

(3) 一方、本章四1(二)で認定のとおり、被告奥田は、昭和三〇年ころ当時における名古屋市立大学小児科の用法を踏襲して、グレラン注を解熱剤として用いてきたものであるところ、ピラビタール及びアミノピリンに解熱効果があることからグレラン注を含むピラビタール注射液が解熱効果を目的としても用いられてきたこと、前記日本小児科学会の各提言等では、解熱を目的とする注射剤の使用その他小児に対する注射の頻用が強く戒められており、このことから、遅くとも昭和五〇年当時ころまでの間には、臨床現場においては、解熱のための注射剤使用頻度は極めて高い状態にあつたと推測されること、前記第四章五1で認定の厚生省研究班の調査によつても小児等に対する注射の現実的需要が極めて高いことが実証されていること等の事情に鑑みると、被告奥田における解熱目的でのグレラン注の使用は、現実に発熱している患児への投与に関する限りは、当時の一般臨床医の中で特に異常な例であつたとは必ずしも認め難く、それと同時に、被告奥田のこの範囲でのグレラン注使用状況は、少なくともこれを製造し、販売していた被告グレラン、同武田には十分予見できたものと考えられる。

(4) しかし、被告奥田が、平熱ないしはそれに近い患児らに対し発熱予防のためにグレラン注を投与した点については、その医学的合理性を首肯させ、また、一般の臨床現場においてそのような目的で使用されていたというような状況があつたことについてもこれを認めるに足りる証拠のないことは、前記本章四3(一)で判断のとおりである。従つて、被告グレランや被告武田が、被告奥田のこのような注射投与状況についてまで予見できたとすることはできない。

(四) 以上のとおりであるから、被告奥田のグレラン注投与行為には、医学的妥当性を欠く点のあつたことは否定できないのであるが、その回数、量の点については、先に第四、第六章で認定のとおり、頻回かつ標準投与量を超えるグレラン注の投与によつてのみ原告患児らが罹患したとは認められないこと、適応を無視してグレラン注を射つたことは、結局、回数の問題につながり、同様の結論に至ることからして、被告奥田の右認定のような医学的妥当性を欠く注射投与行為は当然に被告奥田を除くその余の被告らの責任に消長をきたすものではないところである。

2(注射剤の組織障害性と支配領域の問題)

〈証拠〉を総合すると、一般に医師は、医療上の専門的知識を有し、かつそのこと故に国から資格を与えられているものであるから、具体的な診療方針の樹立、治療手段の選択はもとより、注射部位等の選択についても自己の責任において広い裁量権を有するものと認められる。従つて、各医師が、その裁量に基づいて一定の医療行為を行なつた場合には、その結果として生ずる損害等に対して第一次的な責任を負うべきである者が当該医師であることは当然である。

しかしながら、医師の裁量に基づく具体的な行為の選択は、その前提となる医療情報に基づく判断を基礎とするものであるから、この前提となる情報に誤りまたは欠缺がある場合には、それに基づく判断も必然的に適正を欠くに至ることのあることは否定できないところ、医学情報の伝達が現実には必らずしも円滑でないことは、前記本章四2(一)で認定したとおりである。そして、医師の有する専門的知識も医療上必要な基礎的事項及び自己の専門領域に関する特殊的事項の範囲を超えた生理学、薬学等の特殊専門的事項、あるいは個別の注射剤に関する特殊的事項、専門領域外の医療上の特殊的事項にまで常に及ぶことを期待することは、今日の医療技術が高度に専門化し、また、医療情報も大量かつ複雑多岐にわたつていることからすると極めて困難である。従つて、医薬品の通有的な性状であつても、その通有性の故にすべての医療関係者に知られているわけではなく、知られていない通有的な性状も当然存在するのであるから、これらについては、他からの情報伝達に頼らざるを得ないのが臨床現場での現状であり、このような場合、医師と協同して適正な医療を実現すべく、臨床の現場へ医療情報を提供する義務があるとされる者は、医療の手段である医薬品に関する情報(使用の方法に関する情報を含む。)も提供すべく、伝統的な医療の独自性裁量性の概念を墨守し、あるいはこれに藉口して、医師の支配領域に何らの関与もしないで済ますことの許されない場合は当然あり得ることである。要するに、この限りにおいては、情報を提供すべき責務のあるものの支配額域と医師のそれとが重複しあうものと解するのが相当であり、特に、本件は、先に認定してきたとおり、本症に関する情報が客観的には少なからず存在していたにも拘らず、その情報の伝達が整形外科関係の領域をこえて円滑に伝播しなかつたところに問題点の一つがあることに照すと、このような理解は極めて自然のことである。また、注射剤の筋組織障害性は、被告武田の主張するように、現在の科学水準ではこれを除去することができないとしても、このような重大な結果をもたらす可能性のある害作用を通有性の名のもとに医療の現場だけの問題とすることは不当である。この点につき、日本小児科学会筋拘縮症委員会の報告書(文献A―99)が、「筋肉注射剤の注射部位における局所障害性の判定には、直接注射した部位の組織について検討し、とくにその薬剤に特有な障害が認められたときは、その結果を能書に記載し注意を喚起すべきであろう。諸外国では、すでに昭和三六年にトッド(文献E―12)が筋肉注射による筋拘縮症の危険性について警告し、診療する人々の注意を喚起していた。(中略)、わが国ではこのような実験的筋障害性の情報や、前述した人体組織の病理変化の情報が本症の防止に生かされなかつたことは、まことに遺憾であると言わざるを得ない。」と述べていることは、本症を巡る諸々の問題を総合的に検討考察した上での所説として傾聴すべきものであり、同報告書が、その情報源として、どの範囲のものを考えているかは必らずしも明確ではないが、右文中に「能書」という文言のあることからして、その一つとして、製薬企業を念頭に置いていることは明らかである。

以上のことからすると、組織障害性に関連する事項を第三者が医療の現場へ伝達することは、医師の裁量の合理性をより確実にするものではあれ、何ら医師の裁量権の侵害になるものではないと解すべきであり、この判断に反する乙B第七四号証の一、二、三における桜井実及び乙B第七一号証の一、二における久保文苗の各見解については、当裁判所の採らないところである。

3(アミノピリン、ウレタンの副作用の問題)

原告らは、グレラン注に含まれているアミノピリンには無顆粒球症等の、ウレタンには発癌性の重大な副作用があるのであるから、製造、販売を許されない欠陥品であり、これが製造販売されたために被告奥田が原告患児らにグレラン注を注射して本症を惹起させたのであるから、被告グレラン、同武田は、グレラン注を製造、販売したことについて、被告国は厚生大臣がその製造を許可したことについてそれぞれ責任を負うべきである旨を主張している。

(一) そこで、この点について検討すると、アミノピリンには無顆粒球症等を惹起させる副作用があるばかりでなく、グレラン注の主成分であるアミノピリン、パルビタール、アミノピリンとパルビタールの分子結合体であるピラビタール、ウレタンのいずれもが強い発癌性を有し、特にピラビタールにおいて発癌性が著しいこと、従つて、グレラン注は、客観的には全く有用性のない危険な注射剤であつたこと、ウレタンの発癌性が端緒となつてウレタン含有注射剤はすべて回収されたこと、昭和五一年に至り、ピノビタール注射液の有用性が公的に否定されてことは本章三2(三)で認定のとおりであるから、昭和四六年以前の段階で仮りにこのことが認識され、または予見できる状況であつたとすると、グレラン注が直ちに製造販売を中止すべきであつたことは、まさに原告ら主張のとおりである。しかし、本症と無関係の事由によつてグレラン注の製造販売中止、回収が行なわれたとしても、それによつてグレラン注による本症の発現は防止できるという意味での事実的因果関係の存在は認められるものの、そのことから直ちに被告グレラン、同武田に責任があると解することはできない。けだし、特定の製造物が欠陥を有するがゆえにその欠陥から生じた損害について製造者が賠償責任を負うのは、その責任の根拠がその欠陥を放置した点に求められると考えられるから、当該欠陥に起因して生じた損害の範囲に限られると解するのが相当であるところ、本症が無顆粒球症等または発癌性(催奇形性)に起因する(または関連する)ことを推認させるに足りる証拠はなく、従つて、被告グレランがアミノピリンまたはウレタンによる前記副作用を原因としてグレラン注の製造中止等をしなかつたことが右副作用との関係で仮りに違法と評価され得るものであるとしても、本症との関係で有責であると解することはできないからである。

(二) 次に、被告国の関係であるが、ウレタンを含有する医薬品について昭和五〇年に製品の回収等を命ずる行政措置をとつたことは既に判示のとおりであり、また、乙A第三四号証によれば、昭和五一年、被告国が医薬品再評価結果に基づき、薬発第七一〇号薬務局長通知をもつて、アミノピリン、ピラビタール等を含有する医薬品については「長期連用を避けるべきである。」旨を添付文書に記載すべきことを命ずる行政措置をとつたことが認められるところである。従つて、原告患児らの本症罹患とこれらウレタン等の前記副作用との間に因果関係が認められると仮定すると、被告国の調査義務等の懈怠が問題となる余地はあると考えられる。

しかし、被告グレラン、同武田の責任に関して判示したところと同様に、ウレタンの発癌性及びアミノピリンによる無顆粒球症等と本症の発症との間に因果関係(条件関係)を認めるに足りる証拠はないのである。

確かに、原告ら主張のとおり、ウレタン等の副作用を理由としてグレラン注に対する規制措置がとられたならば、グレラン注自体が存在しなくなるのであるから、グレラン注による本症の発症もあり得なくなることは自明であるが、このような結果は、単に事実上の結果に過ぎず、被告国に損害賠償責任を帰結し得るものでないことも明らかである。けだし、ウレタン等による前記副作用と本症の発症との間の条件関係が立証されない以上、グレラン注による原告患児らの本症罹患はウレタン等の前記副作用以外の要因に起因するものと考えざるを得ず、この要因を除去しない限り、これらウレタン等の前記副作用を放置してもしなくても本件の原告患児らの本症罹患には何ら影響を与えないからである。従つて、ウレタン及びアミノピリンに対する行政措置が仮りに遅きに失するものであり、この点について厚生大臣の薬事行政に違法があるとしても、そのことが被告国の原告患児らの本症罹患に対する責任と結びつくものでないことは明らかである。

(三) 結局、昭和四六年末迄の時点において、被告グレラン、同武田が、アミノピリンまたはウレタンによる前記副作用との関係でグレラン注の製造販売の中止等をしなかつたこと、厚生大臣が、その製造販売につき行政上の規制措置をとらなかつたことについて、本症との関係で結果回避義務違反を認めることはできず、この点に関する原告らの主張は採用できない。

六製薬会社の責任総論

1(製薬会社・販売会社の責任)

(一) (製薬会社の責任)

医薬品は、疾病に対し有効な薬効作用をもつと同時に、常に危険な害作用を内在させ、しかも、この害作用はときとして、人の生命に危殆を及ぼすこともある物質である。これを注射についてみると、前記第四章四2で認定のように、注射針の刺入により人体の組織に物理的損傷を加え、かつ非生理的な注射液を直接人体の組織内に注入することにより当該組織に何らかの化学変化その他による損傷を加えるものであつて、本質的に一定の危険性を伴うものであることは、本章三1(二)で判示のとおりであり、また、前記第四章三4で認定の各動物実験の結果からも明らかである。従つて、医薬品を自ら製造する者は、これを創り出したものとして、その安全性を第一に確保すべき立場にあると言うべく、その製造及びこれに続く販売の過程を通じて、高度の注意義務を尽してその安全性の確保につとめなければならない。そして、当該医薬品に副作用のあることが疑われるに至つたときは、この疑いを解明し、その一方、この副作用による被害の発生を抑止するために相当な回避措置をとるべき義務を負担するものである(詳しくは、本章七2で検討する。)。

(二) (医薬品の販売者の責任)

医薬品の販売者についても、右の製造者とともに当該医薬品の安全性に関し、注意義務を負担すべき場合がある。

勿論、物品の販売に係つたものが、その関与の程度如何に拘らず、常に販売物品の瑕疵によつて物品の末端使用者が被つた被害に対し責任を負わねばならないものではない。しかし、医薬品は、前記のとおり常に危険な害作用を内在させる物質であるから、その安全性を確保し、それによる被害を未然に防止するためには、この製造販売に携わる多数の者の注意によつてこの危険が事前に排除されることが期待されるのであり、これは社会的要請でもある。従つて、一定の要件のもとに、その販売に際しては、当該医薬品の安全性を確保するため、製造者ともども高度の注意義務を尽し、また当該医薬品の副作用による被害を回避するために相当な措置を講ずべきものである(詳しくは、本章八2で検討する。)。

(三) (損害賠償責任の及ぶ人的範囲)

医療用医薬品に関する限り、これを使用するのは医師であり、その投与を受ける患者は第三者に過ぎない。しかしながら、医療用医薬品は、医者自身によつて自己消費される消費財ではなく、常に患者に対する使用を必須の前提とした(換言すれば、常に第三者の存在を前提とした)消費財であるという特殊性を有するものであり、仮りに医薬品の使用によつて一定の損害が生ずるとすれば、第一次的にはまず第三者にそれが生ずるという特殊性を有している。従つて、医療用医薬品の製造者及び販売者に対して一定の注意義務が課せられている場合には、その注意義務の懈怠による損害を賠償すべき人的範囲は、右医療用医薬品の特殊性に鑑みると、当然に当該医薬品の投与により損害を被つた第三者に対しても及ぶものである。

2(添付文書の記載事項)

昭和三五年法律第一四五号薬事法(但し、本件責任判断の基準時である昭和四六年末に直近の改正である昭和五〇年法律第三七号による改正前のもの。以下、本法においては特に断らない限りはこれと同じで、以下、昭和三五年薬事法という。)五二条は、添付文書等の記載事項を次のとおりに規定している。

(五二条)

医薬品は、これに添付する文書又はその容器若しくは被包に、次の各号に掲げる事項が記載されていなければならない。ただし、厚生省令で別段の定めをしたときは、この限りでない。

一、用法、用量その他使用及び取扱い上の必要な注意

二、日本薬局方に収められている医薬品にあつては、日本薬局方においてこれに添付する文書又はその容器若しくは被包に記載するように定められた事項

三、(省略)

四、前各号に掲げるもののほか、厚生省令で定める事項

ところで、これまで認定してきたとおり、本症は、個々の注射剤の特殊な性状に起因する特定の医薬品に固有の副作用ではなく、注射剤一般の通有性である組織障害性の強さ(溶血性の程度として顕現する)の程度に応じて、一般的な生体組織の炎症反応等が発展し、その帰結として生ずる疾患であるから、筋肉注射剤にはそのような組織障害性があり、これに基因して副作用を伴うことがある旨の警告・指示等が添付文書等の記載事項に含まれるか否かが問題となる。

そこで検討すると、右の法五二条一号の記載事項は、おおむね使用量(年齢、疾病の程度、身体の状況等の差異により必要があれば書き分ける。)、使用の度数、使用の期間、使用の時期、使用の方法、禁忌症等を主とするが、投与経路、部位等に関する指示等も記載事項に含まれると解するのが相当である(なお、昭和五一年二月二〇日薬発第一五三号「医療用薬品の使用上の注意記載要領」第二9によれば、適用上の注意として「投与経路、剤型、注射速度、投与部位、調整方法に関し投与する際に特に必要な注意を記載」すべき旨の行政指導が行なわれていることが認められるのであるが、これは、当然の理を確認したものに過ぎず、この「要領」によつて、初めて投与経路等が記載事項に含まれるに至つたと解すべき理由はない。)。また、副作用の発現につき、医師の一定の用法が重要な要因となつている場合にも、そのような作用の発現する用法上の限界が医師に知られていない場合には、この限界を添付文書に記載すべきである。けだし、証人赤石英及び同高橋晄正の各証言によれば、一般の臨床医においては、特定の注射剤の用法上の規準及び性状等について自ら動物実験等によつて調査研究する能力はないものと認められるのであるから、医師が特定の製品の用法の当否について自ら吟味することは殆んど不可能であると考えられるのに対し、当該医薬品の副作用について最も調査能力等を有するのは製造者等であると考えられるのであるから、一定の用法による副作用の発現について情報を医師に提供すべきものは右製造者等であると解されるからである。このことは、医薬品の一定の用法が医学上の基本に反している場合であつても、その基本を無視するような実態が広く、医療の現場で行なわれており、そのことを右製造者等が認識しつつ当該医薬品を流通に置いた場合にも妥当するところである。

しかし、添付文書等の記載事項はこれらに限られるものではないと同時に、これらの事項のすべてについて常に記載することを要するのではなく、当該医薬品の前記のような各性質を考慮して客観的に必要と認められる事項を記載すれば足りると解するのが相当である。従つて、用法上の注意事項として記載できる事項でも、これが一般に医療上の常識となつている事項であれば、その添付文書への不記載が直ちに違法となるわけではないが、当該事項が一般の臨床医には余り知られておらず、そのため、用法を誤まることによつて、危険性が高まり、有用性が失われるような場合には、却つて、添付文書等への義務的記載事項となるものと解するのが相当であり、従つて、この義務的記載事項の不記載は、違法となる。

これを本件に則して考案すると、遅くとも昭和四八年以前の時点では、本症の存在が一般の臨床医には余り知られていなかつたのであり(前記第三章四)、注射剤の組織障害性に対する理解が一般医師の間では本章三1(二)で認定のようなものであつた以上、当該筋注剤の有用性とその障害性に基因する副作用の内容如何によつては、大腿部を投与部位から外し、または、投与部位上の禁忌とする等の部位指定上の記載、本症が注射によつて惹起されることがある旨の注意上の記載が添付文書等の義務的記載事項となる余地があると言うべく、組織障害性が注射剤の通有性であるとの一事をもつて、組織障害性に関連する事項が添付文書等の義務的記載事項にはならないと解することは妥当性を欠くものである。なお、この点につき、乙B第七一号証の一、二によると、かつて中央薬事審議会委員を務めたことのある久保文苗は、東京地方裁判所において、右の判示と異る趣旨の証言をしていることが認められるが、前記法条の解釈としては採用できない。

七被告グレランの責任

本章一、二、三、五、六での一般的検討を踏まえ、被告グレランの責任について判断する。

1(被告グレランの地位)

被告グレランが医薬品、医療用外各種薬品類、医療用機械器具及び材料、医薬品製造用機械器具、医薬品試験用機械器具、衛生用品、化粧品その他化学製品の生産売買及び輸出入並びにこれに付帯関連する事業を目的とする株式会社(昭和四五年当時の発行済株式総数四四〇万八、四〇〇株、資本の額二億二、〇四二万円)であることは、本件記録上並びに弁論の全趣旨からも明らかである。

更に、弁論の全趣旨によれば、被告武田が被告グレランの筆頭大株主(法人株主)であることが認められ、また、被告武田の本店所在地である大阪市東区道修町二丁目二七番地に近接する大阪市東区道修町二丁目一九番地山口ビル内に被告グレランが支店を設けていることは、本件記録上明らかであり、また、被告グレランがその前身である柳澤薬品商会当時から医薬品の販売に関し被告武田(または、その前身である武田長兵衛商店)と密接な関係を持続してきたことは前記本章三2(一)の認定事実や乙C第一八、第二〇、第二二号証からも窺われるところである。従つて、被告武田と被告グレランとは密接な業務関係を有するものと認められる。

なお、グレラン注は、以前その商品名をグレラン注射液と称していたが、乙C第四号証の一ないし五と、前記のように昭和三五年二月一六日に同注射剤の製造許可事項の変更許可がなされたことからして、右年月日の成分変更の際、商品名をグレラン注とあらためたものと認められる。

2(被告グレランの一般的注意義務)

右のとおり、被告グレランは、グレラン注の製造者と販売者の地位を兼有する者であるが、医薬品には常に危険性が内在することについては、本章六1(一)で認定のとおりであることからして、この製造販売にあたるものは、この安全性確保のために終始高度の注意義務を負うものである。その課される注意義務の内容には、このような医薬品の性状に照し、次のようなものであると解すべきである。

(一) (製造開始に際しての注意義務)

被告グレランは、医薬品を新たに製造開始しようとするときは、当該医薬品が臨床上使用される可能性につき、その最大限の範囲を想定のうえ、その効能の有無は当然のこととして、これを使用することに伴う副作用発現の有無等をその時点における最高の医学薬学水準に立脚して十分に検討し、もし、当該医薬品の有効性、必要性と危険性が均衡せず、副作用が無視できない場合には製造自体を断念中止すべき義務がある。また、当該医薬品の有効性が一定の条件の下においてのみその危険性を上まわり有用性を肯定できることが判明し、かつ、その条件がこれを使用する医師に知られていない場合には、その条件を添付文書に記載して、指示・警告すべき義務がある。けだし、医薬品は、人の生命健康の維持回復を目的とするものとはいえ、前記認定のとおり、常に危険性も内在させる物質であり、しかも、最終的使用者である一般国民においては勿論、これを用いる専門職である医師においても、その危険性について十分な知識をもつことが困難なことも稀ではないのであり、このため、時として人体に甚大な被害をもたらす虞れがあることからすると、このような医薬品を創り出した製造者は、まず第一に、医薬品の危険性から、一般国民を守る義務を負担すべきだからである。

但し、当該医薬品の主成分に変更がなく、単に主成分の配合比を新たに変更し、または、添加剤等を変更するに止まる場合には、その時点での注意義務としては、この変更によつて副作用等が新たに認められるか否かを検討すれば足り、新規の医薬品を製造開始する際と同内容の義務があるわけではない。

ところで、本件のグレラン注(グレラン注射液)が昭和五年ころに既に製造を開始していたこと、昭和二五年七月二七日までのグレラン注射液の含有成分は、ピラビタール二〇〇mg(ウレタンの含有の有無は不明である。)であり、昭和二五年七月二七日以降のグレラン注射液の含有成分は、ピラビタール二〇〇mg、アミノピリン一〇〇mg、ウレタン二五〇mgとなつたこと、また、ピラビタールがバルビタールとアミノピリンの分子結合体であることは先に判示のとおりであるほか、昭和二五年七月二七日までの間にグレラン注射液の成分に変動のあつたことを認めるに足りる証拠はない。従つて、厚生大臣による昭和二五年三月一三日付及び同年七月二五日付許可に際しては成分に変動がなく、同年七月二七日付許可になるものは、従前と配合比が異なるに過ぎないと考えられるから、この時点において、被告グレランは、前記グレラン注製造開始に際して要求される注意義務と同内容の義務を負担していたわけではないのであるが、ただ、配合剤を変更することに伴う副作用発現の有無について調査検討する義務の存することは前記のとおりである。

そうすると、被告グレランが昭和二五年七月二七日付許可にかかるグレラン注射液の製造開始に際して課されていた注意義務は、配合比の変更による副作用の発現の有無等を調査し、その調査結果のうち、前記の意味で必要と解される事項を添付文書の記載またはプロパー等によつて指示、警告等を行ない、また場合によつては製造自体を中止すぺき注意義務であると解するのが相当である。

そして、この理は、その後の配合比の変更にも妥当するから、被告グレランは、昭和三五年二月一六日付製造許可事項変更許可にかかるグレラン注の製造開始に際しても右同様の注意義務が課せられていたものと解するのが相当である。しかし、昭和二五年三月一三日、同年七月二五日及び昭和三四年三月二〇日各許可にかかる各グレラン注射液の製造については、グレラン注射液の含有成分に変動があつたことを認めるに足りる証拠のないことは先に判示のとおりであるから、右の理はあてはまらないことになる。従つて、これらの各許可時点においても、被告グレランにはそれぞれ製造開始時に要求される注意義務があるとする原告らの主張は理由がない。

(二) (製造開始後の注意義務)

被告グレランは、柳澤薬品商会から改組してグレラン注射液(グレラン注)の製造を引継ぎ、これを継続してきたのであるから、その製造継続中も、前記製造開始時に要求される注意義務の程度に準じ、常に未知の後顕的作用発現の有無を調査検討する義務がある。即ち、乙A第二三号証の三の二五によると、一般に医薬品については市場へ出る迄に動物を使つた毒性試験や催奇性試験等が実施され、臨床治験も行なわれるが、これらの試験では比較的発現率が高く、広範囲に発生する副作用しか発見できず、発生頻度の低い副作用や使用方法、患者の状況など少し条件が異なると発生しないような副作用は、これらの試験を行なつても発見されないことがあるとの事実が認められるほか、日進月歩の医学薬学の領域では、その水準の向上によりそれ迄知られなかつた微細な副作用の発見が容易になることがあるし、長期にわたる累積的使用により、初めてこれらの作用が発現することなどもあり、医薬品には製造開始後相当期間を経過した後になつて副作用が明らかになることは決して稀なことではなく、これらのことは、我が国で過去に発生したいくつかの薬害事件の例を引くまでもなく、広く知られたことである。そして、このような事後調査が尽されることによつて初めて医薬品の安全性が確保できるのであるから、これを、医薬品の安全性につき第一次に責任を負うべき立場にある製薬会社に義務として負担させるべきことは当然である。

従つて、被告グレランとしては、絶えず医学薬学及びそれに関連する分野における医薬品情報の収集につとめるとともに、随時自らの研究機関において調査検討し、あるいは、これを販売する被告武田との連絡を密にして情報を交換し、場合によつてはより高い研究水準をもつ第三者に委嘱して研究を進めなければならない。その結果、何らかの後顕的作用を知り、これが副作用と目すべきものであることが判明したとき、または、その疑いが極めて強いときは、その時点におけるグレラン注の有用性、必要性とこれによる副作用の程度を比較衡量のうえ、場合によつては添付文書の記載またはプロパー等によつて使用者に対し必要な指示、警告等を行ない、またその程度の措置によつては副作用の結果を回避できないときには製造を中止して回収する等の注意義務がある。また、これが副作用であると断定するには至らなかつたとしても、この点につき何らかの疑惑が残るときは、なお、調査研究を続行し、この疑惑を解明のうえ、その結果に従い右に準じた各措置をとるべき義務がある。

なお、被告グレランは、右柳澤薬品商会時代における臨床治験によりグレラン注射液の有用性及び安全性が確認された旨を主張するが、これら試験の方法の客観性に疑問があることは一応措くとしても、何年間にわたる調査で問題が見出されなかつたことも、被告グレランの調査継続の義務を全面的に免除するものではないと解するのが相当であるから、右被告グレランの主張は採用の限りでない。けだし、過去に問題が見出されなかつたということは、後顕的作用がまさに後顕的であることのゆえに、将来における未知の後顕的作用出現の可能性を何ら否定するものでないからである。そして、この理は、日本薬局方所定の基準に従つてグレラン注が製造、販売されているとしても同様である。

また、厚生省の副作用モニタリングによつても本症の報告がもたらされなかつたのであるが、このことは、本症が注射の副作用ではないとの見解、即ち、本症が主として医師の注射手技の誤りによるものとの見解の存在ないし原因に対する調査についての消極的な見解が一般的であつた可能性を窺わせるものであるにしても、それでもなお、被告グレランの調査義務を阻却するものと解することはできない。けだし、副作用という概念自体が一義的に明確であるとは言えず、また、本症のように原因である注射の時期と症状発現の時期の間にある程度の間隙があり、かつ、本症の治療を担当する整形外科医等が注射を行なつた小児科医、内科医ないし産婦人科医等と異なつているような場合には、治療を担当する医師が当該疾患を副作用と判定すべき前提としての注射投与状況についての認識がないのであるから、単に従来存在する副作用モニタリング・システムから得られる副作用情報に含まれない副作用その他の後顕的作用が存在することは、むしろ、当然であり、しかも、その故にこそ、被告グレランは、単なる副作用報告のみでなく、何らかの形で注射に起因することが疑われる後顕的作用一般についての調査義務を負うものと解すべきであるからである。

3(予見可能性)

本件全証拠によつても、被告グレランが本件責任判断の基準時の最終時点である昭和四六年以前の時点で本症の存在及び注射が原因となつて本症が発症することを現実に認識していたことを認めるに足りる証拠はない。ただ、乙C第二号証、第四号証の三、四、五によれば、昭和三四年二月から同三六年二月迄の間に販売されたグレラン注及びグレラン注射液の各能書には「筋肉内(三角筋又は臀筋)或は静脈に注射する」との記載があり、同三六年二月から同四七年八月迄の間に販売されたグレラン注の能書には「筋肉内(三角筋または臀筋を選び神経を避けること)あるいは静脈内に注射する」と記載されていることが認められることから、この記載が本症と関連するものかどうか疑いが生ずるが、この点について、証人府川和永は、単に通常頻繁に用いられる注射部位を指示したにすぎない旨証言しているほか、甲第一三九号証、証人赤石英の証言によると、ヒトの上腕には橈骨神経が、臀部には坐骨神経が走つており、同部への注射は神経麻痺を起す事例が少なくなかつたことが認められることや、右各能書の文意からすると、むしろ、注射による神経麻痺を避けることを目的とした記載であると窺われるのであつて、被告グレランが本症との関係で大腿部を注射部位から除外したと解することは困難である。そして、文献F―14及び証人赤石英の証言並びに前記第三章四によれば、昭和四八年以前当時においては、注射部位の指定については、一般的に大腿部は安全であると理解されていたものの、必らずしも明確な科学的根拠ないし基準は存在せず、事実かなり便宜的に注射部位の指定が行なわれていたものと認められることからすると、右グレラン注の能書の記載のみで直ちに被告グレランが昭和三四年当時から本症の存在を認識していたと推認することはできない。また、甲第一四四号証によると、横浜警友病院の岡越男は、昭和三五年に、被告グレランから提供された注射剤ノバグレラン(改良)を小児に投与した経験として「(本剤は)この種の製剤にありがちな局部の硬結等は全く認められず、この点小児に対する筋注薬としては好適のものといえるだろう」と報告しているが、注射局所の硬結が当然に本症へ発展するわけでないことは前記第三、第四章で判示したとおりであるから、この点をとらえて、被告グレランが当時本症を認識していたとみることは困難である。

そこで、被告グレランが、前記昭和四六年以前の時点において、調査研究義務を忠実に履行すれば本症の存在及び注射による本症の発症を予見することができたか否かについて検討する。

(一) (予見の対象)

原告らは、予見の対象について、「副作用の発現による具体的な障害そのものが予見の対象であるとする見解は、著しく妥当を欠く。」とし、本件においては、「(イ)乳幼児の大腿部に筋肉注射がなされると、本症に見られるが如き何らかの機能障害を発生する危険があること、(ロ)右何らかの機能障害発生には筋肉注射剤の組織障害性が要因になつていること、(ハ)グレラン注が筋組織障害性を帯有し、これが乳幼児の大腿部に筋注されることがあり得ること」以上を予見の対象とすべきであること、また、筋肉注射により瘢痕としての硬結陥凹ができ、これは永続的に残存すること、これらが瘢痕性に拘縮することはよく知られたことであるから、筋肉内に広範囲に頻回注射をすれば、それから機能障害に至ることは容易に推測できたはずであると主張する。

これに対し、被告グレランは筋肉注射剤に何らかの組織障害性を随伴するものであることは認めているのであるが、本症発症についての予見は強く否認するところである。

そこで、検討すると、〈証拠〉によると、注射剤が生体に対する異物である以上、これが組織に対して何らかの障害を与えるものであり、このことは旧来より病理学及び薬学上は知られたことであるが、その障害というのは、せいぜい発赤腫脹、硬結、神経麻痺といつた範囲のものか、これに類する程度のものが知見の対象となつていたにすぎず、永続的な機能障害をもたらすような害作用についてまでは知られていなかつたことが認められる。このことは、右に挙示した証人の大部分が本症の存在を知つたのは昭和四七年あるいは同四八年以降であると供述していることからも裏付けられるところである。ただ、証人宮田雄祐は、注射によつて、仮りに局所に壊死を生じた場合、これが線維化瘢痕化し、それによつて膝が曲らなくなることはどのような医師も知つているとの趣旨の証言をしているが、同証言も、注射から本症に至る機序の全体が容易に予見できるとの趣旨ではないようである。

そして、これらの証拠から窺われる注射による障害についての一般的知見の程度をもつてしては、原告らの主張する前記(イ)(ロ)の予見に至ることは困難であると言うべく、また、このような一般的知見をもつて、被告グレランの責任の前提となる予見すべき事実と解することは妥当ではないと考えられる。けだし、いかに巨大な資本を有し十分な研究能力を有する製薬会社といえども、病理学上の基礎的抽象的知見の存在だけで、具体的な副作用発現の予見があつたとしてこれに対する責任を負わせることは、過失責任主義の原則に反するものであり、無過失責任ないし危険責任と実質的に等しい責任を負わせることにもなつて相当でないと解されるからである。

しかしながら、製薬会社はある程度まで十分な研究調査能力を有しているのであるから、現実に注射から本症に至る具体的な機序の詳細を予見できなくとも、概括的にせよ、乳幼児期における大腿部への注射が原因となつて本症が発症することがあること、自社製の注射剤もそのような注射の中に含まれる可能性のあることを予見できれば、責任の要件としての予見可能性を満たすものと解するのが相当である。

ところで、前記第三章四1ないし48で認定のとおり、本症が社会問題化する以前の時点における本症の症例報告においても、全くの先天性例であるとして注射原因説に全く触れていない症例報告はごく僅かで、その意味で、仮りに何らかの情報伝達経路によつて本症の存在に関する情報に接したとすると、この情報には通常は(特に昭和三六年以後においては)注射原因を示唆する何らかの情報が付随していたと言うことができる。従つて、反証のない限り、原則として、本症に関する情報を手にすることのできる可能性が認められる場合には、注射を原因として本症が発症する可能性についての予見可能性の存在も推定されると解すべきである。

結局、これらのことからすると、被告グレランが最小限本症の存在に関する情報の主要なものを入手することができたとすれば、遅くとも昭和三六年以降のある時期からは、それが注射を原因とするとの所説が極めて有力であることを知ることができたと認められる。

(二) (研究能力)

一般に特定の製薬会社の研究能力が高ければ高い程大量の情報の中からその製薬会社に必要な情報を選り分け、これを分析することが可能となるという意味で、予見能力は高いということができ、従つて、予見能力の比較的低い者と同程度の量及び質の情報にしか接する可能性がなくても、その同一の情報から一定の判断を導き出し得る可能性が高いと考えることができるから、主観的に予見能力の高い製薬会社は、客観的な予見可能性も高いと言うことができる。

そこで検討すると、証人府川和永及び同北原哲夫の各証言によれば次の各事実が認められる。

(1) 府川和永は、昭和四四年、被告グレランの研究開発本部第二研究部(研究員約三〇名)部長となり、動物を用いての薬剤の薬効、毒性等に関する研究に従事していたが、昭和四九年に赤石の報告(文献F―14)に接し、筋肉注射剤の試験法についての研究を開始した。なお、その際、グレラン注についても副作用報告等を検討したが、何ら問題がないと判断した。また、赤石の報告に示唆されて、本症に関する文献も収集したが、本症との関連でもグレラン注には問題がないと判断した。

(2) ところが、昭和五一年、久永のカルテ分析に関する報告(文献A―94)に接し、府川は、グレラン注について本症との関連で後臨床試験を行なうべきものと判断し、昭和五二年、家兎を用いて動物実験を実施した。その結果、グレラン注(昭和五〇年製造中止以前と同一配合のもの)の通常使用量においては、本症が発症することはない旨の結論が得られた(文献G―11・なお、この結論の当否は、前記第六章二2で認定のとおりである。)。

(3) ところで、被告グレランの研究部門は、昭和四四年当時には研究開発本部と称し、第一研究(本部室、開発企画室、化学生化学室及び製剤分析室を含む。)と第二研究部の人員合計は、約一〇〇名であり、このような状況は、昭和四四年以前においてもほぼ同様であつた(但し、名称は研究部と称していた。)。この研究部門では、大学その他の外部研究機関との共同研究も行なわれることもあつたが、被告武田とは殆んど関係を持つことがなかつた。

また、学術文献等の収集は、被告グレラン業務本部の学術情報室が担当しており、購読雑誌としては、少くとも日本医事新報がある(なお、府川は、日本薬理学会、日本臨床薬理学会、日本薬学会及び先天異常学会に所属している。)。しかし、甲第一二二号証の一によれば、日本整形外科学会の昭和五五年の名簿には被告グレランは購読団体として記載されていないことが認められ、従つて、被告グレランは、昭和五五年以前において、整形外科関係の雑誌を購読していたか否かは明白でない(なお、甲第一二三号証によれば、被告グレランは、日本整形外科学会雑誌に注射剤ノブロンの宣伝広告を掲載したことのあることが認められるが、一般に企業が宣伝広告記事を掲載した雑誌等を定期購読しているとは限らないと考えられることからすると、右ノブロンの宣伝広告記事があることのみをもつて被告グレランが日本整形外科学会雑誌を購読していたと推認することはできない。)。これらの事実からすると、被告グレランの情報収集能力は必ずしも脆弱ではないが、現実に医療全般にわたる十分な情報収集を行なつていたか疑わしいところである。しかしながら、右証拠並びにこれ迄に認定の事実を綜合すれば、被告グレランは情報処理機構を個人企業または家内工業用程度以上には整備できないほど弱小で資本の乏しい企業では決してなく、そのつもりになれば学術情報室の情報処理機能を前記程度以上に充実させることが可能な程度の資本を有し、研究人員を擁していたものと推認されるのである。従つて、被告グレランの研究員(府川)が昭和四八年以前に本症の存在を認識していなかつたこと、定期購読雑誌のそれ程多くなかつたかに窺われることは、被告グレランの調査能力の存在を直ちに否定するものではない。

(三) (収集可能な情報)

本件責任判断の基準時の最終時点である昭和四六年以前の時点で客観的に存在した情報は、本件証拠上、前記第三章四1ないし41で認定の各文献等が最大限である(なお、厚生省は、昭和四一年以降、副作用モニター制度を実施し、また、昭和四二年には、新たに製造許可を与えた新開発医薬品についての副作用報告を義務化したのであるが、これら副作用モニタリングによつて、本症が注射による副作用として報告された例のないことは後記認定のとおりである。)。そして、これらの情報のうち、本症に関する主要な情報、例えば日本整形外科学会雑誌及び整形外科誌(なお、これらの文献を被告武田が購読していたことは、後記本章八3(一)で認定のとおりである。)に掲載された症例報告等から得られる情報を入手し得る程度の資本及び研究能力を被告グレランが有していたことは、先に判示のとおりである。従つて、被告グレランの本症に関する予見可能性の前提となる資料は、入手可能なところにあつたと認めることができる。

ところで、これらの主要な情報には本症の原因が注射であることについての情報も随伴していたことは前記のとおりであり、従つて、本症と注射との関連に関する情報も被告グレランの手の届くところにあつたものと推定すべきことは先に判示のとおりであるが、本件における被告グレランの責任の要件としての予見は、乳幼児期に大腿部へ投与された注射剤により本症が発症することがあること及びグレラン注もそのような注射剤に入るかもしれないことの予見可能性で足りるものと解すべきものの、被告グレランの結果回避義務の要件であるグレラン注の製造販売に関し、何らかの措置をとるべき必要性の予見は注射療法の有用性の問題もからみ、右の程度では足りないと解される。この点は、後に検討する。

(四) (一般的病理学的知見からの予見)

昭和四六年当時までの間に、本症の存在を知らない限り、注射剤の通有性としての組織障害性、炎症論等に関する病理学上の一般的知見のみから、注射による本症の発症を予見することが困難であることは、先に本章四2、七3(一)で判示したとおりであるが、この理は、被告グレランの研究員にも妥当する。

注射による本症の発症の可能性を認識するためには、まず、本症それ自体に関する何らかの情報に接することが必須の条件であつた。

(五) (調査研究義務の履行による予見可能性)

(1) 以上(一)ないし(四)のとおり、被告グレランは昭和四六年末の時点においては、本症の存在はおろか、注射によつて何らかの機能障害を伴う関節疾患が発症することがあるとの認識にも至つていなかつたのである。しかし、被告グレランには、医薬品の製造者として、前記のような調査研究義務を負つているのであり、そこで、右義務履行の一環として、同被告が、整形外科関連の文献を入手し、そこに掲載された情報を調査分析をすれば、それによつて、本症に関する研究状況が次のようなものであることを知つたはずである。

(イ) 本症の病態及び原因として注射が疑われることがある程度明らかになつたのは、昭和二七年の青木ら(文献A―3ないしA―6)の報告以降であるが、注射発生説が明確に唱えられるようになつたのは、昭和三五年の笠井ら(文献A―13)の報告以降である。しかし、昭和三〇年代の報告例は、各報告症例数においても、症例数の累計においても(詳細は、文献表Ⅰの表Aで認定のとおりである。)、比較的少なかつた。また、原因に関しても、東大の三木教授、中国労災病院の平川寛、ネフコフスキー、フェアバンクその他先天性原因または注射以外の原因を強調する研究者が少なくなく、注射原因説を唱える研究者でも先天性素因の影響を推定する者が多かつた。更に、注射を原因として推定する報告例の最も代表的なものと考えられる笠井の報告(文献A―13)においても、「癒着が考えられるが、詳細は不明である」とする程度の状況であつた。そして、本症の治療に関しては、概して楽観的な報告が多く、自然治癒を強調するものも少くなかつた。なお、昭和三〇年代における邦文献で注射原因が確実であると報告したのは、昭和三七年の松生ら(文献A―14)のリンゲル液一〇回注射例のみであり、筋注が原因と推定して報告されているのは昭和三六年の保田ら(文献A―12)の三例、原因として推定された注射剤名からおそらく筋注であろうと推測できるのは、昭和二七年の山田(文献A―6)の一例、昭和三六年の笠井ら(文献A―13)の七例中の何例か、昭和三七年の森(文献A―15)の一例、昭和三八年の江端ら(文献A―17)の二例、同年の笠井ら(文献A―21)の一例が認められるに過ぎない。外国文献では、ガン(文献E―7)及びロイド・ロバート(文献E―6)があるが、これを日本で入手できたのは早くとも昭和三九年後半以降である。

(ロ) 昭和四〇年代に入ると、注射剤の影響による筋の線維化を示唆する報告例が現われた。即ち、昭和四〇年、佐藤正次ら(文献B―1)は、薬剤または機械的刺激に対する反応によつて起つたものと推定して三角筋拘縮症の三例を、昭和四一年、加藤正ら(文献A―30)は、ガン及びロイド・ロバートを引用して注射剤による変化を示唆しながら解熱剤その他の注射によると思われる本症の三例を、同年黒木良克ら(文献A―35)は、筋注(テトライサイクリン及びグロンサン)によると推定される本症の二例を、昭和四二年、得津雄司(文献A―42)は、薬剤の影響による種々の筋拘縮症等を、昭和四三年、ハーゲン(文献E―8)は、注射剤の種類ではなく注射剤の有する組織障害性に起因する筋の変化を強く示唆して本症の一二例をそれぞれ報告した。これらの報告例のうち、ハーゲンの報告は、極めて重要であり、従来の報告例では単に抽象的に薬剤の影響が示唆され、または特定の種類の注射剤による影響が注目されるに止つていたのに対し、一般論として注射剤(主として筋肉注射)の性状上の問題を指摘しているのである。

また、昭和四三年には、渡辺健児ら(文献A―44)により本症の二三例が報告されているが、その中では、原因と考えられる注射剤としてピリン系の解熱剤が含まれている旨を報告している。更に、昭和四〇年から昭和四三年にかけて、報告症例数が著しく増大している。例えば、昭和四〇年には、村田東伍ら(文献A―27)は、本症の二三例を、昭和四一年には、前田博司ら(文献A―31)は、本症の一〇例を、黒木良克ら(文献A―35)は、本症の八例を、昭和四二年には、前田博司ら(文献A―40)は、右一〇例を含む本症の一六例を、昭和四三年には、柴垣栄三郎ら(文献A―41)は、本症の一七例を、渡辺健児ら(文献A―44)は、本症の二七例をそれぞれ報告するに至つている。

そして、昭和四一年には、加藤正ら(文献A―30)は、大腿前面への注射は絶対に禁止されるべきである旨の見解を示し、昭和四三年(但し、雑誌掲載年)には、柴垣栄三郎ら(文献A―41)は、大腿直筋部位の注射は行なうべきでない旨の見解を示し、昭和四四年以降には、整形外科の領域外に本症についての情報を伝達すべきかまたは大腿部注射の危険性について警告を発すべきか否か等が学会でも討論されるまでに切迫した状況となつた。

他方、昭和四三年までには、先天性説は少なくなり、何らかの形で注射原因を推定する研究者が多くなつた。特に、笠井は、幾つかの学会の討論において、原因不明な症例でも出生直後に母親に知られずに注射を受けている可能性が十分にあることを繰返し指摘し、この討論の様子は、雑誌に掲載された。また、外国においても、ネフコフスキーやフェアバンクらの先天性説は、ガンやロイド・ロバートらによつて疑問を投じられ、昭和四三年のハーゲンの報告によつて完全に否定されて、注射剤の組織障害性が本症発症の原因となつているとの見解が極めて有力になつてきた。

(ハ) また、これらの文献上で報告された本症の症例数(累計)も、昭和四〇年初めころには、先天性説によるものを除いても約一〇〇例を超え、同四六年中には約四〇〇例以上に達していた。

(2) 勿論、被告グレランとしても、これらの文献や症例報告のすべてをくまなく入手し精読することは、実際問題として不可能であるとはいえ、右文献には学会の機関誌とも言うべき研究誌も少なくなく、前記のような調査研究義務を負う被告グレランが、これらの機関誌を定期的にあるいは臨機に精読し、その内容を調査分析していれば、前記のような文献による各報告状況に照し、遅目にみても、昭和四〇年に入つた初めのころ迄には、被告グレランにおいて、本症の存在とこれに随伴する注射との関連についての情報を入手し、本症の発症原因に関し、整形外科医の間で乳幼児期の大腿部注射を疑う見解が有力になつてきていることを知ることができたことは明らかである。

なお、一般に薬剤の化学的性状等に関しては薬理学が薬剤の人体に対する作用等に関しては生理学、病理学等が主にその専門領域とする学問分野であると考えられるから、被告グレランとしては、まずこれらの分野の文献内容につき、調査すべきものであるが、既に判示してきたように、薬剤の副作用等の中には、動物実験その他臨床使用前の各種試験等では明らかにならず、現実に人体に使用して初めて顕現するものも少なくなく、しかも、このような現実の副作用例を直接的第一次的に薬理学関係の研究者が補捉し切れない場合があることも否定できず、現実に、後記本章九で認定のとおり、昭和三〇年代後半ころから、サリドマイド事件を始め、キノホルムやクロラムフェニコール等による薬害事件が多発し始めたところ、これら薬害事件における薬剤の副作用被害は、あるいは産婦人科において、あるいは内科その他の診療諸科目の領域において顕現していたことは周知のとおりであつて、以上の諸点に鑑みると、製薬会社である被告グレランにおいては、遅くとも昭和三〇年代後半ころには、薬理学、生理学、病理学等、当然に調査すべき学問領域のみならず、何らかの副作用の疑いのある症例等が報告されているかもしれない診療諸科目(少くとも整形外科を含む主要な諸科目)の学会機関誌等をも調査精読すべき義務があつたと解すべきである。

(3) そして、本症に関し、右のような知見を得た被告グレランは、注射剤を製造販売するものとして、速やかに、自社製品であるグレラン注が本症の原因となり得るか否かについて調査研究を開始するべく、慢然と報告の集積を待つことは許されないところである。即ち、自社の研究機関の能力の許す限り、症例の追跡的調査や動物実験等を含めて調査研究し、また必要に応じて他の専門家や、グレラン注の販売会社であり研究能力にも優れた被告武田とも連絡を密にしてその研究を委嘱する等の徹底的な調査研究をすすめるべき義務があつた。

(4)  被告グレラン研究体制については、先に認定のとおりであり、昭和五五年に府川実験を行なつたのであるが、この実験により得られた結論は前記第六章二2のとおりのものであり、しかも、証人府川和永の証言によると、被告グレランでは、この実験に計画立案から実験終了までに足かけ四年を掛けており、本試験にも五か月を要したことが認められていることからすると、被告グレランは、自らの動物実験だけでは、昭和四〇年代の早い時期に本症とグレラン注との関係はおろか、筋肉注射剤一般と本症の条件関係を自ら確認することは困難であつたと言わざるを得ない。

しかし、昭和四〇年代に入ると、発表される症例報告や研究結果が一段と多くなり、その内容においても、先天性説を排し、何らかの形で注射を本症発症の原因であるとする所説が圧倒的になつてきたことは前記のとおりであるから、これらの情報を収集して、これを調査分析する一方、後に被告武田の責任の項で認定のとおり、被告グレランよりはるかに充実した研究体制を整え、かつ動物実験の手法にも習熟していた被告武田においては、遅くとも昭和四二年中には、本症が乳幼児の大腿部注射により発症すること、しかも、それは特定の注射剤に固有の性状に基づく副作用というものではなく、グレラン注もそのような注射剤の中に入る可能性のあることを予見できる状況にあつたはずであるから、自らの調査研究成果と併せて、被告武田から入手できる情報を綜合すれば、合理的な推論のための文献整理、分析、被告武田への問合せ等の所要時間、組織体である被告グレランの企業意思決定までに要する時間等を考慮しても、被告武田とほぼ同様に昭和四二年末迄には、本件の責任の前提となる前記七3(一)に判示の予見に達することが可能であつたと認めることができる。

4(結果回避可能性)

(一) (結果回避の方法)

被告グレランが本件の結果を回避するためにとることのできる方法は、

(1) グレラン注の製造中止・製品の回収

(2) 添付文書への記載、プロパーによる情報伝達等による医師らへの警告・指示

が考えられるが、(1)の方法をとることによりグレラン注の注射自体が行われなくなるのであるから、少くともグレラン注による本症の発症に関する限りこれを回避できたことは自明である。

これに対し、(2)の方法では、警告・指示等の内容如何によつて結果回避の可能性はかなり異なつてくる。即ち、右の警告・指示等には積極的表現によるものと消極的なものとがあると考えられるところ、本章七3で認定のとおり、昭和三四年二月ないし昭和四七年八月当時のグレラン注及びグレラン注射液の添付文書には、注射部位として臀部及び三角筋部を選ぶべき旨が記載され、消極的ながら大腿部を避ける趣旨に読みとれる指示となつていたのに、被告奥田は、グレラン注の添付文書の右の記載にも拘らず、原告患児らの左大腿部にグレラン注を注射し続けていたのであるが、このことは、先にも認定のとおり、当時は注射部位の指定について明確な科学的基準といつたものは定立されておらず、一応大腿部前面が筋肉注射には好適部位であると一般的に認識されていたに過ぎないことからして、このような文意のみでは大腿部への注射は当然あり得ることであつた。要するに、右の程度の消極的指示だけで大腿部への注射を回避することは全く不可能であつたというべく、従つて、仮りに被告グレランに(2)の方法を選択すべき義務があるとすると、前記のような消極的指示ではなく、積極的に大腿部に注射すると危険を伴うから可能な限りこれを避けるべきことを内容とし、更に、情況の如何によつては三角筋、臀筋を含めてあらゆる関節筋についてグレラン注の筋肉注射を可能な限り避けるべき旨の指示・警告をすべきことになる。

(二) (回避措置をとるべき要急性)

(1) ここで言う要急性とは次の意味である。

医薬品が疾患の治癒回復のためには不可欠である反面、これが生体に対する異物であることから、何らかの好ましくない作用をもたらす虞れのあるものであることは繰り返し判示してきたところである。従つて、注射療法が、前記予見可能性を肯定された時点においてもなお有用性を認められ、グレラン注についても鎮痛解熱等の効能が顕著であつた以上、本症に関し前記のような予見に至つたからといつて、このことから直ちに注射投与の全面的禁止が義務付けられるわけではなく、そのためには、注射剤の有用性と予見された本症と注射との原因関係、本症の病態等との関連でなお注射を限定し、場合によつては、これを排除するだけの必要性が肯定されなければならないのであるが、このように有用な医薬品の製造販売に関し何らかの規制措置をとらなければならない状況をここでは要急性と呼ぶものである。

(2) 先に判示のとおり、被告グレランがその調査研究義務を十分に尽していれば、前記第三章四で認定の本症に関する研究状況のおおよそのところを認識することができ、更に、自ら調査研究を行ない、被告武田から情報を得ることによつてより詳しい本症についての知見をもつことができたと認められるのであるから、これらの事実から、その時々において予見される本症と注射との関連性の強弱、本症の病態やその治癒可能性等についての知見の推移に従い、何らかの措置をとるべき要急性を認識でき得たものと認められ、従つて、この要急性の程度に応じて一定の結果回避措置を構ママずる義務が生じ、これを行なわないことが違法となるものと解される(なお、グレラン注の製造中止、回収等に関連して、アミノピリン及びウレタンの副作用の問題を原告らは指摘し、この副作用と、の関連でグレラン注を製造中止すべきであつた旨を主張するが、この点については、前記本章五3で判断したとおりである。)。

そこで、これ迄に認定の各事実に基づき、要急性の程度について検討する。

(3) まず、昭和四六年以前の時点で、本症との関係でグレラン注の製造を中止し回収すべき程度の差迫つた情況があつたか否かについて検討すると、注射剤型自体が今日でもその有用性の根拠を失つていないことは前記のとおりであり、また、昭和四八年における本症の社会問題化以後の厚生省の対応は前記第四章五1で、日本医師会の対応は同五2で、日本小児科学会の対応は同五3で、日本薬学会の対応は同五4で、日本整形外科学会の対応は同五5でそれぞれ認定のとおりであるが、これら各団体の対応を見ると、本症が社会問題化し、注射の問題性が強く指摘されるようになつて以後の時点においてもなお、筋肉注射を全廃すべしとの見解は少くとも多数説ではなく、却つて、筋肉注射を行うについては大腿前部等の危険な部位を避け、慎重に適応を検討して行なうべきであるというのが大多数に共通した了解事項であつたと認められること、また、製薬会社が本症との関係で注射剤の製造に制限を加えなくとも、本症に関する知識の普及によつて本症の発生が激減したことは前記第四章五で認定のとおりである(但し、この事実が薬剤製造者である被告グレランの指示、警告義務を免除するものではないことは、後記のとおりである。)。従つて、少くとも本症との関係では、昭和四六年以前の時点で製造中止・回収義務を肯定すべき要急性があつたと認めることはできない。なお、乙D第一一号証によれば、赤石英が「注射の功罪」中の筋肉内注射全廃論の項(文献A―33)で当面の提案として希釈分割皮下注射を推奨していることが認められるが、このような見解が実際的であると評価する者が多数あることを認めるに足りる証拠はなく、却つて、前記厚生省研究班による調査結果に鑑みると、剤型としての筋肉注射の臨床上の必要性は必ずしも少なくないものと認められ、また、日本小児科学会による注射に関する提言(Ⅰ)及び(Ⅱ)並びにその解説、筋拘縮症に関する報告書においても剤型としての筋肉注射自体は否定されていない。ただ、グレラン注は一回注射を含む比較的少本数の、それも標準量に近い注射量でも本症を発症させる危険性を全面的に否定することのできない注射剤であることは先に認定のとおりであることからすると、製造中止、回収義務も考慮しなければならなくなるが、注射回数や注射量についてのこのような結論に至つたのは、既に認定してきたように、本症が社会問題化した以後活発にすすめられた諸研究を含め、本件口頭弁論終結時迄に公にされた資料に基づく判断であつて、右責任判断の基準時において、被告グレランが調査研究義務を尽したとしても、このような知見に至つたとは認められない。結局、グレラン注の製造継続の過程において、グレラン注の製造中止回収という方法による結果回避義務は認められないというべく、被告グレランが本症との関係でグレラン注の製造を中止し、これを回収しなかつたことに対しては責任を負うものではない。

(4) 次に、添付文書の記載等による指示・警告義務に関する要急性の存否について検討すると、本症をめぐる研究の展開は前記のとおりで症例数も相当の数にのぼり、昭和四二年末ころまでには、被告グレランも前記のような予見に達することが可能であつたところ、そのころには我が国においても、本症の存在が無視できないものとなり、大腿部注射の危険性が解熱剤を含め注射剤(特に筋肉注射剤)一般について憂慮すべき事態が生じていたと評価することができる。

他方、発癌性の点を別にすると、グレラン注には、解熱、鎮痛についての有効性が認められるのであるから、結果回避義務の成立の前提である要急性の有無の検討に当つては、大腿部注射による危険性(グレラン注の安全性)と右の有効性との均衡の有無の検討が必要であると解される。そこで検討すると、これ迄認定の事実並びに後記第八章三1のとおり、本症は強度の組織障害をその本態とする疾患であつて、昭和四八年の本症の社会問題化ないしその後の日本小児科学会等による啓蒙活動による本症及び注射に関する知識の普及という事態を迎えるまで、一般の(特に整形外科医以外の)医師には殆んど知られていなかつたのであり、また、本症における障害は、単なる歩容異常に止まらず、正座不能等による様々な生活障害をもたらし、その治療法も今日なお完全に確立されたとは言い切れず、まして昭和四六年以前の時点ではこの治療法自体、様々な試行錯誤が繰り返されている状態であり、更に自然治療の可能性についても賛否両論があつたのに対し、(特に小児の)発熱を伴う疾患等でグレラン注以外に有効な医薬品が存在しなかつたことを認めるに足りる証拠はなく、また鎮痛に関しても同様であるばかりでなく、却つて、〈証拠〉によれば、被告グレランの製造にかかる鎮痛剤ノブロン注が昭和三一年に製造開始された結果、グレラン注の販売高が減少し、昭和四五年には、モルヒネに匹適ママする優れた鎮痛効力を有するペンタゾシン注射液が日本に導入されてグレラン注の販売高が更に減少したこと(被告グレランの製造にかかるペンタゾシン注射液「ペルタゾン注」の製造開始は昭和四九年である。)が認められるのである。更に飜つて考案するに、仮りにグレラン注が極めて大きな有効性を有していたとしても、その投与部位が可及的安全であるべきことは当然であるから、投与経路に関する指示が適切でなければならないことは自明である。いずれにしても、グレラン注が投与部位の指定にあえて目をつぶり、本症の発症もやむなしとする程度にまでその有効性を重視すべき医薬品でないことは明らかである。従つて、グレラン注は、アミノピリン、ピラビタール、ウレタンの発癌性という問題を抜きにしても、本症との関係では有効性と安全性との均衡がとれていなかつたと評価することができ、この均衡を回復するためには、前記のように積極的な文意でその危険性について指示・警告をする必要があつたと認められるところである。

また、製薬会社が本症に関し何らの指示・警告等を行なわなかつたのにも拘らず、山梨における集団発生とこれに伴う社会問題化及びこれに続く前記第四章五で認定の各学会等による啓蒙活動によつて、一部の例外(熊本県天草郡五和町における集団発生・文献B―21)を除き、本症の発症が激減したことは先に認定のとおりである、しかしながら、このことが被告グレランの結果回避義務の前提となる要急性を何ら阻却するものではないことも明らかである。けだし、右のような事態を経て本症が激減したことは右集団発生を契機に日本小児科学会等により繰り返し行なわれた啓蒙活動が競合し、その成果として結果回避という事態がもたらされたとみるべきもので、そのことは、被告グレランの行為義務に何ら影響を与えないと解すべきであるばかりか、右のような啓蒙活動によつて本症が激減したことは、確かにほんの僅かの医師の機転によつて本症患者の発生を回避できた可能性の存在を示唆するものではあるが、同時に、この機転の前提となる基本的な情報、即ち、乳幼児への大腿部注射によつて本症が発症することがあるという情報において、決定的な伝達の欠如があり、それが本症発症の大きな背景となつている事実を如実に示すものだからである。また、それ故にこそ被告グレランを含む製薬会社において指示・警告等の措置をとるべき必要性が極めて強かつたものと解することができるのである。

(三) (指示・警告をすべき時期)

昭和四二年末ころの時点において、被告グレランは前記予見に達することが可能であつたころ、被告グレランの指示・警告義務が具体化するには、右の予見に加えて、添付文書等による指示・警告等がなければ、グレラン注を使用している医師が大腿部注射を施用する可能性があることを被告グレランが認識できなければならないのであるが、これ迄認定してきた各事実によれば、本症に関する前記の知見を得た昭和四二年末には、可及的速やかにグレラン注による本症の発症を未然に防止するために、添付文書等に「乳幼児期における大腿部注射は大腿四頭筋拘縮症を発生させる危険があるから、可能な限りこれを避けること」を内容とした指示を記載し、または同旨の指示を被告グレランのプロパー等によつて医師に伝達し、または被告武田及び被告武田からグレラン注を購入してこれを医師に売渡す薬品問屋等を介して右の指示を伝達すべき状況にあり、かつこれを認識できたものと認められる。

しかしながら、右の昭和四二年末以前の段階では、被告グレランに本症と注射に関する前記の予見自体が困難であつたから、右の指示・警告義務の行使についても、これを講ずべき状況にあつたことの認識を期待することはできないところである。勿論、前記のとおり昭和四〇年の初めころには、被告グレランにおいては、本症の存在とこれに随伴する注射に関する情報についてはこれを知ることが可能であつたのであるが、この時点では、未だ具体的にグレラン注を名指した報告例があつたわけでなく、また、注射以外に本症の原因を求める見解も幾つか存在し、注射を原因とする見解についても、その多くは注射に原因があるという以上にその根拠は必らずしも明確でなかつたのであるから、単に特定の注射(注射剤及び注射行為の両方を含む。)から本症が発症したとの報告が存在しても、それが単発的な事故であるのか、それとも注射剤一般から生じる副作用であるのかを判断することは困難であり、結局、被告グレランが副作用に関する情報に接した場合には、これに対し、敏速に相応の対応をする企業であると想定しても、昭和四二年末ころ迄は損害賠償責任を帰結できるような結果回避義務の成立を認めることはできないとの結論に達せざるを得ない。

5(義務違反)

原告患児らのうち、原告武司、同広志、同寿孝、同正文はグレラン注またはレスミンの、その余の原告患児らがグレラン注の各左大腿部注射により本症に罹患したものであること、かつ、被告グレランが、前記認定の調査研究義務に基づき、グレラン注の後顕的な副作用について十分な調査研究を行なつていれば、乳幼児期の大腿部注射を原因として本症の発症することがあり、グレラン注もこれらの注射剤の中に入る可能性のあることを予見できたことはこれ迄認定してきたところである。そして、被告グレランは、グレラン注の年売上高を、自ら主張するとおり(請求原因被告グレランの主張1(四)で引用する表のとおり)に把握していたものと認められ、かつ、名古屋市立大学附属病院のような大学病院でも小児の発熱に対する解熱剤として用いられ、また昭和五〇年にはグレラン注の添付文書に解熱効果が効能として記載された等の事情に鑑みると、被告グレランは、小児科の領域でも相当量のグレラン注が使用されていたことを認識していたものと推定するのが合理的であり、この推定を覆えすに足りる証拠はない。

(一) (調査研究義務)

〈証拠〉によれば、被告グレランの前身である柳澤薬品商会が昭和五年ないし昭和一五年にかけて臨床各科におけるグレラン注射液の臨床試験結果を調査研究したことが認められるものの、その後は、被告グレランに改組後、昭和四九年に至る迄グレラン注の後顕的な副作用に関し、情報収集をはじめとする調査研究を行つてきた事実を認めるに足りる証拠はなく、従つて、被告グレランにグレラン注による副作用発生の有無について調査研究義務の懈怠があつたことは明らかである。

(二) (指示・警告義務)

被告グレランは昭和四二年末迄に得ることができた前記のような予見に基づき、昭和四二年の末には、グレラン注に関し、前記内容の危険性を警告し、可能な限り注射を限定すべきことを指示すべき義務があり、かつ、これを実行することによつて、原告患児らの本症罹患を防止できたにも拘らず、被告グレランがそのような措置をとつたことを認めるべき証拠はないから、被告グレランはこの点につき義務違反があつたと言わざるを得ない。

6(被告グレランの責任についてのまとめ)

以上によれば、被告グレランは、グレラン注の後顕的な副作用に関する情報等の調査研究義務を十分に履行していれば、遅くとも昭和四二年末までには、乳幼児期の大腿部注射によつて本症を惹起することがあること、グレラン注もそのような注射剤の中に入る可能性のあることを添付文書への記載等により指示・警告すべき状況に至つていることを予見または認識すべき状態にあり、かつ、これが可能な状態にあつたと認められるのに、被告グレランは、右調査研究を尽さず、そのために右指示・警告等を何ら行なわなかつた過失により、昭和四三年以降に被告奥田からグレラン注の左大腿部注射を受けた原告守孝を除くその余の原告患児らをいずれも本症に罹患させるに至らしめたものである(但し、原告武司、同広志、同寿孝、同正文については、レスミンによる影響も否定しきれないことは先に認定のとおりである。)。

そこで、以上の認定事実と後記本章一〇1の認定を綜合すれば、被告グレランは、右原告患児らに民法七〇九条に基づく損害賠償責任を負うべきことは明らかである。しかし、この時期以前に発症したと認められる原告守孝に対しては責任を負わないものと認められる。

八被告武田の責任

本章一、二、三、五、六での一般的検討を踏まえ、被告武田の責任について判断する。

1(総説)

(一) (被告武田の地位)

(1) 〈証拠〉を綜合すると、被告武田は、医薬品の製造、販売等を目的とする株式会社であること、昭和五五年当時の資本金は二四九億五、〇〇〇万円であり、昭和五二年当時の研究費は一四六億円であること、営業活動として、多種にわたる医薬品(注射剤を含む。)を自ら製造、販売しているほか、被告グレランその他のいわゆる武田グループと呼ばれる製薬会社と提携し、これら製薬会社の製品を一手販売していること、我が国製薬会社の中では最大級の中央研究所その他の充実した研究施設及び約一、〇〇〇名にのぼる研究人員を擁していること、これらの事実と長年の実績によつて、被告武田は我が国屈指の製薬会社としての評価をうけ、その製造または販売する医薬品に対しては高い信頼が寄せられていること、以上の各事実が認められる。

(2) 原告らは、グレラン注の販売者である被告武田がその製造者である被告グレランと一体的地位にあり、製造者と一体して責任を負うべきである旨主張する。そして、被告武田(または、その前身である武田長兵衛商店)が、被告グレラン及びその前身である柳澤薬品商会と、医薬品の販売に関し、密接な関係にあつたことは、本章七1で認定のとおりであり、更に、被告グレランの筆頭株主であることは原告らと被告武田との間において争いがない。しかし、被告武田と被告グレランとは本社の所在地を異にし、経営を掌理する取締役及び従業員のいずれについても人的構成を別にし重複のないことは本件記録上並びに弁論の全趣旨から明らかであり、両被告はそれぞれ独立した法人として別個の企業意思のもとに事業を遂行しているものと認められる。

これらの諸事実並びに被告グレランの地位として認定の事実を併せると、被告武田はその緊密な業務関係から被告グレランに対しても事業の運営に関し、何らかの影響力を及ぼすことのできる立場にあるのではないかとは推測されるものの、双方間にそれ以上に密接な支配従属関係ないし一体関係があると認めることはできない。

また、原告らの右主張が、医薬品の販売者なるものは、自らの故意過失の有無に拘らず、製造者と一体となつて私法上の責任を負担するとの趣旨であるならば、そのような見解にはにわかに左袒できない。勿論、製造者と販売者が同様の責任を負うことがあるが、そのような場合でも、それが、医薬品の製造者であり販売者であることから当然に他者と一体となつて責任を負担するというものではなく、それは両者を通じて共同不法行為が成立する場合か、個別に不法行為が成立し、その結果が両者同一であることによるものである。

右のとおりであるから、原告らのこの点の主張は採用できない。

(二) (被告武田によるグレラン注の販売)

被告武田が昭和五年ころの柳澤薬品商会によるグレラン(注射剤)の製造開始以後中断することなくこれを同商会から一括購入し、更に市場に販売を続け、その後、グレランの商品名がグレラン注射液、グレラン注と変更され、成分にも変動があつたが、この販売形態に変化はなく、昭和五〇年のグレラン注の製造中止まで継続したことは、既に判示のとおりである。

ところで、原告らは、被告武田がグレラン注の添付文書に販売者としてその名を記載し、これを製造工程の最終段階でグレラン注のアンプルに添付して梱包することにより、その製造に関与したものであると主張するので、この点について考案すると、証人府川和永及び同新谷茂の各証言によれば、被告武田は、被告グレランの工場で製造されアンプルに封入されたグレラン注の完成品を受け取つていたことが認められるが、その際にグレラン注の被包に完全に封がされていたことを認めるに足りる証拠はない。そして、昭和三五年薬事法五八条によれば、医薬品の製造業者に医薬品を販売する場合には被包に封をすることを要しないとされており、昭和二三年薬事法及び昭和一八年法律第四八号(以下、昭和一八年薬事法という。)には右のような規定がなく、また、昭和一八年及び昭和二三年各薬事法には、能書等の添付文書を製造者が作成添付して被包に封をすべき旨の規定がないことからすると、被告武田がグレラン注の添付文書を作成してグレラン注の被包内に封入することは、全く不可能ではないと考えられる。

しかしながら、仮りにそのような事実があつたとしても、それは単に添付文書の書面作成に関与したというに過ぎず、グレラン注の製造自体とは別の行為であると解され、そのことから直ちに被告武田がグレラン注の製造者またはその製造の一部担当者であると認めることはできない。

(三) (グレラン注と被告武田に対する信頼)

(1) 先に認定のとおり、昭和二九年一月ころからは、グレラン注液(グレラン注)の添付文書に製造者である被告グレランの商号とともに、被告武田が販売者としてその名前を連ねてきたことが認められるところ、被告奥田本人尋問の結果(第一回)によれば、被告奥田が、使用した注射剤の安全性等を信頼したのは添付文書における効能、製造者、販売者名等の記載にもよつていたことが認められるが、この添付文書の記載の信頼が保たれている背景には、製造者または販売者に対する信頼があることは優に想像されるところであり、特に販売者が日本でも最大手の製薬会社である被告武田であるグレラン注に関しては、販売者の記載が医薬品そのものに対する信頼の大きな担保になつていたことが十分に推測され、この推測を覆えすに足りる証拠はない。

(2) また、グレラン注の年別総売上高が、ノブロン注やペンタゾン注の販売により影響をうけたとはいえ、かなりの水準を維持していたことは先に認定のとおりであるが、このような高水準の売上を維持することができた背景の一つに被告武田の有する前記のような信頼と販路が重要な要因として存在していたものと考えられる。いずれにしても、右高水準の売上が被告武田の販売によらないでも維持することができたか否かはかなり疑わしく、その意味でも、被告武田がグレラン注射液時代からのグレラン注の販売者であつたことは極めて大きな重要性を有するものと考えられる。一方、右ノブロンも、甲第一二三号証、乙C第二〇号証によれば、グレラン注と同様に被告グレランがこれを製造し、被告武田が販売者となつてその宣伝及び販売にあたつたものであることが認められ、また、〈証拠〉によれば、「ペルタゾン注15」も、同様に、製造者は同被告、販売者は被告武田である旨がその添付文書に記載されていることが認められるのであつて、このノブロン及びペルタゾン15の新規発売による武田グループの鎮痛用注射剤の全体としての売上高維持には被告武田の有する大手製薬としての信頼と販売力が大いに貢献したものであろうと推測されるのである。

2(被告武田の一般的注意義務)

被告武田は、前記のとおり、グレラン注の製造に関与するものではなく、販売者としての立場にあるに過ぎないのであるが、販売者といえども製造者とともに医薬品の安全性に関し注意義務を負担することのあることは、前記六1で判示のとおりである。

ところで、被告武田は、医薬品の製造も業とし、前記のように、多種にわたる医薬品を製造する我が国屈指の製薬企業として、それにふさわしく自ら製造し、あるいは販売する医薬品の安全性を点検し、また副作用一般について研究する能力を保有し、また、グレラン注に関しては、長年販売元として流通の根源的地位にあり、被告武田の関与がなければ臨床の現場へグレラン注は届かなかつたという立場にあつたことに加え、前記のとおり、被告武田に対する信頼が、グレラン注に対する信頼となつてこれが広く使用されるに至つたと考えられることを綜合して考えると、被告武田は、グレラン注が自らの製造にかかるものではないとはいえ、製造者と同様にグレラン注の安全性を担保し、これを維持するため、安全性の調査研究等を行なうべき地位にあつたと言うべきである。

販売者の責任をこのように解することは、それ自体危険性を内在させる医薬品を大量に販売することにより利益を挙げているものと、その利用により、ときとしてその身体に被害をうけ、しかも、その安全性の確保には全く無力な一般国民とのそれぞれの立場を考えると、衡平の理念にも合致するところである。

そして、右注意義務の内容及び程度は次のとおりであると解するのが相当である。

(一) (注意義務の内容)

(1) 被告武田は、その成分の配合比変更後のグレラン注(グレラン注射液)の販売開始に際し、被告グレランに対して配合比変更による生体への影響の有無等を問合せ、またはその資料の提出を求める等してグレラン注の安全性を確認するための調査を尽すべき義務がある。けだし、被告武田は、先に判示のとおり、医薬品の販売者としてグレラン注の安全性を担保すべき地位にあるのであるから、この地位に由来するものとして、取扱商品であるグレラン注による作用に関する情報を収集して流通に置くことの可否を十分に吟味すべきであるし、一方、一度、グレラン注が流通に置かれると、一般の医師らがグレラン注の使用に際してその性状等について検討を加えることは、添付文書の記載内容とそれから推論し得る範囲以上には事実上不可能であり、また、被告武田の販売にかかる商品であることからその安全性が担保されているとの信頼が生ずるため、重ねて安全性の再確認が行なわれることは期待できないという状況が推認され、従つて、被告武田による安全性の調査は、事実上、グレラン注の安全性確認の最後の機会となるからである。

(2) また、被告武田は、グレラン注の販売を継続する以上、この販売期間を通してグレラン注による副作用等の後顕的作用の発現の有無について可能な限り調査研究を尽すべき義務がある。即ち、医薬品発売後における副作用発現の虞れについては先に本章六1、七2で判示のとおりであるから、これら後顕的な副作用発現の有無に関する情報を収集し、入手した情報に基づき、必要に応じて更に調査研究を進め、その結果、グレラン注に起因して一定の副作用の発生が疑われるに至つたときは、被告グレランに対し調査研究を尽すべきことを要求する一方、自らも、動物実験を含めた調査研究を行なわなければならない。このような調査研究によつて、前記グレラン注に対する疑いが、単なる推測や憶測に基づく危惧の域に止まるものではなく、グレラン注やグレラン注を含めた注射剤一般と本症との条件関係が、相当の科学的合理性をもつて説明できる可能性をもつてきた段階では、未だその関係が完全に解明されなくても、被告武田においても一定の結果回避のための措置をとるべき義務が生じることがあると解される。

なお、被告グレランにおけると同様の理由により、副作用モニタリングによつては本症に関する情報が得られなかつたにしても、副作用等の後顕的作用の有無について調査すべき義務が阻却されるものではないと解するのが相当である。

(二) (注意義務の程度)

被告武田は、グレラン注の製造者でないとはいえ、その流通の根源にあること及び医薬品の安全性確保の重要性に照すと、グレラン注が厚生大臣の許可を得て成分の配合比を新たにした際においては、被告グレランと同程度の調査義務と結果回避義務を負担すべく、とすると、成分配合比の変更による影響を十分に調査確認するに足りるだけの注意をもつてこの義務を履行すべきものである。

ただ、グレラン注の副作用等の後顕的作用発現の有無の調査義務を第一次的に負担するのは、まず製造者である被告グレランであると解されるから、その販売期間中、被告武田が終始被告グレランと同程度の注意義務を負担するものではなく、その調査義務の程度は被告グレランのそれよりも軽くてしかるべきであるものの、そのような注意義務の限度内でグレラン注に副作用等何らかの後顕的作用のあることを知り、あるいは予見することが可能な状態に立至つた以上、被告グレランと同程度の義務を尽して右副作用の内容を究明し、更に、結果回避措置が必要になつたときは、これが医薬品による副作用発現の回避を直接に目的とするものであるから、被告グレランの結果回避義務と同程度の義務を負担しなければならない。

3(予見可能性)

本件全証拠によつても、先に認定の本件における被告らの責任判断の基準時の最終時点である昭和四六年以前の時点で、被告武田が、本症の存在(なお、予見の対象となるべき事実については、本章七3(一)で判示のとおりである。)を認識しまたは予見していたことを認めるに足りる証拠はない(なお、グレラン注の添付文書における指定注射部位の記載変更の事実だけから右の認識または予見を推認できないことも本章七3で認定のとおりである。)。

そこで、以下、昭和四六年以前の時点における被告武田の本症の存在についての予見可能性の有無について検討することとする。

(一) (文献に接触する可能性)

予見の前提となる客観的資料(特に本症の症例報告等の文献)が昭和四六年以前の時点では相当の数にのぼつていたことは繰り返えし判示してきたとおりである。

ところで、一定の事実が予見可能であつたと言えるためには、単に予見の前提となる資料が客観的に存在していたことのみでは足りず、その資料が当該当事者にとつて入手可能であつたことを要することは、先に判示のとおりであるが、この観点から、被告武田の入手可能なところに本症に関する文献が存在していたか否かについて検討すると、甲第一二二号証の一によれば、被告武田(企画開発本部東京分室)は、昭和五五年当時、日本整形外科学会雑誌の定期購読団体となつていたことが認められ、このことから、昭和五四年以前においても同誌の定期購読団体であつたことが推認され、この推認を覆えすに足りる証拠はない。従つて、少くとも日本整形外科学会雑誌については、被告武田は、これを手の内に有していたものと認めることができる。

そこで、昭和四六年以前において、実質的に本症に関する情報を取得することが可能な程度に記載された日本整形外科学会雑誌上の記事を拾い上げると、次のとおりになる(なお、追加報告、質問等を含む。詳細は前記第三章四のとおり。)。

① 昭和二五年(同誌二三巻一八一頁)の伊藤四郎による「大腿部注射による膝関節攣縮に就いて」と題する報告(前記第三章四2)

② 昭和二七年(同誌二六巻四九頁以下)の青木虎吉ほかによる症例報告(前同四2)

③ 昭和三二年(同誌三一巻九三頁以下)の河井弘次らによる症例報告(前同四4)

④ 昭和三六年(同誌三四巻一五九五頁)の笠井実人らによる症例報告(前同四6)

⑤ 昭和三七年(同誌三六巻六八頁)の松生宏文らによる症例報告(前同四9)

⑥ 昭和三八年(同誌三七巻三一七頁)の江端章らによる症例報告(前同四10)

⑦ 昭和三八年(同誌三七巻七七七頁)の笠井実人らによる症例報告(前同四11)

⑧ 昭和三八年(同誌三七巻八六五頁)の立岩邦彦らによる症例報告(前同四12)

⑨ 昭和三九年(同誌三八巻八九頁)の福島正らによる症例報告(前同四14)

⑩ 昭和四一年(同誌四〇巻三五三頁)の前田博司らによる症例報告(前同四21)

⑪ 昭和四三年(同誌四二巻一一六七頁)の佐藤俊之らによる症例報告(前同四27)

⑫ 昭和四四年(同誌四三巻八八三頁)笠井実人らによる症例報告(前同四29)

⑬ 昭和四六年(同誌四五巻一三六頁)の大塚嘉則らによる症例報告(前同四34)

⑭ 昭和四六年(同誌四五巻六九七頁)の小宮懐之による症例報告(前同39)

以上一四回にわたり、日本整形外科学会雑誌に本症関連記事が掲載された。

また、証人新谷茂の証言によれば、被告武田においては、昭和二〇年当時から、雑誌「整形外科」を定期購読していたことが認められる。そこで、同様に、整形外科誌上における本症関連記事を拾い上げると、次のようになる。

① 昭和三九年(同誌一五巻六三一頁)の笠井実人らによる症例報告(前記第三章四14)

② 昭和四一年(同誌一七巻六四三頁)の福島正らによる症例報告(前同四14)

③ 昭和四一年(同誌一七巻八二六頁)の富田良一らによる症例報告(前同四16)

④ 昭和四二年(同誌一八巻八〇七頁)の富田良一らによる症例報告(前同四19)

⑤ 昭和四四年(同誌二〇巻一二四三頁)の飯田尚生らによる症例報告(前同四30)

⑥ 昭和四五年(同誌二一巻三四九頁)の根岸照雄らによる症例報告(前同四31)

以上の六回にわたり、雑誌「整形外科」誌上に本症関連記事が掲載された。

以上からすると、右各雑誌記事から入手できる情報に関する限り、被告武田は、これと接触する可能性を有していたものと考えられ、従つて、これらの記事から推論され得る範囲の事態に関する限り、抽象的には予見可能であつたと認められる。

(二) (一般的な病理学的知見からの推論)

本件で重要なことは、一般的な病理学的知見から本症の如き重大な大腿部組織障害の発生を予見できたか否かであり、このことは本章四2(三)、七3(四)で触れたところであるが、そのような予見が一般的には困難であることは、被告武田にもあてはまるものと考えられる。ただ、証人新谷茂、同美間博之及び同青木勝夫の各証言によれば、被告武田においては、昭和二七年ころから既に注射による疼痛軽減のための動物実験方法の確立を目的として種々の注射局所反応に関する動物実験等を試みたほか、新開発医薬品による急性毒性試験等を行ない、そのうちの幾つかを被告武田の研究報告論文集である武田研究所年報等で発表していたこと、かつ、被告武田の研究員らは、いずれも相当高度な医学上、病理学上の知識等を有していたことが認められる。そこでこれらの研究内容について検討する。

(1) (新谷茂らの報告・文献I―10)

右文献並びに証人新谷茂の証言によると、新谷茂は、各種薬剤による注射局所の反応(急性毒性)の肉眼的観察に基づく段階的評価等による刺激性評価方法の確立を目的として、家兎の仙棘筋を用いた実験を行ない、昭和四二年に「ウサギの筋肉注射による薬剤の刺激性の新測定法」と題して報告しているが、この実験は、注射剤がヒトに対して与える疼痛の程度を客観的に把握することを企図したものであることが認められ、従つて、実験動物の観察も比較的短時間しか行なつておらず、しかも、一定の刺激による反応は一定時間の経過後に消失するとの結果を得ているに過ぎない。

なお、実験内容の要旨は次のとおりである。

① 七種の化合物の一回注射による肉眼的所見を観察した結果では、ウレタンは最大反応時間五時間で褐色変性、塩化カルシウムは、二四時間で白変性、ポリオキシエチレン(ソルビタン・モノラウテート)は二四時間で褐色変性、ポリオキシエチレン(ラウリル・エーテル)は二四時間で褐色変性、テトラサイクリンは七二時間で壊死、クロラムフェニコールは七二時間で褐色変性、クロモマイシンA3は一二〇時間で壊死、腫脹であつた。

② ポリオキシエチレン系非イオン性界面活性剤の数種を毎日一回ずつ五日間にわたつて注射し、その影響を一回注射の場合と比較した。五%溶液を用いて最大刺激評点を得た。反復注射後の刺激性強度は、刺激性を示さない水素添加ヒマシ油の例を除けば、一回注射後の刺激性強度より大きかつた。

③ 筋注による局所反応に及ぼすいろいろなPH値の影響を生理食塩液で調べた。両極端の2.1と12のPHでは中等度の刺激性が見られた。PH2.5ないし11にわたる溶液の局所刺激作用は、一回投与では軽度を越えなかつた。ピーク反応は、注射の二四時間後に見出され、PH2.1の生理食塩液では三日後にはもはや見出されなかつたのに対し、PH一二の生理食塩液では三日後も残存し、七日後に消失した。

(2) (荒蒔義知らの報告・文献H―11)

荒蒔らは昭和三五年「新抗生物質クロモマイシンA3の薬理学的研究」を報告しているが、ここでの実験は、クロモマイシンA3の各投与経路毎の急性毒性の評価を目的とするものであり、強度の組織壊死等を観察している。この報告は、全体としては、クロモマイシンA3の有効性と危険性の比較によつて有用性の範囲を確定しようとするものであるから、このような目的意識の下で本症を予測すること自体無理であり、また、障害性の強い物質によつて強い局所反応が起ることは前記第四章で判示のとおり格別新奇な所見ではない。従つて、この実験結果は、旧来の注射剤の局所作用の程度について再調査すべき義務の前提にはなり得るとしても、この実験結果から直ちに本症の発症を予測できるものとは認められない。

なお、実験内容の要旨は次のとおりである。

① 0.05%溶液の点眼は、眼結膜に何らの変化も及ぼさない。耳殼皮内注射では0.001%で充血腫脹後二ないし三日で回復するが、0.01%及び0.05%溶液では腫脹後潰瘍となつて耳殼に穴があき、一週間後には約五mmの穴を残して治癒するが、その周囲にそれぞれ三または二mmの巾で脱毛部を生ずる。

② サルチル酸ナトリウムを溶媒とした0.005%溶液一ccの筋肉内注射は、一回投与では著明な局所作用を示さない(出血斑、軽度変性)が、五回連続すると広範囲に出血を伴つた壊死を起す。

③ また、家兎慢性毒性試験の際行なつたクロモマイシンA3の静脈内注射は、耳静脈に影響を与え、日を追つて注射が困難となり、最後には耳殼の変形をきたしたことと、犬及びラットに皮下注射をした際、局所に膿瘍を作つたことが付記されている。

④ クロモマイシンA3の局所作用はかなり強く、0.005%以上の濃度では皮下または筋肉に壊死、化膿を起す。従つて動脈または静脈内投与が勧められる。

(3) (美間博之らの報告・文献H―12)

右文献並びに証人美間博之の証言によると、美間らは、非イオン性界面活性剤により作用を受けた筋組織の病理組織学的所見に基づき、その効用等を評価することを目的として動物実験を行ない、昭和三七年に「非イオン性界面活性注射後の局所作用」と題して報告していることが認められる。これにより局所作用の強いものは溶血性も強いとの結果を得ているが、右(1)、(2)の各報告と同じように、この実験結果から、旧来の注射剤の溶血性の程度を再調査すべき義務が発生する余地は否定されないにしても、この実験結果から直ちに本症の発生を予測することは困難である。

なお、実験内容の要旨は次のとおりである。

① 実験家兎の筋肉に活性剤が入ると、強い局所作用の起つたところでは、筋線維細胞の融解変性により筋線維束内が一様に無構造になつており、弱い作用の起つているところでは、その率が少なく、また、親水性のものは結合織間の溝を通り、リンパ管へ流出すると考えられる。従つて、局所作用の強弱は、筋線維細胞膜の破壊の度合によると考えられる。

② 今までの経験で局所作用の強いものは溶血作用も強いことが分つているので、各活性剤の溶血作用を測定した。測定方法は、各種濃度の活性剤一〇ccに塩化ナトリウム0.9%を加え、家兎の脱線維血0.1ccを加えて30度で一時間毎に五時間肉眼で観察し、溶血を認めた時間と完全溶血までの時間を調べた。これによれば、溶血作用は、エチレンオキシドの重合度の大きいほど小さく、セチル・エーテル、ステアラート、ソルビタン・ラウラート、水素添加ヒマシ油の順に弱くなる。次にシュルマン、ペテイカの説に従い、九〇分で完全溶血に至る濃度を求めた。この値からもエチレンオキシドの同じモル数の場合、セチル・エーテル、ステアラート、ソルビタン・ラウラート、水素添加ヒマシ油の順に溶血性が低くなり、局所作用と平行の関係にあることが分る。

(4) (新谷茂らの報告・文献H―13)

右文献及び証人新谷茂の証言によると、新谷らは、クロモマイシンA3による各投与経路毎の局所反応の病理組織学的観察とその局所損傷に対する対策の検討を目的として、兎、マウス、ラットを用いた動物実験を行ない、昭和三八年に「クロモマイシンA3の局所障害に関する実験的研究」と題して報告していることが認められる。この実験では、筋の萎縮も観察していることから、組織障害性の強い注射剤による筋萎縮の発生頻度、回復可能性の程度等について更に調査すべき義務の発生する余地は十分にあるとしても、これから直ちに本症の発症を予測することは困難である。そして、甲第一二一号証によれば、新谷ら(文献H―13)及び荒蒔ら(文献H―11)によるクロモマイシンA3の有効性及び局所作用に関する検討結果は、要約されてクロモマイシンA3の注射製剤であるトヨマイシンの能書に記載されていることが認められるが、このことからも、右各実験が、クロモマイシンA3の局所作用に限定した観察を主眼とするものであることが認められる。

なお、実験内容の要旨は次のとおりである。

(筋肉内投与・兎)

① クロモマイシンA3の五〇マイクロ・グラム一回投与の場合の肉眼的変化と筋肉重量の変化を調べた。

局所変化は、投与後二四時間以内では肉眼的には出血斑程度で著明な変化が見られないが、四八時間後、白変性を認め、時間が経つにつれて出血性壊死となり(三日後)、筋肉重量の増加とともに投与部位筋肉が膨化し、五日後には著明な変性と脆弱化が認められた。その後しばらくその変性が持続するが、一四日以後には漸時回復し、六週間後には殆んど局所障害を認めなくなつた。しかし、筋肉は、かなり萎縮していた。

② 病理組織学的変化を調べると、投与後三時間で筋鞘核がしばしば肥大増殖するとともに筋線維及び神経線維の変性が現われ、次第に程度が激しくなり、六時間では硝子様変性を示すと同時に空胞形成及び筋形質の分離が認められ、一六時間後には毛細血管内皮細胞が肥厚し、その数が増加する。投与後二四時間を経過すると血管の破綻が起つて出血し、これが変性壊死と平行して程度を強め、多形核白血球が変性した筋線維近くに浸潤し、筋核が特異に増加して核が筋線維の中央に位置し、鎖状に伸びているものが多数認められた。これらの変化が投与後五日目まで続き、その間、変性筋線維の清掃が始まつて筋細胞再生の礎地がうかがわれた。五日目には著しい細胞浸潤が特徴的であつた。二週目には、病変部が変性壊死層、再生筋細胞芽層及び健康筋線維の三層にはつきりと分けられ、筋細胞の増殖と血管新生が著明となり、六週には、殆んど変性壊死に陥つた筋肉が見られず、筋細胞芽の発達により殆んど正常な筋組織が再生し、大小不同の筋線維とそれをとりまく筋鞘の核が多数認められた。

(皮下投与・ラット)

① クロモマイシンA3の投与翌日から注射局所の肥厚が始まり、二日目に肥厚の周辺が鮮明となり、大きさの測定が可能となつた。三日目から四日目に肥厚部に出血性斑点が出現し、五日目に至り発赤を伴う硬結が見られ、浮腫肥厚が極大となる。七日目には酷結痂皮が剥離脱落し二〇日目ころに完全に治癒した。

② 組織像を調べると、病変の中心部では表皮が脱落するか消失し、真皮層が直接または角化層に被われて表面に露出している。クロモマイシンA3の皮下投与によつて脂肪組織の破壊が起り、脂肪空胞が小滴となつて散乱し、その処理に好中球が関与していることが明らかになつた。この脂肪組織の変化は注目すべき点である。

(5) (青木勝夫らの報告・文献H―14)

右文献及び証人青木勝夫の証言によると、青木らは、ブドウ糖の添加による溶血性及び疼痛の軽減効果の評価を目的として、動物実験を行ない、昭和四二年に「注射剤の疼痛軽減に関する研究(第一報)酸性注射液におけるブドウ糖の効果」と題して報告していることが認められる。しかし、この実験は注射局所の観察に止まるものであり、本症の予測につながるようなものではなかつた。

なお、実験内容の要旨は次のとおりである。

① 溶血試験に関しては、フサ(一九五四年)をはじめ多くの報告があるが、いずれの方法にも若干の差が見られる。我々は、各PH3.0及び3.5のグルコース五%及び塩化ナトリウム0.9%各一〇mlに新鮮な人脱線血0.05mlを加え、三七度に保存、五分、一五分、三〇分、一時間、二時間、三時間、五時間後に肉眼判定した。その結果、ブドウ糖の配合は、塩化ナトリウムに比べ、明らかに溶血を大幅に遅らせた。その傾向は、家兎血でも同様であつた。

② 次に、筋組織に対する局所作用を調べた。局所作用は、実際の人体では発赤とか硬結等となつて外部から観察されることにはなるが、この実験は、新谷の方法に従い、投与二四時間後の剖検によつた。その結果、大きな差は見られなかつたが、やはりブドウ糖配合の方が良い傾向が窺えた。

(6) (外国文献)

証人新谷茂の証言によれば、被告武田の研究員らは、ハーガン(文献I―6)、ハンソン(前記第四章・三4(一)(5))、ベニッツ(同(一)(7))その他の外国文献を参照し、これらから多くの示唆を受けたことが認められるが、これらの文献では、本症について何らの示唆もしていないことは、甲第二〇九号証、第二七九号証の二並びに前記第四章三4(一)(1)ないし(7)で認定の各事実から明らかである。ただ、前記第四章三4(一)(4)で認定のとおり、ページェット(文献I―5)は、注射剤としての使用が排除されるほど局所作用の強い薬剤が存在すること、その作用の程度について検討する必要のあることを一九五七年(昭和三二年)の段階で指摘しており、その意味で、既に旧来の注射剤の局所作用についても再評価すべき必要性が相当あつたとまでは認められるが、いずれにしても、これらの外国文献の記載から直ちに本症の発症を予測することは困難である。

以上検討した被告武田の研究員による研究結果に加え、前記第四章で認定の病理学上の諸見解を考慮すると、本症の存在を認識したうえで、注射による本症の発症を推定することは比較的困難が少ないかもしれないが、本症の存在について全く認識を欠く状態で注射から本症の如き重大な機能障害を伴う障害の発生を予測することは、これら研究者の科学的推理能力の限界を超えるものであり、極めて困難であると言わざるを得ない。

たしかに、被告武田の研究員の実験の一部には、注射の溶血性と局所作用との関連について注目しているものがあり、また筋自体の萎縮を観察していることや、証人久永直見の「被告武田は昭和二八年以来、筋組織障害性を実験する一定の方法を確立しており、研究のいくつかは筋組織障害性の本体に迫る研究である。」との証言や証人宮田雄祐の、右一連の被告武田の実験は本症の発症原因に極めて密接した研究と評価できる旨の証言を綜合して考えると、これらの実験を更に前進させて、本症と注射との条件関係について迄接近することができなかつたかとの憾みが残らないではない。しかし、そもそもこれらの実験において、各研究員には注射によつて生ずるかもしれない機能障害などということはおよそ念頭になく、実験目的も本症の発症原因であるとか、その病態ということと無縁なものであつたこと、実験動物にみられた筋の損傷はいずれも再生していること、研究者は全員薬学専門家であつて医学者でなかつたこと、更に、乙A第五八号証と弁論の全趣旨によると、注射剤の局所刺激性に関し標準的な試験方法が確立されたのは、昭和五三年一二月に厚生省の注射剤の局所刺激性に関する研究班(赤石英ほか)による中間研究報告によつてであることが認められることからすれば、やはりこれらの動物実験だけから、注射を原因とする本症への予見に至ることは困難であつたと結論せざるを得ない。

(三) (販売促進要員からの情報)

〈証拠〉によれば、被告武田が多数の販売促進要員(いわゆるプロパー)をその製品の販路拡張等に活用し、このプロパーらが実地診療医と直接に接触していたことが認められるところ、前記第三章四で認定のとおり、昭和三〇年代には、本症が文献上症例報告等として現われた事例はごく僅かであつたにせよ、各地の整形外科医のもとで本症の患者が見出され始めていたのであるから、これら患者の診療に当つた医師と接触したプロパーから本症に関する情報が被告武田にもたらされる可能性は、これを全面的に否定することはできないと考えられる。

しかしながら、本件全証拠によつても、右情報伝達の可能性をそれ程高いものと評価することは困難である。即ち既にみてきた症例報告から窺われるように、これらの症例報告は概して大学であるとか大規模病院の医師によつて行なわれ、比較的プロパーとの接触が多いと考えられる個人病院で本症患者が発見されることは少なかつたと認められることや、その一方、甲第二号証によると、プロパーにとつては、販売促進すべき薬品による副作用その他の弊害を口にすること自体が禁忌とされていた状況が窮ママ知されるのである。従つて、被告武田が多数のプロパーを擁していたからと言つて、そのことから本症を予見することができたとは断定することは困難である。

(四) (調査研究義務の履行による予見可能性)

(1) 以上の各事実からすると、被告武田が本症に関する情報を獲得できるのは、本症について触れた文献以外にはないのであるが、現実に「整形外科学会雑誌」、雑誌「整形外科」を購読していたことが認められるほか、その研究体制からして、これ以外の研究文献を入手することも容易であつたと認められるのであるから、前記調査研究義務の履行として、これらを調査精読すれば、遅くとも昭和四〇年の初めころには、本症に関する相当量の報告を入手することができたと考えられ(なお、被告武田が薬学以外の整形外科を含む主な医学診療各科の学会誌等をも精読調査すべきであることは、先に被告グレランの調査研究義務に関連して判示したところと同様である。)、これらの報告の殆んどには注射に関する情報が随伴していたのであるから、その結果、本症の発症に注射が関与しているのではないかとの危惧を抱くことができたはずである。とすれば、これを手掛りに自らの研究員に動物実験を含む調査研究を命ずるほか、被告グレランにも同様の調査研究を求め、あるいは、報告された症例の追跡を行ない、また、プロパーらを通じて臨床現場からの情報を収集し、入手できた情報の内容を調査分析することが可能であつた。そして、これらの多角的な調査研究により、本症と注射剤との関連を一層明確に認識できたと考えられる。

(2) 特に、被告武田は前記認定のように、充実した研究施設と研究員とを擁し、昭和三〇年代には、目的意識こそ異れ、注射の局所刺激性や注射剤の溶血性等という本症の原因解明には欠かせない分野における動物実験を行なつていたのであるから、動物実験については研究体制も整い、その手法にも十分習熟していた研究員らが、本症の存在とその発症原因として注射が疑われていることや、本症を巡るそれ迄の諸々の研究報告を踏まえて実験を進めれば、たしかに昭和四〇年代当初においては、本症に関する動物実験の方法や結果の判別基準が現在程には確立されていなかつたとはいえ、それでも前記西島(文献G―7)、阪本(文献G―1)、赤石(文献F―14)らの各実験結果に近いところへ到達するか、少なくとも、グレラン注を含む注射剤に対する疑念を払拭することは薬学的に容易ではないとの結果を得ることができたと認められる。しかも、被告武田の場合、これらの動物実験には、被告グレランの府川実験程には長い時日を要しなかつたであろうことは優に推測できるところである(なお、乙A第五五号証を参酌すると、短期毒性試験は、通常ラットには一週ないし三か月間、イヌには一か月ないし六か月間薬物を投与し、長期毒性試験では、いずれの実験動物にも六か月ないし二年間投薬するのが一般的のようである。)。

(3) そして、これらの研究とこれに併行して、整形外科の分野における本症に関するその後の研究成果やこれらに参考文献としてあげられている外国文献を仔細に調査すれば、遅くとも昭和四二年中には、乳幼児への大腿部注射は本症の発症原因となり得ること、グレラン注もそのような注射の中に入る可能性のあることの予見に到達できたと言わねばならない。

なお、厚生省の副作用モニター制度等による副作用報告中に本症の報告が含まれていたことを認めるに足りる証拠はなく、従つて、副作用の届出調査という方法では本症の存在を知ることが期待できないことは先に判示のとおりであるが、遅くとも本件責任判断の基準時である昭和四六年以前の時点において本症が副作用として認識されていなかつたとしても、そのことは、注射を原因として本症が発症するものであることの予見可能性を何ら阻却するものではないことは、既に被告グレランの責任に関して判示したところと同様である。従つて、この点に関し、本症が副作用として報告されていなかつたのであるから本症に関する予見可能性はなかつたとの旨の被告武田の主張は失当であり、採用できない。

4(結果回避可能性)

(一) (結果回避の方法)

被告武田が本件の結果を回避するためにとることのできる方法は、

(1) グレラン注の販売中止・回収

(2) 被告グレランに対しグレラン注の添付文書へ本症に関する指示・警告等の記載をすべき旨の指示あるいは依頼

(3) 被告武田のプロパーによる情報伝達等による医師らへの指示・警告

これらが考えられるが、(2)(3)の方法を採る場合には、積極的に「大腿部に注射をすべきでない」旨のあるいはそれ以上に強い表現をもつて指示・警告するものであることを要することは、先に被告グレランの責任に関し判示のとおりである。

なお、被告武田は、注射剤の添付文書等に記載すべき事項に制限があるとして、本症に関連する事項は能書等のグレラン注の添付文書の記載事項とはなり得ない旨を主張しているが、この主張が失当であることは、本章六2で判示のとおりであり、また、被告武田が右の(2)の方法を選択した場合に、被告グレランがこれを拒絶できる合理的根拠はなく、むしろ、従前来認定の被告武田と被告グレランの関係からすると、被告武田が被告グレランに対しそのような指示あるいは依頼をすれば、同被告が容易にこれに応じたであろうことは充分推認できるところである。とはいえ、右被告両名は各々独立した法人格と企業意思を有するものであるから、被告グレランが添付文書への記載等を拒絶するような事態が生ずる可能性がないとは言えない。しかしながら、そのような事態に至つても、被告武田は右の(1)(3)の方法を選択できるのであり、状況の如何によつては、被告グレランからのグレラン注の一括購入を停止するという手段も残されているのである。

(二) (結果回避措置をとるべき要急性)

ここで言う要急性とは、被告グレランの場合と同様である。

先に判示のとおり、被告武田がその調査研究義務を十分に尽していたとすると、被告武田の調査研究能力が被告グレランのそれをはるかに凌駕していること、被告武田が現実に「日本整形外科学会雑誌」及び雑誌「整形外科」に掲載された本症関連記事をいずれも手の中にしていたこと等の各事実に照すと、被告グレランにおけるよりも一層確実に前記第三章四で認定の各報告を認識できたものと認められるから、本症の病態や治癒可能性等についてのその時々において予見される事態の推移に従い、段階的に増強される要急性の存在及び程度を認識できたものと認められ、従つて、この程度に応じて一定の結果回避措置を講ずるべき義務が生じ、これを行なわなかつたことが違法となるものと解される。

そこで、前記第三章四で認定の各事実に基づいて検討すると、被告グレランの責任に関して先に判示したところと同様の理由で、本件責任判断基準時の最終時点である昭和四六年末当時においても、被告武田についてグレラン注の販売中止・回収をすべき要急性を満たす前提となる状況はなかつたものと認められる。

次に添付文書の記載等による指示・警告義務に関する要急性の存否であるが、この点についても、被告グレランの責任の項で判断したとおりであり、結論として、前記のような積極的な文意で指示・警告をすることが必要であつたと認められる。そして、被告武田の極めて大きな組織内における企業意思決定に至るまでに要する必要な時間等の所要時間を考慮しても、遅くとも、昭和四二年の末か翌四三年初めには、被告武田は被告グレランに対し添付文書に「乳幼児期の大腿部注射は大腿四頭筋拘縮症を発生させる危険があるから、可能な限りこれを避けること」を内容とした指示を記載すべきことを要求し、または、被告武田のプロパー等により医師に対して右のような情報を伝達できる状況に至つていたものと認められる。また、右内容の指示・警告によつて、本症を未然に防止できた可能性の高いことは被告グレランの責任の項において既に判断したとおりである。

このように昭和四二年より前の時点においては、被告グレランの責任について先に判示のとおり、被告武田についても本症の発症を回避するための措置をとるべき状況に至つていたとは認められないのであるから、被告武田に対し、右以前のグレラン注の注射による本症罹患の責任を問うことができず、この点に関する原告らの主張はこの限りで失当である。

5(義務違反)

原告患児らのうち、原告武司、同広志、同寿孝、同正文はグレラン注またはレスミンの、その余の原告患児らは、グレラン注の左大腿部注射により本症に罹患したものであること、そして、被告武田がグレラン注の後顕的な副作用についての調査研究を十分に尽していたとすると、現に本症に関する重要な情報の幾つかをその手の中に持つていたのであるから注射を原因として本症が発症し得ることを予見することができたことは、前記判示のとおりであり、更に、先に認定の被告武田の地位、調査能力、グレラン注の販売実績、グレラン注の臨床上の用途(特に感冒による発熱に対する解熱剤として用いられていたこと)等に鑑みると、被告武田は、グレラン注が小児臨床においても使用されていたことを認識していたと推定すべきであるところ、この推定を覆えすに足りる証拠はない。

(一) (調査研究義務)

先に判示のとおり、被告武田は、グレラン注の配合比変更後の販売に際してもその後の販売継続中においても、先に認定のような程度において、グレラン注及び注射剤一般による後顕的な副作用発現の有無について常に調査研究すべき注意義務があつた。

しかるところ、被告武田は前記各文献を容易に閲読することができる状況にあり、かつ、これらに登載された本症に関する情報を調査分析する能力を有する研究体制にあつたにも拘らず、証人新谷茂、同美間博之及び同青木勝夫の各証言並びに弁論の全趣旨によれば、本件責任の判断基準時の最終時点である昭和四六年以前において、本症に関しその情報収集を含め何らの調査研究も行なつていなかつたことが認められるのであるから、被告武田に先の調査研究義務の懈怠があつたことは明らかである。

なお、前記認定のとおり、被告武田の研究員らは、注射剤の局所刺激性等に関する研究をある程度行ない、その結果等を研究所年報等で報告していたのであるが、これらの報告のうち、新谷茂ら(文献I―10)及び青木勝夫ら(文献H―14)の各報告は、主として注射による疼痛軽減のための基礎的知見を得ることを目的とし、美間博之ら(文献H―12)の報告は、右の新谷の実験を更に進めて局所反応についての病理組織学的観察を試みたものであり、荒蒔義知ら(文献H―11)及び新谷茂ら(文献H―13)は、被告武田の新開発抗癌剤クロモマイシンA3による急性毒性試験を目的とするものであつて、いずれも旧来の注射剤等についての副作用調査等を目的とするものでないのであり、従つて、これらは直ぐには前記予見可能性の手掛りにはならないのであるが、このことは裏返せば、これら新谷らによる研究等があるからといつて、被告武田がその調査研究義務を履行したとはとうてい認められないところである。

(二) (指示・警告義務)

被告グレランの責任に関し、既に認定のように、被告武田においても昭和四三年初めからグレラン注の添付文書またはプロパーによつて注射剤による本症発症の危険性を指示・警告すべき義務があり、かつこれを実行することによつて、それ以降は原告患児らの本症罹患を防止できた可能性があつたにも拘らず、被告武田が被告グレランに対しそのような措置をとることを求めたり、あるいは自社のプロパーによつて指示・警告を行なつたとの事実を認めるべき証拠はない。

6(被告武田の責任についてのまとめ)

以上によれば、被告武田は、グレラン注または注射剤一般の副作用等の後顕的作用に関する情報等の調査研究を十分に履行していれば、遅くとも昭和四三年初めまでには乳幼児期の大腿部注射を原因として本症の発症することがあり、グレラン注もそのような注射剤の中に入る可能性のあることを予見のうえ、自らのプロパー等によつてこのことを指示・警告し、または被告グレランに対して添付文書への記載によつて同旨の指示・警告をするように求めるべき状況に至つていることを予見または認識すべき状態にあり、かつ、これが可能な状態にあつたにも拘らず、右調査研究を尽さず、そのために右指示・警告等を何ら行なわなかつた過失により昭和四三年以降に被告奥田からグレラン注の左大腿部注射を受けた原告守孝を除く原告患児らをいずれも本症に罹患させるに至らしめたのである(但し、原告武司、同広志、同寿孝、同正文については、レスミンによる影響も否定できないことは先に認定のとおりである。)。

そこで、以上の認定事実と後記本章一〇1の認定を綜合すれば、被告武田は右原告患児らに対し民法七〇九条に基づく損害賠償責任を負うべきことは明らかである。しかし、原告守孝に対しては、被告グレランの場合と同様に責任を負わないものと認められる。

九(被告国の責任)

本章一、二、三、五での一般的検討を踏まえて被告国の責任について判断する。

1(総説)

(一) (無過失責任の主張について)

原告らは、全く有用性のない医薬品の製造について厚生大臣がその許可を与え、これを使用した国民に身体障害等の被害が生じたとき、被告国は、民法七〇九条以下の不法行為の規定全体の趣旨から、その損害について無過失責任を負うべきであると主張するのでこの点について判断するに、グレラン注の製造に関し、厚生大臣がグレラン注の成分配合比の変更等製造許可事項の変更許可をしたことは本章三2(二)で、被告奥田によるグレラン注の大腿部注射により原告患児らがいずれも本症に罹患したことは前記六章、本章一〇1でグレラン注が客観的には有用性を欠く注射剤であつたことは本章三2(四)でそれぞれ認定のとおりであるにしても、原告らの主張する民法七〇九条以下の不法行為の規定は、明らかに過失責任の原則に立脚するものであり、右の有用性欠缺の事実があるからといつて、民法の右規定を超えて無過失責任を肯定すべき根拠は存在しないと解すべきものである。たしかに、アミノピリン、ピラビタール、ウレタンは、いずれも人体に対し重大な害作用をもたらすことのある危険な化学物質であるが、一面、医薬品の組成物として、有効な薬理作用を有していたことも事実であり、それが、先に認定の経緯でその危険性が知られるようになつたものでこれは、被告国の責任判断の基準時の最終時点である昭和四六年末を過ぎてからのことであり、右時点までの間はグレラン注の有用性は否定されていなかつたのである。

以上のとおり、民法七〇九条以下の規定においては、本件のような医薬品の副作用に基づく人体被害につき無過失責任を肯定すべき根拠は見出し難く、右のような科学的解明の経過を無視して、グレラン注射液について前記の許可をした被告国に対し無過失責任を主張するのは唐突のきらいを免れない。また、ほかに被告国に対して本症罹患者に対する無過失損害賠償責任を課した法規等も存在しないところである。

(二) (過失の推定の主張について)

次に、原告らは、グレラン注は全く有用性がない薬品であるから、その製造許可については過失が推定されると主張している。たしかに、過失責任を前提とした場合でも、具体的な事案の個々の事情によつては、事実認定の過程の中で、例えば、立証責任の公平な分配の見地から、一定の限度で過失の推定を行なうのが相当な場合もあるが、グレラン注が客観的に有用性を欠いた注射剤であつたとはいえ、先に判示のとおりグレラン注の欠陥性は原告患児らの本症罹患とは直接結びつかない性状に関するもので、かように原告患児らの損害と無関係な事情が存在することの一事で被告国につき過失を推定し、原告らの立証責任を軽減するのは相当でない。

従つて、原告らの右主張も失当であり、原告らとしては、被告国の責任の前提要件である故意過失の存在について主張立証責任を負うものと言わねばならない。

2(薬事法上の責任)

原告らは、厚生大臣の薬事法上の安全性確保義務の懈怠により原告患児らが本症に罹患するに至つたものである旨を主張するので、この主張の当否について判断する。

(一) (安全性確保義務)

本件で重要なことは、厚生大臣が薬事法上その義務懈怠により個々の国民の損害に対して国家賠償法上の損害賠償責任を負担するような法的義務を負つていたか否かである。要するに、被告国に薬事法上の義務懈怠があつた場合、それが原告らの損害賠償請求権に直結するかということである。

そして、この問題を検討するにあたつては、次の各事項が必須の判断対象とならざるを得ない。即ち、第一に、昭和二三年薬事法、昭和三五年薬事法が、単に行政組織である厚生省の内部における各部局の職務分担及び薬事に関する規制取締りという職務上の義務を規定したのに過ぎないものであるか、それとも厚生大臣の個々の国民に対する一定の行為義務を定立し、これを懈怠した場合の責任を想定した法規であるか否かが検討されなければならないのである。仮りに前者であるとすると、薬事法上の義務違反は、単なる職務上の内部的義務違反を生じさせるに過ぎず、従つて、国家賠償法上の損害賠償責任の発生する余地はないと解さざるを得ないし、後者であれば、更に進んで、その行為義務の違反が右の損害賠償責任を発生させ得る程度にまで違法となるための前提条件(裁量性の有無、裁量の範囲、裁量逸脱の有無等)が考慮されなければならない。

ところで、本件で問題となるのは、本件責任判断の基準時の最終時点である昭和四六年以前の時点における厚生大臣の義務懈怠の有無であるから、この時点以前における具体的行為義務の存否が検討されるべきであり、かつ、この検討で足りるものと解されるが、一定の行為義務の前提となる前記薬事法の性格を判断するにあたつては同法の立法趣旨、規定の体裁、それの反映としての具体的な薬事行政の運用状況、その背景となつた事態の推移等を検討することを要し、その限度で右基準時外の事態についても考察の対象とするのが相当である。

(1) (薬事法の性格及び薬事行政の変遷)

〈証拠〉を綜合すると、次の各事項が認められる。

(イ) 昭和二〇年八月、第二次世界大戦の終結と共に混乱した社会情勢の下に行政諸機関の機能も一時的に停滞したが、その後、厚生省内の職務分担の整理統合、分離等が行なわれる一方、戦後の医薬品不足の中で戦前からの医薬品の統制も継続され、そのための旧軍保有物資の集荷、配分、割当等の事務を厚生省各課が掌握し、厖大な業務を遂行することとなり、昭和二二年一一月には、昭和一六年に制定された医薬品等統制規則に代つて臨時物資需給調整法を基本法則として医薬品等配給規則が公布され、一三六品目の指定配給品が告示されて、厚生省製薬課においてはこれら指定品の増産指導を行ない、同省薬務課においてはその適正配給の業務を行なうこととなつた。

昭和二三年に至り、製薬関連産業も復興し始めたが、更に医薬品の増産を図る必要があつたため、同年四月、重要医薬品四四六品目が選定され、生産達成のために各種行政指導等が強力に行なわれ、また、厚生省医務局から薬務局が独立し、以後、同局が薬務行政を担当することになつた。また、第二次世界大戦中の戦争遂行を目的とした昭和一八年薬事法にかわり、連合軍の指示で昭和二三年薬事法が制定、公布されるに至つた。なお、当時、昭和二三年薬事法制定の趣旨として、厚生省医務局薬務課長中村光三は、「旧薬事法(昭和一八年法第四八号を指す。)は戦時的国家総動員体制下にその成立を見たものであつて、その制定の趣旨が薬事衛生の適正を期し国民体力の向上を図り以て戦争完遂に資せんとするにあつたのみならず、その内容においてもまた官治的統制的色彩の濃厚な規定が設けられているので、終戦後直ちにこれが改正の要望が薬事関係者の間に起つたのである。終戦後における社会諸制度の民主化的傾向に鑑みるならば、薬事行政ないし薬事制度の領域においても、その運営の民主化を図る措置を講ずることは最も緊要なことと言わねばならず、また、薬業界の自主的な活動を促すことは日本経済の再建にとつてもまた不可欠の条件であろうと思われるのであつて、旧薬事法における許可制度に関する諸規定はこの意味において最も強くその改正が要望されていた。更に、最近殊に甚しい不良粗悪なる医薬品医療用品または化粧品の横行は、その一半の原因はもちろん原料資材の不足、物価の高騰及び社会秩序の混乱等にこれを求め得るのであるが、他の一半の原因は、旧薬事法における取締規定の不備にこれを帰さねばならぬのであつて、新憲法により公衆衛生の向上及び増進に努めるべきことが国家の最高責務の一つとせられていることに思いを致すならば、取締規定の不備を補い取締の完壁ママを期することは、刻下の急務と言わなければならない。以上に述べた諸点が旧薬事法を廃止して新薬事法を制定しなければならなかつた主な理由であつて、かかる趣旨に基づき新薬事法は終戦後の諸情勢に即応して新しい視野に立つて薬事制度の自主的運営、委任立法規定の縮減及び公衆保健保護の見地よりする取締規定の整備にその主眼を置いているのである。」と解説していることが認められるが、この解説は、昭和二三年以前の薬事行政の実情、社会情勢、昭和二三年薬事法の立法趣旨等を極めて正確に表現しているものと考えられる。結局、昭和二三年薬事法は、戦時下法の反作用として許可事項等を削減し、かつ、医薬品の供給不足の解消の目的で製薬等の規制を緩和する一方、他方では不良医薬品に対する取締を強化することによつて、全体としては警察取締法規としての性格を極めて濃厚にしているものであると解するのが相当である。

その後、昭和二四年には、医薬品の生産も増加し、統制品の一部も解除されるようになつたが、他方、戦後間もないことによる諸要因のために粗悪な原材料を用いた医薬品その他不良医薬品も多く市場に流通するようになつたことから、不良医薬品の一掃及び純良医薬品の確保が最大の急務となつた。そして、同年八月には統制資材の大幅な統制解除が行なわれたが、それと同時に、経済界にも安定恐慌が訪れたため、企業の合理化及び育成も重要な課題となり、そのために、同年一〇月には厚生省薬務課の所管していた経済業務が強化され、以後、厚生省は、単に医薬品の確保のみならず事業育成を目的とした産業官庁としての地位も確立した。

(ロ) その後、昭和三四年まで、薬事関係法規の改廃等は殆んどなく、僅かに薬事法施行規則別記第一号表(毒薬及び劇薬の表)、抗菌性物質製剤基準等の一部改正等が行なわれたのに過ぎなかつたが、この間、昭和二三年薬事法が統制経済の排除と薬事行政及び製薬業等の民主化を目的として公定書外医薬品の製造以外はすべて登録制としていたほか、不備な点も少なくなかつたところへ、昭和二五年ころから薬品販売業者の数が急増し、その競争が激化した結果、主として薬品販売業者の団体等から薬事法改正の要望が強まつた。

そのため、昭和三四年三月二三日、厚生大臣は、その諮問機関である薬事審議会に対し、薬事制度の改善に関して諮問を行ない、これに対する薬事審議会の答申に基づいて、昭和三五年夏、昭和三五年薬事法が公布された。

この昭和三五年薬事法における重要な改正点は、次のとおりである。即ち、昭和二三年薬事法は、その目的について、「この法律は、薬事を規整し、これが適正を図ることを目的とする。」(一条)と規定するのみであり、不良薬品の取締のほかは、原則として薬品業界の自由に任せて、戦前の統制経済を排除し、薬品の供給をしようとするものであつたのに対し、昭和三五年薬事法は、その目的について、「この法律は、医薬品、医薬部外品、化粧品及び医療用具に関する事項を規制し、その適正をはかることを目的とする。」(一条)と規定して、医薬品の適正を図ることの必要性が明示されている。また、昭和三五年薬事法では、医薬品の製造業、販売業をいずれも許可制とし(一二条、二四条)、かつ、製造業及び販売業者は、医薬品の安全性確保のために一定の物的・人的設備を備えることを要すること(一五条、二七条)としているほか、生物学的製剤等について厚生大臣が必要な基準を設けることができることとし(四二条)、添付文書の必要的記載事項が法定される(五二条)等、医薬品の安全性確保のための各種規定が整備された。しかし、その一方、昭和二三年薬事法と同様に医薬品自体の審査基準や審査手続に関する具体的な規定、また、医薬品の安全性確保のために厚生大臣がとり得る具体的積極的な権限についての規定を備えておらず、更に、薬局方収載後あるいは製造承認後の特定医薬品の副作用について追跡的に調査したり、これが明らかになつた後に具体的にとることのできる措置についても何ら規定していない。

以上のように、昭和三五年薬事法は、戦後の薬品業界の急激な振興という事情を背景にしながら、単に純良な医薬品の確保及び不良医薬品の排除という警察法規的な性格に併せ、医薬品の品質確保を強化し、もつて国民の福祉を増進しようとする衛生法規たる性格を明確にしたものであると考えるのが合理的である。同時に右改廃の趣旨に照らすと、昭和三五年薬事法以降、厚生省の医薬品をめぐる行政的な責務は一段と重くなつたと解することができ、その意味で、昭和三五年は、日本の薬事行政の一つの転期であり、薬事行政の性格も医薬品の安全性確保に向けて一歩前進したものとみることができる。

(ハ) 右のような昭和三五年薬事法施行後の医薬品の審査行政は次のように変化した。即ち、昭和三五年五月、中央薬事審議会新医薬品特別部会において、従来必ずしも明確ではなかつた新医薬品製造許可申請書添付資料の基準が承認され、以後これが製造承認(昭和三五年薬事法一四条により、従来の許可制から承認制へと改正された。)審査の内規として運用されるようになつた。この基準の概要は、承認申請に際しては、添付資料として、基原または発見の経緯に関する資料、構造決定等の物理化学的基礎実験資料、効力及び毒性に関する基礎実験資料、臨床資料を要するとするものであつて、その内容は、昭和三七年版の医薬品製造指針に登載された。そして、昭和三八年ころ以降は、更に臨床試験資料について二重盲検法等による客観性の高い治験資料が要求されるようになり、同年四月からは、胎児に及ぼす影響に関する動物実験が、昭和四〇年ころからは、吸収、排泄に関する資料が要求されるようになつた。

(ニ) ところが、昭和三六年以降(昭和四二年まで)、新医薬品の承認累計が急増し、いわゆる大衆薬ブームが到来する一方、昭和三七年にはサリドマイドによる胎児奇形の問題が、昭和四〇年にはアンプル入りかぜ薬による死亡事故の問題が発生し、製造許可または承認済の医薬品についても重大な副作用を内在させていることのあることが明らかとなつた。その結果、昭和四二年の第五六国会でも薬事行政のあり方が論議の対象となり、厚生省もこのような事態への対処を迫られることとなつて、同年九月一三日、同年一〇月二一日に厚生省薬務局長から各都道府県知事あてで、「医薬品の製造承認などに関する基本方針について」「同基本方針の取扱いについて」(以下基本方針という。)を通知するに至つた。この基本方針の骨子は、次のとおりである。即ち、昭和四二年までは、医師用の医薬品とその他の医薬品との区別が明確ではなく、そのため、本来、医師の専門的判断の下でのみ使用されるべき医薬品が医学的知識のない一般人によつて無制限に使用される危険性があつたため、基本方針では、人体に用いる麻薬等の毒薬、劇薬、注射剤等医師、歯科医師のみが使用すべき剤型の医薬品等の医療用医薬品とその他の一般用医薬品を区分し、また、新医薬品の製造承認基準を詳細かつ明確にしたほか、新医薬品の製造承認後二年間の副作用報告義務を定め(なお、当時の厚生省薬務局製薬課長の渡辺康は、「もちろん今回定めた二年位で副作用が発見されることは少なく、もつと長い調査期間が必要かもしれません。とりあえず原則的に二年間と定めましたが、今後、検討すべき問題でありましょう。」と説明していた。)、その他各種の方策を打出した。

また、右の基本方針とは別に、昭和三八年ないし同四〇年のWHOの決議に基づき、基本方針に先立つ昭和四一年四月、厚生省は、副作用モニター制度を設け、その評価機関として、中央薬事審議会に医薬品安全対策特別部会及び副作用調査会を設けた(但し、この特別部会は、主として薬学関係の医師を中心とする約二〇名の委員で構成されていたが、整形外料及び小児科の医師は、委員に入つていなかつた。)。なお、右の昭和三八年のWHOの決議は、「WHO加盟各国は、医薬品の副作用について国家的水準により正確な評価をする機関を持つこと。医薬品の研究開発時または一般使用時において発生する副作用情報について、組織的に収集できるような体制を作る必要がある。」というものであるが、この決議は、サリドマイド事件を契機として(市販の医薬品による副作用については、クロラムフェニコールの副作用が問題となり、サリドマイド事件以前から副作用調査の必要性を訴える研究者が出始めていた。)、世界的に医薬品の安全性に対する不安が高まつた結果、決議されることになつたもののようである。そして、アメリカにおいては、昭和四一年から食品薬品局(FDA)が全米科学アカデミー(NAS)、全米研究協議会(NRC)に依頼して医薬品の有効性再評価が行なわれるまでに至つたのであるが(なお、これに先立つ昭和三七年、キーフォーバー・ハリス改正法が制定され、安全性及び有効性の証明が医薬品の許可の条件とされるに至つていた。)、日本では、再評価までには至らず、右の副作用モニター制度の設置に止まつた。

しかし、厚生省に対する副作用報告件数は必ずしも多くなく、その原因として、医師が情報提供に対して強い抵抗を示すこと、薬品の使用と副作用の発生との間の因果関係の立証を医師が行なうことには極めて大きな困難が伴い、そのために、特定の医師がある程度の疑惑を持つたとしても、それを公表することには消極的だつたこと、医師が副作用報告をした結果、医療訴訟を起されるのではないかとの不安を有していること等が当初においては指摘されるような状況であり、昭和四一年の報告数は四件、昭和四二年は四四件、四三年は五九五件、昭和四四年は二九三件、昭和四五年は二〇〇件に過ぎなかつた。なお、この間、各国からWHOへ、また、WHOから各国へ各種副作用情報が伝達され、WHOから日本へは一〇〇件近い情報が伝達され、日本からWHOへはキノホルムの副作用に関する情報が伝達された。そして、昭和四五年以降は、WHOにコンピューターによる情報処理が導入され、これによる情報伝達が行なわれるようになつた。

このようにして集められた情報に基づき、原生省は、次のような行政措置ないし行政指導を行なつた。即ち、①添付文書に記載すべき使用上の注意事項を適正なものに改定する、②用法、用量、効能効果について検討を加え、それぞれについてすでに承認されている内容の一部の変更を行なう、③重篤な副作用が明らかとなり、その医薬品そのものに問題がある場合には、製造または販売の禁止等の措置を行なう、④その他、以上である。そして、具体的な措置としては、昭和四三年八月一四日、クロラムフェニコール、テトラサイクリン及びエリスロマイシン系製剤の使用上の注意事項について、同年一二月二七日、ペニシリン、ストレプトマイシン、カナマイシンその他すべての抗生物質製剤の使用上の注意事項について、昭和四四年、サルファ剤、糖質皮質ホルモン剤、非ステロイド系消炎剤、クロロキン製剤、血液代用剤の使用上の注意事項について、昭和四五年九月かぜ薬の使用上の注意事項について、それぞれ添付文書の記載に関する行政措置をとつた。このように、昭和四六年ころまでの間、厚生省は、副作用情報の処理と、これに基づく行政措置に追われるような状態が続いた。

しかしながら、副作用モニター制度の実施、基本方針の通知によつても既に承認・許可済の医薬品の有用性に対する再評価措置は何ら行なわれなかつたため、基本方針通知後直ちにこの点に批判が集中し、国会の場においても問題視され、学識経験者を集めて公聴会を開き、薬効問題について意見を求められるまでになつた。そして、衆議院の決算委員会から、医薬品の効能について権威ある機関を設け速やかに検討するように要望が出され、また、昭和四五年の第二三回WHO総会においても、医薬品の安全性のほかに有効性の資料が欠如しているために、既に使用されている医薬品の有用性を制限したり撤回したりした場合にもWHOに通報すべき旨が決議された。このため、厚生大臣は、新たに薬効問題懇談会を設けて医薬品再評価の範囲、方法を諮問し、これに対する昭和四六年七月七日の同懇談会の答申を受けて、同年一二月から行政指導による医薬品再評価を開始し、その第一次評価結果を昭和四八年一一月に発表した。

(ホ) (まとめ)

以上の各事実を要約すると、第二次世界大戦後、昭和二五年ころまでは、医薬品それ自体が不足し、製薬企業も原材料不足のため医薬品の供給が極めて困難な状態にあつたことから、厚生省は、主として医薬品の増産、不良薬品の排除を目的として薬事行政を行なつた結果、昭和三〇年代には製薬業界も戦中戦後の混乱から復興し、単に医薬品の量を確保するだけでなく質の確保も重要な課題となるに至つた。そこで、昭和二三年薬事法が廃止されて昭和三五年薬事法が施行され、これにより安全な医薬品の確保を目指すことも厚生省の重要な任務となつたが、折からの大衆薬ブーム等に伴い、種々の医薬品による副作用が問題化したため、厚生大臣は昭和四一年にはモニター制度を創設し、昭和四二年には基本方針を通知して副作用監視体制の整備に努めた。そして、これらによつて得られた副作用情報やWHOからの情報を基に、各種副作用対策措置を講じつつ、昭和四六年に至つた。

(2) (厚生大臣の行為義務の基礎)

一般に、近代法治国家においては、法による行政の原理が妥当し、国家の行政目的実現のための機関である公務員は、法規によつて授権された範囲の行為を実行すべき職責を有する反面、この範囲を超えて濫りに行動することを規制されているものと解すべく、この理は、被告国の機関である厚生大臣にも妥当する。従つて、厚生大臣の法律上の義務は、原則として法律や条例に定められた職責の範囲を超えて生ずることはなく、これを超えるものは、条理上の義務として発生する余地を否定できないとしても、この条理上の義務の懈怠が直ちに国家賠償法上の損害賠償責任を帰結することにはならないと解するのが相当である。

また、一定の法律上の行為義務が存在する場合でも、当該義務が一定の行政目的を実現するための手段としての義務である場合には、その目的実現の有無または選択された具体的な手段の当否は必ずしも直ちに国家賠償法上の損害賠償責任の成否に結びつくものではなく、当該行政目的が直接に国民の利益保護を目的とし、かつ、具体的な行為義務が尽されるべき状況の下にあることを条件として、問題となる当該利益との関係でのみ、行為義務の懈怠が国家賠償法上の損害賠償責任の発生を帰結し得るものと解するのが相当である。

以上の観点からすると、現実的具体的に国家賠償法上の損害賠償責任を生じさせるための前提としては、次の各要件が満たされていることを要すると解される(なお、これらの要件のほかに、予見可能性、結果回避可能性等の一般的責任要件が満たされていることを要することは当然である。)。

(イ) (権利規定性)

厚生大臣の行為義務を措定する当該法規は、直接に個々の国民に対する行為義務を規定するものでなければならない。

但し、行政法規にあつては、具体的な行政措置の対象となる事態、または、この行政措置の必要の前提となる状況がいつ、どのような形態で発生するかが立法時には不明であるのが通常であり、かつ、具体的な行政措置自体も個別的に予め立法することも不可能であるから、当該法規の文言、立法趣旨その他の事情から当該法規が包括的にせよ一定の行為義務を遂行すべき地位を特定の公務員に与えていることが解釈により導き出され得るものであり、かつ、その義務の名宛人が個々の国民と明示されていなくても、当該法規の存在目的等から、当該行為義務によつて保護されている者が現実的かつ直接的な国民の利益であることが解釈により導き出されるものであれば足りると解するのが相当である。

そして、薬剤は、常に国民に対して投与されるという形で消費されるものであり、かつ、薬剤(特に注射剤)の投与は、必らず身体に対する侵襲を伴うものであつて、その意味で身体、生命に対する危険を内包するものであることは先に判示のとおりであるから、医薬品の安全性確保は、それ自体が終局的な目的でなく個々の国民の身体、生命の安全確保という最終目的からすればその手段に過ぎないと考えることができる。従つて、法規が、一般的に医薬品の安全性確保義務を定立している場合には、その義務定立の実質は、医療品の安全性の確保という手段によつて個々の国民の身体、生命の安全を確保すべき法律上の義務の定立を意味すると解するのが相当であるが、単に不良医薬品の取締りという手段のみが義務として定立されているという以上には解釈できない場合には、厚生大臣の法律上の義務の範囲も取締りに必要な範囲に限定されることになる。

(ロ) (違法性)

法規が一般的、抽象的な行為義務しか定立していない場合には、個々の具体的な行為義務の違反は直ちには違法とはならず、当該行為義務の違反が著しく裁量の範囲を逸脱した場合にのみ違法となると解すべきである。けだし、右のような一般的抽象的な行為義務の定立という立法形式自体が一定の範囲の裁量の存在を暗黙に前提としていると解さざるを得ないからである。

しかしながら、右義務の定立が直接に個々の国民の身体、生命の安全の確保を目的とするものである限り、右裁量の幅には自ら一定の限界が内在するものと言うべきである。けだし、人間の生命、身体の安全は、法律上保護されるべき利益の中でも最も大きな価値を有するものであることは明らかであり、従つて、この法益の保護に関与する厚生大臣の職責は、可能な限り最大限の努力を傾注することによつて尽されるべきだからである。ところで、右のような裁量性の許容範囲は、当該具体的行為義務の内容となつている具体的行為の実現可能性とこれを行なうべき必要の前提となる状況との相関によつて判断されるべきである。従つて、裁量逸脱の有無の判断は、その実質において、一定の行為に対する違法性有無の評価それ自体である。

(3) (薬事法上の行為義務)

以上考察してきた薬事法の性格、薬事行政の変遷、更に厚生大臣の安全性確保のための行為義務の基礎の存否の各観点から、昭和二三年薬事法及び昭和三五年薬事法上、原告らの主張する医薬品の安全性確保義務が定立されていたか否かについて検討すると、これら薬事法は基本的には、衛生取締法規というべきものであつて、厚生大臣に対し、個々の医薬品についての安全性確保を個々の国民に対する義務として定立しているものと解することは極めて困難である。従つて、公定書非収載医薬品の安全性確保に関し、厚生大臣が薬事法上個々の国民に対する関係でも、一定の注意義務を負担するとする原告らの主張は、この限りにおいて理由がない。

(4) (条理上の安全性確保義務)

しかしながら、薬事法上、原告らの主張するような形で厚生大臣に安全性確保義務が措定されていないことは、直ちに法律上(広義の)そのような行為義務の存在しないことを意味するものとは速断できない。即ち、医療薬事に関する法体系のあるべき姿及び国民を取巻く医療薬事に関する諸々の状況に照らせば、それを肯定することが国家的にもまた国民の法感情のうえからも要請され、それが憲法を頂点とする我が国の現行法秩序との間に齟齬を来たすことがない限り(例えば、憲法の保障する営業の自由とのかねあい)、たとえ、明文上直接の根拠規定を欠いても、同着務の存在を積極的に解すべき場合があると言わねばならない。そこで、このような観点に立ち以下検討することとする。

(イ) 厚生省設置法(昭和二四年法律第一五一号・但し、昭和五八年法律第七八号による改正前のもの)四条は、厚生省の任務を社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進を図ることを任務とし、国民の保健、薬事並びに麻薬及び大麻の取締等の行政事務及び事業を一体的に遂行する責任を負う行政機関とすると規定し、同法五条は、厚生省の権限として、同法に規定する所掌事務を遂行するため、予算の範囲内で、所掌事務の遂行に必要な支出負担行為をすること、所掌事務に関し資料の収集、準備及び周知宣伝を行なうこと、所掌事務に関する統計及び調査資料を頒布しまたは刊行すること、所掌事務の監察を行ない法令の定めるところに従い必要な措置をとること等の権限を有する(但し、その権限の行使は、法律に従つてなされなければならない。)と規定し、薬事の取締のために法律上の範囲内で法律に基づいて権限を行使すべき旨を定めている(なお、五条の規定は、その後、昭和五八年法律第七八号による改正までの間、多数回にわたり一部改正等が行なわれたが、この間、主要な規定の立法趣旨に変更はない。)。そして、このような立法の態度は、不当な国家権力の介入を抑止して個人の基本権を尊重しようとする近代的な憲法理念とも合致し、相当なものであると解することができる。従つて、国民を取巻く医薬品に関する諸状況が右のような法の態度を全面的に肯認し得るような事態にある限り、厚生大臣には、薬事に関し、条理上も個々の国民に対し積極的な義務を負担するものでなく、またその必要もないと解さざるを得ない。

(ロ) しかしながら、本章九2(一)(1)冒頭に摘示の証拠によれば、以下の各事実が認められる。即ち、昭和三〇年代以降、日本の製薬関連産業が著しい発展を遂げ、昭和三五年には、世界第二位(年生産額推計一兆円)の生産高に達しており、このような事態を背景に諸外国からも医薬品の貿易自由化の要請が強まり、これに対処するため、厚生省の保護の下で各製薬会社も強力に資本充実、販路の確保等を図つてきたのに対し、医薬品の安全性確保の必要性の認識が、(一部の研究者を除いては)極めて低度であつた結果、一方では大衆薬ブームのような社会的病理現象とも言うべき状況を伴いながら医薬品の大量消費という現象が出現し、他方では、これと並行してアンプル入りかぜ薬事件、サリドマイド事件、キノホルム事件等の各種の医薬品による重篤な副作用患者の大量出現を見るに至り、国民に対し大きな不安と現実の被害をもたらす結果となつた。

このような事態に対処するため、前記認定の経緯でWHOでは、昭和三八年に加盟各国が医薬品の有用性確認のための機関並びに副作用情報収集の体制を整えることを決議した。このことは、医薬品の安全性を確保することが、個々の国だけではなく、世界的な問題となつてきたことを意味するものである。

我が国でも、これを受けた形で、昭和三八年に、中央薬事審議会に医薬品安全性特別部会を設け、更に昭和四一年にはその下に医薬品副作用調査会を置き、同四二年から医薬品の副作用モニター制度を創設し、また、前記基本方針を通知して、各種の医薬品副作用に対処するための行政措置をとつたほか、同四七年には、WHO国際医薬品モニタリングに参加した。

(ハ) これらの措置によつて、どのような実効があつたかは別として、被告国がかような対応をとるに至つたのは、医薬品の副作用被害が看過できない状況にあり、これら副作用から人間の生命健康を守ることは緊急の課題であるとの認識が世界的になり、我が国もその例外ではあり得ないことが厚生大臣を頂点とする薬事行政当局の理解となつたことによるものと考えられる。

一方、飜つて考えると、少なくとも昭和三〇年ころ以降においては、製薬企業が巨大な組織に成長し、高利潤を挙げていく中で、その基本権保障の形式的な遵守が、右医薬品副作用の面からして却つて、結果的に多くの一般国民の生命健康を脅やかすことになりかねない状況も予測される事態になり、しかも、このような状況下において、一般国民としては、かかる危険な事態を排除するには全く無力で、そのような中で自らの生命健康を維持するには、結局国の力に頼らざるをえないのが現実であつた。このような事態において、行政の衝にあるものが、これらの事態を認識しながら、法律による行政の原理の形式的墨守に終始し、拱手傍観を続けることは、我が国の法理念に照らして決して相当なことではなく、その意味で、この安全性確保のための措置は、これと両立しない権利に優越し、それらの権利に譲歩を求めることが許される場合があると解することができる。

以上(イ)(ロ)(ハ)の諸点に鑑みると、前記薬事法の基本的性格が、時代の推移により当然に変容していくものとは言えないにしても、状況の変化に対応しながら薬事法の理念を実現していくためには、同法の許容する範囲内で、厚生大臣において一定の行政措置を講ずるべき義務を個々の国民に対する具体的な義務として定立することが相当である場合が生じ得ると言うべきである。これを条理上の義務と呼ぶか否かは別として、厚生大臣としては、次の時点、即ち、医薬品の製造許可(承認)時及び何らかの契機で医薬品の副作用等の後顕的作用の存在を知り、あるいは通常の行政事務遂行の過程で容易にこれを知ることができた時には、医薬品の安全性を確保するため、その時点における国の有する最高水準の医学薬学上の知見及び調査能力を駆使して医薬品の副作用の有無やその内容を調査確認し、その程度と当該医薬品の有効性を比較検討したうえ、国民に対して被害の及ぶことを避けるために適切な措置をとるべく、そして、厚生大臣の介入がなければ、被害の回避が困難であると考えられる緊迫した事態においては、その不作為が、当該医薬品を使用して被害を受けた国民に対する損害賠償責任に帰結することもあると言わねばならない。

(二) (安全性確保義務の具体的内容)

前記検討してきたところに従えば、厚生大臣に認められる医薬品の安全性確保に関する義務は、製造許可等に際しての調査義務と医薬品に副作用等のあることを知つた場合における当該医薬品の見直し、規制義務である。

なお、この点につき、原告らは、厚生大臣においては、医薬品の製造許可(承認)後も、引続き副作用の有無等につき事後監視を行ない、情報収集に努めて当該医薬品の安全性を確保する義務が継続すると主張する。

しかしながら、昭和五八年法律第七八号による改正前の厚生省設置法によると、厚生省は薬事に関する事項のみを担当職務とする行政官署ではなく、まして特定の疾患についての詳密な探究のみを目的とするものではないことは自明であり、薬事、医事、公衆、環境衛生、保険、年金等の膨大な行政事務を掌理し、薬事に関しても、新規医薬品の審査、製薬企業の指導等を行なう中で、既に明らかになつている薬害等の具体的事件に対応しつつ、一般的な薬事行政を運営しなければならないのであるから、我が国で現に使用されている極めて多品種(乙B第七七号証の一によると約四万種であることが窺われる)にわたる医薬品のすべてについて、たとえそれが厚生大臣によつて製造を承認(許可)されたものであつても、その後顕的な副作用の有無を絶えず追跡的に調査し、もれなくその資料を収集することは至難であるし、(この点につき、証人高橋晄正は、インディックス・メディックスや医学中央雑誌等の総合医学雑誌の検索により、比較的容易かつ安価に本症に関する調査が可能である旨を証言しているが、このうちインディックス・メディックスは本症に関する記事が掲載されていたことを認めるに足りる証拠がないことは一応措くとしても、このような検索は、まず本症の存在が認識され、医薬品との関係が何らかの形で疑われなければ、そもそも開始できないのであるから、この意味において、まず、端緒になる情報の獲得が必要である。)、その一方、被告国が行なわなければ、そのような副作用情報を調査収集することができないわけではないのである。これらのことは、裏返して言えば、かような調査を厚生大臣に対し医薬品の安全性確保のための義務として認めることは必らずしも相当でないということである。

ただ、前記厚生省設置法によると、所掌事務に関し、資料を収集することが厚生省の権限とされているのであるが、この点について、証人河野鎮雄の証言や同法の規定文言に照らして考えると、これは、所掌事務の円滑な遂行のために、その業務の過程において資料の収集も行なうという程度の意味であつて、特に医薬品の副作用に関する資料収集を積極的な権限と定めた規定とは解されない。勿論、予算人員等に全く制約がなければ、より充実した調査監視体制を整備することも可能かもしれないが(もつとも、これにより、必然的に行政機構の肥大化、行政権限の増大を伴うことになり、その当否が問題となろうが、議論の煩雑化を避けるためにこの点は措くこととする。)、これは所詮立法及び行政の領域におけるどのような政策目的を優先して選択するかという裁量の問題に帰着するのであつて、現に前記各薬事法は原告らの右主張に見合うような義務を滞りなく履行するための規定を置いていないのであるからこのような意味で、調査監視体制の不整備を把えてこれを違法視することはできないのである。ただ、被告国としては、先に認定のように昭和三五年薬事法施行後ではあるが、昭和三八年に中央薬事審議会に医薬品安全対策特別部会を設置し、昭和四二年には基本方針を通知するとともに副作用情報システムを整備し、昭和四六年からは医薬品の有用性再評価を実施する等してきたのであつて(なお、本症発症の可能性を理由として有用性が否定された医薬品の存在することを認めるに足りる証拠はないし、仮りに本症発症の可能性があれば有用性なしと評価すべきであるとすると、一部の特殊な効能をもつ注射剤を除く大半の注射剤を有用性なしとしなければならないと考えられる。)、このような厚生省の対応は、旧来に較べ一歩前進した行政措置であり、製造許可後の調査義務に関する前記のような理解に従えば、将来の副作用被害を防止するための行政措置としてそれなりの評価を与えることができるのである。

要するに、製造許可以後の医薬品の副作用等の後顕的作用についての調査研究、そのための情報収集は、当該医薬品を製造販売して利潤をあげている製薬会社がまず行なうべきことであり、厚生大臣としては、製薬会社とともに、あるいは後見的立場に立つてどこまでの規模、方法でこれらの調査を進めることが妥当か、また、どうすれば可能であるかということが問題となるに過ぎず、結局、これは厚生行政における政策の問題である(ちなみに、昭和五四年法律第五六号による薬事法の改正により、医薬品の安全性確保のための規定がある程度整備されたが、製造許可((承認))以後における副作用の調査義務の点については、特に目新しい規定はもうけられていない。)。

(三) (製造許可等に際しての調査義務)

そこでまず、厚生大臣が被告グレランに対し、グレラン注の製造許可を与えた際に、調査義務の懈怠があつたか否かについて判断する。

(1) 厚生大臣のグレラン注(グレラン注射液)に対する許可は、前記のとおりであり、昭和三五年二月一六日付許可を除く、昭和二五年三月一三日付、同年七月二五日付、同月二七日付、昭和三四年三月二〇日付各許可については内容が今一つ不明確であるとはいえ、グレラン注射液について被告グレランに対する何らかの行政行為があつたことが推認されるのであるから、そのような行政行為に際しての厚生大臣の調査義務違反の有無を検討すべき余地が残らないわけではない。ただ、この行政行為の具体的内容が特定されていなければ、その際の義務内容も不明であり、従つて先に判示の各許可の具体的内容について推測されるところに従い検討せざるを得ない。

(2) (義務違反)

先に判示したところ(本章三2(二))によると、何らかの形でグレラン注(グレラン注射液)の成分の有効性等が審査の対象となつた行政行為は、昭和二五年七月二七日の主成分配合比変更許可及び昭和三五年二月一六日の製造許可事項変更の許可のみであり、他の許可事項については、許可の前提としてグレラン注(グレラン注射液)の成分につき実質的審査を要すると解すべき余地はないから、結局、義務違反の有無の判断対象となるのは、昭和二五年七月二七日付及び昭和三五年二月一六日付各許可のみであることになる。

ところで、昭和二三年薬事法は、二条八項で「この法律で『公定書』とは、薬局方、医薬品集又はこれらの追補をいう。」と規定し、医薬品の製造許可に関して二六条三項に「医薬品の製造業者が公定書に収められていない医薬品を製造しようとするとき(中略)は、品目ごとにその製品について厚生大臣の許可を受けなければならない。」と、同条四項に「厚生大臣が、新医薬品その他公定書に収められていない医薬品について前項の許可を与えるには薬事委員会の建議に基いて、これをしなければならない。」とそれぞれ規定する(但し、後者の規定は、昭和二六年法第一七四号により削除)ほかは、公定書に収載された医薬品について何らの規定を設けていないことからすると、同法における立法趣旨は、公定書に収載済の医薬品については、何ら審査を加えなくとも有用性があると評価し、それ以外の医薬品に対してのみ審査、規制をすべきであるとするものであると解されるが、このような立法も先に認定のような第二次世界大戦終了後の混乱期の立法としてやむを得ないものと解される。そして、同法七五条は、厚生大臣が新しく日本薬局方を公布するときまで、第五改正日本薬局方を同法上の日本薬局方とみなすものと規定していたところ、第五改正日本薬局方にアミノピリン及びピラビタールのいずれもが収載されていたことは先に認定のとおりであり、また、乙C第一五号証、第一八号証並びに弁論の全趣旨によると、昭和八年当時、既にグレラン注射液その他のピラビタール注射液ないし類似配合剤が私的な医薬品集に多数収載されていたことが認められるのであるが、ピラビタール二〇〇mg及びアミノピリン一〇〇mgを含有する医薬品が公定書に収載されていたことを認めるに足りる証拠はないから、昭和二五年七月二七日付許可が仮りに主成分配合比変更に対するものであつたとしても、これが、行政解釈上、昭和二三年薬事法の公定書外医薬品の製造許可に該当するものとされ得る余地は残り、従つて、右許可の際の安全性の調査義務の有無が問題となる。

そこで検討すると、乙A第二三号証の三の二によると、昭和二三年一二月一七日から昭和二六年五月三一日までの間、次の各号に該当する公定書外医薬品については個別的に薬事委員会(薬事審議会)に対し建議を求めることなく、同委員会の包括建議に基づき厚生大臣において事実上実質審査なしに製造許可を与えていたことが認められる。即ち、

(イ) 公定書医薬品を主な有効成分とする製剤で従来これに類するものが存在し効能その他の内容が適当なもの

(ロ) 主な有効成分が既往に許可を受けた公定書外医薬品よりなる製剤であつて従来これに類するものが存在し効能その他の内容が適当なもの

以上の各号ほか二項目である。そして、アミノピリン及びピラビタールのいずれもが第五改正日本薬局方に収載されていたことは、先に判示のとおりであるところ、乙C第一九号証によれば、昭和三二年当時の医薬品集におけるピラビタール注射液の製法の説明欄には「本品には溶解度を増すためウレタンを加えることができる。」と記載されていることが認められるのである。

してみると、仮りに昭和二五年七月二七日許可が「製造許可」であつたとすると、それは、少なくとも、前記(イ)の要件を具備することから、実質審査なしに包括建議に基づいて与えられたものと推認される。しかしながら、この包括建議に基づく製造許可も、本件に関する限り、違法と断定することはできない。けだし、昭和二三年薬事法二六条四項は、単に薬事委員会の建議に基づいて許可を与えるべき旨を規定するのみであつて、その建議の内容については何ら規定していないのであるから、同法同条の立法趣旨に反しない限り、一定の範囲で包括建議の認められる余地があると解されるところ、本件に該当する包括建議の趣旨は、従来、公定書に収載されて有用性が公に宣言されている医薬品を主成分とする新配合剤等については改めて個別的な有用性評価を要しないということにあると解され、このような趣旨に則する限り、包括建議それ自体も、また包括建議に基づいて製造許可を与えることも同法条の立法趣旨に反するものではないと解するのが相当であり、また、製造許可の際に従来まで認められてきた医薬品の有用性の再評価を行なうべきか否かは、厚生大臣の全くの裁量事項であつて(但し、一般的に有用性再評価をすべきか否かは別の問題である。)、グレラン注射液の製造許可に際してその含有成分の有用性の再評価をしなかつたからと言つて、そのことが直ちに裁量逸脱となるものではないと解するのが相当だからである。結局、厚生大臣が包括建議に基づいて被告グレランに対しグレラン注射液の製造許可を与えたことが違法となるとは解されない。

次に、昭和三五年二月一六日付許可であるが、ピラビタール三〇〇mgをピラビタール二〇〇mg及びアミノピリン一〇〇mgへ変更したこと、または、ピラビタール二〇〇mg及びアミノピリン一〇〇mgにサリチル酸アミドO酢酸ナトリウム及びオキシメタンスルフォン酸ナトリウムを加えたこと、ウレタンを二五〇mgから一五〇mgに減じたことと本症の発症可能性との間の因果関係については何ら主張立証がないばかりか、却つて、これ迄認定してきたところによれば、このような配合比の変更によつてグレラン注の組織障害性が格段に高まつたとか、サリチル酸アミドO酢酸ナトリウム及びオキシメタンスルフォン酸ナトリウムが右障害性の中心になつているというような事実は認められない。従つて、昭和三五年二月一六日付許可における各変更と原告患児らの本症罹患との間には何ら因果関係が認められないと言うべきであり、飜つて、これらの変更時点において、成分変更と本症との関係を厚生大臣が調査したとしても、薬剤の成分の問題としては、これに有意の関係を見出せたか否かはこれ迄の認定事実に照らしても極めて疑問である(注射剤そのものの組織障害性と本症との一般的関係が文献上明らかにされたのは昭和四三年のハーゲン報告((文献E―8))以後であり、注射剤の溶血性と本症との一般的関係が明らかにされたのは、昭和四九年の赤石報告((文献F―14))以後のことである。)。

結局、以上、いずれの観点からしても原告ら主張の各許可時において、厚生大臣に製造許可時における調査義務の懈怠があつたとすることは、困難である。

(四)(製造許可後の一般的調査並びに見直し規制義務)

原告らは、厚生大臣にグレラン注の製造許可後の調査義務の懈怠があつた旨を主張する。しかし、グレラン注(グレラン注射液)について被告グレランに対する昭和二三年薬事法二六条の製造許可があつたことを確定できないことは先に判示のとおりであるし、何よりも、厚生大臣に対し許可後の一般的調査義務自体が認められないところである。しかし、厚生大臣が何らかの契機で本症の存在及びこれと注射との関係に関する情報を入手したり、あるいは、所掌事務遂行の過程でそれを容易に知ることのできる状態にあつたときは、その状況に応じ、厚生大臣において、当該医薬品の安全性を見直し、その結果によつて、製造許可(承認)の一部または全部の撤回、これを使用する者への指示・警告措置等の規制措置をとるべき義務があることは先に判示のとおりである。

そこで、昭和四六年末迄の時点において、厚生大臣が厚生省を構成する各部局や研究調査機関等から本症に関する情報を得ていたか、あるいは容易に取得することができたかの点につき検討する。

(1)(大臣官房統計調査部からの情報)

〈証拠〉を綜合すると、次の各事実が認められる。

(イ) 昭和二四年法律第一五一号厚生省設置法に基づく厚生省組織規程(昭和二四年厚生省令第三八号)により、厚生省の内部部局として、大臣官房の中に統計調査部が設けられ、同部には、指導課、計析課及び製票課が置かれ、主に所管行政に関する統計や解析、図表の作成を担当し、この中には国民の死因や傷病の分類も含まれていた。その後、同部は国家行政組織法(昭和二三年法律第一二〇号)七条三項に基づく厚生省組織令(昭和二七年政令第三八八号)並びに厚生省組織令の一部を改正する政令(昭和三五年政令第七九号、昭和三六年政令第一五七号)により、組織の改編を行なつたが、その所管事務は基本的に変わらず、昭和二七年に設置された計析課の事務は、厚生省の所管行政に必要な統計に関し、研究、調査、技術的企画、解析及び図表作成を行なうこと、厚生省の所管行政に必要な統計に関し、資料の編さん、収集及び保管を行なうこと、疾病、傷害及び死因統計分類に関すること等とされた。また、昭和三六年の改組では統計調査部の組織を管理課、人口動態統計課、衛生統計課、社会統計課及び集計課の五課としたうえ、従前指導課の担当していた事務を管理課が担当し、同課は、原生省の所管行政に必要な統計に関し、総合的企画及び解析並びに連絡調整を行なうこととされ、衛生統計課の事務は、衛生に関する統計調査に関し、企画、実施、連絡調整、製表(機械集計を除く。)、解析及び資料の編さんを行なうこと、衛生に関する製表材料、製表結果の材料(穿孔票を除く。)及び製票結果の原票の保管を行なうこととされた(なお、その後昭和四九年までは、重要な改正はない。)。

(ロ) 昭和二二年六月、連合軍司令部(GHQ)から厚生省へ国際保健会議(WHOの前身)の「第六回国際疾病、傷害および死因統計分類の改正草案」が手交され、厚生省は、これについて検討していたが、他方、厚生省に設置されていた衛生統計協議会の「傷害および死因分類に関する専門部会」及び後には「疾病、傷害および死因統計分類審議会」において、国際分類の採用について討議が行なわれ、その結果、WHO分類規程第一号(現在、WHO分類規則と改称)を全面的に承認することとなり、昭和二五年以後、日本でも、「第六回修正疾病、傷害および死因統計分類」が適用されることとなつた。なお、第六回修正分類は、昭和三二年、悪性新生物に関し(第七回修正)、昭和四〇年、精神障害等に関し(第八回修正)それぞれ修正が検討されたが、基本分類に変更はなかつた。そして、このように統計分類に関する事務は、前記のような統計調査部の担当職務からして同部において所管していたものと推認されるところである。

(ハ) ところで、このWHOの疾病等分類では(昭和四三年当時)、「筋骨格系および結合織の疾患」の分類中「その他の関節疾患」(分類番号七二九)で「関節拘〔攣〕縮」が、「その他の筋、腱および筋膜の疾患」(分類番号七三三)で「腱拘〔攣〕縮」、「線維性筋炎」が分類されていた(なお、この分類は、昭和二五年当時から変更がなかつたものと推認されることは、右(ロ)で判示の事実から明らかである。)。そして、〈証拠〉によれば、昭和二二年の伊藤四郎の報告(文献A―2)が本症を「膝関節攣縮」と、昭和二八年の丸毛らの報告(文献A―7)が本症を「膝関節拘攣」とそれぞれ呼称していたことが認められること、乙A第七六号証によれば、第八回修正分類草案について討議すべく設置された厚生省の「厚生統計協議会、疾病、傷害および死因統計分類に関する部会(第四部会)」の委員(昭和三四年一二月一〇日現在)には東大整形外科の三木威勇治も選任されていたが、筋骨格系疾患の分類については特に異論がなかつたことが認められるところ、三木が昭和三〇年代初めには本症を認識していたことは前記第三章四4で認定の症例報告から認められるから、第八回修正分類における「関節拘〔攣縮〕」等は、本症も含んだ関節疾患として統計処理される疾病分類名であると認められる。しかし、この疾病分類がどのように活用され、行政に反映されていたのかは、本件証拠上明らかでなく、しかも、これがあくまでも統計上の疾病分類に止まつていることからして、薬事行政上、なかんづく医薬品の安全性確保のための資料としても扱われていたか否かは判然としないところである。しかるところ、厚生省統計調査部における具体的な統計処理事務自体は厚生省の部内秘であるとも考えられる反面、統計調査結果は、厚生省の公刊物によつて知ることができるところであるから、この点の立証上の負担は、原告らにあると解するのが相当であるが、このような立証はない。

(ニ) 乙A第二三号証の三の七一、七二、七三によれば、日本整形外科学会は、遅くとも昭和三四年以降は継続的に日本整形外科学会雑誌を統計調査部に送付していたことが認められるのであるから、これが単に形式的に送付を受けていたというに止まらず、統計調査部において統計調査上の資料として右雑誌その他の整形外科領域における文献を実際に検討対象とし、かつこれに医師薬剤師等の専門家が関与し、これらの内容を調査分析していたとすると、この統計分類処理の過程において、現実に本症の発生例のあること、しかもそれが注射と関連していることが明らかとなつたと考えられるが、このような形で文献調査が行なわれていたことを認めるに足りる証拠はない。

以上の各事実からすると、厚生省大臣官房統計調査部においては、遅くとも昭和三四年以降においては、傷害、疾病の統計分類上は、本症の存在を知ることができる状況にあつたと考えられるものの、これが医薬品の副作用の結果としての、あるいはその疑いのある疾患であると認識することができたと迄は未だ認定するに足りる証拠はない。

(1) (薬務局における情報収集)

〈証拠〉を綜合すると、次の各事実を認めることができる。

(イ) 昭和二四年五月三一日、厚生省設置法(昭和二四年法律第一五一号)により、厚生省には、大臣官房並びに公衆衛生局、医務局、薬務局、社会局、児童局及び保険局の六局が置かれ、薬務局の所管事務は、「医薬品、医療用用具その他衛生用品の生産配給、販売等に関する業務の指導、奨励、監督及び調整を行うこと」、「医薬品、用具又は化粧品の製造業者及び輸入販売業者に関すること」、「薬事法(昭和二三年法律第一九七号)に規定する不良又は不正表示医薬品、用具及び化粧品の取締を行うこと」、「医薬品、用具及び化粧品の試験、検査及び研究を指導すること」等のほか、「薬事、麻薬及び大麻の取締に関する法律を施行すること」とされた。

昭和二七年八月三〇日、厚生省組織令(昭和二七年政令第三八八号・施行は、同年九月一日)により、薬務局には、企業課、薬事課、製薬課、監視課、細菌製剤課及び麻薬課の六課が置かれ(三二条)、このうち、薬事課は、「薬事法の施行に関して総括すること」、「公定書に関すること」、「薬事審議会及び薬剤師試験審議会に関すること」等を主管し(三四条二、三、一一号)、製薬課は、「医薬品(生物学的製剤を除く。)の生産に関する技術上の指導監督を行うこと」、「医薬品の製造業の登録及び製造の許可を行うこと」、「医薬品(生物学的製剤及び抗菌性物質製剤を除く。)の規準に関すること」等を主管し(三五条一、二、三号)、監視課は、「医薬品、医療用用具及び化粧品の検査及び検定に関すること」等を主管すること(三六条四号)等とされた。

その後、厚生省組織令の一部を改正する政令(昭和三一年政令第六五号、同三二年政令第二四〇号、同三四年政令第三二五号、同四六年政令第二六三号、同四九年政令第一二六号)により数次にわたつて組織の改編が行なわれたが、同局においては、この間一貫して医薬品の製造許可(承認)に関する事務や不良医薬品の取締り等薬事に関する諸事項を所管してきたほか、昭和三八年のサリドマイド事件を契機としてとられるようになつた前記の医薬品安全対策についての事務部門を担当してきた。

(ロ) このように、薬務局は、薬事行政の要にあつたのであるが、同局において整形外科学会雑誌等の本症に関する情報を掲載した専門誌を講ママ読していたことを認めるべき証拠はなく、却つて、前記乙A第二三号証の一、二によると、新薬の製造許可(承認)の事務を担当していた製薬課に入つていた雑誌は「医事新報」「医師会報」「月刊薬事」位であつたことが認められるが、これらの雑誌に、昭和四六年末迄の時点で本症に関する記事が掲載されたとの証拠はない。

また、同局は、その所管事務からして、製薬会社や医師らと接触する機会も多かつたのであるが、昭和四六年末迄の時点にこれらの者から、本症に関する何らかの情報がもたらされるというようなこともなかつた。このようなことから、昭和四二年九月から同四四年九月迄の間の渡辺康が同局製薬課長を務めた時期をとつてみても、同局においては、注射剤の組織障害性については、それが既に認定してきたように重篤な機能障害をもたらすような性状をもつものであるとの認識は全くなかつた。そして、新たな注射剤の審査に当つても、本症のような関節障害に関連しての組織障害性について特に注意を払つていたわけではなく、昭和四二年の基本方針以降、一定の範囲で薬剤の毒性試験(動物実験を含む)を要求していたのに過ぎない(なお、これら基本方針に基づく毒性試験等により、本症の存在等が示唆されたことを認めるに足りる証拠はない。)。

(ハ) 昭和三八年三月に、中央薬事審議会の中に医薬品安全対策特別部会が置かれ、次いで同四一年一二月にはその下に医薬品副作用調査会が設けられた。同調査会は、医学薬学の分野における一線級の学者で構成されたが、同調査会からも薬務局に対し本症に関する情報が寄せられた事実はない。なお、右委員会の委員には整形外科医が含まれていなかつたことは先に判示のとおりであるところ、仮りに、同委員に整形外科医が含まれていたとすると、たまたま当該医師が本症を含む下肢の疾患を専門とする者であれば、事実上、本症に関する何らかの知見がもたらされた可能性は否定し切れない。しかし、この委員会をどのような委員で構成するかは厚生大臣の裁量事項であると解すべきところ、同委員会の設置趣旨等に鑑みると、右裁量に違法があつたと認めることは困難である。

(3)(医療同好会等からの情報)

昭和四一年の第二一回国立病院療養所総合医学会において、当時の厚生大臣鈴木善幸が挨拶を行なつたこと、同会で本症の一七例についての柴垣らの報告があつたことは、既に認定のとおりであるが、証人村上寶久の証言によれば、柴垣らの報告は、同医学会二日目の整形外科分科会において行なわれたものであることが認められ、右厚生大臣が右分科会に出席したことを認めるに足りる証拠はないから、右のように厚生大臣が右医学会で挨拶をしたからと言つて、そのことのみで、厚生大臣において本症が注射により発症することを認識したということはできない。また、甲第三三七、第三三八号証並びに弁論の全趣旨によれば、医療同好会は、国立病院及び国立療養所の医師、看護婦らを会員とする学術団体で、会長、常務理事を厚生省医務局職員とし、事務所を同医務局に置いて研究機関誌「医療」を発行しているが、同会は、独立の法人格をもたず、収入の大半を右「医療」の国からの買上料、同誌の広告料、拠出金でまかなつている等医務局とは密接な関係にあることが認められるものの、右各証拠によれば、国買上分の「医療」のすべては、国立病院、国立療養所への配付、他の学術団体との交換に用いられていること、医療同好会の実質的運営は、国立東京第二病院の医師らが診療のかたわら担当しており、編集室及び印刷室も同病院内に置かれていることが認められることからすると、同会は、厚生省医務局への医療情報の提供を目的とするものではなく(なお、厚生省組織令によれば、厚生省医務局は、医療制度の調査研究、医師・歯科医師その他の医療関係に関する法規の総括、国立病院等の業務の監督等を所掌事務としている。)、もつぱら国立病院等の医師の研鑚や学術情報交換等を主たる目的としているものと考えられ、医務局職員らが医療情報の収集のために同会の運営に参加したことを認めるに足りる証拠はないから、仮りに医務局職員が雑誌「医療」を通じて、たまたま本症に関する情報に接することがあつたとしても、そのことのみで、直ちに厚生大臣が本症の原因が注射であることを認識したとまでは推認することができない。従つて、昭和四三年に発行された「医療」第二一巻増刊号に、柴垣栄三郎らの「注射によると思われる大腿直筋拘縮の一七例について」(文献A―41)と題する報告が、同四一年に発行された「医療」第二〇巻六号に喜多島豊三らの「腹直筋短縮症ともいうべき一例」文献D―3)と題する報告がそれぞれ掲載されたからといつて、このことから直ちに厚生大臣において本症の存在を知つたと認定することはできない。

(4) (副作用情報システム等からの情報)

(イ) (副作用モニター)

〈証拠〉によれば、昭和四一年から開始された副作用モニター制度により収集された副作用情報中には、本症に関する情報が全く含まれていなかつたことが認められ、従つて、このモニターによる副作用情報から本症の存在を予見することは不可能であつたと認められる。また、右モニター制度の規模・方法等を拡大充実し、予算、人員等の許す限りの最大限の副作用モニターを実施したとしても、昭和四六年末迄の時点にこれによつて本症に関する情報が得られた可能性は殆んど皆無であつたと推測される。けだし、本症の報告の多くが国立病院、大学附属病院の医師からのものであつたことは前記第三章四で認定のとおりであるところ、乙A第二三号証の三の一九、二〇及び二一によると、副作用モニターの対象が昭和四一年当時は国立病院(九八施設)、大学附属病院(九八施設)の合計一九六施設、その後公立病院も含められて合計二六三施設(昭和四九年当時)であつたことが認められるのであるから、客観的な症例の存在という意味では副作用モニターにより報告されるべき対象が存在したのに実際にはこれが報告されなかつたことからすると、少なくとも昭和四九年以前の時点では、右の本症の報告者らの間では、本症が注射の副作用と考えられていなかつたが、または、仮りに副作用と考えられていたとしても、その重点がむしろ注射をした医師による個別的な医療過誤にあると考えられていたために、副作用として報告すべき事例でないとの見解が圧倒的多数であつたと推測され(このような見解が妥当か否かは問題であるが、日本全土で殆んどの医師がこのような態度を示したとすると、情報の提供が期待できなかつたことは明らかである。)、従つて、モニターの範囲の拡大は、必ずしも情報提供の可能性の増大と結びつくものではなかつたと考えられるからである。結局、原因が確定できないものも含め、すべての医療上の事故に関する徹底したモニターを実施するのでなければ、本症に関する情報を得る可能性はなかつたものと考えられる。

(ロ) (基本方針による資料からの情報)

昭和四二年の基本方針により、新開発医薬品の製造承認に際しては、動物実験、臨床試験等の添付資料が要求されることになり、また、承認後も副作用報告が義務付けられることになつたことは先に認定のとおりであるが、〈証拠〉によると、右の添付資料等から得られた情報中に本症関する情報が全く含まれていなかつたことが認められる。従つて、これら資料等から本症の存在を予見することは不可能であつたと認められる。なお、仮りに製造承認後の副作用報告義務の期限が二年以上(または無期限)であつたとしても、この結論が異なることはないものと考えられる。けだし、製薬会社等が行なうべき副作用報告の基礎となる資料は、大学附属病院その他の医療施設からの情報であると考えられるところ、先に副作用モニターによる情報に関して判示と同様の理由により、本症に関する情報が副作用情報として提供される可能性は殆んど期待できず、従つて、製造承認後の副作用報告中に本症に関する情報が入つてくることも殆んど期待できないからである。

(5) (国立病院等からの情報)

国立病院、国立療養所及び国立大学附属病院の医師らによる本症の症例報告等は、既に前記第三章四で概観したとおりであるが、これを整理すると、大略次のようになる(但し、昭和四六年まで。)。

(イ)(国立病院)

① 国立小児病院(文献A―41・昭和四三年、文献B―13・昭和四五年、文献A―67・昭和四六年)

② 国立東京第二病院(文献D―3・昭和四一年)

③ 国立姫路病院(文献B―3・昭和四二年)

(ロ)(国立療養所)

国立療養所久留米病院(文献A―10・昭和三五年)

(ハ)(国立大学附属病院)

① 東大(文献A―1・昭和二五年、文献A―3・昭二七年、文献A―9・昭和三二年、文献B―1・昭和四〇年、文献A―51・昭和四五年)

② 名大(文献A―15・昭和三七年、文献A―31・昭和四一年、文献A―40・昭和四二年、文献B―6・昭和四三年、文献B―9及びB―10・昭和四四年、文献A―62・昭和四六年)

③ 弘前大(文献A―17・昭和三八年、文献A―27・昭和四〇年)

④ 新潟大(文献A―19・昭和三八年、文献A―49・昭和四四年)

⑤ 北大(文献A―29・昭和四一年、文献B―8・昭和四三年、文献B―11・昭和四五年、文献C―3・昭和四六年)

⑥ 九大(文献A―50・昭和四四年)

⑦ 京大(文献B―4・昭和四三年)

⑧ 東北大(文献B―7・昭和四三年)

⑨ 信州大(文献A―38・昭和四二年)

(ニ)(その他)

① 東京逓信病院(文献A―5・昭和二七年)

② 大阪逓信病院(文献A―57・昭和四六年)

以上のとおりである。ところで、これら医療施設のうち、国立病院及び国立療養所は、厚生省医務局の監督下にあるが、国立大学附属病院は、文部省の、逓信病院は、郵政省の各監督下にあるのであつて、行政組織上、厚生大臣の直接の監督下にあるものではない。また、国立病院及び国立療養所についても、これらに対する医務局の監督は、厚生省組織令(昭和二七年八月三〇日政令第三八八号、但し、昭和三一年政令第六五号による一部改正前のもの)の下では、一般業務のほか予算、決算、会計、職員に関する事務等行政組織上の事項が主たるものであり(同令二八条ないし三一条)、この点は、昭和三一年政令第六五号による厚生省組織令の一部改正後、昭和四六年までの間で事態の変更がない。

そして、昭和四六年までの間にこれら国立病院等から本症その他筋拘縮症に関する報告が医務局ないし厚生省の関係部局に対して行なわれたことを認めるに足りる証拠はなく、また、昭和三一年政令第六五号により、医務局総務課の職務事項の一つとして、医療に関する調査を行なうこととされていたが、このような調査を、本症との関連で行なうべき状況にあることを示すような情報が医務局に伝達されていたことを認めるに足りる証拠はないところである。なお、これら大学附属病院等からの副作用情報収集を目的とした副作用モニター制度によつても本症の存在が把握できなかつたことは、前記のとおりである。

(6)(以上のほかの情報提供機関からの情報)

乙A第二三号証の一、二、第二三号証の三の二〇によると、昭和四七年三月の時点で、厚生省においては、右(1)ないし(5)以外に、WHO、外務省、都道府県、国立衛生試験所、JAPIC(乙B第七一号証の一、二によると、製薬企業各社の共同出資によつて設立された団体で、医薬品の安全性に関する内外の情報収集を目的としていることが認められる。)、製薬団体安全性委員会、医師会、薬剤師会から医薬品の副作用情報を入手することが可能であつたことが認められる。しかし、本件全証拠によつても、これらの機関から厚生省へ本症に関する情報が寄せられた事実は認められない。

(7)(一般的病理学的知見からの予見)

昭和四六年以前の時点において一般的な病理学上の炎症等に関する知見から本症の発生を予見することが極めて困難なことは既に被告奥田、同グレラン及び同武田の予見可能性について判示したところと同様である。従つて、注射による炎症、瘢痕化から本症を予見できたとする原告らの主張は失当である。

なお、原告らは、注射による神経麻痺等の事故に関する判決例が少なからずあり、それによつて注射の組織障害性を予見できた旨主張し、神経麻痺に関するいくつかの判決例を挙げており(請求原因一、4D(二)(1)(ロ))、このような判決例の存することは被告国との間で争いがないのであるが、仮りに、これらの判決例から注射による組織障害性を予見できたとしても、この予見から更に本症の発症まで予見することができたとすることが困難であることは右に判示したところと同様である。このことは、甲第二九号証、証人赤石英の証言によると、赤石が本症の存在を知つたのは、昭和四五年ころ、注射による医療事故(主として神経麻痺)について判決例を集めて調査するうちに、たまたま本症の症例報告と遭遇したことによるものであつて、神経麻痺の症例(医療事故)の存在から類推して本症の症例を探索したものではないことが認められることからも窺うことができる。

以上(1)ないし(7)からすると、右の各情報伝達経路並びに病理学上の一般的知見のいずれによつても、厚生大臣ないしはこれを補佐する厚生省職員において本症の存在及び本症の原因についての具体的情報に接することはなかつたし、通常の行政事務の遂行の過程で容易にこれを知り得るような状況もなかつたと認められる。従つて、厚生大臣において客観的な予見可能性を有し、かつ、一定の結果回避行為へと導くことができる程度の情報を取得するための調査行為は、原因不明のものも含め、医薬品と何らかの関係があることが疑われるあらゆる後顕的作用その他の疾患についての広範な原因究明行為とならざるを得ないのであるが、このような広範な一般的調査義務を条理上も認めることができないことは、先に判示のとおりである。

これらの諸点を綜合して勘案すると、結局、厚生大臣は昭和四六年末までの時点において、一定の結果回避措置としてのグレラン注に対する評価見直しと、これに基づく規制措置をとるべきことの前提となる注射と本症に関する予見には達していなかつたと結論せざるを得ない。従つて、原告らの、原告患児らの本症罹患は厚生大臣の安全性確保義務の懈怠によるものであるとの主張は採用することができない。

(五)(薬事法上の責任についてのまとめ)

(1)  医薬品の安全性につき、厚生大臣に前記各薬事法に基づいて、個々の国民に対する関係で同確保義務を認めることはできないが、条理上の義務としてはその成立を認めることができる。

(2)  グレラン注射液及びグレラン注の製造許可事項の変更許可時における調査に関しては、厚生大臣に義務違反のあつた事実は認められない。また、右許可から昭和四六年末迄の時点において、厚生大臣は、本症が乳幼児期の大腿部注射によつて発症することを予見する可能性はなかつたところ、本症が、注射剤の組織障害性を重要な要因として発症することがあることを予見するためには、注射に起因すると疑われるすべての後顕的作用に対する広範な一般的調査を要すると言うべく、医薬品の製造許可(承認)後に、このような調査をなすべき義務は認められず、従つて、本症と注射の関係を厚生大臣において予見できなかつたことについて、厚生大臣に義務の懈怠があつたとすることはできない。

3(医師法上の責任)

原告らは、厚生大臣に医師法二四条の二の医療に関する指示義務の懈怠があり、その結果、原告患児らが本症に罹患したのであるから、被告国は、国家賠償法による損害賠償責任を負うものである旨を主張しているので、次にこの主張について検討する。

(一)(指示義務の有無)

医師法二四条の二第一項は、「厚生大臣は、公衆衛生上重大な危害を生ずる虞がある場合において、その危害を防止するため特に必要があると認めるときは、医師に対して、医療または保健指導に関し必要な指示をすることができる。」と規定しているが、この規定の文言からは、厚生大臣の指示権限の存在は認められても、指示義務が存在することまで明確に規定しているとは解釈できない。

また、〈証拠〉を綜合すると、同条項は、次のような経緯で立法されるに至つたものであることが認められる。

(1) 医師法(昭和二三年法律第二〇一号)には、立法当初右規定は存しなかつたが、そのころ、輸血による梅毒感染事件が社会問題化する一方、従前の輸血取締規則が昭和二二年一二月末日で失効していたため、この点の立法の必要の有無について、昭和二三年一一月、第三回国会厚生委員会で討議された。

その結果、輸血に際しての事故防止を目的として、厚生大臣に医師に対する指示権を与えるのが適当であるとの結論に達し、これに基づき、医師法及び歯科医師法の一部を改正する法律(昭和二四年法律第六六号)により、医師法二四条の二が追加されるに至つた。

(2) 医師法二四条の二は、このように輸血による梅毒感染事件を契機に立法されたものであり、同条一項に基づく指示(告示の法形式をとる。)としては、その後昭和二七年六月二三日厚生省告示第一三八号「輸血に関し医師又は歯科医師が準拠すべき基準」が一件あるのみである。

なお、医師法の解説書等には、同法二四条の二の立法の経緯としてペニシリン・ショック事件等もあげられているようであり、現に、昭和三一年八月二八日医務局長薬務局長連名で医発第七四三号通知「ペニシリン製剤による副作用の防止について」が通達されているのであるが、これは同条項の指示ではない一種の行政指導であり、他にペニシリン・ショックを契機として同条項が追加されたことを認めるに足りる証拠はない。

(3) そして、同条二項には、「厚生大臣は、前項の規定による指示をするに当つては、あらかじめ、医道審議会の意見を聴かなければならない。」と規定しているが、同項が設けられた立法趣旨は、同条一項の指示が、基本的には個々の医師の裁量に任せられるべき医療等に対する重大な例外的措置である点及び指示違反に対する行政処分(免許停止等)に際しては医道審議会で審議が行なわれる点を考慮して、予め、指示について医道審議会の意見を聴取するのが適当であるとすることによるものである。

以上のように、医師法二四条の二は、当初の立法目的自体極めて限定されたものであつたのであり、また、指示権限の行使にも大きな制約が課せられ、この行使には慎重を期すべきこととされているのである。

このような条文の文言解釈、立法の経緯等からすると、厚生大臣が具体的な事項について指示権を行使するか否かは、幅広い裁量に委ねられているとともに、一定の手続的な制約の下にあるものと解するのが相当であるから、仮りに、厚生大臣の右裁量に違反があつても、裁量に反した不作為から損害賠償責任が生ずるのは、その前提として裁量の範囲を著しく逸脱し、それが違法と評価されてもやむを得ない状況に至つた場合であると解される。この点について、原告らは、厚生大臣においては極めて高度な医学水準に依拠して、そのような虞れの有無について絶えず注意を尽し、その虞れを認識した時は医師に対し適切な指示をする義務があると主張する。しかし、前記のとおり、厚生大臣の指示権はこのような積極的かつ高度な調査義務を前提とするものと解されないから、原告らの右主張は採用できない。

(二)(指示権行使の要件)

(1) このようにみてくると、厚生大臣に右指示義務が顕在化し、その行使を義務付けられるには最小限度次の要件が備わることを要すると解すべきである。

(イ) 国民多数の生命や健康に対する危害が生ずる可能性が極めて大きく、これを放置することができない緊急の事態にあり、このことを厚生大臣が認識していること。

(ロ) そのような事態を排除するには医師に対する指示が最善の行政手段であること。

そこで、このような要件の有無について、検討するに、ここでいう具体的な危害とは、本症の広範かつ大量の発生という事態であるところ、前記第三章四1ないし33で認定の事実によると、昭和三八年ころには伊東市において本症の集団発生があつて、東大整形外科の医師らによる調査が行なわれ(その結果の詳細が発表されたのは昭和四五年五月である。)、昭和四一年には、一部の研究者から大腿前面部注射の危険性が強く警告され、また、このころから、本症の罹患者数が著しく増加し、昭和四三年には、ハーゲンの報告(文献E―8)により注射剤の組織障害性と本症との関係が指摘され、昭和四四年には、福井県今立町で本症が集団発生して、同四五年にはそのことが福井県内では広く報道され、鯖江市医師会等による調査が行なわれており、更に、本件証拠に現われた文献上の本症の報告症例数も、昭和四〇年には約一〇〇例(但し、一部先天性説の分は除く)を同四五年には約三〇〇例を、同四六年末には約四〇〇例を超えるに至つた。これらのことからすれば、客観的には遅くとも昭和四五年ころには、本症の広範かつ大量の発生により、国民多数の健康被害が強く危惧される事態にあつたと言うことができる。

(2) しかしながら、前記九2(四)での認定事実によれば、厚生省医務局及び薬務局に対し本件責任判断の基準時である昭和四六年末までの間に、福井県今立町における集団発生例を含む本症に関する情報が伝達されたことを認めることはできないところである。なお、「注射の功罪」(文献F―30)によると、昭和四五年六月に鯖江市医師会内に設けられた「大腿四頭筋短縮症特別委員会」の構成員に鯖江国立病院及び福井県立病院の医師も含まれていたことが窺われることからすると、仮りにこれら医師が国立病院を監督する医務局へ今立町における集団発生の事実を報告していたとすると、同局においてこの事実を知ることができた可能性を肯定する余地は全くないわけではない。しかし、現実にはこのような報告があつたと信ずべき根拠はなく、また、鯖江市医師会の覚書(文献A―73)によれば、同医師会による検討結果が明らかにされたのは、早くとも昭和四七年以後と推認される。

また、医師法二四条の二の指示とその所管事務が密接に関連する公衆衛生局の職務事項及び同局における情報収集等について検討すると、厚生省組織令(昭和二七年政令第三八八号・但し、昭和三一年政令第六五号による一部改正後のもの)により、公衆衛生局には、企画課、栄養課、保健所課、結核予防課、防疫課、精神衛生課、検疫課が置かれたほか、環境衛生部に環境衛生課、水道課、食品衛生課が置かれており、このうち、企画課の職務事項は、公衆衛生行政に関し、総合的企画及び調査並びに調整を行なうこと、予防衛生の研究に関することその他であり、保健所課の職務事項は、保健所法(昭和二二年法律第一〇一号)の施行に関すること等であつたが、昭和四六年までの間に、同局の監督下にある保健所その他の行政機関を通じて、同局に本症に関する情報がもたらされたことを認めるに足りる証拠はない。そして、同局へ入つた情報としては、乙A第八一号証によつて、昭和四八年九月二〇日付の公衆衛生局保健情報課長の「不明疾患等による健康被害発生時の通報について」と題する通知に基づき(同通知が発せられたことは被告国との間で争いがない。)、同年一二月福井県厚生部から同県「あかり整肢園」で受診した四八名の本症患児につき報告された事実が認められるに過ぎない。

(三)(医師法上の責任についてのまとめ)

以上のように、本件においては、医師法二四条の二の「公衆衛生上重大な危害を生ずる虞」の存したことは認められるものの、厚生大臣の指示義務発生の前提となるこの虞のある事態についての認識が、昭和四六年の末迄の時点で、厚生大臣にあつたとは認められないことからして、結局、原告らの厚生大臣における指示義務違反の主張は採用できない。

4(被告国の責任についてのまとめ)

以上検討してきたところによると、厚生大臣には、医薬品の安全性確保義務の点においても、また医師法の指示義務の点でも義務懈怠があつたとは認められないから、これらの点につき被告国には、国家賠償法上の責任を認めることはできない。原告らは、右国家賠償法上の責任と併せて、被告国の民法上の責任も追及しているが、国家賠償法は民法の不法行為規定に対する特別法であるから、国家賠償法の適用領域においては、民法七〇九条の適用は排除されると解すべく、従つて、原告らの右主張は理由がない。

一〇共同不法行為

1(レスミンによる影響と責任範囲の問題)

原告患児らのうち、原告武司、同広志、同寿孝及び正文については、グレラン注のほか、被告奥田によつて投与されたレスミンの影響による本症罹患の可能性も否定できないことは、前記第六章で認定したとおりであり、また、レスミンの製造者等が特定して認定できないことは、別紙注射状況表〔略語〕欄のとおりであるから、被告グレラン及び被告武田の責任の範囲を検討するに当たり、このレスミンによる影響をどのように評価すべきかが問題となる。しかるところ、グレラン注とレスミンのいずれもが、単独ででも右四名の原告患児らに対する加害薬剤となり得る蓋然性が極めて高く、しかも、このほかに右患児らの罹患に影響を与えたと考えられる薬剤もないのであるから、グレラン注の製造・販売に関し、被告グレラン及び被告武田が、既に認定のように、それぞれ独立して不法行為の要件を備える以上、右両被告は右原告患児らの被つた全損害についてその賠償の責に任ずべきである。

2(被告奥田、同グレラン、同武田の各責任の関係)

被告奥田は、原告毅、同めぐみ、同武司、同博之、同和樹の各本症罹患について、被告グレラン及び被告武田は、原告守孝を除くその余の原告患児らの本症罹患について、それぞれ責任を負うべきであると認められるところであるが、原告らは、右各被告が共同不法行為者として連帯責任を負うべきである旨を主張しているので、この点について判断すると、被告奥田の過失と被告グレラン及び被告武田の過失とは、当該注意義務の態様が異なり、前者は、医師としての医療行為における調査義務等の懈怠を、後の両者は、製薬会社として医薬品の後顕的な副作用の調査研究義務と、これに引続く安全性に関する指示警告義務の懈怠を内容とするものであつて、相互に共同加功の関係は認められない(単に事実的因果関係において連鎖が認められるに過ぎない)のであるから、被告奥田の本件行為と被告グレラン及び被告武田の本件各行為との間に共同不法行為は成立しない。しかし、これら各被告の賠償すべき金額は重複することになるから、被告奥田と被告グレラン、同武田の各賠償債務とは結局不真正連帯の関係にたつと解される。

しかし、被告グレランの過失と被告武田の過失は、同一の薬剤についての同一の内容の調査研究義務及び指示警告義務の懈怠を内容とし、両者はこれを製造販売するという相互に密接不離な行為を連続しているのであるから、被告グレランと被告武田の間には共同不法行為が成立し、両者の責任は、不真正連帯の関係にあると解するのが相当である。

第八章  損害

一総説

1(本症による被害)

前記第三、第四章で認定のとおり、大腿四頭筋拘縮症と称される疾患は、主として大腿四頭筋その他大腿部の組織の全部または一部が線維化、瘢痕化その他の重大な損傷を受けた結果、股関節または膝関節の一方または双方に運動制限ひいては各種の二次的な機能障害をもたらす整形外科上の疾患である。従つて、本症に罹患した場合、大腿組織に直接的な被害が生ずるばかりでなく、正座不能、歩走行異常等の種々の生活障害(ADL障害)が生ずることもある。また、これらの肉体的な被害のために、罹患者自身の精神に大きな不安がもたらされるばかりでなく、学童、生徒に対しては、健常者との差別等による屈辱感その他の二次的な精神的負担を抱かせることもある。そして、本症に対する治療としての手術は後記のようにその治療成績が相当に向上してきたとはいえ、手術それ自体が新たな身体への侵襲であり、証人後藤隆の証言によると、手術後の筋力低下等の原因により、学業を終えて社会生活に入つてからも諸々の影響を受けることも予測される。このように本症による被害は、肉体的、精神的及び社会的な領域にまでまたがるものである。

しかしながら、本症における機能障害は必ずしも不治または難治であるとは言えない。即ち、本症の罹患者で自然治癒例、保存療法による治癒改善例が決して少なくないことは前記第三章四で摘示の文献等でも報告されているとおりであり(再発例の少なからぬ部分に、術後の後療法の懈怠、術式自体の不適切等に起因する再癒着等がある。)、また、原告患児らでも、右脚について自然治癒した例、左脚について手術によりほぼ治癒した例があることは前記第五章で認定のとおりである。そして、この治癒の可能性は、個々の罹患者によつて異なると考えられる。

従つて、本症による被害については、以上の各要素を総合的に検討するとともに、個々の罹患者の具体的被害状況及び治癒改善の可能性等をも個別的に評価する必要があり、その意味で、原告らの主張する損害賠償の一律請求は合理性を欠くところである。なお、甲第二〇一号証(文献F―53)、証人後藤隆の証言によれば、本症の被害が各患児ら被害者の全人格にまで影響を及ぼしかねないものであることが認められるのであるが、このことからは、各被害者の本症の被害の全体性、包括性を軽視することの適当でないことを窺わせるとはいえ、被害者の症状、機能障害が個々人により異る以上、各患児の損害が同質かつ同量で一律に評価されるべきであるとの結論までは帰結できないと考えられる。従つて、右の後藤隆の証言等も、原告らの主張する一律請求を十分根拠づけるものではない。

2(制裁的慰謝料の主張について)

原告らは、本件損害による慰謝料請求に当り、本件被害の特質等を根拠に、被告らに対する制裁として、可能な限り多額の賠償額の支払を求める旨を主張しているので、この点について判断する。

一般に慰謝料額の算定に当り、加害行為の態様、被害の程度等を考慮すべきことは当然であるが、民事・刑事の責任を分離し、前者は主として損害の填補を担当し、後者は主として法益侵害に対する制裁を担当すべきものとするのが近代法制の理念であり、特に国家による制裁には必然的に個人の道徳的価値判断に迄司法が介入することになることからして、刑事裁判手続ほどに当事者に対する人権保護のための規定が整つていない民事裁判手続に基づいて、被告らに制裁を目的とした慰謝料の支払を命ずることは、著しく合理性を欠くものと解さざるを得ない。なお、慰謝料額算定に当つて故意の有無等種々の要素が勘案されるのは、結果的にそれによつて被害者の被つた精神的損害の質、量等が異なると考えられるからであつて、決して制裁的要素が加味されるからではないと解されるところである。

従つて、原告らの制裁的慰謝料の主張は採用できない。

3(原告両親らの損害について)

原告両親らは、原告患児らの本症罹患によつて著しい精神的苦痛を被つたと主張して、その損害の賠償を求めているので、この点について判断する。

まず、一般に、第三者の不法行為によつて身体に損害を受けた者の両親は、そのために被害者が生命を害された場合にも比肩すべき、または、右場合に比して著しく劣らない程度の精神上の苦痛を受けた時に限り、自己の権利として慰謝料を請求することができるものと解するのが相当である。原告らは、民法七一〇条、七一一条の解釈に関し、これと異なる法律的見解を主張するが、にわかに左袒できない。しかるところ、前記第五章で認定の各事実に併せ、原告猪飼靖子、同荻本孝子、同奥村祐子、同北岡里子、同内木洋子、同西澤紘子、同濱口倭文子、同濱嶋成子、同福島峯子及び同諸岡秋子各本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨を綜合すると、原告守孝を除くその余の各原告患児らの原告両親らが、いずれも、同患児らの本症罹患によつて、罹患自体についての驚愕、治療及び治癒の可能性についての不安や負担、同患児らと学校の同級生等他の健常者との間の運動能力の較差及び日常生活における同患児らのADL障害を目の当りにしての心理的動揺、原告両親ら自らが同患児らを被告奥田の下で受診させグレラン注の大腿部注射を受けさせたことに本件の発端が存することについての悔恨等、種々の精神的苦痛を被つてきたものであることが認められるところである。

しかしながら、右に認定の原告両親らの精神的苦痛その他本件証拠に現われた全事情を最大限に斟酌してもなお、原告両親らの被つた精神的苦痛が、原告患児らが生命を害された場合に比してこれに劣らない程度のものであると評価することは困難である。特に後記認定の日本整形外科学会の手術に関する提言等にも指摘されているとおり、本症は、未だ完全な手術法等が確立されていないにしても決して改善不可能な疾病ではなく、このことは現実に前記第五章で認定のとおり、原告患児らの多くも手術等によつて症状に改善が見られているのであるから、本症という疾患自体が生命侵害と比肩すべき程度の重疾患であるとは認められないばかりでなく、右に認定の原告両親らの精神的苦痛も、長期間にわたる関節疾患、その他の疾病に通常随伴するものと特段に異質なものとは考えられないところである。従つて、原告両親らの本件各損害賠償請求はいずれも認めることができない。

二具体的損害

原告患児ら(原告守孝を除く。以下同じ。)は、本件各慰謝料請求の内容として、過去及び将来の身体的損害及び精神的損害の全体を包括的に評価すべき旨を主張しているが、前記本章一1で判示の本症による被害の複雑性に鑑みると、各原告患児らごとにその損害を包括的に算定することもあながち不当ではない(但し、一律請求が合理性を欠くものであることは先に判示のとおりである。)から、原告らが損害額の算定に関し、この方法を選択した以上、これに従つて、検討すべく、そこで、まず、この包括的評価の前提となる各患児の具体的損害の内容について考察する。

1(身体的損害)

原告患児らの症状の態様、程度及び罹患後の経過等は、いずれも前記第五章で認定のとおりであるが、これをまとめると、次のとおりになる。

(一) 原告毅

(1)(尻上り角度)

一〇歳時に最悪で四二度、本件口頭弁論終結時に最も接着した計測時である昭和五八年四月二日には七〇度まで軽減。

(2)(膝関節屈曲制限)

なし。

(3)(手術)

一回(三歳時)

(4)(主な生活障害)

歩行・走行やや異常。

(二) 原告めぐみ

(1)(尻上り角度)

二歳時に最悪で一八度、本件口頭弁論終結時に最も接着した計測時である昭和五八年四月二日には二〇度。

(2)(膝関節屈曲制限)

九歳児に最悪で一二三度、一五歳時には一三〇度。

(3)(手術)

なし。

(4)(主な生活障害)

正座不能、歩行・走行異常。

(三) 原告武司

(1)(尻上り角度)

悪化傾向にあり、本件口頭弁論終結時に最も接着した計測時である昭和五八年四月二日には三〇度。

(2)(膝関節屈曲制限)

なし。

(3)(手術)

一回(三歳時)

(4)(主な生活障害)

正座困難(どうにか可能)、歩行・走行異常。

(四) 原告裕一

(1)(尻上り角度)

術前三五度。

術後、悪化傾向にあり、本件口頭弁論終結時に最も接着した計測時である昭和五八年四月二日には二五度。

(2)(膝関節屈曲制限)

一四歳時に一四〇度。

(3)(手術)

一回(三歳時)

(4)(主な生活障害)

正座不能、歩行・走行異常。

(五) 原告隆仁

(1)(尻上り角度)

術前、一二歳時に最悪で二五度。

術後、本件口頭弁論終結時に最も接着した計測時である昭和五八年四月二日には一〇五度。

(2)(膝関節屈曲制限)

術前、一一歳時に最悪で一二六度。

術後、なし。

(3)(手術)

一回(一二歳時)

(4)(主な生活障害)

術前、しやがみこみ不能。

術後、走行やや異常。

(六) 原告和樹

(1)(尻上り角度)

術前、一五歳時に最悪で一五度。

術後、再悪化の傾向にあり、本件口頭弁論終結時に最も接着した計測時である昭和五九年五月一三日には四八度。

(2)(膝関節屈曲制限)

なし。

(3)(手術)

一回(一五歳時)

(4)(主な生活障害)

術前、しやがみこみ異常(やや前傾姿勢となる。)。歩行・走行異常。

術後、不明。

(七) 原告博之

(1)(尻上り角度)

術前、四歳時及び八歳時に最悪で二〇度。

術後、本件口頭弁論終結時に最も接着した計測時である昭和五八年四月二日には一四〇度。

(2)(膝関節屈曲制限)

なし。

(3)(手術)

一回(一一歳時)

(4)(主な生活障害)

なし。

(八) 原告広志

(1)(尻上り角度)

術前、三〇度。

術後、悪化傾向にあり、本件口頭弁論終結時に最も接着した計測時である昭和五八年四月二日には二五度。

(2)(膝関節屈曲制限)

なし。

(3)(手術)

一回(六歳時)

(4)(主な生活障害)

正座困難(どうにか可能)、歩行・走行異常。

(九) 原告寿孝

(1)(尻上り角度)

第一回手術前、一〇度。

第二回手術前、一〇歳時に最悪で二四度。

第二回手術後、不明。

(2)(膝関節屈曲制限)

第二回手術前、一四歳時ころに最悪で一二五度。

第二回手術後、不明。

(3)(手術)

二回(五歳時及び一五歳時)

(4)(主な生活障害)

第二回手術前、正座不能、歩行・走行異常。

第二回手術後、不明。

(一〇) 原告正文

(1)(尻上り角度)

第二回手術前、九歳時に最悪で二四度。

第二回手術後、異常なし。

(2)(膝関節屈曲制限)

第二回手術前、一三歳時に一四〇度。

第二回手術後、なし。

(3)(手術)

二回(四歳時及び一三歳時)

(4)(主な生活障害)

第二回手術後、なし。

2(精神的損害)

右1で判示の各事実からすると、原告患児らがそれぞれの症状等に応じて本症罹患自体から精神的苦痛を被つたこと、その後の経過においても、手術に伴う肉体的苦痛を含め、様々な精神的損害を被つたことが認められるところであるが、原告患児らの精神的損害を検討するに当つては、このほか、次の個別的な各事情も参酌されるべきである。

(一) 原告毅

原告猪飼靖子本人の尋問の結果によれば、原告毅は、昭和四八年一〇月に手術を受けた後、症状軽快を見たが、その後やや症状が悪化し、水泳(平泳)や正座の際に出尻となり、脊柱もやや彎曲してきたこと、検診の受診や再手術等に強度の恐怖心を抱いていること、しかし、幼稚園児のころには徒競争で相当の差で最下位だつたものの、小学校高学年ころには普通程度の順位になり、中学一年現在、バスケットボール部に入部していることが認められる。

(二) 原告めぐみ

原告荻本孝子尋問の結果によれば、原告めぐみは、運動が好きで、中学生現在、バスケットボール部に入部しているが、練習により足が痛むために練習の継続が困難であり、長距離走行も困難であること、膝関節屈曲制限のためにしやがみ込みが困難であり、用便の際等に支障があることが認められる。

(三) 原告武司

原告奥村祐子本人尋問の結果によれば、原告武司は、昭和四八年一〇月の手術後、多少症状の改善が見られたが、その後次第に悪化し、歩走行時の跛行を同級生等から指摘されるようになり、小学校低学年のころには、遠足または運動の後等に足の痛みのため夜自分でマッサージするような状態であつたこと、小学校六年生のころに急に症状が悪化したことが認められる。

(四) 原告裕一

原告北岡里子本人の尋問の結果によれば、原告裕一は、手術後のケロイド様の手術痕を引つかかれる等して小学校四年生ころまでいじめられ、そのために半ズボンをはけなかつたこと、また、運動会等の集団競技で他の者と歩調を合せることができないため同級生からいじめられたこと、水泳でも他の者から格好が悪いと言われて泳がなくなつてしまつたこと、その後、小学校高学年ころからは走行も上手になり、二キロメートル程度のマラソンも可能となつて、中学では、バスケットボール部に入部して、かなり激しい練習にも耐えられるようになつたこと、しかし、膝関節の屈曲制限のために和式便器での用便に困難があることが認められる。

(五) 原告隆仁

原告内木洋子本人尋問の結果によれば、原告隆仁は、走行が遅く、かつ、真直ぐに走れない等のために小学校四年生ころには同級生から仲間外れにされ、また、膝関節屈曲制限のため、和式便器での用便が困難な状態であつたこと、しかし、手術後は、階段昇降時の歩行異常等を除き、症状の大幅な改善が見られたことが認められる。

(六) 原告和樹

原告西澤紘子本人尋問の結果によれば、原告和樹は、体育の授業や運動会等足を普段よりも使用した後には右足の痛み(左足をかばうためと推測される。)を訴え、マッサージを要する状態であつたこと、そのために、学校生活やボーイスカウトでも自分でマッサージをしていることについて様々な誤解を招いたり、小学生のころ教師から小児麻痺に罹患したのかと尋ねられたりしたことがあるほか、用便に際しても困難があつたことが認められる。

(七) 原告博之

原告濱口倭文子本人尋問の結果によれば、原告博之は、脊柱の彎曲がS字状になるような状態にも拘らず、小学校低学年ころには、走行はむしろ速い方であつたこと、しかし、その後、次第に走行が遅くなり、左足の外分回し等を同級生から笑われる等したため、運動に対して消極的となり、水泳でも平泳ぎの際の尻上りを笑われてこれを止めたこと、また、小学校低学年ころ、通学の際に歩行が遅くなると後ろの子供に蹴とばされるような状況であつたこと、手術後は、運動制限は少なくなつたが、脊柱の彎曲は残存し、また、運動に対しては消極的なままであることが認められる。

(八) 原告広志

原告濵嶋成子本人尋問の結果によれば、原告広志は、手術後、約一年間リハビリテーションを受けたが効果が上らず、平泳ぎが困難であるほか、左足が自由に屈曲しないために木登りや、高跳びがうまくできず、そのために生傷も絶えなかつたこと、走行姿勢の異常等を気にして運動に対して消極的であることが認められる。

(九) 原告寿孝

原告福島峯子本人の尋問の結果によれば、原告寿孝は、第一回目の手術前、脊柱がS字状に彎曲する状態であつたが、手術後も大きな症状改善が見られず、手術直後から担当医師から再手術の必要性を示唆されたこと、その後、歩走行の後等に足の痛みが強く、走行姿勢にも異常があるため、ソフトボールや卓球の際等に同級生からいじめられたこと、そのために運動に対して消極的になつたこと、しかし、手術に対する恐怖心等から再手後を延ばしてきたことが認められる。

(一〇) 原告正文

原告正文は、症状がほぼ治癒しており、この点は第五章で認定のとおりであるが、原告諸岡秋子本人尋問の結果によれば、原告正文は、第一回目の手術直後には症状も快癒したが、術後二年目ころから走行時の異常が目立ち始め、小学校高学年ころには走行速度が著しく劣るようになり、体育の授業のある日は登校を嫌がるようになる等、運動に対して消極的となり、また、姿勢も次第に悪くなつたこと、そのために、早期の再手術を強く切望するようになり、第二回目の手術を受けるに至つたことが認められる。

三損害に対する評価

1(参酌すべき事項)

原告患児らの具体的被害は、右に認定のとおりであるが、これに対する金銭的評価に当つては、右事実と第五章で認定の現在の症状に至る迄の症状の変遷のほか、特に、次の諸事項を重視すべきである。

(一)(治癒改善の可能性について)

(1) 証人村上寶久、同森谷光夫の各証言、甲第二〇四号証並びにこれ迄の認定事実によると、本症に罹患した患児らに対する治療としては、保存的治療としては、マッサージ、徒手矯正、器械矯正、機能訓練、各種理学療法が施されてきたほか、比較的重症者には手術的治療(観血的療法)が行なわれてきたことが認められるのであるが、代償機能の発達による自然的改善の可能性を含め、本症の将来にわたる治癒改善の可能性については現時点においても完全な見通しがたつているわけではない。

即ち、証人村上寶久は、二次変形をきたして悪化する事例もないではないが、概して患児の成長とともに機能障害は軽減する傾向にあるとして楽観的な見解を証言しているのに対し、証人森谷光夫は治療成果についても悲観的な証言をしているほか、前記第三章四の文献でも初期のもの程、手術を含めて治療効果の少ないことを報告しているものがみられるところである。

(2) そこで、手術療法に関する日本整形外科学会の見解を暼見すると、次のとおりである。

(イ) 日本整形外科学会筋拘縮症委員会は、昭和五一年の第四九回日本整形外科学会総会において、最初の調査報告を発表したが(文献F―23)、そのうち治療法及び手術に関する部分の要旨は、次のとおりである。

大腿四頭筋拘縮症の治療法について、全国の大学病院整形外科、育成医療機関その他計二六八施設にアンケート調査を行ない、一六七通の回答を得た(回答率62.3%)。この集計結果を踏まえ、各委員の経験と意見を基にして、治療法の細目について検討した。

①(手術時年齢)

アンケートでは三ないし一〇歳が八一%、そのうち三ないし五歳が五八%であるが、委員会の意見では、直筋型では学童期すなわち五ないし六歳から一〇歳の間が適当、但し、広筋型ではそれより多少早い方がよかろうという結論を得た。

②(手術適応)

アンケートでは、直筋型では尻上り角度四五度以下が六〇%、三〇度以下が三〇%であるが、委員会の意見では、三〇度以下の高度制限例に手術を行なうべきであるという。広筋型では股屈曲時の膝屈曲角度が九〇度以下のものが手術対象となる。混合型では上の二者に準ずる。

歩容異常(外振り歩行、跛行、転び易い等)及び正座障害、ことに前者は適応決定に大きなウエイトを占める。

③(手術方法)

アンケートの結果は、直筋型に対しては、起始部の切離または延長とこれに周囲筋剥離を加える術式が圧倒的に多い(七五%)。しかし、この方法では再発率が高い。これに対し、筋腹部の瘢痕の切除(あるいはこれに起始部切離を加える。)及び拘縮筋膜を切離する笠井、保坂、坪田らの成績はよい。広筋型の手術例は少ないので結論は出せないが、中間広筋を二ないし三cm切除し、更に外側広筋の腱膜を切離する保坂の手術成績は良いようである。混合型に対しては、まず直筋型の手術を行なう。これだけで正座も可能となる例が多いが、不可能なものは後に広筋型の手術を追加する。

(ロ) 乙B第四二号証によると、昭和五四年四月二〇日、同委員会は「大腿四頭筋拘縮症の病型と手術に関する提言」を発表したことが認められるところ、これは日本小児科学会筋拘縮症委員会報告書(文献A―99)に引用されており、その要旨は次のとおりである。

① 大腿直筋型に関しては、原則として尻上り角度が三〇度以下のものを手術対象とする。

② 広筋型に関しては、原則として膝関節の屈曲角度が四五度以下のものを手術対象とする。

③ 混合型に関しては、原則として大腿直筋型と同様に尻上り角度が三〇度以下のものを手術対象とする。

④ 幼児期における手術は原則として避けるべきである。しかし、成長に伴つて膝関節の二次的変形が少しでも生じた場合(広筋型)には、早期に手術を行なう必要がある。

⑤ 手術は患児および保護者の意志を十分尊重し、かつ慎重に決定すべきである。なお日常生活動作上の障害程度も考慮する必要がある。

⑥ 本症の治療は手術的療法のみでないことは勿論である。

(ハ) 昭和五五年、同委員会は、昭和五〇年以来五年間にわたる調査検討を総括し、筋拘縮症全般にわたる報告(第五報)を発表したが(文献F―51)、このうち、手術に関する部分の要旨は、次のとおりである。

①(直筋型及び混合型大腿四頭筋拘縮症)

混合型の手術も直筋型の手術に準じて行なえば、よい。手術は、尻上り角度に関しては三〇度以下のものを適応とすることが望ましく、ADL上の障害程度を十分考慮する必要がある。年長例では、下肢痛、腰痛を伴うことが多く、評価の項目に加えられるべきである。幼児期の手術は避けるべきであり、ADL上の障害及び心理面への影響が許せるうちは可及的に成長を待つて、手術することが望ましい。手術法については、筋腹部の手術が合理的と考えられる。

混合型では、膝の屈曲制限の原因となつている外側広筋と中間広筋の瘢痕化、あるいは大腿直筋との癒着を確認し、それらを剥離ないし切離する。

②(広筋型大腿四頭筋拘縮症)

報告例が少なく、しかも様々な手術が行なわれている。膝屈曲角度四五度以下のもので成績が悪い。しかし、良好と思われる症例でも完全屈曲となつているものは少ない。従つて、膝屈曲角度四五度以下の重症例を手術対象とするのが妥当と考えられる。

広筋型が難治性であることは言うまでもなく、手術手技、後療法に一定の様式を見つけることが難かしい。

(ニ) 同委員会による調査は、その後も行なわれたようであり、昭和五八年には、第八報として、手術に関する提言の妥当性を検証する目的で行なわれた追跡調査結果が報告されたが(文献F―54)、その要旨は、次のとおりである。

(大腿四頭筋拘縮症について)

① 症例数は、一五七例(一八三肢)、男女別は男九〇例、女六七例、患肢別は右六七例、左六五例、両側二六例、病型別は直筋型九二肢、混合型七五肢、広筋型一六肢で、経過年数は手術後一年ないし八年である。

② 直筋型、混合型では、筋腹部の手術により良好な成績が得られたが、手術時年齢一〇歳以下の例では再発の傾向を示すものが多かつた。患児のADL障害及び心理面への影響が許せるなら、成長終了後に手術をした方が良い。

③ 広筋型では、術前の膝屈曲角、年齢が予後を左右し、未だ難治性の感を拭い得ない。

(3) ただ、飯田鴎二ら(文献F―55)は、手術の目的は、尻上り現象の消滅ではなく、ADL障害の除去であるとして、ADL障害の持続による患児らの心理面への影響を考慮すると、早目に手術に踏み切るべきである旨の見解を示しているほか、直筋型では大腿前外側に手術瘢痕が残るが、注射により筋肉の最も瘢痕化した部位にメスを加え、的確な後療法を行なえば機能の改善が得られる見通しがついたものの、一方、正座が全く不能で歩容も悪い広筋型、混合型の重症患者の治療法の決め手はなく、今後これら患児の救済法は難題であると指摘している。

(4) なお、桜井実ら(文献F―48)は、メッシュ切開という特殊な療法により、本症に対する手術方法として良い結果を得た旨を報告しているが、他にこの療法を応用した手術例は、本件証拠上見当らず、その成績等を単純に評価することはできない。

(5) このようにみてくると、直筋型に対する手術療法は、ほぼ確立されたと言えるが、広筋型及び混合型に対する手術療法は、現在なお確立されたとは言い難い状況にあり、また、直筋型に対する療法のうち大腿直筋起始部切離術は、比較的効果が少ないことが確認されているようである。しかし、その治療成績が、一段と向上してきていることは明らかで、特に直筋型患児の一般的な治癒可能性は、混合型患児のそれよりも格段に大きいと考えられる(なお、直筋型である原告広志の術後成績が良くないのは、直筋起始部切離術を受けたに止まることに起因する可能性を否定することができない。)のであるが、他の病型の筋拘縮症の治療法は完全には確立されておらず、治療法がほぼ確立されたものについても、長年月経過後の遠隔成績は今後の長期にわたる観察を要するところである。とはいえ、これ迄認定してきたように、手術療法の進歩とともに、原告ら患児の中にも、ほぼ完治した例があるほか、昭和五〇年代に手術を受けたものについては概してかなりの改善をみていることからすると、その先行きについては、決して悲観視すべきものではない。

(二)(ADL障害)

本症罹患患児の障害度を客観的に表示する数値としては、一応、尻上り角度と膝屈曲制限角度が考えられる。しかし、証人村上寶久の証言によると、これらの数値も計測者によつてある程度の誤差は避け難いことが認められるのであるが、この点は措くとしても、右証言のほか、証人若松英吉の証言、飯田鴎二らの報告(文献F―55)、関寛之の報告(第四章五5(一))によれば、これらの数値は必ずしも日常生活動作制限とも言うべき、いわゆるADL障害とは一致しないことが認められる。また、膝蓋骨高位も、それが極端な場合には、膝蓋骨脱臼という重篤な疾患を起すことは、前記第三章三1(一)(5)で判示のとおりであるが、その程度にまで至らない場合には、単に大腿部組織の緊張の程度を示す一つの指標に過ぎず、この点は、腰椎前彎でも同様である。ただ、これらが著明に認められる場合には、これらが認められない場合に比して、大腿部組織の障害の程度及び範囲が比較的大きい可能性を示唆するに過ぎない。

このため、甲第一二号証によると、根岸照雄らは、障害度評価の基準として、「尻上り角度、跛行の程度、正座の難易性」(文献A―51)を、乙B第三一号証によると、日本整形外科学会大腿四頭筋拘縮症委員会では「股関節伸展位での膝屈曲角度、歩行・走行・正座」をそれぞれ取り上げていることが認められる。

そこで、本件では、客観的に観察できる正常な歩行・走行及び正座の可否を中心としたADL障害に基づいて障害度を評価するのが相当であると考える。ただ、尻上り現象及びこれと同じメカニズムで生ずる出尻等の現象が患児らにとつて精神的な負担となつていることは、先に原告患児らの精神的損害の検討において判示したとおりであるから、これらも付随的に考慮の対象とする。

(三)(手術経験)

本症治療のためとはいえ、前記の手術が幼児期あるいは少年期の児童にとつては大きな肉体的苦痛であり、しかも、手術では長期の入院生活を余儀なくされることや、必然的に手術痕が伴うことから、手術を受けることによる患児の精神的苦痛が甚大であることは推認するに難くなく、このことは、また原告でもある原告患児らの母親の各本人尋問の結果(但し、原告荻本孝子を除く)からも窺うことができるところである。

しかも、前記のとおり、昭和四〇年代の手術については、手術の時期、適応、手技についての基準も完全には確立されておらず、その結果も必ずしも良好でなかつたことから、再度にわたつて手術を受けた患児もあるのが実情である。

これらの諸点からすると、原告めぐみを除くその余の原告患児らが手術に際してうけた苦痛は決して看過できないと言うべきである。

2(金銭的評価)

(一) 原告患児らの本件損害に対する金銭的評価にあたつて特に重視すべき点については、前記のとおりであるから、これにこれ迄認定してきた原告患児ら個々の事情を加えて検討する。

なお、原告寿孝については、既に認定のとおり本件口頭弁論終結の直前に第二回目の手術を受けたのであるが、この手術による症状改善の程度は本件証拠上不明である。しかし、これにより相当に改善をみたであろうことは、近時の手術が技法も向上し従前より格段に好成績をあげていることや、比較的最近において手術を受けた原告博之、同隆仁、同和樹、同正文の事例に照らすと優に推測することができるところである。また、原告めぐみは、手術を受ければ、症状の改善が見込まれるにも拘らず手術を受けていないため、先に判示のように軽視できない症状を呈しているのであるが、同原告が女性でかつ思春期にあること等の事情に鑑みると、このことから同原告の損害を低く評価することは相当でない。

(二) 以上によれば、原告患児らの損害の程度は、大要三段階に分れると認められ、これに対する金銭的評価額は次の金額が相当と思料される。

なお、原告患児らの中には、右大腿部についても本症に罹患した者のあることは、前記第五章で認定のとおりであるが、原告患児らは、左大腿部の本症罹患についてのみ限定して慰謝料の請求をしているので、右大腿の損害の点は、慰謝料額算定上、考慮しないこととする。

(1) 原告毅、同隆仁、同博之、同正文各金五〇〇万円

(2) 原告めぐみ、同和樹、同広志、同寿孝

各金六〇〇万円

(3) 原告武司、同裕一

各金七〇〇万円

四弁護士費用

本件訴訟における事案の内容、訴訟遂行及び立証の難易その他諸般の事情を考慮すると、弁護士費用の金額は、原告ら請求のとおり各原告患児らについて認容すべき慰謝料額の一割に当たる金額が、本件被告奥田、同グレラン及び同武田の各不法行為と相当因果関係のある損害額であると認めるのが相当である。

五遅延損害金

1(慰謝料に対する遅延損害金)

本件原告患児らの慰謝料は、各患児の過去及び将来の損害を本件口頭弁論終結時において包括的に評価して算定されたものである以上、債務者が遅滞の責めに任ずるのは右の時点であると解すべく、従つて、この慰謝料に対する遅延損害金の発生時期は、本件口頭弁論終結日である昭和五九年九月一四日である。

2(弁護士費用に対する遅延損害金)

弁護士費用は、不法行為時においてその請求権が発生するものと解されるところ、原告患児らは、これに対する遅延損害金の支払を本件訴状送達の日の翌日から求めているので、本件各被告における右遅延損害金請求権の発生時期は、次のとおりとなる(なお、各被告に対する本件訴状送達日は、本件記録上明らかである。)。

(一) 被告奥田

訴状送達日昭和五二年二月一九日の翌日である同月二〇日

(二) 被告グレラン

訴状送達日昭和五二年二月二一日の翌日である同月二二日

(三) 被告武田

訴状送達日昭和五二年二月二一日の翌日である同月二二日

六小括

以上判示したところをまとめると、原告患児らの各損害に対する各被告の損害賠償義務の範囲は次のとおりになり、原告守孝を除く、その余の原告患児らの本件請求のうち、この範囲を超える部分、また、原告守孝と原告患児らの両親である各原告らの本件各請求はいずれも理由がない。

1(被告奥田)

(一) 原告毅及び同博之に対し

損害賠償金各五五〇万円並びに内金五〇万円に対する昭和五二年二月二〇日から及び内金五〇〇万円に対する昭和五九年九月一四日から各支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金。

(二) 原告めぐみ及び同和樹に対し

損害賠償金各六六〇万円並びに内金六〇万円に対する昭和五二年二月二〇日から及び内金六〇〇万円に対する昭和五九年九月一四日から各支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金。

(三) 原告武司に対し

損害賠償金七七〇万円並びに内金七〇万円に対する昭和五二年二月二〇日から及び内金七〇〇万円に対する昭和五九年九月一四日から各支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金。

2(被告グレラン及び被告武田)

(一) 原告毅、同博之、同隆仁、同正文に対し

損害賠償金各五五〇万円並びに内金五〇万円に対する昭和五二年二月二二日から及び内金五〇〇万円に対する昭和五九年九月一四日から各支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金。

(二) 原告めぐみ、同和樹、同広志及び同寿孝に対し

損害賠償金各六六〇万円並びに内金六〇万円に対する昭和五二年二月二二日から及び内金六〇〇万円に対する昭和五九年九月一四日から各支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金。

(三) 原告武司、同裕一に対し

損害賠償金各七七〇万円並びに内金七〇万円に対する昭和五二年二月二二日から及び内金七〇〇万円に対する昭和五九年九月一四日から各支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金。

第九章  結論

以上によれば、原告毅、同めぐみ、同武司、同和樹及び同博之の被告奥田に対する請求は、前章六1の限度で、原告毅、同めぐみ、同武司、同裕一、同隆仁、同和樹、同博之、同広志、同寿孝及び同正文の被告グレラン及び同武田に対する請求は、前章六2の限度で正当であるからこれを認容すべきであるが、右各請求のうち右の各限度を超える部分及び原告裕一、同隆仁、同広志、同寿孝及び同正文の被告奥田に対する各請求、以上の原告患児らの被告国に対する各請求並びに右の請求の一部を認容すべき原告らを除くその余の原告らの本件各請求は、いずれも失当であるから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九二条本文、九三条を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項をそれぞれ適用して主文のとおり判決する。

(宮本増 森本翅充 夏井高人)

〔注射状況表〕

〔略語〕

一 グレラン

製造者 被告グレラン

商品名 グレラン注

主成分 ピラビタール二〇〇mg

アミノピリン一〇〇mg

二 レスミン

製造者等については、本件証拠上必ずしも明らかではないが、乙C第三四号証、乙D第一四号証の四、六、証人赤石英の証言、被告奥田本人尋問(第一回)の結果によれば、次の各注射剤のうちの一つであるものと推認される。

①製造者 興和株式会社

商品名 レスタミンコーワ注2号

主成分 塩酸ジフェンヒドラミン三〇mg

②製造者 関東医製

商品名 レスミン注

主成分 塩酸ジフェンヒドラミン三〇mg

三 ペニシリン

製造者等については、本件証拠上必ずしも明らかではないが、乙D第一四号証の一八、一九、被告奥田本人尋問(第一回)の結果によれば、次の注射剤であるものと推認される。

製造者 明治製菓株式会社

商品名 懸濁水性プロカインペニシリンG明治

主成分 ベンジルペニシリンプロカイン三〇万単位

四 パラキシン

製造者等については、本件証拠上必ずしも明らかではないが、甲第三三九号証、被告奥田本人尋問(第一回)の結果によれば、次の注射剤であるものと推認される。

製造者 山之内製薬株式会社

商品名 パラキシンゾルM注

主成分 クロラムフェニコール・ゾル

〔注〕

右一ないし四の注射剤を除くその余の注射剤、例えばドミアン、コントミン等については、注射状況表への記載を省略した。また、グレラン、パラキシンで脚部以外に注射されたもの及び注射部位不明のものは括弧を付して記載した。しかし、これらグレラン、パラキシンの注射本数は同表の合計欄に記載した注射本数には含まれていない。

(別冊)

文献表Ⅰ〈省略〉

文献表Ⅱ〈省略〉

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